(3月4日)

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2日、住職の部屋の更新をさぼりました。

別に根拠なく、何となく4日ごとの更新を心がけています。ですから無理に記事を書いたこともありますし、逆に無理に書こうとしたことで書けた事柄もあります。行事で時間が取れず、とんでしまったことも当然あるのですが、行事があるということは出来事がある訳で、極端に疲れてしまったのでない限り、案外行事のある日の方がすんなりノルマは片付きます。

今回はどちらかと言うと確信犯的でした。行事もなかった訳ではなく、また小さなネタもあったので、ノルマを守ろうと思えば守れなくはありませんでした。でも、それはどうでもいいわい、あまりノルマにこだわらず、少しのんびり待ってみようという方向に気持ちが動いていたのです。

別件で大きなテーマにぶつかり、じっくりと時間をかけて考える(自分自身を見つめる)必要ができて、心がけて息をするペースを落とし始めていることもあります。

たった2日気持ちをゆるめただけで、それまで点のように思っていたものの輪郭(?)がぼやけ、幅を持ち始めました。厚み、拡がり、奥行き、何でもいいのですが、そう言い換えてみたところでそれほど変わりはないので、ここはあっさり幅としておきます。

ふつうに生活している限り、私たちは縦・横・高さの3次元に広がった空間の中にいるように感じています。古典力学の世界観です。しかし量子論によれば、実在というかすべての出来事は、無限次元複素数空間において記述されます。無限次元というのも困りますが語感的にはそれほど抵抗がないのでそっとしておくとして、複素数というのはモロに数学ですからいささか近づきがたい。ですが、自分の居場所の重心を少し変えてみるだけで、案外自然にというかすんなり受け入れられるものです。

複素数の世界では、幅がはっきりしません。いえ、はっきりさせようと思えばいくらでもはっきりさせることができますが、どれが「本当の」幅か、ということが決められないのです。棒の影が地面に写っているようなもので、影の長さをいくらきちんと測っても、それは棒の長さではありません。棒と影だと、「棒の長さがそのまま」影の長さになるときが考えられる(棒と影とを同時に見ることができる)ので本当はたとえとしてまずく、複素数はそのままで見ることはできなくて、見える(測れる)ようになったものはみんな影なのです。

ならば複素数は頭の中だけの、数学者がでっちあげた代物かというと、そうも言えない。現実に、私たちは複素数の世界で考えて作り出されたさまざまな道具を使って生活しているのですから。

また、実際に見えるものが複素数の「影」というのも、少し補足が必要かもしれません。影というとどこかあいまいな頼りにならないものといった響きがありますが、そんなことはなくて、必要なだけあるいは技術的に可能なだけ、正確に知ることができますし、そこを出発点にしていろいろな応用を工夫することもできます。

ただ、一挙に、全体像を、正確に、知ることができないのです。不正確な点も多々ありますが、このあたりの事情を物理学における「観測問題」と呼びます。

ノルマに忠実であったときには、正確さを疑っていませんでした。ノルマへのこだわりをゆるめてみたところに、正確さのゆらぎが顔を出してきた。ある面において正確であるということは、他の面を犠牲にしているということですから。

私たちの「意識」をコトバ(のはたらき)に近いものに引き付け、さらに「意志」の響きまで持たせてやると、私たちは私たちの意識でもって私に見える世界を私に見えるように保っている、と言うことができます。少し「意識」をゆるめてやると、とたんに私に見える世界は隙間だらけ、穴だらけになります。

その隙間から、如来の息吹が私の世界に届いているのですが。

合掌。

文頭


閉じない円環 (3月19日)

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2週間近く、公式には山寺の更新をしませんでした。「茶室(掲示板)」に動きはあったものの、立ち上げて以来初めてです。半分は「更新するのを、こらえられるまでこらえてみよう」という気持ちもあったのですが。

穴のことをぼーっと考えています。あえて積極的にではなしに。

今日、市の健康診断に行かされ、待ち時間用に、保坂和志の『〈私〉という演算』(中公文庫)を持っていきました。ぺらぺらと目次をめくって、穴とのつながりから、「閉じない円環」という作品が目に入り、それを読みました。

 友人のKは哲学と脳の科学の精神神経言語学というのを今は専門にやっていて、人間の言語習得についての論考の中で、彼は自筆で一筆書きのようにして、人間の頭にもう一つ小さい頭が侵入しているイラストを描いていた。横向きの人間の頭の上のところで線が内側に曲がっていってもう一つの横向きの頭が入り込んでいる。だからそのイラストは一人の人間の頭が「一人のもの」として閉じられない。

そうだったのか。

私はこれまで、「穴」という言葉に引きずられすぎて、視力検査のときの“C”の字のように、閉じていない「線分」を漠然とイメージしていました。でも、それではイメージが拡がらない。私自身の体験につながってこない。それを無理矢理言葉で仕立て上げるのがイヤで、確信犯的にサボっていた気持ちが、ようやく動き出しました。

閉じずに、閉じる、というのは矛盾でも神秘体験でもなかった。こんな当たり前のことだったんだ。

保坂和志の単行本に『プレーンソング』という文庫で求められるものがあり、タイトルのプレーンソングの正確な(?)意味は plainsong 「《古くから教会で用いられている, 無伴奏の》単旋聖歌, プレーンソング(研究社『リーダーズ英和辞典』)」なのですが、WEB 用の原稿などで言われる「プレーンテキスト plain text――構造化されていない、素の文章」を連想してしまいました。

説明のための、無用な構造は、要らない。

愚に、一歩近づけたかもしれません。

合掌。

文頭


宗教と自然科学 (3月26日)

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今、私が宗教と自然科学を相互にどのように位置づけて見ようとしているか、簡単に整理しておこうと思います。便宜上、視点を自然科学よりにおいて記述します。

大胆に線引きするならば、17世紀から20世紀にかけて、宗教(精神、こころ)と自然科学(物質、もの)は互いに敬して遠ざけるような棲み分けをしていました。自然科学の対象は「物質とエネルギー」であり、それを担保に自然科学は客観性や実証性、再現性を手に入れていたのです。

丁寧に考えてみればわかるように、自然科学が語り得るのは「どのように」物理化学的な現象が起こっているのかというメカニズムのみであって、そもそも「どうして」そのような現象が「ある」のかという目的や意味については、自然科学は原理的に触れ得ないことになります。(意味も目的も、物質でもエネルギーでもありませんから。)

そのこと自体は、男に子供は産めないというくらいに自然科学の素朴な限界を示すだけであって、自然科学の「問題点」などではありません。しかし自然科学が人間の欲望とつながって技術として応用され、その圧倒的な説得力を背景に、自然科学が触れ得ないものは実際にも「存在しない」のだと考えられてしまうならば、やはりどこかが行き過ぎです。自然科学が触れ得ないということは、単に「物質あるいはエネルギーに還元できない」というに過ぎません。そもそも、根源的な「存在」とは私の理解では多分に論理的な出来事であり、厳密な自然科学は存在そのものにまったく触れていないと見なすこともできます。

(なお私は、自然科学の「行き過ぎ」は自然科学の責任ではなく、強力な技術を持ってしまった人間、つまり自然科学も込みにした人間像を提示し得なかった宗教側の怠惰だと考えています。)

ところで、21世紀に入った今、自然科学そのものの内に、大きく深い変化が起こり始めています。専門化・細分化の薮を通り抜けた領域が複数現れてきて、それらの間で横のつながりが次第に実体感を持ち始めているといった印象です。そこに浮かび上がってくるイメージを、言葉足らずを承知で私の語彙で紹介するならば、「新しい人間観」とでも呼べるでしょうか。

「新しい人間観」の骨子は、1.謙虚で(すべてを知ることはできない)、2.やわらかく(特権的な観察者の立場に立つことはできず、対象との相関関係の内にある)、3.依存しあう(全体と部分は切り離せない) 姿です。背景には、自然科学的な探求の発展があります。詳細を抜きに私が意識している領域の「名前」だけ紹介すれば、量子論、認知科学、進化論などです。

21 世紀に入った今、自然科学そのものが、かつて自らに設定した枠組みを超えて、拡がっていこうとしています。これから、もう一度宗教と自然科学が融合した新しい「知(あるいは智)」の姿が現れてくるに違いない。それを目指して、宗教の側からも精一杯アンテナをはっておきたいと思っています。

合掌。

文頭