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抑かの乗念といへる法名をよくよくかんがへみれば、 それ弥陀如来の一念十念によりて大悲の願船に乗ずといへる道理にかなふて殊勝なり。 よてかの乗念は去ぬる十月の時分より違例ありき。 そのあひだひさしく当山へ出仕おこたれり。 しかるあひだ霜月の報恩講にまひりなんことかなひがたきよしまふすところに、 不思議に違例すこし子細なきあひだ、 霜月廿一日の夜聖人一七ヶ日報恩講の座中に出仕するに、 すなはち法門・聖教なんど聴聞するにより違例気も次第にとりなをして、 食事も日ごろにあひかはりて子細なし。 これしかしながら法味をあぢはふいはれかともおもひ、 また聖人の御はからひに信心をもなをふかくとらしめんがためかともおぼへはんべり。 さるほどに七日七夜も発病の気もなくて、 廿八日の修中もことゆへなく結願成就しをはりぬ。 あくる廿九日に安芸在所へゆきて対面して0295、 まことに名残おしげにみえてものがたりしけるは、 今度一七日報恩講のうちの聴聞によりて日ごろ信心のちがひめを聴聞しわけぬるよしをまふして、 中々ありがたさわれひとり落涙をもよをしけり。 そののち多屋へかへりてより違例ことのほかになりて、 中五日病気してつゐにそのまゝ往生す。 たれのひともさりともとおもひしに、 かくのごとくなりしかば、 いまさらのやうにあはれみみなみなおもひあへり。 病中のあひだにも、 我往生はさておき、 又未決定のひとの信心なきことをのみなげきかなしみあへり。 これすなはち自身の往生決定せしむるいはれなりとおぼへはんべり。 まことに 「自信教人信」 (礼讃) の道理にて、 殊勝にこそおぼゆれ。 これによりて年をかさね日をかさね、 仏法にこゝろざしのふかきによりて、 報恩謝徳のためにとて、 年来相伝の下地に仏名田といへると仏陀に寄進あり。 つらつらかの田の名を案ずるに、 仏名といへること、 仏のものときこへたり。 かの乗念にをいてもその覚語なき仏力不思議ともいひつべし。 まことにもて平生に仏法にをいて等閑なきいはれ、 往生ののちにあらはれて、 かつはありがたくかつはたうとくも、 こゝろざしのほどもしられて、 あはれにこそおもひはんべるものなり。 あなかしこ、 あなかしこ。