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それ開山聖人の尋↢ るに を↡、  に す↢弥陀如 の と↡、 又曇鸞大師之再誕ともいへり。 然則生年九歳にして、 建仁之春の比、 慈鎮和尚之門下になり、 出家得度して其名を範宴少納言の公と号す。 其れより已来、 しばらく山門横川之末流を伝へて天臺宗の碩学となりたまひき。 其後廿九歳にして、 遂に日本源空聖人之禅室にまひり合ひて、 既に三百余人之内に於て上足之弟子となりましまして、 浄土真宗一流をくみ、 専修一向の妙義をたて、 凡夫往生の一途をあらはし、 殊に在家四輩の愚人ををしへ、 報土往生の安心をすゝめたまへり。 抑今月廿八日は祖師聖人の御正忌として、 毎年をいはず親疎を論ぜず、 古今の行者この御正忌を事とせざる輩不可于之者歟。  て に当流に其名をかけ、 ひとたび他力の信心を獲得したらん人は、 この御正忌をもて報恩謝徳の志を運ばざらん人は、 まことにもて木石にことならん者歟。 然間彼御恩徳の深ことは迷盧八万の頂、 蒼瞑三千の底にこえすぎたり。 不可報不可謝。 このゆへに毎年の例時として一七箇日の間、 如↠形一味同行中として報恩謝徳のために、 无二の丹誠をこらし勤行の懇志をいた0366す所なり。 然ばこの七箇日報恩講の砌にをひて、 門葉のたぐひ毎年を論ぜず国郡より来集すること、 于今无其退転。 就之不信心の行者の前にをひては、 更にもて報恩謝徳の義争在之哉。 如↠しかの之輩はこの七箇日の砌に於て当流真実信心の理をよく決定せしめん人は、 まことに聖人報恩謝徳の本意にあひそなはるべき者也。 伏惟ば夫聖人の御遷化は年忌遠隔て、 既に二百余歳の星月を送るといへども、 御遺訓ますますさかりにして、 于今教行信証の名義耳の底に止て人口にのこれり。 可貴可信は唯この一事なり。 依之当時は諸国に真宗行者と号すやからの中にをひて、 聖人一流の正義をよく存知せしめたる人体、 かつてもてこれなし。 又真実信心の行者もまれにして、 近比はあまさゑ自義を骨張して、 当流になき秘事がましきくせ名言をつかひ、 わが身上のわろきをばさしおき、 かへりて人の難破ばかりを沙汰するたぐひのみ国々にこれおほし。 言語道断次第なり。 唯人並仁義ばかりの仏法しりがほの風情にて、 名聞の心をはなれず、 人まねに報恩謝徳の為なんど号するやからはいたづら事也。 如此の輩は更にもて不可有所詮者なり。 然者未安心の行者に於ては、 今月聖人御影前参詣の儀は、 誠に 「水入て垢おちず」 といへる、 その類なるべき者歟。 されば聖人の仰には、 唯平生に一念歓喜の真実信心をゑたる行者の身の上に於て、 仏恩報徳の道理は可在之とおほせられたり。 因茲この一七ヶ日報恩講の中に於て、 未安心の行者は速に真実信心を決定せしめて、 一向専修の行者とならん輩は、 誠にもて今月聖人の御正忌の本懐に可相叶。 是併真実真実、 報恩謝徳の懇志たるべきものなり。 あなかしこ、 あなかしこ。

*文明十一歳十一月廿日