サバ (2月4日)

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(旧)鹿野にも、とうとうケーブルテレビが来ることになりました。

オンラインの地図ソフトを使っているのですが、市域は詳細な住宅図まで網羅されているのに対し、郡部では主要道までしか出ていません。都濃郡鹿野町の時代には長久寺のあたりは県道が1本走っているだけだったのに、周南市になったことで、長久寺の寺号はおろか建物の輪郭から、近所の雑貨屋の商店名まで表示されるようになりました。郡と市とでこれだけ変るのだなあと思っていたところへ、具体的な 「恩恵」 の第二弾です。

「情報格差」 は、常々感じていました。これまで鹿野は ADSL (高速通信技術の1つ。中継局からの距離が離れると無理) のサービスエリア外で、今さら ISDN (ADSL よりも前に登場した高速通信技術。技術的にはむしろ新しいものだが、割高感がある) というのもためらわれ、結局モデム (デジタル信号をアナログ信号に変換し、「音」として通信する。FAX が来たときのピー・ヒョロヒョロヒョロなどがその例) を使っての一番おとなしい接続にしています。いずれ光ファイバーかそうでなければ無線かでつながるだろう、それまで待とうという気でいたのです。

ケーブルテレビも、鹿野から 10km ばかり下ったあたりまで来たところで、それ以上は工事の費用に見合う加入者が見込めず、止っていました。それが、この度の合併に合わせて市が事業費の一部 (実際には 2/3 くらい) を負担し、一気に周南市のほぼ全域に広がることになったのです。(しかも、これまでサービスのなかった「過疎」地域は、先を見込んで光ファイバーを各家庭まで引くようです。)

テレビにそれほど興味はないのですが、インターネットへの高速接続サービスも提供されるので、そちらに乗り気です。定額で常時接続ができることから、この際自宅にサーバを置いてやろうと考えています。

インターネットは、簡単に言えば世界中のコンピュータがネットワークでつながっているものです。ただ、もう少し正確に言うと、実際に「直接」インターネットにつながって公開されているコンピュータは限られ (といっても数はべらぼうですが)、ふつうのパソコンは、プロバイダと呼ばれる業者と契約してインターネットに公開されているプロバイダのコンピュータに接続することで、いわば間接的にインターネットとつながります。この「山寺」を含めほとんどのホームページも、実体はどこかのプロバイダのコンピュータの中にあります。

自宅にサーバを置くことは家のコンピュータを直接インターネットに公開することで、まさに 「ここ」 がそのままインターネットとつながることになります。

もっとも、自分でサーバをたてるメリットはそれほどありません。置くデータの量や扱えるものに制約がなくなるのは事実としても、セキュリティ(悪質なアクセスに対する安全対策)やメンテナンス(機械の保守管理)も含め、すべて自己責任になります。また実際の接続には回線を使わなくてはならないので、プロバイダと契約しなくて済むわけでもありません。さらに、サーバとして公開する機械は 24 時間動かしっぱなしですから、電気代もばかにならなくなります。

結局のところ、サーバを管理することでネットワークというものをより具体的に(ないし能動的に)体験してみたい、といった動機でもなければ、割には合いません。

サーバとは、さまざまな 「サービスを提供するもの」 の意味で、ソフトウェアを指すことも、サーバとして使うことを主目的としたハードウェアを指すこともあります。マニアの間ではサバないし鯖などと呼ばれ、自宅でサーバを運用することを 「鯖を飼う」 と形容する向きもあるようです。

私がサバにひかれ鯖を飼ってみようという気になるのは、気を抜くと不気味なものにも見えてしまいかねないインターネットあるいは情報ネットワークを、そのメカニズムにおいて具体的に知り、より正確なイメージで把握してみたいという気持ちからです。上手に使えば確かにインターネットは便利なのですが、便利さの向こう側が見えていないと私には怖い。泥臭くチマチマした手続きの積み重ねの上に成り立っているはずの 「見かけの便利さ」 には、根っこの泥臭い部分も込みで触れたい。どうも、ブラックボックスは苦手です。

そのような思いが、自分の技術に驕った 「負け組に回って貧乏くじを引きたくない」 という思いからではないと言い切ることはできません。しかし基本的には、知ることのできるもの、語ることのできるものを徹底的に知り、語ろうとした向こうに、本当の意味での知りえないもの、語りえないものが現れてくるという信念めいたものがあるのです。

ただ 「便利だ」 「面白そう」 というだけでなく、情報ネットワークにはそのような、不気味さと紙一重の豊かさが感じられます。それを、仏教を考える上でのヒントにできたらと思っています。

(後日加筆:残念なことに、ケーブルテレビの方に問い合わせてみたところ、「自宅サーバの設置は認めていない」とのことでした。結局、一人で空騒ぎしていたことになります。近いうちに実際に鯖を飼い始める可能性はなくなりました。しかし、いずれまた違う形でのネット接続の道が開けてくると思いますので、そのときにあらためて挑戦してみます。)

合掌。

文頭


 (2月9日)

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今、遊雲の手術中です。

足首ですから、内臓の手術のように、たとえ万一のことがあったとしても命に別状があるようなことはありません。もっとも、腫瘍を外の皮膚ごとごっそり取り去るので、あとの「修復(肉および皮膚の移植)」が必要になります。盲腸を切ってのけるというのよりは大掛かりなことになります。

今月の2日に母親が付き添いに上京しました。その時点ではまだ、三回目の化学療法をするか手術に踏み切るか確定していませんでした。どちらの可能性もあると心得てはいたのですが、いざ手術と決まると(4日でした)、どこか落ち着きません。

差し当たり、骨にどれだけ浸潤しているかが問題です。骨への加療も避けられないとなると、まだ成長期ですので、骨の「伸び具合」に支障が出ます。左右の足で長さが違うというのならいい方で、最悪の場合、同じ骨の加療した側とそうでない側とで伸び方が変り、足が曲がってしまうこともあると聞きました。総合的に判断した場合、温存することにこだわるよりも、あっさり切断して義足で対応する方が結果的によいこともあるそうなのです。

つまり、手術の最中に、どうするか選択を迫られることもあり得るのです。

ただ、上の話はこれまでのことを整理し直しての、私の素人考えです。主治医の先生の術前の説明を 「又聞き」 した限りでは、そこまで心準備しておく必要もなさそうな様子でした。寺の行事や入試を目前にした長女のことも考え、結局手術には私は立ち会わないことにしました。

どういう結果になるにしても、あの子なら大丈夫でしょう。そのように信頼できますし、今まで十分に説明してきてもいます。手術の前にもう一度きちんといろんな説明をしてやりたかったという思いはありますが、それも私の自己満足かなという気がします。

先月の中旬に付き添いから帰ってきてから後、どうもポカが目立ちます。その時していることからフッと気持ちが離れて、まったく関係のない他の事(必ずしも遊雲のことばかりでもないのですが)をぼーっと考えてしまっていることが多い。実は昨日も、もったいないことにご法事で「三回忌」を「一周忌」と言い間違え、言った後で気がついて訂正させていただきました。

何とも、情けない有様です。自分の中のどこかに穴ができてしまって、スカスカしているような感じです。

阿弥陀経には「一心不乱」とあります。経の当分としては、「南無阿弥陀仏のお名号を、一心に心にかけて他に気をそらせなければ」という意味なのですが、これはどう考えても「私」の話ではありません。結局、「一心不乱」でいてくださるのは阿弥陀様なのでしょう。

今、ケネス田中先生の『オーシャン』(邦訳では『真宗入門』)の一部を入力してアップロードしています。仏教の「外」の方との対話という形式のせいもあって、基本的なことが、とても真摯に解りやすい言葉で説明されています。一住職として、仏教を「語る」ことの原点を見つめ直すにうってつけの本です。

語るということですら、誰に向ってという部分が変ると、リアリティがまるで変ってきます。同じ言葉が、語っている当人にとってさえしっくりお腹に入ってくることもあれば、よそよそしく響いてしまうこともあります。

自分の内側の穴のせいで、ここのところ何をしても何を話してもぴったり身にそいません。ただそれが不快かというと、少し違うのです。むしろ、「これが本当なのだな」という気持ちの方が近い。かえって、自信をもって何かに集中しているときの方が、我にとらわれているのかもしれません。

ここのところ天候がよくなくて、家の中に閉じ篭もったままです。草引きや草刈りでからだを動かしているとまた違うのでしょうが、小人閑居して不善を為すとは何とも深い人間観察です。せめて、お称名に励まさせていただきましょう。

追伸:遊雲の手術、無事終ったと連絡が入りました。約6時間……ほぼ予想された通りの時間だったのですが、長かった…… 詳細はそばについていなかったので不明ですが、執刀の先生が「満足できる結果だ」とおっしゃっているとうかがっています。正直、ほっとしています。

後日補足:手術の具体的な内容が、やっと理解できました。四肢の悪性腫瘍では、腫瘍の素性を突き止め適切な治療をするだけでなく、できた場所に合わせての摘出後の修復が問題になります。遊雲は右足首の上あたり、関節には影響のない部分の「筋肉」が原発部位で、それを中心に腓骨(下腿に2本ある骨の細い方)の一部と、皮膚をごっそり取り除いています。下腿には主な動脈が3本あり、2本は無事で、残りの1本が摘出した部位につながっていました。で、修復に当っては、右肩から、1本の血管によって栄養補給されている「肩甲骨の一部と肉・皮膚」をまとめて取ってきて、そのまま血管をつないでいます。先生は「一番欲しいのは皮膚なんだが、同じ血管系で骨まで取れるので、ついでにそれも持ってきた」といった調子の説明をなさりました。何だかパズルを解くような、あるいはプラモデルを改造するような、そんな感覚でした。とんでもないことを思いつくものです。

合掌。

文頭


けんちん汁 (2月13日)

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昨夜の夕食に、けんちん汁を作りました。

念のために辞書で確かめてみたら、けんちん汁には豆腐と大根が欠かせないようです。私は牛蒡(ごぼう)を笹掻き(笹の葉の様に薄く削ること)にしたもののしょうゆ味の汁をけんちん汁と思っていたので、豆腐も大根も入れませんでした。牛蒡と豚肉、それに人参の薄切りが気持ち程度と、油揚げだけです。

去年の春、けんちん汁が(ということは、牛蒡が)食べたくなって、母に作ってくれと頼んでいました。寺の周囲はかなり広い畑で、母が手入れをしています。そのおかげで野菜には事欠かないのですが、私は畑の守は、どうしても男手のいる作業以外はまったく手伝っていません。母が弱ったら考えなくてはいけないなあと思いつつも、今は庭と山のみです。

牛蒡も父が元気だった頃は作っていたのですが、掘るのが大変ですから、ここ 10 年あまり作っていませんでした。それを、掘るのは引き受けるから、作っておいてくれと頼んだのです。最近はあまり長くならない(その代わり、牛蒡とは思えなくくらい太くなる)ものがあり、それなら掘るのも大したことはあるまいと思ったこともあります。

本当ならば去年の晩秋くらいには掘って、けんちん汁を作ろうというつもりでいました。それが年末は子供の入院・付き添いでそれどころではなく、こちらにいる間は雪に降られてと、ずるずると遅くなってしまっていました。

子供の手術が無事終って身が軽くなり、その上天気もとたんに春めいてきて、牛蒡を掘ろうと思い立ったのです。まだほんとに小さい頃父が掘るのを見ていた覚えはありますが、自分で掘るのは初めてになります。牛蒡を作った畑のそばには、牛蒡掘りで出て来た石の山があったものでした。その覚悟で、鉄梃(かなてこ)まで準備して取り掛かりました。最初は要領がわからず、力ばかり空回りしていたのですが、結局一つ深い穴を掘って、後はそこから横に掘り崩していけばよいことを思いつき、土をすくい出すシャベルと、土を掘り崩す園芸用のスコップだけで用が済みました。昔いつか牛蒡を作ったことのある畑だったらしく、石もほとんどありませんでした。

やったことはないのですが、遺跡の発掘でもしているような風情です。芋掘りよりははるかに面白く、これは来年は子供たちといっしょにやろうと、母に今年も作っておいてくれと頼んでおきました。

覚悟していたほど汗はかかなかったのですが(母は昔の父の牛蒡掘りを思ったらしく、風呂を立ててくれていました)、土をすくい出すのとかがんでいるのとで、腰に来ました。冬が開けた春一番の野良仕事では、何をしても同じようなことなのですが。

夜はさっそく、掘りたて(?)の牛蒡でのけんちん汁です。今は母親が子供の付き添いで留守をしていますから、食事は三度私の担当です。本来食べ物には無頓着で特においしいものを食べたいという思いがないばかりか、いわゆる味音痴なのでしょう、味見をしても「何か変」とはわかっても塩が足らないのか多すぎるのかわからないといった有様です。もっとも、最近は「鼻」で判断すると間違うことが少ないのと、足らないのはどうにでもなるけれど多すぎるのはどうしようもないことを覚えたので、食べさせられる子供たちも昔ほどではないはずです。

私にとってけんちん汁=牛蒡汁ですから、とにかく牛蒡を山のように入れました。(それだけ笹掻きするのは大変でした。あれが笹掻きと呼べるならば、といった代物ですが、少なくとも千切りではなかった。)豚肉といっしょに油で炒めて水を足して、だしを入れて適当にしょうゆをたらしてしたら、けんちん汁らしくなりました。

自画自賛ながら、おいしかった。まあ、もとが牛蒡なのですから、生では持て余すにしても、味がしないはずはありません。「牛蒡を食べた」と納得できるようなけんちん汁でした。今でもまだ、家中牛蒡のにおいがしています。

言いようによっては、最大限のぜいたくなのかもしれません。

さて、春が来ている。息子も、痛みはまだあるのだろうけれど、手術が終って日に日に元気になっている。春にばかりいのちの動きを思うのも凡夫ならではながら、やっぱり春です。

合掌。

文頭


 (2月17日)

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遊雲が入院している病院のそばにも、小さな梅の木があるのを見つけました。

病院から路地一つ隔てたアパートの、生垣がまばらになったところに、高さが1mちょっとのかわいい梅の木が、枝の先をやっと周囲の生垣の上にのぞかせて、それでもちゃんと梅の花を咲かせています。花を咲かせているというだけで微笑んでしまいたくなるような幼げな木なのですが、残っているつぼみと見比べれば八分といったところでしょうか。

梅の木に梅の花が咲く。当たり前と片付けてしまえば、あまりにも当たり前です。

今、アイデンティティについて考え始めています。春になったら梅は梅の花を咲かせ、梅であることはゆるがない。別にてらうでもなく背伸びをするでもなく、ただまごうことなき梅の花を咲かせているのを目にすると、私たちにとってのアイデンティティの問題が、微妙な背景に乗っていることにとまどわされます。

変るものにおいて、一貫していると感じられるもの。何かを、まさにそのものであると認定するもの。あるいは、自分は何々である、このようにありたいとむしろ自分から主張するもの。

私が私であるとは、どうも、梅が梅であるというのとは異なる出来事のようです。

しかもやっかいなことに、私が私であるという限定を踏み越えたところで、私が私として生かされているという地平がひらかれている。

梅が梅であるようには私であることができず、しかも自分のあずかり知らないところで私として生かされてもいるこの私の「アイデンティティ」とは、そもそも何なのでしょうか。

親鸞聖人は、ご自身を愚と見切られた。その「自己同定」のおこころに、迫ってみたいものです。

合掌。

文頭


外出 (2月21日)

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遊雲といっしょに入院している同い年の捷人(はやと)君を連れて、外出してきました。(遊雲はまだ車椅子でないと動けず、手術跡もきちんと固定されていませんから、お留守番です。)

捷人君は右大腿骨の骨肉腫で、膝を人工関節にすれば脚の温存はできたのですが、そうすると成長に合わせて何度も人工関節を取り替える手術をしなくてはなりません。本人の希望で、膝の上で一旦切断し、膝の位置に足首を 180 度向きを変えて持ってくる「回転形成術」をしています。膝関節の代わりに自分の足首を使い、義足で対応する訳です。

義足をつけていないときには、膝の位置に足が、しかも足の裏を前にしてついているのですから、初めて見るとちょっとぎょっとします。そのまま座っているときには、足の裏が「どうぞくすぐってください」と言わんばかりに上を向いているので、いつもこちょこちょしてからかいます。本人は足を切断していることをまったく気にしていません。むしろ、人が注目してくれるので喜んでいるくらいです。本人にとっては残念な(?)ことに、義足をつけて長ズボンをはけば、知らない人が見たのではまったくわからなくなるでしょう。

遊雲が入院してきたとき、手術が終ってまだ傷口が治りきっていない段階でした。今では義足もでき、リハビリも進んで、3月の2日に退院と決っています。もう1ヶ月以上家族と離れて一人で過ごしており、これまで遊雲が世話になった礼とリハビリを兼ねて、連れ出してやりました。

義足に慣れるとよかったのですが、まだ装着時間が長くなるとつらいようなので、松葉杖での外出です。病院の中では元気があり余って車椅子で「飛び回って」いるのに、人ごみの中をおもちゃ屋と本屋へ寄って食事をしたら、もう帰ろうかと言い出しました。3時間少々といったところでしょうか。まあそんなものかなという気になって、思っていたよりも多少早目に病院へ引き上げました。

外では半分へたりかけていて少し気を揉んだのですが、いざ病院へ帰ってみると、あまり疲れたという素振りも見せずにやはり車椅子で飛び回っています。こんなことなら、帰ったら疲れて寝込んでしまうくらい、もうちょっと負荷をかけた方がよかったのかもしれません。

たった3時間あまりでも、出かけて帰ってみると病院の様子がそれまでと違って見えました。やれやれとホッとする気持ちが半分、また退屈な入院生活だという気持ちが半分といったところです。

私たち皆んな、住み着いている世界があります。帰って来るところがなければ心細いし、逆にそこに閉じこもってしまっては狭い。時に外出して外の世界に触れ、自分の世界を眺め直すのも必要でしょう。

お寺の本堂は、お浄土の出店です。住み着いている娑婆世界からちょっと外出して、外の空気に触れてみるのもいいものです。

合掌。

文頭


人間 (2月26日)

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何だか、調子を崩してしまって、この一週間、随分予定をキャンセルしてしまいました。

身体が不調というのではなく、むしろあちこち開いた穴のせいで、リアリティがシフトしてしまったような感覚です。先日の風でビニールハウスにできた穴の方は修理したのですが。

次子の遊雲は手術が無事に終わり、言わば「緊急事態」から「日常」に戻ってきました。緊急事態を緊急事態と思っていた時にはそうでもなかったのですが、日常へ軟着陸できたことで、かえってこれまでの緊急事態がくっきりしてき始めました。このままやり過ごしてしまっていいのかしら。そんなところでとまどっています。

長女のめぐみは昨日が大学入試で、一昨日駅まで送っていきました。車中、ぼそぼそと会話をしたのですが、しっかりした考え方をするようになっており、単に入試に向けて送っていくというよりも、巣立ちを見送るような気分にさせられました。もうこれからは一人で羽ばたいていくなあと、嬉しさ半分、どことない淋しさ半分といったところです。

さらに、今、当「山寺」の掲示板である「茶室」がにぎわっているのです。思いがけないいろいろな方が発言くださり、それを追いかけているうちにこちらの考え方の重心も気付かぬ間に動かされ、管理人の立場ながらおろおろしています。

しかも季節は春。

「人間」とは、一方で「人の間」、すなわち社会的な関係に即して現れた私の姿を指します。関係のネットワークが変わることで、私の姿もおのずと変わっていく。そして同時に、地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天上と、六種に分けた存在のあり方(六道)の中の一つでもあります。(このときの人間の「間」は、世界、境遇の意味です。ですから正確には、地獄…と並べるならばただ「人」であり、逆に「人間」とそろえるならば地獄界…天上界と「界」を添えるべきなのですが、今はこのねじれて重なった感覚――個人の集合のように思ってしまう「人間」が実は境界(きょうがい)の名称であること――が欲しいので、わざと曖昧な表現をしています。)

わかりきっていると思っていたことが、ふと気がついてみるとある面活き活きと、しかしその分言いようによってはよそよそしく、動き始めている。自分の「頭」とこれまでなじんでいた「言葉」だけが、何だか置いてきぼりにされているような気分です。

柔らかい如来の眼差しに、凝った頭がほぐれるのを、もう少し待ちましょう。しかし、ああ、動きたい。

今日も春の日差しの中、春の嵐が吹き荒れています。

合掌。

文頭