本書は、 存覚上人の撰述である。 存覚上人については ¬存覚一期記¼ を参照されたい。 本鈔の題名にある 「名」 とは 「名号」 のことであり、 「顕」 とはその名号の深義を開顕するという意である。 すなわち、 本願名号の意義について考察し、 その真実性を顕した書である。
 本鈔の内容は、 はじめに三界六道は苦であることを示し、 その中で人界の在り様を三毒・四苦・五欲の相をもって表し、 人間は煩悩を具足する故に、 このような迷いの境界を離れがたい存在であることを述べる。 そして 「さればたとひ五欲にまつはるといふとも、 たとひ三毒を断ぜずといふとも、 凡夫のすみやかに生死をはなれぬべき道をもとむべきなり」 と述べて、 善知識に遇って仏法の道理を聞くことが、 この上ない宿縁であるとする。 そして、 「こゝに仏教にをいてさまざまの道あり」 と、 さとりに至る多様な道を述べた上で、 末法の世にをいて凡夫が救われるべき道は弥陀の一教、 浄土の一門であり、 名号を往生の正因と信じて称すべきことを示される。 このように末代相応の要道は弥陀の本願であり、 その本願を勧めている。
 このような阿弥陀仏の名義について、 ¬小経¼ を引いて 「これすなはち光明の無量なるは、 横に十方の利益のほとりなきことをあらはし、 寿命の無量なるは、 竪に三世の化導のかぎりなきことをしめすなり」 と、 光明が横、 寿命が竪であり、 十方三世にわたり無量であることを説く。 また 「しかれば、 南無阿弥陀仏といふは、 光明無量の徳に帰して摂取不捨の益にあづかり、 寿命無量の徳に帰して永無生滅の身をえんとねがふこゝろなりとしるべし」 と、 六字の名号が光寿二無量の徳に帰することを述べ、 第十二願文並に成就文、 第十三願文並に成就文をそれぞれ示して、 諸経論の文を引いてその功徳利益が広大無量であることを讃嘆し、 その証左としている。 そして 「この二種の功徳のなかに、 万徳ことごとくそなはれり。 かの万徳、 しかしながら名号の一行にこもれるなり。 かるがゆへにもろもろの雑行をさしをきて、 この一行をつとめ、 種々の助業をかたはらにして、 その一心をもはらにせよとすゝむるなり」 と、 如来の功徳は光寿二無量の中に円備し、 この万徳は名号に込められたものであり、 生死出離にあたり凡夫においては、 ただ念仏の一道のみが要であるとして、 名号の一行を勧める。
 最後に、 四つの問答を設けて、 極楽において受けるところの楽や、 無明煩悩に覆われる衆生を極楽に往生させるという他力の妙趣、 また浄土へ往生することは凡情を超えた無生の生であること等、 真宗の妙義が明かされる。
 本鈔の成立は、 浄興寺蔵本の奥書に見られる 「 本云/依明光大徳誂記之畢于時建武/四年 丁丑 八月日也去春比令誂之間当/年備州在国之間所染筆也/釈」 との記述によれば、 建武四 (1337) 年存覚上人が四十八歳の時、 備後滞在中に著されたものであることが知られる。 一方、 ¬存覚一期記¼ によれば、 「四十九歳 暦応元 三月、 於↢備後国府守護前↡、 与↢法花宗↡対決了……其次作↢¬決智抄¼↡了。 ¬仮名報恩記¼・¬至道抄¼各一帖、 ¬選択註解抄¼ 五帖 等也。 ¬顕名抄¼ 著、 明光於↢京都↡所望之間、 於↢彼境↡草遣了」 とあり、 暦応元 (1338) 年存覚上人が四十九歳の時に撰述したものと伝えられる。 いずれにしても、 所望者が明光上人であることは一致しており、 ¬浄典目録¼ に 「顕名鈔一巻本末 依了円 明光 所望草之」 と記されていることと相違しない。
 所望者の明光上人は、 了海上人の門弟で相模国鎌倉甘縄の最宝寺に住した。 甘縄の誓海上人から法灯を継承し、 その後、 了源上人に譲ってからは、 元応二 (1320) 年に西国を教化し、 文和二 (1353) 年五月十六日、 六十六歳で示寂している。 因みに、 明光上人は鎌倉時代末期頃から西国の地において惣を背景に名帳・絵系図を依用した教化を行っており、 備後の山南に光照寺を創立して中国地方を教化したといわれている。