【58】^大文第七に、 念仏の利益を明かすというのは、 大きく分けて七つある。 第一には滅罪めつざいしょうぜん、 第二にはみょうとく護持ごじ、 第三には現身げんしん見仏けんぶつ、 第四には当来とうらいしょう、 第五には弥陀みだ別益べつやく、 第六には引例いんれい勧信かんしん、 第七には悪趣あくしゅやくである。 その文は、 それぞれ多いが、 今は略して、 その要を挙げよう。

【59】^第一に滅罪生善とは、 ^«観仏三昧経» の第二巻に説かれている。

一時の中を分けて少分とし、 その少分の中で、 よくしばらくの間でも仏の白毫相を念ずるのに、 心をはっきりとさせて乱れたおもいなく、 あきらかに正しく心をとどめ、 意を注いでまず、 白毫を念ずる者は、 相好を見たてまつっても、 見ることができなくても、 このような人は、 九十六億那由他の恒河の沙、 微塵の数ほどの多劫のあいだ生死まよいに沈む罪を除くであろう。 たとい、 また人あって、 ただ白毫のことを聞き、 心に驚き疑わずに、 喜んで信じ受けるならば、 この人もまた、 八十億劫のあいだ生死まよいに沈む罪を除くであろう。

^また説かれている。

釈迦仏が世を去りたもうた後に、 三昧に入って、 仏の歩まれる相を想う者も、 また千劫の極めて重い悪業を除くであろう。 仏の歩まれる相は、 上の助念方法門に示すとおりである。

^また説かれている。

仏が、 阿難に告げられる。 「そなたは今日から、 如来のことばたもって、 あまねく弟子たちに告げよ。 仏が入滅した後には、 好い仏像を造って、 身相すがたをととのえさせ、 また無量の化仏の像および全身の後光を作り、 および仏の足跡をえがき、 きれいな糸と頗梨珠とを白毫の所に置いて、 多くの人々に、 この白毫相を見ることができるようにせよ。 ただこの相を見て、 心に歓喜を生ずるならば、 この人は、 百億那由他の恒河沙ほどの多劫のあいだ生死まよいに沈む罪を除くであろう。 «優填王作仏形像経» に説かれている。 「仏の形像を作る功徳は無量で、 世々に生まれる所は悪道に堕ちず、 後には、 みな無量寿仏の国に生まれることができ、 菩薩となって、 成仏することができるであろう。」 以下略す。 抜書きした。

^また説かれている。

老女が仏を見たてまつり、 邪見で信じなかったのに、 それでも、 よく八十万億劫の生死まよいに沈む罪を除くことができた。 まして、 また善意をもって仏を恭敬し礼拝するものは、 なおさらのことである。 須達の家の老女の因縁は、 かの経に広く説いてあるとおりである。

^また説かれている。

もろもろの凡夫、 および僧・尼や信男・信女の弟子で、 大乗経を謗り、 五逆罪を作り、 四重禁を犯し、 寺院の財物を盗み、 比丘尼を犯し、 八戒斎を破り、 もろもろの悪事や種々の邪見をなすものがある。 このような人も、 もしよく至心に、 一日一夜、 おもいを繋けて、 仏がその前にいますがように、 仏の一つの相好おすがたでも観ずる者は、 もろもろの悪も罪障も、 皆ことごとく滅び尽きるであろう。

^また説かれている。

仏世尊に帰依する者や、 仏のみ名を称える者は、 百千劫の煩悩の重い障りを除く。 まして、 正しい心で念仏三昧を修めるものは、 なおさらのことである。

^«宝積経» の第五巻に説かれている。

種々色と名づける宝珠がある。 大海の中にあって、 数限りのない多くの速い流れが大海に入るのであるが、 この珠の火の力で、 水を消滅させ、 満ち溢れないようなものである。 これと同様に、 如来が菩提をさとりおわって智慧の火の力に由り、 よく衆生の煩悩まよいを消滅させたもうのも、 またこのとおりである。 (中略) もしまた、 日々に如来の名号の功徳をたたえて説く人があるならば、 この人々は、 よく黒闇を離れて、 次第にもろもろの煩悩を焼くことができるであろう。 このように、 「南無仏」 と称念すると、 そのことばはたらきは空しくならぬ。 このような語の業を ª大きいたいまつを執って、 よく煩悩を焼くº と名づける。

^«遺日摩尼経» に説かれている。

菩薩は、 また数千巨億万劫のあいだ、 愛欲の中にあって、 罪に覆われていても、 もし、 仏経を聞いて、 一遍でも善を念ずるならば、 その罪は、 すぐさま消え尽きるであろう。 以上の諸文は滅罪の文である。

^«大悲経» の第二巻に説かれている。

もし善男・善女があって、 三千大千世界の中に満ちみつる*しゅおん*斯陀しだごん*阿那あなごん*阿羅あらかんの聖者たちを、 もしは一劫、 もしは一劫未満のあいだ、 いろいろの意にかなったすべてのたのしみの品々で恭敬し尊重し、 へりくだって供養したとする。 もし、 また人あって、 諸仏のみもとで、 ただ一たび合掌し、 一たびみ名を称えるとする。 このような福徳を前の福徳に比べると、 前のものは、 この百分の一にも及ばず、 百千億分の一にも及ばず、 無数分の一にも及ばぬのである。 どういうわけでかといえば、 如来は、 もろもろの福田 (功徳を生ずるもと) の中で、 最も無上だからである。 こういうわけで仏に布施したてまつるのは、 大きな功徳と成るのである。 抜き書きした。 三千世界に満ちみつる縁覚の場合について比較してみても、 また同じことである。

^«普曜経» の偈に説かれている。

すべての人々が縁覚となり たとい億数劫のあいだ

飲食・衣服やまた寝具 いた香やまじった香と美しい花などを供養したとしても

もし一心に十指をくみ合わせ 心を専らにしてみずから一仏に帰依し

口にみずから 「南無仏」 と称えるならば この功徳の方が最上である

^«般舟三昧経» の念仏三昧を説く偈にいわれている。

たとい すべてのものがみな仏となって 聖の智慧は清浄第一となり

みな億劫を過ぎるまで 一偈の功徳を講説し

入滅するまで その功徳をほめうたい 無数億劫のあいだことごとくめたたえても

この三昧を説く一偈の功徳を 極め尽くすことはできない

すべての仏国のあらゆる土地 八方および上下のうちに

満ちみちた珍宝を施し もって天中の天である仏に供養しても

もしこの三昧を聞きうるものは その福徳を得ることが前の供養にまさる

安らかにとなえ講説するならば たとえを引いても 功徳はたとえられぬ

一仏土を砕いて塵とし、 その一々の塵を取って、 また一仏土を塵にするように砕き、 この一塵を一仏土として、 それら多くの仏土の中に満ちている珍宝をもって諸仏に供養する。 これをもって比べるのである。 以上は生善の文である。

^«度諸仏境界経» に説かれている。

もし、 もろもろの人々の中で、 如来を念じて、 もろもろの行を生ずる者は、 無数劫の間、 地獄・餓鬼・畜生や閻魔王に生まれることを断つ。 もし人々の中で、 一念でも意を作して、 如来を念ずる者は、 その得る功徳に限りはなく、 量ることもできない。 百千万億那由他のもろもろの大菩薩が、 ことごとく不可思議解脱三昧を得てその功徳を計っても、 その限りを知ることはできないであろう。

^«観仏三昧経» に説かれている。

仏が阿難に告げたもう。 「われ涅槃に入って後に、 諸天や世の人々で、 もし、 わが名を称え、 さらに ª南無諸仏º と称えるならば、 その得る福徳は無量無辺であろう。 まして、 また念を繋けて諸仏を念ずる者で、 もろもろの障礙を滅ぼし除かないはずがあろうか。」 以上は滅罪と生善の文である。 その他は、 上に述べた正修念仏門に出すとおりである。

【60】^第二に冥得護持とは、 ^«護身呪経» に説かれている。

*三十六部の神王は、 万億*ごうしゃの鬼神を眷属として、 仏法僧の三宝に帰依する者を護る。

^«般舟三昧経» に説かれている。

劫が尽きて世界が壊れ焼ける時、 この三昧をたもっている菩薩は、 たといこの火の中に堕ちても、 火はこの三昧のためにすぐ消えてしまう。 譬えば、 大きな甕の水は小さな火を消すようなものである。 仏が跋陀和菩薩に告げたもう。 「わたしの語ることにまちがいはない。 この菩薩がこの三昧をたもつと、 帝王でも、 賊でも、 火でも、 水でも、 竜でも蛇でも、 夜叉・鬼神でも、 猛獣でも、 (中略) あるいは人の禅定をやぶり、 人の念を奪うものでも、 もしもこの菩薩を破ろうとおもうならば、 ついに破ることはできないのである。」 仏が仰せられる。 「わたしが語るとおりまちがいはない。 その前世から受けるようになっていることは、 この限りではない。 その他の場合はこの菩薩をよく破るものはないのである。」

^«般舟三昧経» の偈に、

鬼神や*乾闥けんだつはともに護り 諸天や人々もまたこのようにする

ならびに*しゅ*羅伽らがも この三昧を行ずる人をこのように護る

諸天は ことごとく共にその徳をほめ 天・人 竜神 *きん那羅なら

諸仏もほめて願いのようにさせたもう 経を誦み説いて人のためにするからである

国と国と相い戦って人民はすさび 飢饉がしきりにおこって苦しみが窮まっても

ついに その定まった寿命を中夭しない よくこの経を誦んで人を教化するからである

いさましくもろもろの魔事を降伏し 心に畏れることなく 毛もいよだたない

その功徳の行ははかることができぬ この三昧を行ずるものは このようになることができる

と説かれている。 «十住毘婆娑論» に、 これらの文を引き終っていう。 「ただ、 業報で必ず受けねばならぬものを除く。」

^«十二仏名経» の偈に説かれている。

もし人が仏のみ名をたもつならば もろもろの魔や*じゅん

*行住ぎょうじゅう座臥ざがのすべてにわたり そのてがかりを得ることはできない

【61】^第三に現身見仏とは、 ^«文殊般若経» の下巻に説かれている。

仏が仰せられる。 「もし善男・善女が一行三昧に入ろうと思えば、 静かな処にあってすべての乱れこころをしずめ、 おすがたを観ずるのでなしに、 心を一仏にかけて、 専らみ名を称え、 仏のおられる方角に身をただしてまっ直ぐに向かい、 よく一仏に対して念々に相続すべきである。 すると、 この念の中によく過去・未来・現在の諸仏を見たてまつることができる。

^善導禅師が釈していわれる。 (往生礼讃)

衆生は障りが重く、 観察の行は成就しがたい。 そういうわけで釈尊はこれを哀みくださって、 ただ専ら名号を称えることを勧められたのである。

^«般舟三昧経» に説かれている。

「前に聞かなかった経巻を、 この菩薩がこの三昧をたもった威神力によって、 夢の中にことごとく、 みずからその経巻を得、 それぞれことごとく見、 ことごとく経の声を聞くであろう。 もし、 昼間に得なかったならば、 あるいは夜、 夢の中にことごとく仏を見たてまつることができよう。」 仏が跋陀和菩薩に告げられる。 「あるいは一劫、 あるいはまた一劫を過ぎるまで、 わたしがこの菩薩の、 この三昧を持つ者を説き、 その功徳を説いても、 説き尽くすことはできないであろう。 ましてよくこの三昧を求め得ることができた者については、 いうまでもないことである。」

^また «般舟三昧経» の偈に説かれている。

阿弥陀仏国の菩薩たちが 百千の仏を見たてまつるように

この三昧を得た菩薩も そのように 百千の仏を見たてまつるであろう (中略)

もし この三昧をとなたもつことがあるならば すでにまのあたり百千の仏を見たてまつるのである

たとい命の終る時の大きな恐れにも この三昧を持てばおそれることはないであろう

^«念仏三昧経» の第九巻の偈に説かれている。

もしことごとく現在・未来および十方の すべての仏を見ようとおもい

あるいはまた妙なる法輪を転ずることを求めても また まずこの三昧を修め習え

^«十二仏名経» の偈に説かれている。

もし人がよく至心に 七日の間 仏のみ名をとなえると

浄らかな眼を得て よく無量の仏を見たてまつる

【62】^第四に当来勝利とは、 ^«華厳経» の偈に説かれている。

もし如来のわずかな功徳を念じ さては一念の心ででも専ら仰ぎまつれば

もろもろの悪道の怖れはみな永く除き 智慧の眼はここによく深く悟る 智眼大王の偈頌である。

^«般舟三昧経» の偈に説かれている。

その人はついに地獄に堕ちず 餓鬼道および畜生を離れ

世々の生まれる所で宿命を知る この三昧を学べばこのようになることができる

^«観仏三昧経» に説かれている。

もし人があって、 一たび上に述べたような仏身の功徳や相好や光明を聞くならば、 億々千劫のあいだ悪道に堕ちず、 よこしまな考えのけがれた所に生まれず、 常に正しい考えを得て、 勤めて止めないであろう。 ただ仏のみ名を聞いてさえ、 このような福徳を獲るのである。 まして念を繋けて観仏三昧するものは、 なおさらである。

^«安楽集» にいわれている。

«大集経» に説かれてある。 「諸仏がこの世に出られると、 四種の方法をもって衆生を済度せられる。 その四種とは何かというと、 一つには、 口に経を説かれる。 これは法をもって衆生を済度されるのである。 二つには、 仏たちには多くの光明や相好がある。 すべての衆生は、 ただよく心をかけてこれを観察すれば、 利益を獲ぬことはない。 これは仏が身をもって衆生を済度されるのである。 三つには、 はかりしれない功徳、 神通力、 いろいろな相をあらわすことがある。 これは神通力で衆生を済度したもうのである。 四つには、 仏たちには、 多くの名号がある。 通号、 または別号である。 衆生が心をかけてみ名を称えるならば、 障りを除き利益を獲て、 みな仏のみもとに生まれないことはない。 これは名号をもって衆生を済度されるのである。」

^ある人がいう。 この文は «正法念経» にあると。

^«十二仏名経» の偈に、

もし人が仏のみ名をたもち 弱い心を起こさず

智慧があってへつらいがないならば 常に諸仏のみ前に在る

もし人が仏のみ名を持てば 七宝の華の中に生まれる

その華は千億の花びらで 尊い光の相が具わっている

と説かれている。 以上の諸文は、 永く悪趣を離れて浄土に往生することを明かすのである。

^«観仏三昧経» に説かれている。

もし、 よく至心にして、 念が内に在り、 端座して心を静め、 仏の色身おすがたを観ずるならば、 この人の心は仏心のとおりで、 仏と異なることはないと知るべきである。 煩悩の中に在っても、 もろもろの悪に覆われず、 未来世には、 大法雨を雨降らすのである。

^«大集念仏三昧経» の第七巻に説かれている。

このような念仏三昧は、 総じて一切の功徳を摂めていると知るべきである。 この故に、 かの声聞・縁覚の二乗の知るべき境界ではない。 もし人あって、 しばらくでも、 この法を説くのを聞く者があるならば、 この人はのちの世には必ず成仏することに疑いはないのである。

^同じ経の第九巻に説かれている。

ただ、 よく耳にこの三昧の名を聞くならば、 たとい読まず、 となえず、 受けず、 修せず、 習わず、 他のために読まず、 また広く解釈することができなくても、 そのもろもろの善男・善女は、 みな次第に無上菩提を成就するであろう。

^同じ経の偈に説かれている。

もしもろもろの妙なる相を円満し 多くのすぐれた荘厳を具えようとおもい

また清浄の家に生まれることを求めるならば 必ず まずこの三昧を受けたもつべきである

^また、 ある経に説かれている。 («倶舎論» 第二十七巻に引く)

もし仏の福徳を生ずる田に よくわずかの善を植えるならば

初めには善い境界に生まれ 後には必ず涅槃さとりを得る

^«大般若経» に説かれている。

仏を敬いおもうことに依って、 必ず生死まよいを出て涅槃さとりに至るのである。 これは、 しばらくさしおいて、 仏を供養するために、 一つの花を空に散らすのもまたこのとおりである。 またこれをしばらくさしおいて、 もし善男・善女たちで、 すくなくとも、 一たび 「南無仏陀大慈悲者」 と称えるならば、 この善男・善女たちは、 生死まよいはてを窮めるまで善根は尽きることなく、 天やにんの中にあって、 つねに富と楽を受けて、 最後には、 無上涅槃を得るであろう。 これは抜き書きした。 «大悲経» の第二巻の文も、 これと同じである。

^«宝積経» に説かれている。

もし、 人が如来のみもとにあって、 少しの善でも起こすならば、 苦のはてを尽くすまで、 この善根はついにやぶれないのである。

^また説かれている。

もし菩薩が勝れたこころを起こして、 よく仏のみもとにあって仏に対して父のおもいを起こすならば、 かの人は、 如来の数に入ることができて、 仏と同じようになり、 異なることはないであろう。

^«十二仏名経» の偈に説かれている。

もし人が仏のみ名をたもてば 世々に生まれる所において

身の通力で虚空に遊び よく無辺の国に至って

まのあたり諸仏を見たてまつり よく甚深の義を問うならば (中略)

仏は ために微妙なみのりを説いて その人に菩提さとりの記別を授けたもう

^«法華経» の偈に説かれている。

もし人が散り乱れた心のままに 塔廟の中に入り

一たびも南無仏と称えるならば みなすでに仏道を成ずる

^«大悲経» の第三巻に説かれている。

仏が阿難に告げたもう。 「もし、 人があって、 仏のみ名を聞くならば、 わたしは ¬この人はついに必ず涅槃に入ることができる¼ と説くのである。」

^«華厳経» の法幢菩薩の偈に説かれている。

もしもろもろの人があって まだ菩提心をおこさないものも

一たび仏のみ名を聞くことを得るならば 必ず菩提さとりを成ずるであろう 以上の諸文は、 菩提を得ることを明かした。

 ^ただ、 名号を聞くだけでもこのような勝れた利益がある。 まして、 しばらくでも仏の相好・功徳を観念し、 あるいは、 また一華・一香を供養するものは、 いうまでもない。 まして一生のあいだに勤め修めた功徳はついに虚しくはならぬのである。

 かくして、 仏法にい、 仏の名号を聞くことは、 浅からぬ因縁であるということが知られるのである。 ^こういうわけであるから、 «華厳経» の真実慧菩薩の偈に、

むしろ地獄の苦を受けても 諸仏のみ名を聞くことを得よ

量りない楽を受けても 仏の名を聞かぬことがあってはならぬ

と説かれている。 ^以上の四項は諸仏を念ずる利益を総じて明かしたのである。 その中 «観仏三昧経» は釈迦仏を主とし、 «般舟三昧経» は多く阿弥陀仏を主とする。 けれども、 実際の道理の上からはともに一切の諸仏に通ずる。 «念仏三昧経» は過去・現在・未来の三世の諸仏に通ずる。

 ^問う。 «観仏三昧経» に説かれている。

この人の心は、 仏心のとおりで、 仏と異なることはない。

また «観経» に説かれている。

仏が阿難に告げたもう。 「諸仏如来は、 これ法界身であって、 一切衆生の心想の中に入りたもう。 このゆえに、 おんみらは心に仏を想う時は、 この心が、 すなわち三十二相・八十随形好である。 この心が作仏する。 この心がこれ仏である。 諸仏正遍知海は心想より生ずる。」

この意義はどうであるのか。

 ^答える。 «往生論» の智光の «疏» に、 この文を解釈していわれている。

衆生の心に仏を観ずる時に当たって、 仏身の相好が衆生の心の中に現われるのである。 たとえば、 水が澄んでおれば、 物の形が現われ、 水とあらわれた形とは一でもなく、 また別のものでもないようなものである。 それだから仏の相好身が心想であると仰せられたのである。 「この心が作仏する」 というのは、 心がよく仏の相好身をそこに作り出すのである。 「この心がこれ仏である」 とは、 観ずる心の外に別の相好身はないのである。 たとえば、 火は木から現われて木を離れることはできない。 木を離れないから、 よく木を焼き、 木が火のために焼かれて、 そのまま火となるようなものである。

 ^また、 その他の解釈もあるが、 学ぶ者はさらに考えるがよい。

 ^わたくしにいう。 «大集経» の日蔵分に説かれている。

行者は、 次のようなおもいおこすのである。 これらの諸仏は、 どこから来るということなく、 どこに去って行くということもない。 ただ、 わが心のしわざである。 三界の中において、 この身は因縁によるものであり、 ただ、 これ心のしわざなのである。 自分が観ずる心のままに、 多をのぞめば多を見、 少を欲すれば少を見る。 諸仏如来は、 そのままわが心である。 どうしてかといえば、 心にしたがって見たてまつるからである。 心はすなわちわが身であって、 わが身はすなわち虚空である。 自分は、 観ずる心にって、 無量の仏を見たてまつる。 自分は、 知覚の心で仏を見、 仏を知るのである。 心は心を見ず、 心は心を知らないのである。 自分は、 *法界ほうかいを観ずるに、 その性質に固定性がない。 すべての諸仏は、 みな、 観ずる心の因縁から生ずるのである。 このゆえに、 法性はそのまま虚空であって、 虚空の本性も、 また空である。

この文の意味は、 «観経» と同じである。 智光師の解釈も、 また違うことはない。

 ^問う。 心が仏を作ると知るならば、 どのような勝れた利益があるのか。

 ^答える。 もしこの道理を観ずるならば、 よく過去・現在・未来の三世の、 すべての仏法をさとることになる。 さては、 一たびもこの道理を聞くならば、 三途の苦難を免れることができるのである。

^«華厳経» の如来林菩薩の偈に説かれている。

もし人が三世一切の 仏を知ろうと望むなら

わが心がもろもろの如来を造ると このように観ずべきである

^«華厳伝» にいわれている。

文明元年に、 都の人で、 王という姓の人がいたが、 その名前は伝わっていない。 戒行は全くなく、 これまでに善根を修めたこともなかった。 病気にかかって死んでしまった。 二人の獄卒に引かれて、 地獄の門前に至り、 見ると一人の僧がいる。 地蔵菩薩だという。 菩薩は、 そこで王氏に教えて、 この一偈をとなえさせ、 王氏に、 「この偈を誦えることができたら、 よく地獄の苦をはらいのけられる」 と告げられた。 王氏は遂に入って、 閻魔大王に会った。 大王は、 この人に、 「功徳があるか」 と問うた。 王氏は、 「ただわたくしは、 四句の一偈をたもっています」 と答え、 一々上のように説いた。 大王はそこで放免したのである。 ところで、 彼がこの偈を誦えた時、 その声が届く限りのところで苦を受けていた罪人は、 みな三途の苦しみを免れることができた。 王氏は死後三日たって始めて蘇えり、 この偈を憶えていて出家たちに向かって、 この話をした。 偈文をしらべてみると、 «華厳経» の第十二巻の夜摩天宮無量諸菩薩雲集説法品にあることがわかった。 王氏は自ら、 空観寺の僧定法師に向かってそのとおりでありますと話した。 これは抜き書きした。

【63】^第五に、 弥陀別益とは、 ^行者に、 その心を決定させるために、 特別に、 これを明かすのである。 滅罪生善と冥得護持と現身見仏と当来勝利とは、 次のとおりである。

^«観経» の像想観に説かれている。

この観を成就するものは、 無量億劫という長い間の生死まよいの罪が除かれ、 この身のままで念仏三昧の利益を得るのである。

^また説かれている。

ただ無量寿仏のみ名と観音・勢至の二菩薩のみ名を聞くだけでも、 はかり知られぬ長い間の生死まよいの罪が除かれるのであるから、 ましてそれらを心に念ずるならば、 なおさらのことである。

^また説かれている。

ただ仏像を想うだけでも無量の福徳を得るのであるから、 ましてかの無量寿仏のまどかにそなえられた身相すがたを観ずれば、 その功徳の広大なことはいうまでもない。

^«阿弥陀思惟経» に説かれている。

たとい天輪王が、 千万歳のあいだ、 四天下に満ちている七宝を、 十方の諸仏に布施しても、 僧・尼・信男・信女たちが、 指を弾くほどのわずかのあいだでも、 坐禅し、 平等の心で、 すべての人々を憐れんで、 阿弥陀仏を念ずる功徳には及ばない。 以上は滅罪生善である。

^«称讃浄土教» に説かれている。

もし、 善男・善女で、 無量寿仏の極楽世界、 清浄仏土の功徳荘厳に、 あるいは、 すでに願をおこし、 あるいは、 これから願を発し、 あるいは、 いま願を発すと、 必ずこのように十方に住したもう十恒河沙ほどの諸仏世尊が護られるのである。 わが説くように行ずる者は、 すべて無上菩提に至るまで決して退かぬ身となり、 すべて必ず無量寿仏の極楽世界に往生する。

^«観経» に説かれている。

光明は、 あまねく十方世界を照らし、 念仏の衆生を修め取って捨てたまわない。

^また説かれている。

無量寿仏が無数の化身をあらわして、 観音・勢至の二菩薩と共においでになり、 つねにこの行者の所においでになる。

^«十往生経» に、 釈尊が、 阿弥陀仏の功徳や国土の荘厳などを説きおわって仰せられる。

清信士・清信女で、 この経を読み、 この経をひろめ、 この経を敬い、 この経を謗らず、 この経を信じ喜び、 この経を供養するものがあるとする。 このような人たちは、 この信じ敬った因縁で、 わたしが今日より常に、 前にのべた二十五菩薩にこの人を護らせて、 常にこの人を病がなくなやみがないようにし、 悪鬼・悪神も、 破り害せず、 また、 この人を悩まさず、 また手がかりを得させないようにするであろう。 以上。 ねてもさめても、 歩いても、 とどまっても、 至るところみなことごとく安穏にさせよう。 下略。

^唐土の諸師たちがいわれている。

二十五菩薩は、 阿弥陀仏を念じて往生を願う者を護りたもう。

これもまた、 かの «十往生経» の意にたがわぬのである。 二十五の菩薩とは、 観世音菩薩・大勢至菩薩・薬王菩薩・薬上菩薩・普賢菩薩・法自在菩薩・師子孔菩薩・陀羅尼菩薩・虚空蔵菩薩・徳蔵菩薩・宝蔵菩薩・金蔵菩薩・金剛蔵菩薩・光明王菩薩・山海慧菩薩・華厳王菩薩・衆宝王菩薩・月光王菩薩・日照王菩薩・三昧王菩薩・定自在王菩薩・大自在王菩薩・白象王菩薩・大威徳王菩薩・無辺身菩薩である。

^«無量寿経» の阿弥陀仏の本願 (第三十七願) にいわれている。

人々がわたしの名を聞いて、 身を地に投げて、 うやうやしく礼拝し、 喜び信じて菩薩の行にいそしむならば、 天・人ともに、 その行者を敬わぬものはないであろう。 そうでなければ、 わたしは決してさとりを開くまい。 以上は冥得護持である。

^«大集経» の賢護分に説かれている。

善男・善女があって、 端坐して、 おもいを繋け、 心を専らにして、 かの阿弥陀如来を想い、 このような相好、 このような威儀ふるまい、 このような大衆、 このような説法などを、 聞いたとおりに念を繋け、 一心に相続して、 順序を乱さず、 あるいは一日を経、 あるいはまた一夜を経る。 このようにして、 あるいは七日七夜に至るまで、 先に聞いたとおりに、 つぶさに念ずるから、 この人は必ず、 阿弥陀如来を見たてまつるのである。 もし、 昼に見たてまつることができないならば、 あるいは夜中に、 あるいは夢の中に、 阿弥陀仏は必ず現われたもうであろう。

^«観経» に説かれている。

眉間の白毫を観ずるならば、 八万四千の相好が自然に見られるであろう。 こうして、 無量寿仏を見たてまつるならば、 それはすなわち、 十方世界の無数の諸仏がたを見ることになる。 無数の諸仏がたを見るのであるから、 それによって諸仏がたは、 まのあたり成仏の記別を授けてくださるであろう。 これを ªあまねく一切の色相すがたを観ずるº という。 以上は、 見仏である。

^«鼓音声王経» に説かれている。

十日十夜のあいだ一日に六度、 念を専らにし、 身を地に投げて、 かの阿弥陀仏を礼敬し、 堅く正しいおもいで心の散り乱れるのをことごとく除き、 もし、 よく念々に相続したならば、 十日の内に、 必ずかの阿弥陀仏を見たてまつることができ、 ならびに、 十方世界の如来とその住したもう所とを見ることができよう。 ただ、 重い障りをもつ者と鈍根の人は除くので、 今のわずかなときでは見たてまつることはできないのである。 このようにしてすべての諸善を、 皆ことごとくふりむけて、 安楽世界に往生したいと願うならば、 臨終が迫ってきた日に、 阿弥陀仏は、 多くの大衆と共に、 その人の前に現われて、 なぐさめ、 讃めたたえたもう。 この人は、 その時おおいに悦びを生ずるであろう。 この因縁によって、 その願いどおりに、 すぐさま往生することができるのである。

^«平等覚経» に説かれている。

仏が仰せられる。 「かならず斎戒をたもち、 一心清浄にして、 昼夜に常に念じ、 無量清浄仏の国に往生したいとおもい、 十日十夜の間、 絶えないようにせよ。 わたしは、 皆、 これをあわれんで、 ことごとく無量清浄仏の国に生まれさせるであろう。 さては一日一夜に行ずるのも、 またこのとおりである。 或は、 この文を下の諸行門の中に置いてもよい。

^«無量寿経» の偈に説かれている。

かのみ仏の本願力は 名号を聞いて往生を願うものを

みなことごとくかの国に到らせ おのずから不退の位に入らしめる

^«観経» の下品上生の人は、

命の終ろうとする時に臨んで、 手をくみ合わせて合掌し 「南無阿弥陀仏」 と称える。 仏の名を称えることにより、 五十億劫という長い間の生死の罪がすべて除かれ、 化仏の後にしたがって、 浄土の宝池の中に生まれるのである。

^下品中生の人は、

命の終ろうとする時に臨んで、 地獄の猛火が一時にその人の前に押し寄せて来るが、 阿弥陀仏の十力の威徳と光明の不思議の力とその戒・定・慧と解脱と解脱智見のすぐれた徳を聞くと、 八十億劫という長い間の生死の罪を除き、 地獄の猛火は、 たちまち、 さわやかな風に変って多くの花を吹き散らす。 その花の上には、 いずれも化仏と化菩薩がおられて、 その人を迎えられ、 直ちに往生する。

^下品下生の人は、

命の終ろうとする時に臨んで、 臨終の苦しみにせめられて、 仏を念ずることができない。 そこで、 善知識の教に随って、 ただ、 こころから声をつづけて、 「南無無量寿仏」 と十声称える。 仏のみ名を称えたことによって、 一声一声の中に八十億劫という長い間の生死の罪が除かれ、 わずかな時間のうちに、 はや極楽世界に往生することができるのである。

^«無量寿経» の阿弥陀仏の本願にいわれている。

あらゆる世界の衆生が、 わたしの名を聞いて、 涅槃を得るに定まった身 (無生法忍) となり、 もろもろの深妙の智慧を得られないようなら、 決してさとりを開くまい。 (第三十四願)

他方の国の菩薩たちがわたしの名を聞いて、 ただちに不退の位に到ることができないようなら、 決してさとりを開くまい。 (第四十七願)

^«観経» に説かれている。

もし、 念仏するものがあるならば、 その人こそ、 まことに人々の中で白蓮華ともたたえられる尊い人であると知るがよい。 それゆえ、 観音・勢至の二菩薩は、 その人のために勝れた友となってくだされる。 そこで、 その人は、 諸仏の家である無量寿仏の浄土に生まれて、 かならず成仏するのである。 以上は将来の勝れた利益である。 その他は上の別時念仏門のとおりである。

【64】^第六に引例勧信とは、 ^«観仏三昧経» の第三巻に、 仏が弟子たちに告げて仰せられる。

毘婆尸仏の像法の世に、 ひとりの長者があった。 名づけて月徳という。 その五百人の子供が、 同時に重い病にかかった。 父の長者は、 子の前にいって涙を流し、 合掌して、 子供たちにいった。 「お前達は、 邪見に沈んで、 正しい法を信じていない。 今、 無常の刀は、 お前達の身を截りさくのだが、 何をたのみとするのか。 毘婆尸と名づける仏がおられる。 お前達は、 この仏のみ名を称えるがよい。」 子供たちは、 その父を敬っていたので、 この言葉を聞いてから、 「南無仏」 と称えた。 父はまた、 「お前達、 帰依法と称えよ、 帰依僧と称えよ」 と告げた。 三度称えないうちに、 子供たちは命が終った。 しかし 「南無仏」 と称えたために、 四天王のところに生まれた。 その天上界での寿が尽きると、 前の邪見の業によって、 大地獄に堕ちた。 獄卒の羅刹は、 熱い鉄のひしで、 その眼を刺しつぶした。 この苦しみを受けた時、 父の長者の教え諭されたことを憶い出して念仏したので、 地獄から出てまた人間の世界に生まれた。 尸棄仏が、 この世に出られた時に、 ただ仏のみ名を聞いただけで、 仏のお姿を見たてまつらなかった。 さては迦葉仏が世に出られた時も、 また、 そのみ名を聞いただけである。 このように六仏のみ名を聞いた因縁によって、 わたしとともに同じ世に生まれたのである。 このもろもろの比丘たちは、 前の世に、 悪心を抱いたから仏の正しい法を謗ったのであるけれども、 ただ父に教えられたために、 「南無仏」 と称えたので、 どの生を受けた時にも、 常に諸仏のみ名を聞くことができた。 そうして今の世に、 わたしの出世にって、 もろもろのさわりが除かれたので阿羅漢と成ったのである。

^また説かれている。

燃灯仏の末法の時に、 ひとりの阿羅漢があった。 その千人の弟子が、 阿羅漢の説を聞いて、 心に瞋り恨みをいだいたのである。 その寿命の長さにしたがって、 それぞれ、 寿が終ろうとしたとき、 阿羅漢が 「南無諸仏」 と称えるように教えた。 仏名を称えおわったので、 忉利天に生まれることができた。 (中略) 未来の世に、 仏となることができて、 「南無光照」 と号するであろう。

^«観仏三昧経» の第七巻には、 文殊菩薩が、 みずから、 過去の宝威徳仏に値って、 礼拝したことを説いている。

その時、 釈迦世尊は、 讃めて仰せられた。 「よろしい、 よろしい。 文殊よ、 そなたはむかし、 一たび仏を礼拝した功徳によって、 数限りない多くの仏たちにいたてまつることができたのである。 まして将来に、 わたしの弟子たちで勤めて仏を観ずる者は、 なおさらである。 また仏が阿難に仰せられる。 「そなたは、 文殊のいったことをよくたもって、 いまの大衆や後の世の人々にあまねく伝えるがよい。 もし、 よく礼拝するものや、 仏のみ名を称えるもの、 あるいは仏を観ずるものは、 まことにこの人は、 文殊と等しい利益をうけるであろう。 そして命終って、 次の世には、 文殊などの多くの大菩薩がその先達となって導くであろう。

^また説かれている。

あるとき十方世界の仏が、 釈迦如来の所に来て、 結跏趺坐せられた。 東方の善徳仏が大衆に告げて仰せられるには、 「わたしが、 過去無量世の時を思うのに、 宝威徳上王という仏が世に出られた。 その時に一人の比丘があって、 九人の弟子とともに、 仏塔にまいって、 仏像を礼拝するうちに一体の尊いおすがたを見たてまつった。 礼拝しおわって、 あきらかに見たてまつり、 偈を説いて讃嘆した。 その後に命が終って、 ことごとく東方の宝威徳上王仏の国に生まれ、 大きな蓮華の中に結跏趺坐し、 忽然として化生した。 それより以後、 つねに仏に値いたてまつることができ、 諸仏のみもとで、 仏道の行を浄く修めて念仏三昧を得た。 三昧を得おわって、 仏は、 ために成仏の記別を授けられ、 十方世界において、 それぞれ成仏することができた。 東方の善徳仏とは、 その時の比丘で、 わが身がこれである。 東南方の無憂徳仏、 南方の旃檀徳仏、 西南方の宝施仏、 西方の無量明仏、 西北方の華徳仏、 北方の相徳仏、 東北方の三乗行仏、 上方の広衆徳仏、 下方の明徳仏は、 そのときの九人の弟子で、 このように、 十仏は過去に塔を礼拝し、 仏像を観察し、 一偈をもって讃嘆したことによって、 今、 十方において、 それぞれ成仏することができたのである。 この言葉を説きおわられて後、 善徳仏は釈迦世尊にうかがい訊ね、 その挨拶が終ると、 大光明を放って、 おのおの本国に還りたもうたのである。

^また説かれている。

四仏世尊が空から降りて、 釈迦仏の床に坐り、 讃めて仰せられた。 「善いかな、 善いかな。 釈迦仏は、 よく未来の時の濁悪の人々のために、 三世の諸仏の白毫の光の相を説いて、 もろもろの人々の罪咎を滅ぼすことを得させられる。 どういういわれかというと、 わたしの昔をおもうてみると、 空王仏のみもとで、 出家して仏道を学んでいた。 その時に四人の比丘がいて、 共に学友となって仏の正法を習ったが、 煩悩が心を覆い、 堅く仏法の宝蔵をたもつことができず、 不善の業が多くて、 悪道に堕ちようとしたのである。 ときに、 空中に声があって、 比丘に語っていうには、 ¬空王如来は、 もう入滅したもうて、 そなたの犯した罪を救う者はないと思っているけれども、 そなたたちは、 いま塔に入って仏像を観ずるがよい。 仏の在世と等しくて、 異なることはないであろう¼ と。 わたくしたちはこの空中の声に従って塔に入り、 仏像の眉間の白毫を観じて、 すぐにこのような念をしたのである。 ¬如来が世にましました時の光明や色身おすがたは、 この仏像とどうして異なることがあろうか。 仏のすぐれた相が、 どうか、 わたしの罪を除いて下さるように。¼ こういいおわって、 大きな山の崩れるように身を地に投げて、 もろもろの罪を懴悔したのである。 それから以後、 八十億阿僧祇劫のあいだ、 悪道に堕ちないで、 生々世々に常に十方の諸仏を見たてまつり、 諸仏のみもとにおいて甚深の念仏三昧を受けたもった。 三昧を得おわったときに、 諸仏が目の前に現われて、 わたしに記別を授けられた。 東方妙喜国の阿閦仏とは、 すなわち第一の比丘のことであり、 南方歓喜国の宝相仏とは、 第二の比丘であり、 西方極楽国の無量寿仏とは、 第三の比丘であり、 北方蓮華荘厳国の微妙声仏とは、 第四の比丘のことである。」 このように告げられてから、 四仏は、 それぞれ右の手をさしのべて、 阿難の頂をなで、 「そなたは、 仏の語を持って、 広く未来の多くの人々のために説くがよい」 と告げられた。 これを三たび仰せられたのち、 それぞれ光明を放って本国に還りたもうたのである。

^また説かれている。

財首菩薩は、 釈迦仏に申しあげていう。 「世尊、 わたくしが量りない過去世の時を思いますに、 仏世尊がおられて、 やはり釈迦牟尼と申しあげました。 かの仏の滅後に金幡という一人の王子がありました。 憍慢・邪見で、 正法を信じませんでした。 ところが、 定自在と名づける善知識の比丘がいて、 王子に告げていうには、 ¬世に仏像があって、 多くの宝で飾られてあります。 しばらく塔に入って、 仏のおすがたを観られるがよい¼ と。 そこで王子は、 善知識の言葉に随って、 塔に入り仏像を観ました。 仏像の相好おすがたを見てから、 比丘に向かっていうには、 ¬仏像でさえ、 立派なことはこのとおりであるから、 まして、 仏のほんとうのおすがたはどんなに立派なことだろう¼ と。 比丘が告げていう。 ¬あなたは、 いま仏像を見て礼拝することができないなら、 南無仏と称えなさい。¼ その時、 王子はたなごころを合わせて、 敬って ¬南無仏¼ と称えました。 王子は宮殿に帰り、 念をかけて塔中の仏像を念じました。 すると夜明前になって、 夢に仏像を見たてまつった。 仏像を見たてまつったために、 心大いに喜んで、 邪見を離れ、 三宝に帰依しました。 命が終ると、 前の塔に入って、 南無仏と称えた因縁の功徳に由って、 九百万億那由他の仏たちに値うことができ、 甚深の念仏三昧を得ました。 三昧の力によって、 諸仏がまのあたりに記別を授けられ、 これより以後、 百万阿僧祇劫のあいだ悪道に堕ちることなく、 今日に至って、 甚深の首楞厳三昧を得たのであります。 その時の王子が、 今のわたくし財首であります。」

^また説かれている。

仏が仰せられる。 「わたしは、 今の世 (賢劫) のもろもろの菩薩と一緒に、 かつて過去の栴檀窟仏のみもとで、 この諸仏が現わされるさまざまの色身おすがたを観ずる法を聞いた。 この因縁の功徳の力によって九百万億阿僧祇劫の生死まよいの罪を超えて、 この賢劫にあって、 次第に成仏するのである。 (中略) このように、 十方の無量の諸仏も、 みなこの観仏三昧の法によって仏果を成じたもうたのである。

^«迦葉経» に説かれている。

「むかし、 過去久遠阿僧祇劫に、 光明と名づける仏が世に出られた。 この仏が涅槃に入りたもうた後、 大精進と名づける一人の菩薩があった。 年はやっと十六で婆羅門の種族で、 たぐいなく端正であった。 一人の比丘が白い毛氈の上に仏の形像おすがたえがき、 これを大精進に与えた。 大精進はこの仏像を見て、 心大いに喜び、 ¬如来の形像でさえ、 うるわしいことはこのようである。 まして、 真実の仏身は、 なおさらであろう。 なにとぞ、 わたくしも未来にまたこのようなうるわしい身を成就したいものだ¼ といった。 こういってから、 ªわたくしが、 もし在家のままなら、 このような身を得ることは難しいだろうº と思った。 そこで、 父母に申して、 どうか出家させてほしいと願ったが、 父母はこう答えた。 ¬わたくしたちは、 今や年老い、 ただ、 そなた一人しか子供はない。 そなたがもし出家するならば、 わたくしたちは死んでしまうだろう」 と。 そこで大精進は、 ¬もし、 わたくしの出家を許して下さらなければ、 わたくしは今日から、 飲まず、 食わず、 床座とこに昇らず、 またものも言いますまい¼ と父母にいった。 こういう誓を立ててから、 一日絶食し、 かくして六日たった時、 父母・友人、 八万四千の多くの采女などは、 同時に悲しみ泣いて、 大精進を礼拝し、 出家を許したのである。 かくて、 出家することができたので、 仏像をもって山に入り、 草をとって座とし、 画像の前で結跏趺坐し、 一心に ¬この画像は、 如来と異なるものではない。 如来の像は、 覚るところでもなく、 知ることでもない。 すべての諸法も、 またこのようである。 相はなく、 相を離れ、 本体は空寂である¼ とあきらかに観じた。 この観をしおわると、 一昼夜を経て、 五神通を成就し、 四無量心を具え、 四無礙弁を得、 普光三昧を得て、 大光明を具えたのである。 清浄な天眼で東方の数かぎりもない仏を見、 清浄な天耳で、 仏の説きたもうことを聞いて、 ことごとくよく聴受した。 七日を満たすあいだ、 智慧を食物とし、 すべての諸天は花を散らして供養した。 山から出て村に来たり、 人々のためにみのりを説いたとき、 二万の人は菩提心をおこし、 無量無数の人は、 声聞や縁覚の功徳に住し、 父母親族は、 みな無上菩提に至るまで退かない身となった。」

さて、 仏は迦葉に仰せられた。 「この昔の大精進とは、 今のわたくしのことである。 かの仏像を観じたことに由って、 いま成仏することができたのである。 もし、 よくこのような観を学ぶ人があるならば、 未来には、 必ず無常仏果を成就するであろう。」

^«比喩経» の第二巻に説かれている。

昔、 ひとりの比丘があった。 その母を済度しようと思ったが、 母は、 はやすでに命がつきていた。 そこでさとりの眼で、 天上界や人間界や、 畜生・餓鬼の中をさがし求めたけれども、 遂に母を見つけられなかった。 地獄を観ると、 その中に母が落ちている。 そこで、 もだえ悲しみ広く方法をめぐらして、 その苦しみを逃れさせたいと思った。 時に、 父を殺して国を奪った辺境の王があった。 比丘は、 この王の命は余すところ七日で、 その罪を受ける処が、 この比丘の母と同じ所であることを知ったので、 ものしずかな夜に、 王の寝所に到り、 壁に孔をあけて半身を現わした。 王は怖れて、 刀を抜いて頭を切り、 頭はすぐに地に落ちたが、 比丘はもとのとおりであった。 数辺も頭を切って、 仮現の頭は地に満ちたけれども、 比丘は少しも変わらない。 王のこころはそこで解け、 その尋常でないことがわかったので、 頭を地につけて、 そのあやまちを詫びた。 比丘は、 「恐れなくてもよい。 怖れなくてもよい。 わたくしは、 そなたを救いたいと思うばかりなのだ。 そなたは、 父の王を殺して、 国を奪ったというが、 どうなのか」 といった。 王は 「本当にそのとおりであります。 なにとぞお慈悲をもってお救いくださいますよう」 と答えた。 比丘は、 「たとい大きな功徳を作っても、 おそらく及ばないことでしょう。 王よ、 南無仏と称えなさい。 七日のあいだ、 絶え間なく称えるならば、 罪を免れることができるでありましょう」 といった。 そして、 重ねて王に 「慎んで、 この法を忘れないように」 と告げて、 すぐさま飛び去ってしまった。 そこで、 王は手をくみあわせて、 一心に 「南無仏」 と称えて、 昼も夜も怠らず、 七日たって、 その命が終った。 王の魂神たましいが地獄の門に向かって 「南無仏」 と称えたので、 地獄の中の人は仏の音声を聞いて、 皆一時に 「南無仏」 と称え、 すぐさま地獄の暑さが冷めたのである。 そこで比丘は、 その比丘の母や王や地獄の中の人たちのために法を説き、 それらの人たちは、 皆救われることができ、 後に、 大いに努めて、 須陀洹道 (預流果) を得たのであった。 以上の諸文は抜き書きした。

^«優婆塞戒経» に説かれている。

善男子よ、 わたしは、 昔、 邪見の家に堕ち、 煩悩の網がみずからわたしを覆っていた。 わたしは、 そのとき、 広利という名であった。 妻はすぐれた女で、 努め励み、 量りなくさとり、 十善をもって人を導いていた。 わたしは、 そのとき、 猟殺の心を起こし、 酒肉をむさぼり、 怠りなまけて、 努力することができなかった。 妻は時に、 わたしに、 「その猟殺を止め、 酒肉を誡めて断ち、 努力していくようになされば地獄の苦悩のわずらいのがれ、 天上界に生まれて夫婦ともどもに暮されましょう」 と語った。 わたしは、 その時でも殺生の心が止まず、 酒肉の美味を捨てることはできず、 努力の心は怠けてすすまず、 天上界に生まれるおもいをやめ地獄に堕ちる業を作っていたのである。 その頃、 わたしは村里の内に住み、 寺に近かったから、 しばしば鐘のを聞いた。 妻はわたしに、 「どれもこれもできないとおっしゃるなら、 鐘の音を聞かれた時、 三たび指を弾いて、 一たび仏のみ名を称えてください。 身をおさめてみずからつつしみ、 憍慢をおこしてはなりません。 夜中でも、 この法をやめてはなりません」 と語った。 そこで、 わたしは、 この法を用いて、 もう捨て失うことはなかった。 十二年を経て、 わたしの妻は、 命終り、 忉利天に生まれた。 その後三年たって、 わたしもまた寿命が尽きたのである。 閻魔王の所に至った時、 わたしを裁いて罪を定め、 地獄の門に向かわせた。 地獄の門に入ろうとした時、 三声の鐘の音を聞いた。 すぐさまわたしは立ち止まって、 心に歓喜を生じ、 で喜んで厭わずに、 作法どおりに三たび指を弾き、 声を長く引いて、 仏の名を唱えたのである。 その声々はみな慈悲にみちて、 浄らかなこえが朗らかにとおった。 閻魔王は聞きおわって、 心にはなはだはずかしく思い、 「これこそ本当の菩薩である。 どうして間違って裁いたのだろうか」 といい、 すぐにおくり還して天上界に往かせた。 さて、 天上界に到ると、 全身を地に投げ、 わが妻を礼敬し、 「大師よ。 幸いにも大恩を承けて、 いま、 すくわれました。 これから菩提に至るまで、 おおせにはそむきませぬ」 といったのである。

 ^また、 震旦しなでは、 東晋からこのかた唐代に至るまで、 阿弥陀仏を念じて、 浄土に往生したものが、 道俗男女合わせて五十余人あることは、 «浄土論» (迦才) 並びに «端応伝» (少康・文諗) に出ている。 僧二十三人、 尼六人、 沙弥二人、 在家の男女合わせて二十四人。 わが国において往生したものも、 かなりある。 詳しくは、 慶滋よししげの保胤やすたねの «日本往生極楽記» に記されている。 まして、 市にいてその徳を隠したり、 山林にのがれて名を知られないようにした者で、 独り往生の行を修めて、 独りこの世を去る者については、 誰がそれを知ることができようか。

 ^問う。 «観経» にある下下品の人と、 «観仏三昧経» の五百の仏弟子とは、 臨終に同じく念仏したのに、 一は昇り、 他は沈むとは、 どうして区別があるのか。

 ^答える。 «群疑論» に説明していわれている。

五百の仏弟子は、 ただ父の教に依って、 一たび仏を念じたけれども、 菩提心をおこし浄土に生まれようと求めてねんごろに慚愧しない。 また彼らは至心でもなく、 また、 ただ一念だけで、 «観経» のように十念を具えていないからである。 抜き書きした。

【65】^第七に、 悪趣の利益を明かせば、 ^«大悲経» の第二巻に説かれている。

もし、 また人があって、 ただ心に仏を念じ、 一たびも敬い信ずる心を起こすならば、 この人はまた涅槃さとりの果を得て、 涅槃のはてを尽くすであろうと、 わたしは説くのである。 阿難よ、 人間界における念仏の功徳はしばらくさしおこう。 もし畜生が、 仏世尊に対して念ずる心をよく生ずるならば、 その善根の福報は涅槃さとりを得るであろうと、 わたしはまた説くのである。

 ^問う。 それはどういう事であるか。

 ^答える。 «大悲経» の第三巻に、 仏が阿難に仰せられる。

むかし、 大商主があった。 多くの商人をひきいて、 大海に入ったとき、 その船はにわかに、 かつ大魚だいぎょ (くじら) に呑みくわれようとした。 その時に、 大商主や多くの商人は心驚き、 身の毛もいよだって、 それぞれみな泣き悲しんだのである。 そして、 「ああ不幸なことだ。 わたくしが住んだあの国土 (閻浮提) は、 かくも楽しく、 かくもめずらしいのだ。 世間の人間の身は、 かくも得難いのに、 わたくしは今や父母と別れようとしている。 姉妹や妻子、 親戚や朋友とも別れて、 もう会うこともないであろう。 また仏と多くの僧をも見たてまつることはできないであろう」 といって、 たいへん泣き悲しんだ。 その時に大商主は右肩を脱ぎ、 右膝を地に着けて船の上にとどまり、 一心に仏を念じて合掌礼拝し、 高声に 「大無畏を得たまえる方、 大慈悲の方、 一切衆生を憐れみたもう方である諸仏に南無したてまつる」 と唱えた。 このように、 三たび称えた時、 多くの商人たちも、 また同時に、 このように三たび称えたのである。 その時に摩竭魚は、 人々が礼拝して仏の名号を称える声を聞いて、 大きな敬愛の心を生じ、 声を聞くや、 すぐさま口を閉じた。 かくて、 大商主および多くの商人たちは、 皆ことごとく安穏に摩竭魚の難を免れることができた。 さて摩竭魚は、 「仏」 という声を聞いて、 心に喜びを生じたので、 もはや他の多くの生物をも食わなかった。 この功力によって、 命が終ったとき人間に生まれることができ、 その仏のみもとで仏法を聞いて出家し、 善知識に近づいて、 阿羅漢のさとりを得たのであった。 阿難よ、 そなたは、 かの摩竭魚のことを考えるがよい。 畜生道に生まれてさえも、 仏のみ名を聞くことができ、 仏のみ名を聞きおわって、 ついにさとりを得たのである。 まして人間で仏のみ名を聞くことができ、 正法を聴聞するものがあれば、 なおさらのことである。 抜き書きした。

^また «菩薩処胎経» の八斎品に説かれている。

竜の子が、 *こんちょうのために、 次のような偈を説いていう。

生物を殺すのは これ不善の行で 寿命いのちをちぢめて中夭わかじにする

この身は朝の露のようで 光を見れば すぐに命が終る

戒を持って仏語にしたがえば 長寿天に生まれることができる

永劫に福徳を積めば 畜生道に堕ちることはない

わが身は竜の身を受けているが 戒徳を浄くたもっている

畜生道の中に堕ちてはいるが 必ずみずから免れ出よう

この時、 竜の子が、 この偈を説いたときの他の竜の子や竜の女たちは心が開けたのである。 かくて寿命が尽きた後には、 みな阿弥陀仏の国に往生することになるであろう。 以上。 これは八斎戒を守っている竜の子である。

 ^その他の悪趣のものも、 仏語を信ずるならば、 浄土に生まれることは、 これに準ずる。 地獄における利益は、 前に引いた ª比喩経º の国王の因縁、 ならびに下に出す粗心の妙果に明かすとおりである。

 ^またもろもろのその他の利益は、 下に明かす念仏の功徳のとおりである。

【66】^大文第八に念仏の証拠とは、

 ^問う。 すべての善業には、 それぞれ利益があり、 それぞれ往生することができるのに、 どういうわけで、 ただ念仏の一門だけを勧めるのか。

 ^答える。 今、 念仏を勧めることは、 決して、 その他の種々のすぐれた行をさえぎるのではない。 ただ男でも女でも、 身分の高いものでも、 低いものでも、 その行住座臥の区別なく、 ときところやいろいろの場合を論ぜず、 これを修めるのに難しくなく、 そして臨終までも往生を願い求めるのに、 その便宜を得ることは、 念仏におよぶものはないからである。 ^それ故に «木槵経» に説かれている。

難陀国の瑠璃るり王が、 使者を遣わして、 仏に申しあげていう。 「ただ願わくは世尊、 殊にいつくしみを垂れて、 わたくしに肝要な法を賜り、 日夜をたやすく修行することを得させ、 未来世には多くの苦しみを離れさせて下さい。」 仏は告げて仰せられる。 「大王よ、 もし煩悩まどいの障りや報の障りを滅しようと思うならば、 木槵子むくろじの種子百八を貫き、 それをいつも身につけて持つがよい。 もしは歩むにも、 坐るにも、 もしは臥すにも、 つねに至心をもって、 心を散らさず、 仏・法・僧の名を称えては、 一つの木槵子をつまぐれ。 このようにして、 もしは十遍、 もしは二十遍、 もしは百遍、 もしは千遍、 さらには百千万遍せよ。 もしよく二十万遍を満たして、 身心が乱れずに、 いろいろないつわり曲ったことがなければ、 命終って第三の閻魔天に生まれることができ、 衣食が自然に得られて、 いつも安らかな楽しみを受けるであろう。 もし、 またよく百万遍を満たすならば、 百八の煩悩のはたらきを断ち、 迷いの流れに背いて涅槃の道に趣き、 無上の仏果を獲るであろう。」 抜き書きした。 懐感禅師の意もまたこれと同じである。

 ^まして、 またもろもろの聖教の中には、 多く念仏を往生の業としている。 その文ははなはだ多いが、 略して十文を出そう。

 ^一つには、 «占察経» の下巻に説かれている。

もし人あって、 他方の現在の浄土に生まれようとおもうならば、 かの世界の仏の名号に随い、 意を専らにしてとなえるべきである。 一心不乱にして、 上のように観察するならば、 まちがいなく、 かの仏の浄土に生まれることができ、 善根が増長して速やかに不退の位に入るであろう。 ここに 「上のように観察する」 というのは、 地蔵菩薩の法身と諸仏の法身と自分自身とは、 その体性が平等であって、 二つなく、 生ぜず滅せず、 常楽我浄であって、 功徳が円満していると観ずる。 また自分の身は無常で、 幻のようであり、 厭うべきものであると観ずるなどのことをいうのである。

 ^二つには、 «無量寿経» の三輩の業については、 それぞれ浅深があるけれども、 いずれにも通じて説かれている。

一向にもっぱら、 無量寿仏を念ぜよ。

 ^三つには、 四十八願 (大経) の中で、 念仏の法について、 特別に一願をおこして誓われてある。

少なくとも十念して、 もし往生しなかったならば、 仏にはなるまい。

 ^四つには、 «観経» に説かれている。

極重の悪人は、 他の方法がない。 ただ弥陀の名号を称念して、 極楽往生を得るばかりである。

 ^五つには、 同じ経に説かれている。

もし至心まごころから西方の極楽浄土に生まれたいと思うならば、 まず浄土の池水の上に、 一丈六尺の無量寿仏の像がおいでになると観ずるがよい。

 ^六つには、 同じ経に説かれている。

光明は、 あまねく十方世界を照らし、 念仏の衆生を摂め取って捨てたまわない。

 ^七つには、 «阿弥陀経» に説かれている。

自分が積むような、 わずかな善根功徳の因縁たねでは、 かの浄土に往生することはできぬ。 もし善男・善女があって阿弥陀仏のいわれを説くのを聞き、 その名号みなをたもって、 あるいは一日 (中略) あるいは七日の間、 一心にして乱れないならば、 その人の臨終には、 阿弥陀仏が多くの聖衆とともに、 その前に現われてくださる。 そこで、 この人は命の終るとき、 心が乱れまどうことなく、 ただちに阿弥陀仏の極楽に生まれることができる。

 ^八つには、 «般舟経» に説かれている。

阿弥陀仏が仰せられる。 「わが国に来生しようと思うならば、 わたしをたびたび念ずべきである。 常にもっぱら念じて、 やめてはならない。 このようにすれば、 わたしの国に来生することができよう。」

 ^九つには、 «鼓音声経» に説かれている。

もし、 僧俗男女があって、 よくまさしくかの阿弥陀仏の名号をたもつならば、 この功徳によって、 命が終ろうとする時に臨んで、 阿弥陀仏は、 聖衆とともにこの人の所に往き、 その人に仏を見させる。 仏を見おわって、 そこで往生するのである。

 ^十には、 «往生論» (天親) にいわれている。

かの阿弥陀仏の浄土や仏・菩薩の功徳を観念することをもって往生の業とする。

 ^この中で、 «観経» の下下品と «阿弥陀経» と «鼓音声経» とは、 ただ名号を称念することを往生の業としている。 まして相好や功徳を観念することについてはいうまでもないことである。

 ^問う。 念仏以外の行には、 どうして信を勧めるの文がないのであろうか。

 ^答える。 その他の行法は、 かの法のいろいろの効能はたらきを明かすことのついでとして、 その中に、 おのずから往生の事を説いているのである。 往生の要を直接にのべて、 多く 「仏を念ぜよ」 というようなことではない。 まして阿弥陀仏はみずから、 すでに 「わたしを念ずべきである」 と仰せられているのだから、 なおさらのことである。 また仏の光明は、 その他の行人を摂め取るとは仰せられていないのである。

 ^これらの文で、 はっきりとしている。 どうして重ねて疑問を生ずることがあろうか。

 ^問う。 諸経に説くところは、 それぞれの機に随ってさまざまである。 どうしてせまい考えで、 一文に固執するのか。

 ^答える。 馬鳴菩薩の «大乗起信論» にいわれている。

また次に、 初めてこの法を学ぼうとする人で、 その心がおびえて弱く、 信心が成就することのできがたいのをおそれ、 退転しようとおもう者は、 如来にはすぐれた方法があって、 信心を護ってくださると知るがよい。 すなわち、 専心に仏を念ずる因縁によって、 願いのままに、 他方の仏土に往生することができるのである。 経に、 「もし人があって、 専ら西方の阿弥陀仏を念じ、 作った善業を回向して、 かの世界に生まれようと願い求めるならば、 すなわち往生することができると説いてあるとおりである。 

 ^これで明らかに知られた。 経には多く念仏を往生の要としているのである。 もし、 そうでないならば、 人々の依りどころとなる*四依しえの菩薩は、 道理をつくさないこととなるであろう。

【67】^大文第九に往生の諸行を明かすというのは、 すなわち極楽往生を求める者は、 必ずしも念仏を専らにするとは限らず、 その他の行をも明かして、 それぞれの望みに任す必要がある。 これをまた二つに分ける。 一つには個々別々に諸経の文を明かし、 次には総じて諸業を結ぶ。

【68】^一つに、 諸経を明かすならば、 «四十華厳経» の普賢願、 «三千仏名経»・«無字宝篋経»・«法華経» などのもろもろの大乗経、 «随求陀羅尼経»・«尊勝陀羅尼経»・«無垢浄光大陀羅尼経»・«如意輪陀羅尼経»・«阿嚕力迦»・«不空羂索神変真言経»・«光明真言»・«阿弥陀大呪» 、 および龍樹菩薩が感得せられた往生浄土などの呪文がそれである。 これら顕教・密教の諸大乗の中には、 みな受けたもち、 読誦するなどをもって極楽に往生する行業としているのである。

^«大阿弥陀経» に説かれている。

斎戒し、 一心清浄にして、 昼夜に常に念じて阿弥陀仏の国に生まれようと願い、 十日十夜の間、 絶えないようにすべきである。 わたしは皆これを愍み、 ことごとく阿弥陀仏の国に往生させるであろう。 特に、 そうすることができなければ、 みずから思うて、 よくよく計るがよい。 この身を救い脱れようと思うならば、 浄土への念を絶ってはならない。 愛着を去って、 家の事をおもうてはならない。 婦女と床を同じうしてはならない。 みずから身心を正して、 愛欲を断ち、 一心に斎戒清浄にして、 もっぱら阿弥陀仏の国に生まれようと念じて、 一日一夜の間、 絶えなければ、 命が終って皆その国に往生し、 七宝の浴池の蓮華の中に化生するであろう。 この経は、 持戒を主とするのである。

^«十往生阿弥陀仏国経» に説かれている。

わたしは今、 そなたのために説こう。 十種の往生法がある。 その十種の往生法とは何であるかというと、 一つには、 身を観じて正念に、 いつも歓喜の心をいだき、 飲食・衣服を仏および僧に供養するならば、 阿弥陀仏の国に往生する。 二つには、 正念にすぐれた良い薬をもって、 一人の病気の比丘、 およびすべての衆生に施すならば、 阿弥陀仏の国に往生する。 三つには、 正念に、 生物の命を一つもそこなわず、 すべてのものをあわれむならば、 阿弥陀仏の国に往生する。 四つには、 正念に師匠のもとに従って戒を受け、 浄らかな心で仏道の行を修め、 心にいつも喜びをいだくならば、 阿弥陀仏の国に往生する。 五つには、 正念に、 父母に孝行し、 師長に敬いつかえて、 憍慢の心を懐かないならば、 阿弥陀仏の国に往生する。 六つには、 正念に、 僧房に参詣し、 塔寺を敬い、 法を聞いて一義を領解するならば、 阿弥陀仏の国に往生する。 七つには、 正念に、 一日一夜のあいだ、 八戒斎をたもち、 一日一夜のあいだたもって一つも壊らないならば、 阿弥陀仏の国に往生する。 八つには、 正念に、 もしよく斎月や斎日の間は、 自分の住家を離れて常に善師のもとに往くならば、 阿弥陀仏の国に往生する。 九つには、 正念に、 いつもよく浄らかな戒をたもって、 禅定を楽しんで修め、 法を護って悪い言葉をいわない。 もしよくこのように行ずるならば、 阿弥陀仏の国に往生する。 十には、 正念に、 もし無上のさとりに対して誹謗の心を起こさず、 精進して浄らかな戒律をたもち、 また無智の者に教えて、 この教法をひろめ、 多くの衆生を教化すれば、 このような人たちは、 みなことごとく阿弥陀仏の国に往生することができる。

^«弥勒問経» に説かれている。

「仏がお説きになったとおり、 阿弥陀仏の功徳利益を願って、 もしよく十念相続し、 たえずかの阿弥陀仏を念ずる者は、 往生することができるということでありますが、 それはどのように念ずべきでありましょうか。」 仏が仰せられる。 「これにはおよそ十念がある。 その十とはどういうものか。 一つには、 すべて衆生に対し、 常にいつくしみの心を起こして、 その行を破らない。 もし、 その行を破るならば、 ついに往生しないであろう。 二つには、 すべての衆生に対して常にあわれみの心を起こして、 そこない傷つける意を除く。 三つには、 護法の心を発して身命を惜まず、 すべての法に対して誹謗を生じない。 四つには、 忍辱の中において、 決定の心を生ずる。 五つには、 深心清浄であって、 利欲にけがされない。 六つには、 *一切いっさいの心を発し、 日々に常に念じてすたれ忘れることはない。 七つには、 すべての衆生に対して尊重の心を起こし、 我慢の心を除いて、 へりくだって話す。 八つには、 世間の談話に対して執着の心を生じない。 九つには、 さとりこころに近づき、 いろいろの善根の因縁を深く起こし、 騒がしく乱れる心を遠ざける。 十には、 正念に仏を観じ、 もろもろの想を除き去るのである。」

^«宝積経» の第九十二巻に、 仏は、 またこの十心で弥勒菩薩の問に答えられている。 その中の第六心にいう。

仏の一切智を求め、 すべての時に、 これを忘れない心。

その他の九種の心は、 その文は少し異なるけれども、 その意味は前の経に同じ。 ただ、 その結びの文にいわれている。

もし、 人があって、 この十種の心の中で、 どれか一つの心を成就してかの仏の世界に往生しようと願い、 もし生まれることができないというならば、 そんな道理はない。

これで見ると、 かならずしも十心をすべて具えて、 往生の業とするのではないことが、 明らかである。

^«観経» に説かれている。

「かの極楽世界に生まれようと願うものは、 つぎの三種の福徳を積まねばならない。 一つには、 父母に孝養をつくし、 よく師匠や目上の人に仕え、 慈悲の心をもって殺生をせず、 十善の行を修める。 二つには三帰戒を受け、 いろいろの戒をたもち、 威儀を犯さない。 三つには菩提心を発し、 深く因果の道理を信じ、 大乗の経典を読誦し行者を勧める。 このような三種の行ないを浄らかな行業というのである。」 仏が韋提希に告げたもう。 「おんみは、 いま知っているかどうか。 この三種の行ないは、 過去・未来・現在の三世の諸仏が仏になるための浄らかな行業であり、 正しいたねである。

^また説かれている。

上品上生というのは次のようである。 もし人々の中で、 かの国に生まれたいと願う者は、 三種の心を発してすなわち往生する。 その三種の心とは何かといえば、 一つには至誠心、 二つには深心、 三つには廻向発願心である。 この三種の心を欠けめなく具えるものは、 かならずかの国に生まれるのである。

^さて、 上品上生というのは、 このような人々の中で、 つぎの三種の行を修める人をいうのであって、 それらの人々は、 いずれもみな往生することができる。 その三種の行を修める人とは、 どのようなものかといえば、 一つには、 慈悲の心をもって殺生をせず、 よくいろいろの戒行を守るもの。 二つには、 大乗の経典を読誦するもの。 三つには、 *六念ろくねんを修行するものがそれである。 これらの人々は、 おのおの、 その修めるところの善根功徳によって、 かの国に生まれたいと願い、 少なくとも一日から七日ぐらいのあいだ行じて、 それらの功徳をそなえ、 それによって、 ただちに往生することができる。

^上品中生というのは、 かならずしも大乗の経典を受持するとは限らないが、 そのわけをよく理解し、 奥深い第一義の道理を聞いても、 それによって心が驚き動かされるようなことはなく、 深く因果の道理を信じて、 大乗の経典を謗らず、 その功徳によって、 極楽浄土に生まれようと願うものである。

^上品下生というのは、 また因果の道理を信じて、 大乗の教を謗らず、 ひとえに無上菩提を求める心を起こして、 その功徳により、 極楽に生まれようと願うものである。

^中品上生というのは、 人々の中で、 五戒をまもり、 八戒斎をたもち、 その他、 もろもろの戒律を修めて、 五逆の罪を造らず、 また、 いろいろの罪過あやまちのないようにつとめ、 それらの善根によって西方の極楽世界に生まれようと願うものである。

^中品中生というのは、 人々の中で、 あるいは一日一夜の間、 八戒斎を受け、 あるいは一日一夜の間、 沙弥戒をまもり、 あるいは一日一夜の間、 具足戒をたもって、 少しも威儀を乱さず、 その功徳によって、 極楽浄土に生まれようと願うものである。

^中品下生というのは、 世間一般の善男・善女で、 父母に孝養をつくし、 いつくしみの心から、 世の中のいろいろの善を行っているものである。

^下品上生というのは、 人々の中で、 さまざまの悪業をつくっているもので、 大乗の経典を謗るようなことはないが、 いろいろの悪をつくって、 少しも心に恥じることを知らない愚かな人たちである。 こういう人が命の終ろうとするとき、 いろいろな経典の題号のいわれを聞き、 さらに合掌して 「南無阿弥陀仏」 と称える。

^下品中生というのは、 人々の中で、 五戒や八戒や具足戒などのおきてを犯し破っているものである。 このような愚かな人がいよいよ命の終ろうとするときには、 地獄のさまざまの猛火が一時にその人の前に押し寄せて来る。 このとき、 たまたま善知識が、 哀れみの心から、 その人のために阿弥陀仏の十力の威徳を説き、 さらにひろく光明の不思議の力を説き、 また、 その戒・定・慧と解脱と解脱智見のすぐれた徳をほめたたえるのに遇う。 その人はこれを聞いて、 ただちに八十億劫という長い間の生死まよいの罪が除かれる。

^下品下生というのは、 人々の中で、 最も重い罪である五逆や十悪を作り、 その他、 悪という悪のすべてを犯しているものである。 こういう愚かな人は、 その悪業の報いで、 かならず悪道におちねばならない。 ところが、 こういう愚かな人が命の終ろうとするとき、 たまたま善知識に遇い、 心に仏を念ずることはできないけれども、 ただ至心まごころから声をつづけて、 「南無阿弥陀仏」 と十声称える。 その仏名を唱えたことによって一声一声のうちに八十億劫という長い間の生死まよいの罪が除かれる。

^«無量寿経» の三輩の行業も、 また、 この «観経» の九品の外ではないのである。 ^また «観経» には、 十六観の法を往生のたねとしている。

^«宝積経» には仏前の蓮華に化生するのに、 四つの因縁があることを説いている。 その偈にいう。

花香を仏や塔廟にささげ 他のものを害せず また仏像を造り

大菩提を深く信解すれば 蓮華にすわって仏の前に生まれることができる

^その他は、 煩雑になるから、 ここには出さない。

【69】^第二に、 総じて諸業を結ぶというのは、 慧遠法師が浄土往生の因の要を明かしているのに、 四つある。

一つには、 観を修めて往生する。 十六観のようなものである。 二つには、 業を修めて往生する。 三福業のようなものである。 三つには、 心を修めて往生する。 至誠心などの三心である。 四つには、 帰依して往生する。 浄土の事を聞いて帰依し、 正念し、 讃嘆するなどである。

 ^今、 私見を出すと、 諸経に説かれている行業は、 総じて言うならば、 «梵網経» の戒品を出るものではなく、 別して論ずるならば、 六度の行を出ないのである。 さらにくわしくその相を明かすならば十三となる。 一つには、 財物を与え、 法を説くなどの布施。 二つには三帰・五戒・八戒・十戒などの多くの戒行。 三つには忍辱。 四つには精進。 五つには禅定。 六つには般若。 第一義(真如の理)を信ずるなどがこれである。 七つには菩提心を発す。 八つには六念を修行する。 仏・法・僧・戒・施・天を念ずるのを六念という。 十六想観も、 また、 これを出でぬ。 九つには大乗の経典を読誦する。 十には仏法を守護する。 十一には父母に孝順し、 師長につかえる。 十二には憍慢を生じない。 十三には利養に染まないことである。

^«大集経» の月蔵分の偈に説かれている。

樹の実が繁ると速く 自ら枯れるように 竹や芦が実を結ぶのもまたそのとおりである

驢馬がはらめば みずから身を喪うように 無智の者が利を求めることもまたこのとおり

比丘がもし供養を受けて 利養を求めてとらわれるならば

世に これ以上の悪はなく かくて解脱さとりの道を得させない

このように利養を貪る者は すでに道を得ても またふたたび失う

^また «仏蔵経» に、 迦葉仏が、 あらかじめ説かれている。

釈迦牟尼仏は、 多く供養を受けるから、 その教法ははやく滅ぶであろう。

 ^如来の上においてさえ、 このような次第であるから、 まして凡夫にあっては、 いうまでもないことである。 大きな象が窓から出ようとして、 ついに、 ただ一つの尾のために妨げられ、 行者が家を捨てても、 ついに、 名聞利養のために縛られるということがある。 そこで、 この迷いの世界から出離する最後の窓は、 名聞利養より大きなものはないことが知られる。 ただ、 維摩居士は、 身は家に在っても、 心は家を出ており、 薬王菩薩は、 その前生に世塵を避けて雪山に居られた。 今の世の行者もまた、 このようにあるべきである。 みずから、 その根機をはかってふるまうべきである。 もし、 その心を制することができなければ、 やはりその地を避けるべきである。 麻の中に生えている蓬は自然と真直ぐになり、 屠所の辺につながれた象は気が荒くなるという。 その好くなったり、 悪くなったりするのは何に由るのであろうか。 «仏蔵経» を見て、 その是非を知るべきである。

【70】^大文第十に問答料簡というのは、 略して十となる。 第一には極楽の依正、 第二には往生の階位、 第三には往生の多少、 第四には尋常の念相、 第五には臨終の念相、 第六には粗心の妙果、 第七には諸行の勝劣、 第八には信毀の因縁、 第九には助道の資縁、 第十には助道の人法である。

【71】^第一に、 極楽の依正とは、

 ^問う。 阿弥陀仏とその極楽浄土は、 どういう仏身と、 どういう仏土とであるか。

 ^答える。 天台大師がいわれている。 («観経疏» の意)

応身の仏であり、 凡夫と聖者とが一緒に居る国土 (凡聖同居土) である。

^慧遠法師がいわれている。 («大経諸»・«観経疏» の意)

応身であり、 応土である。

^道綽法師がいわれている。

報仏であり報土である。 昔から伝えて、 みな 「化土であり化身である」 というが、 これは大きな誤りである。 «大乗同性経» によると 「浄土で成仏される仏は、 すべて報身であり、 穢土で成仏される仏は、 すべて化身である」 といわれてある。 またかの経には 「阿弥陀如来・れんかいしょうおう如来・りゅうしゅ如来・宝徳ほうとく如来など、 もろもろの仏たちの清浄なる仏国において、 現にさとりを得られている方や、 またまさにさとりを得べき方、 このようなすべての仏はみな報身の仏である。 どういうのが化身であるかというと、 あたかも今日のゆうごん如来や恐怖くふ如来などのような仏たちである」 と説かれてある。 以上。 «安楽集» に依る。

 ^問う。 かの阿弥陀仏は、 成道したもうてから、 もう久しい時間がたったのかどうか。

 ^答える。 諸経には、 多く十劫といい、 «大阿弥陀経» には十小劫といい、 «平等覚経» には十八劫といい、 «称讃浄土教» には十大劫という。 どれが正しいのか、 よく分らない。 けれども «無量寿経» の憬興師の疏 (無量寿経連義述文賛) には、 «平等覚経» の十八劫という説を解釈していう。

十八劫の 「八」 というのは、 考えてみると 「小」 の字の書き誤りで、 その中の点を欠いたものであろう。

 ^問う。 阿弥陀如来の未来の寿命はどれほどであるか。

 ^答える。 «阿弥陀経» に説かれている。

無量無辺、 阿僧祇劫である。

^«観音授記経» に説かれている。

阿弥陀仏の寿命は、 無量百千億劫であるが、 その終極があるはずである。 仏が入滅したもうて後、 正法が世に住まることは仏の寿命と等しいであろう。 善男子よ、 この阿弥陀仏の正法が滅んで後、 夜中を過ぎて夜が明ける時、 観世音菩薩は菩提樹の下でさとりをひらいて、 こうどく山王せんおう如来と号するであろう。 その仏の国土には、 声聞や縁覚の名もない。 その仏の国土を、 衆宝しゅほうじゅうしょうごんと号するであろう。 この普光功徳如来が入滅せられ、 正法が滅んだ後、 大勢至菩薩はただちに、 その国で成仏し、 ぜんじゅうどく宝王ほうおう如来と号するであろう。 その国土・光明・寿命、 さては正法の住まることは、 等しくて異なることはないであろう。

 ^問う。 «大乗同性経» には 「報身」 といい、 «観音授記経» には 「入滅する」 という。 この二経の相違を諸師は、 どのように矛盾なく解釈しているか。

 ^答える。 道綽禅師は «観音授記経» を解釈していわれている。

これは、 如来の報身が、 隠没おかくれすがたをあらわされるのであって、 実の入滅ではない。

^迦才は «大乗同性経» を解釈していわれている。

浄土での成仏を報身と判定するのは、 受用身であって、 実の報身ではない。

 ^問う。 どちらを正しいとするのか。

 ^答える。 迦才がいわれる。

人々の修行には、 すでに千差があるから、 往生して仏土を見るにも、 また万別あるわけである。 もし、 このような解釈をするならば、 もろもろの経や論の中に、 あるいは報と判定したり、 あるいは化と判定したりしても、 皆妨げはない。 ただし、 諸仏の修行は、 具さに報と化の二土を感得するということを知るべきである。 ^«摂大乗論» の釈に 「前方便の行 (加行) は化を感じ、 証を得るための正しき行 (正体) は報を感ずる」 というとおりである。 報であっても、 化であっても、 皆、 人々を救い遂げたいと思われるのである。 つまり仏土はいたずらに設けず、 行は空しく修するのではないのである。 ただ、 仏の語を信じ、 経にしたがって専ら念ずれば、 往生することができるのである。 したがって、 報と化とを詮索することは、 いらぬことである。

^この迦才の釈は善い。 専ら称念すべきであって、 苦労してかれこれと分別しないようにせよ。

 ^問う。 かの阿弥陀仏の相好は、 どうして同一でないのか。

 ^答える。 «観仏三昧経» に、 諸仏の相好を説いていわれている。

人間の相に同ずるために、 三十二相と説き、 もろもろの天人の相好に勝れていることを示すために八十好と説く。 もろもろの菩薩のためには八万四千のもろもろの妙なる相好と説くのである。

かの阿弥陀仏の相好の不同についても、 これに準じて知るべきである。

 ^問う。 «無量寿経» には、

かの仏の菩提樹は、 高さ四百万里である。

といい、 «宝積経» には、

菩提樹は高さ十六億由旬である。

といい、 «十往生経» には、

菩提樹の高さ四十万由旬で、 樹の下に獅子座があり、 その高さは五百由旬である。

といい、 «観経» には、

仏身の高さは、 六住万億那由他恒河沙由旬である。

などと説かれている。 菩提樹と仏座と仏身と、 どうしてつりあわないのか。

 ^答える。 いろいろな解釈があって不同である。 あるいは 「仏の境界は、 大小ともに互いにさまたげない」 と釈し、 あるいは 「応身仏の場合として樹の高さを説き、 真仏の場合として仏身の高さを説く」 と釈する。 そのほか多くの解釈があるが、 詳しく述べることはできない。

 ^問う。 «華厳経» に 「娑婆世界の一劫を、 極楽国の一日一夜とする」 などと説かれている。 これによって上品中生の人が、 一夜を経て蓮華が開くというのは、 この娑婆の半劫に相当するのであり、 さては、 下品下生の人が十二劫に至るというのは、 この娑婆の恒河沙の微塵劫に相当することになることが知られる。 これではどうして極楽と名づけられようか。

 ^答える。 たとい恒河沙劫を経るまで、 蓮華が開けなかったとしても、 もはやわずかな苦もないのであるから、 どうして極楽でないことがあろうか。 ^«無量寿経» に説かれているとおりである。

その胎生の人たちのいる宮殿は、 あるいは百由旬、 あるいは五百由旬というような大きさであって、 各自がその中でいろいろの楽しみを受けていることは忉利天のようである。

^ある師がいう。

胎生とは、 中品と下品とである。

^ある師がいう。

胎生は、 九品には摂めないのである。

 ^このように異説があるけれども、 そのうける快楽には変わりがない。 ましてかの九品の経る日時を判定することについては、 諸師の説は不同であるから、 なおさらのことである。 懐感や智憬などの諸師が、 かの国土の日夜・劫数であると認める立場からいえば、 まことに疑問の起こるのは当然である。 しかし、 ある師が言う。

仏は、 この娑婆世界の日夜で、 これを説いて、 人々に知らしめたもうのである。

 ^いま、 私が考えるには、 この最後の解釈にはとががないのである。 しばらく四条を挙げて、 これを助釈してみよう。

 ^一つには、 かの阿弥陀仏の実の高さが若干由旬であるというのは、 かの仏の指の長さをかさねて、 かの由旬としたのではない。 もし、 そうでないならば、 須弥山のようにたけの高い人が、 一毛の端を、 その指の節とするに似たようなものであろう。 それゆえ、 仏の指の長さで仏身の高さを説いたのではないということがわかる。 したがって、 必ずしも、 浄土の時間で蓮華の開く遅い速いを説いたとはいわれない。

 ^二つには、 «尊勝陀羅尼経» に説いてあるとおりである。

忉利天上の善住天子は、 空中の声に 「そなたは、 七日を過ぎると死ぬであろう」 と告げるのを聞いた。 その時、 帝釈天が、 仏のお指図をうけて、 かの天子に、 七日の間、 修行させたところ、 七日を過ぎて後に、 その寿命が延びることができたのである。 意味を取った。

 ^これは、 人間世界の日夜で説いたのである。 もし、 天上界の七日に依るならば、 人間世界では七百年に当るから、 釈迦仏が世におられた八十年の間では、 そのことが決定しないであろう。 九品の日夜も、 またこれと同様であろう。

 ^三つには、 法護が訳した経 (今の康僧鎧訳の «無量寿経») に説かれている。

胎生の人は、 五百年を過ぎて、 仏を見たてまつることができる。

«平等覚経» に説かれている。

蓮華の中に化生して、 城の中にいる。 この娑婆での五百年の間は出ることができない。 意味を取った。

 憬興などの諸師は、 この文によって、 この娑婆世界の五百年であることを証している。 いま、 考えてみると、 かの胎生の年数を、 すでに、 この娑婆の年数によって説いてあるとするならば、 九品の時間は、 どういう特別の理由から、 かの胎生の場合と異なるとするのであろうか。

 ^四つには、 もし、 かの極楽世界の時間によって、 九品を説いたのであるとするならば、 上品中生の一夜、 上品下生の一日一夜は、 この娑婆世界の半劫と一劫に相当することになる。 もし、 そういう事を認めるならば、 胎生の疑心の者でさえも、 なお娑婆世界での五百年を経て、 速やかに仏を見たてまつることができるのに、 上品の信行の者が、 どうして、 半劫や一劫を過ぎて、 遅く蓮華が開けるのであろうか。 こういう道理があるから、 後の解釈はとががないのである。

 ^問う。 もし、 この娑婆世界の日夜の時間で、 かの九品の相を説いたのであるとするならば、 かの上上品の人は極楽国に生まれて、 ただちに無生法忍を悟るはずはない。 その理由は、 この娑婆世界でのわずかの間の修行を勝れたものとし、 かの極楽国での長い間の善根を劣ったものとするからである。 すでに、 そうであるとすると、 上上品の人は、 この世界にあって、 一日から七日に至るまで、 三福の業を具えても、 なお無生法忍を証ることができないのに、 どうして、 かの極楽国に生まれ、 法を聞いて、 ただちに悟ることができようか。 そこで、 かの国土の長い時間を経て無生法忍を悟るのであるということがわかるのである。 そうすると、 かの極楽国での立場からただちに悟ると名づけても、 この娑婆世界に対照してみると、 億千歳となるのである。 あるいは、 上上品の人は、 必ず方便位の最後心の行 (無生法忍の直前の位) の円満した者であるといってよかろう。 もしそうでなければ、 多くの文が矛盾するであろう。

 ^答える。 かの極楽国の多善は劣り、 この娑婆世界の少善が勝れているということは、 まだよくわからない。

 ^問う。 «無量寿経» に説いている。

この世において、 ひろく徳のもとを積んで、 恵みを施し、 戒めを犯さず、 よく耐え忍び、 努め励み、 心を静め、 智慧をみがき、 またそれを人にも教えて善根功徳を修めるがよい。 心を正しくして浄らかに斎戒を守ることが、 わずか一昼夜であっても、 それは無量寿仏の国で、 百年間善を修めるよりも、 一層まさるといえよう。 なぜなら、 かの国は無為自然の境界であって、 努めなくても、 おのずから多くの善根を積むことができ、 少しも悪のない所だからである。 また、 この世界で、 中夜十日間善を修めたなら、 他方の諸仏の国で、 千年間善を修めたよりも、 さらにまさるといえよう。

この文が、 その勝劣を示すのである。

 ^答える。 極楽と娑婆との二つの世界における善根は、 厳密に対照すれば、 そうでもあろう。 けれども、 仏に値いたてまつる縁が勝れているから、 速やかに悟るとしても、 決してとがはない。 あるいは、 この «無量寿経» は、 ただ修行の難易を顕わしただけであって、 善根の勝劣を顕わしたものではない。 譬えば、 貧賎の者が、 一銭を施すのは、 めるべきであるけれども、 それで多くの事をまかなうことはできない。 富貴の者が、 千金を捨てるのは、 称めるほどではないけれども、 よくよろずの事をまかなうことができるようなものである。 極楽世界と娑婆世界とにおける修行の場合も、 またこのようである。 ^«金剛般若経» に説かれているとおりである。

仏の在世にあって信解するのは、 まだ勝れたものとするには足らぬ。 仏のなくなられた後の信解を勝れたものとするのである。

^あるいは、 その他の解釈もあるけれども、 これを詳しく述べることができない。

 ^問う。 娑婆世界における修行のたねにしたがって、 極楽世界における階位に差別があるように、 その得るところの福徳の報いにも、 また差別があるのか。

 ^答える。 だいたいは差別がないけれども、 細かい点では差別がある。 ^«陀羅尼集経» の第二巻に説かれているとおりである。

もし、 人があって、 香華・衣食などを供養しなければ、 かの浄土に生まれても、 香華・衣食などのいろいろの供養の報いを得ない。 この文は、 かの仏の因位の願に相違する。 さらに、 よく思い考えるべきである。

^また、 玄一師と因法師とは、 同じくいわれている。

その実について論ずるならば、 また勝劣もある。 けれども、 そのかたちが相似ているから、 好醜はないと説くのである。

 ^問う。 極楽世界は、 この娑婆世界を去ること、 どれほどの所であるか。

 ^答える。 «阿弥陀経» に説かれている。

これより西の方、 十万億の諸仏の国々を過ぎたところに、 極楽世界がある。

^ある経 (称讃浄土教) に説かれている。

これより西の方に、 この娑婆世界を去ること、 百千倶胝那由他の仏土を過ぎて、 仏の世界がある。 名づけて極楽という。

 ^問う。 この二経は、 どういうわけで異なるのか。

 ^答える。 «往生論» についての智光の «疏» の意にいわれている。

倶胝とは、 漢訳して億とする。 那由他とは、 この国ではがいの数に当たるのである。 世俗には、 十千を万といい、 十万を億といい、 十億を兆といい、 十兆をけいといい、 十経を欬という。 欬というのもやはり大数である。 百千倶胝とは、 すなわち、 十万億である。 億には四種類の位取りがあって、 一つには十万、 二つには百万、 三つには千万、 四つには万万である。 いま億というのは万万にほかならない。 この意味を顕わそうとして、 那由他と挙げたのである。

この解釈によって思うべきである。

 ^問う。 かの阿弥陀仏が教化したもう場所は、 ただ極楽だけとするのか。 また、 その他にもあるとするのか。

 ^答える。 «大智度論» にいわれている。

阿弥陀仏にも、 また、 浄土と浄土でない国土とがあることは、 ちょうど釈迦牟尼仏の国土と同じである。

 ^問う。 いったい、 どれがそうなのか。

 ^答える。 極楽世界が、 いうまでもなく浄土である。 けれども、 阿弥陀仏の穢土が、 どこであるかは分らない。 ただし、 道綽禅師などの諸師は、 «鼓音声経» に説いてある国土を阿弥陀仏の穢土としている。 かの経に説かれているとおりである。

阿弥陀仏は声聞たちと一緒におられる。 その国をしょうたい国という。 聖王の住まれている所である。 その城の広さは十千由旬で、 その中に王族の人たちが満ちている。 阿弥陀如来の父をがつじょう転輪てんりんじょうおうと申しあげる。 その母をしゅしょうみょうげんと申しあげる。 子をがつみょうと名づけ、 お仕えする弟子を無垢むくしょうという。 智慧ある弟子を攬光らんこうといい、 神足通をもって勤める弟子をだいという。 その時の魔王をしょうといい、 提婆達多があって、 寂静じゃくじょうと名づける。 阿弥陀仏は、 六万人の大比丘とともにましますのである。

 ^問う。 かの阿弥陀仏が教化したもう所は、 ただ極楽と清泰との二国だけであるのか。

 ^答える。 経典の文は、 それぞれの機縁にしたがって、 しばらく一端を挙げられているのにすぎない。 その実際の場合を論ずると不可思議である。 ^«華厳経» の偈に説かれているとおりである。

菩薩がもろもろの願界を修行せられるのは あまねく衆生の心の願いにしたがう

衆生の心は広くてかぎりがないので 菩薩の国土も十方にあまねくゆきわたる

^また説かれている。

如来は十方にあまねく出現され 一々の塵の中に無量の国がある

その中の世界もまた量りなく ことごとく無辺無尽の永劫に住みたもう

 ^問う。 如来が教化を施したもうことは、 ひとりで起こるものではなく、 かならず機縁に対するのである。 どうしてあまねく十方にゆきわたるのか。

 ^答える。 永劫に修行して、 無量の衆生を教化することを成就したもうから、 その機縁も、 また十方世界にゆきわたるのである。 ^«華厳経» の偈に説かれているとおりである。

その昔勤修することが多劫であって よく衆生の重い障りを転ぜられた

それ故 よく身を分けて十方にあまねく ことごとく菩提樹の下に現われたもう

【72】^第二に、 往生の階位とは、

 ^問う。 «瑜伽論» にいわれている。

三地の菩薩が、 まさに浄土に生まれる。

それなのに、 今、 初地以前の凡夫や声聞に浄土往生を勧めるのは、 どういう意味があるのか。

 ^答える。 浄土には差別がある。 それ故にとがはない。 ^懐感禅師が解釈していうとおりである。

もろもろの経論の文に、 浄土に生まれることを説くのは、 それぞれ一義に拠るものである。 浄土に、 すでに粗妙勝劣の差別があるから、 往生を得ることにも、 また上下高低がある。

^また道宣律師がいう。

三地の菩薩になって、 はじめて、 報身仏の浄土を見ることができる。

^問う。 たとい、 報土でないにしても、 煩悩悪業の重い者は、 どうして浄土に往生することができようか。

 ^答える。 天台大師がいわれている。

無量寿仏の国は、 果報がことにすぐれているけれども、 臨終の時に懴悔して念仏すると、 悪業の障はすぐに転じて、 往生することができる。 煩悩を具えているけれども、 願力によって心をたもてば、 また浄土に住むことができるのである。

 ^問う。 もし、 凡夫もまた往生することができると認めるならば、 «弥勒所聞経» の文は、 どういうように、 さし障りなく解釈することができようか。 経の文に説かれている。

仏を念ずるのは、 凡愚の念ではない。 煩悩の念をまじえず念仏して、 はじめて阿弥陀仏の国に往生することができるのである。

 ^答える。 «西方要決» に、 これを解釈していわれている。

娑婆世界は苦であると知って、 永く煩悩に汚れた世界を離れようとするのは、 決して浅薄な凡夫の心ではない。 当来には仏となって、 その意は専ら広く、 あらゆる世界の衆生を済度しようとするのである。 このような勝れた領解があるから愚かではない。 まさしく仏を念ずる時には、 煩悩がおさえふせられるので、 煩悩の念をまじえないというのである。 抜き書きした。

この意味をいうと、 凡夫の行者でも、 このような徳を具えているというのである。

 ^問う。 かの国の人々は、 みな不退転である。 そうすると、 これは凡夫の生まれるようなところではないということが明らかに分るではないか。

 ^答える。 いまいう不退転というのは、 必ずしも聖者の徳に限られたものではない。 ^«西方要決» にいわれているとおりである。

いま不退を明かすと四種に分かれる。 «十住毘婆娑論» にいう。 ^一つには位不退。 すなわち因を修行することがすでに一万劫に亘り、 もはや悪律儀の行に退き堕ちて、 生死まよいに流転することはない。 ^二つには行不退。 すでに初地を得ると、 利他の行が退かぬ。 ^三つには念不退。 八地から上は、 はからわずにこころに自在を得るからである。 ^四つには処不退。 これを証明する文はないけれども、 道理の上からこの義が成り立つ。 なぜかというと、 天上界に生を受けたものは、 すなわち不退を得るようなものである。 浄土もまた、 このとおりである。 命は長くて病は無く、 勝れた友と仲間になり、 純正でよこしま無く、 ただ清浄でけがれが無く、 恒に尊い仏につかえる。 この五つのいわれい由って、 その処にあっては退くことはないのである。 以上、 抜き書きした。

 ^問う。 九品の階位には、 いろいろな解釈があって不同である。 ^慧遠法師のいうのでは、

上品上生は四・五・六地であり、 上品中生は、 初・二・三地であり、 上品下生は初地以前の三十心である。

といい、 力法師は、

上品上生は十行・十回向であり、 上品中生は十解 (十住) であり、 上品下生は十信である。

といい、 基法師は、

上品上生は十回向であり、 上品中生は十解・十行であり、 上品下生は十信である。

といい、 ある師は、

上品上生は十住の初心であり、 上品中生は十信の後心であり、 上品下生は十信の初位である。

といい、 ある師は、

上品上生は十信、 およびそれ以前のよく三心を発して三行を修行する者である。 上品中生と上品下生とは、 ただ十信以前で、 菩提心を発して、 善を修める凡夫を指す。 行の浅深で中生・下生の二品を分けるのである。

 ^このように、 諸師の判定が不同である理由は、 無生法忍の位の取り方に不同があるからである。 すなわち «仁王経» には、 無生法忍は七・八・九地に在るといい、 もろもろの論には初地に在るといい、 あるいは忍位であるとする。 «本業瓔珞経» では十住に在るとし、 «華厳経» では十信に在るとし、 «占察経» には一行三昧を修めて、 相似の無生法忍を得た者であると説いてある。 こういうわけで、 諸師は、 それぞれ、 一義によるのである。

 ^中品の三生については、 慧遠は、

中品上生は前三果であり、 中品中生は七方便であり、 中品下生は解脱分の善根を植えた人である。

といい、 力法師は、 この説と同じである。 基法師は、

中品上生は四善根位であり、 中品中生は三賢位であり、 中品下生は方便 (三賢・四善根位) 以前の人である。

といい、 ある師は、

次第のように、 忍位と頂位と煖位とである。

といい、 ある師は、

三生はいずれも、 解脱分の善根を植えた人である。

といわれている。 以上の六品については、 また、 その他の解釈もある。 懐感禅師の «群疑論» や、 龍興の «記» などを見るがよい。

 ^下品の三生には、 特別の階位はない。 ただ煩悩にしばられた造悪の人である。

 ^これで、 往生する人には、 その位に限りがあるということが明白になった。 それでも、 どうしてこれがわれわれの分であるということが知られようか。

 ^答える。 上品の人は、 その階位がたとい高くても、 下品の三生は、 どうして、 われわれの分でないことがあろうか。 ましてかの後の解釈では、 すでに、 十信以前の凡夫を指して、 上品の三生としているのだから、 なおさらのことである。 ^また、 善導禅師の «観経玄義分» には、 大乗と小乗との七方便以前の凡夫を九品の位に判定して、 諸師が判定しているような高い位を認めないのである。 また、 経や論は、 多くは、 文に依って義を判断するのである。 今の経に説く上三品の行業を、 どうして深く固執して、 高位の行とすることがあろうか。

 ^問う。 もし、 そうであるならば、 かの極楽浄土に生まれても、 早く無生法忍を悟ることはできないであろう。

 ^答える。 天台の教義では、 無生法忍の位に二つがある。 もし、 別教の人であるならば、 永劫に修行して、 無生法忍を悟るのである。 もし、 円経の人であるならば、 たとい悪趣の身であっても、 次第を超えて、 ただちにさとりを得る者もある。 穢土にあっても、 このようである。 まして、 浄土であるから、 なおさらのことである。 かの浄土でのもろもろの事は、 その他の世界と同じように考えてはいけないのである。 いったいどこに、 すべての凡夫が、 まだその位に至らないのに、 ついに退堕することがないという世界があろうか。 またどこに、 すべての凡夫がことごとく五神通を得て、 妙なるはたらきが無礙自在であるという世界があろうか。 証果の遅い速いもまた、 これに例して考えてよいのである。

 ^問う。 上品生の人の得益の早さは、 一定してそうなのであるか。

 ^答える。 経文の中では、 しばらく一類を挙げたにすぎない。 ^それ故に慧遠和尚の «観経義記» にいわれている。

九品の人が、 かの浄土に生まれてから、 利益を得るまでの劫数は、 その勝れたものに依って説いてある。 道理として、 また、 これに過ぎる者もあるべきである。 意味を取った。

 ^いま考えてみるに汎く九品を論ずると、 あるいは、 また少しはこれよりも速やかなものもあってもよいのである。

 ^問う。 «無量寿経» の中にも、 また弥勒菩薩などのもろもろの大菩薩などがあって、 極楽に往生するであろうと説かれている。 それ故に «観経» の中の九品の得益は、 劣っているものに依って説かれたものであろうという事が分る。 それにどうして 「勝れたものに依って」 というのであろうか。

 ^答える。 かの極楽浄土に生まれて、 始めて無生法忍を悟ることの前後・遅速について、 これを 「勝れたものに依って」 といったのである。 かの上位の菩薩を論じたわけでは決してない。 しかも、 かの大菩薩を九品の中に摂めるか、 摂めないかについては、 改めて考えるべきである。

 ^問う。 もし、 凡下の輩も、 また往生することができるならば、 どうして、 近頃かの浄土の往生を求めるものは千万人であるのに、 往生を得るものが一、 二人もないのであるか。

 ^答える。 道綽和尚がいわれている。

信心が深くない。 あるときは存し、 あるときはないからである。 信心が一つでない。 信が決定しないからである。 信心が相続しない。 他の念がまじるからである。 この三つが相応しなければ往生することはできない。 もしこの三心を具えて、 往生しないというならば、 そういう道理のあるはずがない。

^善導和尚がいわれている。

もし、 よく上に述べたように、 命終るまで念仏を相続するものは、 十人は十人ながら往生し、 百人は百人ながら往生する。 もし念仏を専修することを捨てて、 自力の雑業を修める者は、 百人の中で希に一、 二人が往生を得、 千人の中で、 希に三、 五人が往生を得るにとどまる。 「上に述べたように」 というのは、 礼拝・讃嘆などの五念門と、 至誠心などの三心と、 長時修などの四修とを指すのである。

 ^問う。 もし必ず命終るまでというならば、 どうして懐感和尚が 「長時も短時も、 多修も少修も、 みな往生することができる」 というのであるか。

 ^答える。 機類は同一でないから、 善導と懐感との二師の説は、 ともに過がない。 けれども、 命終るまで、 勤め行じて怠ることがないならば、 往生の業が決定するので、 これを基本とするのである。

 ^問う。 «菩薩処胎経» の第二巻に説かれている。

この世界 (閻浮提) から西方へ行くこと十二億那由他のところに、 懈慢界がある。 その国土は快楽に満ちて、 歌舞音曲がなされ、 美しい衣服・服飾や、 香華でかざられている。 七宝でできた回転する床があって、 目を挙げて東方を見ようとすると、 宝の床もそれにつれて回転する。 北を見たり、 西を見たり、 南を見たりする時も、 また同様に前後に回転するのである。 そこで発心した衆生で、 阿弥陀仏の浄土に生まれようと願う者は、 みな懈慢界に深く執着し、 すすんで阿弥陀仏の浄土に生まれることができない。 億千万の人々の中で、 希に一人ぐらいが、 よく阿弥陀仏の浄土に生まれることができる。

^この経によって考えると、 極楽浄土に生まれることは難しいのではないだろうか。

 ^答える。 «群疑論» には、 前に引いた善導大師の文を引いて、 この問題を解釈し、 また懐感自身が善導の文を助釈して述べられてある。

この «菩薩処胎経» の次の文に 「なぜかというに、 みな懈怠憍慢によって、 信心が堅固でないからである」 と説かれている。 そこで、 雑修の者は信心が堅固でないから、 懈慢国に生まれるのであるということが知られる。 もし雑行を修めないで、 専ら念仏を行じたならば、 これは信心が堅固であって、 まちがいなく極楽浄土に生まれるであろう。 (中略) また報の浄土に生まれる者はきわめて少なく、 化の浄土に生まれる者は少なくない。 それであるから «菩薩処胎経» と «観経» とは矛盾しないのである。

 ^問う。 たとい三心を具えなくても、 また命終るまで相続しなくても、 一たびも名を聞いただけで、 なお成仏することができるというではないか。 まして、 しばらくでも称念することは、 どうして無駄になるであろうか。

 ^答える。 一応は無駄なようにみえても、 結局はそらごとではないのである。 ^«華厳経» の偈に、 経を聞いた者が、 生を変えた時の利益を説いていうとおりである。

もし経を聞くに堪えたものがあれば 大海に在っても

劫末の大火の中に在っても 必ずこの経を聞くことができる 「大海」 というのは、 竜のいる海である。

^«華厳経» の釈にいわれている。

その他の業に由るからかの難処に生まれ、 前の信 (前生の聞経) に由るから、 この «華厳経» を聞きうる根機と成るのである。

^«華厳経» を信ずる者であっても、 すでにこのような利益がある。 念仏を信ずる者に、 どうして、 この利益のないことがあろうか。 かの一生涯に悪業を作ったものでも、 臨終に善知識に遇い、 わずかに十たび念仏して、 ただちに往生することができる。 このような人たちは、 多くは前世に浄土を欣い求めて、 かの阿弥陀仏を念じていた者で、 その宿善が内に熟して、 いま開発したのに外ならぬ。

^それ故に «十疑論» にいわれている。

臨終に、 善知識に遇うて、 十念が成就する者は、 みな宿善が強いので、 始めて善知識に遇うことができて、 十念が成就するのである。

^懐感師のこころも、 またこれと同じである。

 ^問う。 下品下生の往生が、 もし宿善に依るならば、 十念往生の本願は、 名だけあってその実は無いのであろうか。

 ^答える。 たとい宿善があっても、 もし十念することがないならば、 かならず無間地獄に堕ちて、 苦を受けることは窮まりがないであろう。 臨終の十念が往生の勝れた因縁であることは明らかである。

【73】^第三に、 往生の多少とは、

^«無量寿経» に説かれている。

世尊が弥勒菩薩に仰せられる。

「この世界に、 六十七億の不退の菩薩がいて、 かの国に生まれるであろう。 それらの菩薩は、 みな今までに、 無数の諸仏を供養したものであって、 その位は、 弥勒よ、 おんみとあい等しい。 そのほか、 行の劣った菩薩たちや、 わずかな功徳を修めた人々は、 数えきれぬほどいるが、 いずれもみなかの国に往生するであろう。 他方の仏土からも、 また同様に、 多くの人々がかの浄土に往生するのである。 遠照仏の国の百八十億の菩薩、 宝蔵仏の国の九十億の菩薩、 無量音仏の国の二百二十億の菩薩、 甘露味仏の国の二百五十億の菩薩、 竜勝仏の国の十四億の菩薩、 勝力仏の国の一万四千の菩薩、 師子仏の国の五百億の菩薩、 離垢光仏の国の八十億の菩薩、 徳首仏の国の六十億の菩薩、 妙徳山仏の国の六十億の菩薩、 人王仏の国の十億の菩薩、 無上華仏の国の数かぎりない不退の菩薩たちはすぐれた智慧をそなえており、 いずれも、 今までに無数の諸仏を供養し、 普通の菩薩が百千億劫の長い間かかって修める尊い行を、 わずか七日のうちに得られるのである。 無畏仏の国の七百九十億のすぐれた菩薩たちをはじめ、 行の劣ったもろもろの菩薩や比丘が、 数えきれぬほどいるが、 いずれもみな往生するであろう。 ただに、 この十四の仏国のもろもろの菩薩たちが往生するだけではない。 十方の数かぎりない仏国からかの国に生まれるものもまた同様であって、 その数は実に無数である。 わたしが、 単に十方諸仏の名と、 それらの国々からかの浄土に往生する菩薩や比丘の数を挙げるだけに、 一劫という長い年月、 中夜をわかたず説きつづけても、 なお説き尽くすことができないのである。」 以上。 抜き書きした。

 ^このもろもろの仏土の中に、 いま娑婆世界でわずかな善を修めて往生することになっているものがある。 われわれは、 いま幸いにも釈尊の遺されたみ法に遇いたてまつり、 億劫の時に、 一たびわずかな善で往生するというなかまに入れていただいたのであるから、 つとめて行ずべきである。 時を失ってはならぬ。

 ^問う。 もしわずかな善根でも、 また往生することができるならば、 どうして «阿弥陀経» に、

わずかな善根功徳の因縁では、 とてもかの国に生まれることはできない。

と説かれているのか。

 ^答える。 これには、 いろいろ異なった解釈があるけれども、 多く出すことはできない。 いま私見を述べると、 大小は一定したものではなく、 相対して名づけられるものである。 大菩薩と対すれば、 わずかな善と名づけられようけれども、 輪廻の業に対すれば大善根とするのである。 こういうわけであるから、 二経 («大教» と «小経») の意味はたがうことがないのである。

【74】^第四に尋常の念相を明かすと、 これには多くの種類があるが、 大きくわけて四つとする。 一つには定業、 すなわち、 坐禅し入定して仏を観ずるのである。 二つには散業、 すなわち、 行住座臥に散乱の心で念仏するのである。 三つには有相業、 すなわち、 あるいは仏の相好を観じ、 あるいは仏の名号を念じて、 偏えに穢土を厭い、 専ら浄土を求めるのである。 四つには無相業、 すなわち、 仏を称念し、 浄土を欣い求めても、 身も国土もその究極は空であって、 幻のようであり、 夢のようである、 本体に即して空であり、 空であってしかも有であり、 有でもなく空でもないと観じ、 この無二に通達して、 真に第一義にさとり入るのである。 これを無相業と名づける。 これが最上の三昧である。 ^それ故、 «無量寿経» に、 阿弥陀仏が仰せられる。

あらゆるものの本性は すべて空・無我と見とおしつつ

ひたすら浄土を求めて かならずかような国を成就しよう

 ^また «止観» の常行三昧の中に、 三段の文がある。 詳しくは、 すでに別時念仏門の尋常別行の中に引いたとおりである。

 ^問う。 定・散の念仏は、 ともに往生するのか。

 ^答える。 ねんごろな心で念ずるならば、 往生しないということはない。 ^それゆえ懐感師は念仏の差別を説いていわれる。

あるいは深く、 あるいは浅く、 定にも通じ、 散にも通ずる。 定は凡夫から始めて十地に終る。 善財童子が功徳雲比丘の所において、 念仏三昧を受けて学んだようなものである。 これが甚深の法である。 散はすなわち、 すべての人々が歩いていても坐っていても、 すべての時と所とにおいて、 みな念仏することができ、 いろいろの仕事を妨げないばかりでなく、 命終の時にも、 またその行を成就するのである。

 ^問う。 有相と無相との業は、 倶に往生することができるのか。

 ^答える。 道綽和尚がいわれている。

もし学び始めの者は、 まだ相を離れることができないから、 ただよく相によって専ら行ずるならば、 往生することは疑いをまたない。

^また懐感和尚がいわれている。

往生にも、 すでに品位の種類に差別があるから、 修めるところの因にもまた浅深があって格別である。 ただ無所得 (無相) を修するものだけが往生することができて、 有所得 (有相) の心では往生することができぬとはいえないのである。

 ^問う。 もしそうであるならば、 どうして «仏蔵経» に、

もし比丘があって、 他の比丘に 「そなたは仏を念じ、 法を念じ、 僧を念じ、 戒を念じ、 施を念じ、 天を念じなさい。 このように思惟して、 涅槃の安楽寂滅であるのを観じ、 ただ涅槃が究極して清浄であるのを愛しなさい」 と教えるものがあるとする。 このように教える者を ªよこしまな教º といい、 ª悪知識º と名づける。 このような人を ª仏を謗り、 外道を助ける者º と名づける。 このような悪人には、 わたくしは一杯の飲水でも受けることを許さないであろう。

と説き、 また、

むしろ、 五逆罪のような重い悪事をそなえても、 我見・衆生見・寿見・命見・陰入界見などをそなえてはいけない。 以上。 抜き書きした。

といわれてあるのか。

 ^答える。 懐感師が解釈していわれる。

ある聖教にはまた 「むしろ、 我見を起こすことが須弥山のようであっても、 空見を芥子粒ほども起こしてはならぬ」 といわれてある。 このようなもろもろの大乗の経典に、 有を叱り、 空を叱り、 大乗を讃め、 小乗を讃めたりしてあるのは、 みないずれも機類に応じて異なるのである。 ^また、 ある経に説かれている。 「いま阿弥陀如来は、 つぶさにこのような三十二相八十随形好があって、 その身色光明は融けた黄金のかたまりのようである。 このようにして、 ついにかの如来を念ぜず、 またかの如来に執らわれてはならない。 すでに、 このようにして、 次第に空三昧を得るであろう。」

^また «観仏三昧経» に説かれている。 「如来には、 また法身・十力・四無畏・三昧・解脱、 もろもろの神通のことがある。 このような妙なるところは、 そなたのような凡夫の覚り得る境界ではない。 ただ、 深く心に随喜のおもいを起こすべきである。 この想を起こしおわって、 また念を繋けて仏の功徳を念ずべきである。」

^それ故に、 学び始めの人々は、 仏の色身を観じ、 学ぶことの進んだ人は、 法身を念ずるのであるということが知られる。 そこで 「このようにして、 次第に空三昧を得るであろう」 というのである。 ぜひとも、 よく経文の意味を解釈して、 むやみに謗ったりする心を起こしてはならぬ。 こうして、 仏は巧みに根機ひとびとに応じたもうということが、 いみじくも分かるのである。 以上。 «観仏三昧経» の第九巻に、 仏の一毛を観ずることから色身を具足せられているのを観ずることまでを説き終って、 いま引くところの十力・四無畏・三昧などの文があるのである。

 ^問う。 念仏の行は九品の中において、 いずれの品に摂められるか。

 ^答える。 もしいろいろな経論に説かれてあるとおりに行じたなら、 道理として上品上生に当たる。 このように勝劣にしたがって九品を分けるべきである。 ところが、 «観経» に説かれた九品の行業は、 一端を示されただけで、 その実は無量である。

 ^問う。 もし、 定・散の行はいずれでも往生することができるというならば、 また現身で定・散いずれの行でも仏を見たてまつることができるとするのか。

 ^答える。 経や論などには、 多く三昧 (定) が成就して、 そこで仏を見たてまつることができると説いてあるから、 散業では見たてまつることができないということは、 明らかに知られる。 ただ特別の因縁のあるものは、 この限りではない。

 ^問う。 有相の観と無相の観とは、 いずれも仏を見たてまつることができるのか。

 ^答える。 無相の観で、 仏を見たてまつることは、 その道理を疑うことはできぬ。 有相の観でも、 あるいはまた仏を見たてまつる。 故に «観経» などには仏の色相を観ずることを勧めてある。

 ^問う。 もし、 有相の観も、 また仏を見たてまつるというならば、 どうして、 «華厳経» の偈に、

凡夫があらゆるものを見るのは ただ相にしたがってうつるので

法の無相をさとらないから それゆえ仏を見られないのである

見るということがあれば煩悩である これではほんとうに見るのではない

すべての見るということを離れて そうしてはじめて仏を見たてまつる

といい、 また、

すべてのものには 自性があることなしと知り

このようにものの本性をさとれば すなわち廬舎那仏を見たてまつる

といい、 «金剛般若経» には、

もし色相の上から わたしを見 音声の上から わたしを求めるならば

この人は邪道を行ずるもので 如来を見たてまつることはできない

といってあるのか。

 ^答える。 «西方要決» にこれを解釈していわれている。

仏の説かれた教はその義にいろいろの別がある。 それぞれ時節と根機とに応じて説きたもうので、 実は等しくて異なるところはない。 «般若経» は、 それはそれで一理のあるものであり、 «阿弥陀経» なども、 また一理がある。 何故ならば、 一切の諸仏には、 みな三身がましますのであって、 法身仏には形体かたちもなくすがたや声もない。 ところが二乗およびおとった菩薩たちは、 三身は異ならぬと説くのを聞いて、 同じようにすがたや声があるように思い、 ただ化身の色相すがただけを見て、 ついに法身もまたそのとおりであるという執着を起こすから、 邪道であると説かれたのである。 «阿弥陀経» などに、 仏のみ名を念じ、 仏のすがたを観じて、 浄土に往生することを求めよと勧められたのは、 ただ凡夫は障が思いのに、 法身は奥深くて、 法体は対象とし難いから、 そこで仏を念じ、 形を観じて礼讃せよと教えられたのである。 抜き書きした。

 ^問う。 凡夫の行者は、 勤めて修習しても、 その心が純浄ではない。 どうして、 たやすく仏を見たてまつることができようか。

 ^答える。 いろいろの因縁が合して、 仏を見たてまつるのである。 ただ自力だけではないのである。 «般舟三昧経» に三つの因縁がある。 前の九十日の行の所 (別時念仏文の尋常別行) で引いた «摩訶止観» の文のとおりである。

 ^問う。 どれほどの因縁によって、 かの極楽浄土に往生することができるのか。

 ^答える。 経に依って考えてみると、 四つの因縁を具えている。 一つには、 自身の善根の因力であり、 二つには、 自身の浄土を願い求める因力であり、 三つには、 阿弥陀仏の本願の縁であり、 四つには、 多くの聖衆がたが助け護念したもう縁である。 釈迦仏が護念し、 助けてくださるのは «平等覚経» に出ており、 六方諸仏の後念は «阿弥陀経» に出ており、 山海慧菩薩などの護持は «十往生経» に出ている。

【75】^第五に、 臨終の念相を明かすと、

 ^問う。 下品下生の人も、 臨終に十念して、 ただちに浄土に往生することができるとある。 その十念とは、 どのような念であるのか。

 ^答える。 道綽和尚がいわれている。 (安楽集)

ただ阿弥陀仏を憶念して、 仏の全体のおすがたや、 あるいは一部分のおすがたを、 その所縁にしたがって観じ、 十念を経るのに、 他の想いがまじわらないのを十念という。 また十念相続というのは、 釈尊が説き示された一つの数の名にすぎない。 そこで、 ただよく念を積み、 思いをこらして、 そのほかの事を考えなければ、 往生の業は成就するのである。 わずらわしく、 念仏の数を知る必要はない。 またいう。 もし、 久しく相続している人なら、 数を知る必要は無いが、 もし始めて念仏する人なら、 その数をかぞえてもよい。 これもまた、 聖教に依りどころがある。

^ある師 (義寂) がいわれている。

一心に 「南無阿弥陀仏」 と称え、 この六字を経る間を一念と名づけるのである。

 ^問う。 «弥勒所問経» に説いてある十念往生は、 その一々の念は深広である。 それにどうして、 いま十声念仏して往生することができるというのであるか。

 ^答える。 諸師の解釈は同一でない。 ^義寂法師がいわれている。

これは、 専心に、 仏のみ名を称える時、 自然に、 このような十念を具足すると説くのである。 なにも、 一々格別に慈心などをおもうのではない。 また、 かの慈心などを数えて十とするのでもない。 なぜ別して念わないのに、 よく十を具足するかといえば、 戒を受けたいと願って、 三帰依を称える時、 別して殺生を離れるなどの事を念わなくても、 よくつぶさに殺生を離れるなどの戒を得るようなものである。 今の場合の道理も、 また同様であると知るべきである。

また十念を具足して、 南無阿弥陀仏と称えるがよいというのは、 よく、 慈心などの十念を具足して、 南無仏と称えることをいうのである。 もしよくこのようであるならば、 称念するにしたがって、 一称でも多生でも皆往生することができるのである。

^懐感法師がいわれている。

それぞれ仏の教であって、 いずれも浄土に往生する法門を説くのであるから、 みな、 浄土往生の業を成就するのである。 どういうわけで、 彼を是とし、 此を斥けて非といえるであろうか。 それでは、 自分が経を理解しないだけでなく、 また多くの仏道を学ぶ者を惑わすことになるのである。

^迦才師がいわれている。

この十念は平生の時に作すのである。 «観経» の中の十念は命終の時に臨んで作すのである。

この意味は懐感師と同じである。

 ^問う。 «無量寿経» に説かれている。

少なくとも一念すれば、 往生することができる。

これと十念往生とは、 どうして矛盾するのか。

 ^答える。 懐感師がいわれる。

極めて重い悪業を作った者は、 十念を満たして往生することができるが、 その他の者は、 わずか一念でもまた往生するのである。

 ^問う。 生まれてからこのかたもろもろの悪業を作って一善も修めぬ者が、 命終の時に臨んで、 わずかに十声の念仏をしただけで、 どうしてよく罪を滅して、 長く迷いの三界を離れ、 ただちに浄土に生まれることができようか。

 ^答える。 «那先比丘経» に説かれているとおりである。

時にらん王が阿羅漢のせん比丘に問うていう。 「人がこの世で、 百年に至るまで悪事をしても、 死ぬ時に臨んで念仏するならば、 死後に天上界に生まれるというが、 わたくしはこのような説を信じない。」 さらにいう。 「わずか一つの命を殺しても、 死ぬとただちに地獄の中に入るというが、 わたくしはこれもまた信じられない。」

そこで、 那先比丘は、 弥蘭王に問う。 「もし人が、 小石を持って、 水の中に置くならば、 石は浮かぶでしょうか、 沈むでしょうか。」 王がいう。 「石は沈むに決まっている。」 比丘がいう。 「もし、 百丈の大きな石をもって、 船の上に置いたならば、 石は沈むでしょうか、 どうでしょう。」 王がいう。 「沈みはしない。」 比丘がいう。 「船の中の百丈の大きな石は、 船の力にって沈むことはないのであります。 人に本からの悪があっても、 しばし、 念仏するならば、 地獄には沈まないで、 天上界に生まれるのです。 どうして信じないのですか。 また小石が沈むのは、 人が悪を作って、 教法を知らないならば、 死後には、 地獄に入るようなものであります。 どうして、 信じないのですか。」 王がいう。 「なるほど、 もっともなことです。」 比丘がいう。 「ここに二人がともに死んで、 一人は第七の梵天に生まれ、 一人は罽賓けいひん国に生まれるとしましょう。 この二人は、 生まれる場所の遠近は異なっていても、 死んだときには、 同時に到るようなものであります。 また、 一つがいの鳥がいて、 一羽は高い樹の上に止まり、 一羽は低い樹の上に止まったとしましょう。 二羽の鳥が、 同時にともに飛んだとき、 その影はともに地に到るようなものであります。 愚かな人は悪を作ると、 罪を得ることが大きく、 智慧ある人は悪を作っても、 罪を得ることが少ないようなものであります。 それは、 ちょうど地上に焼けた鉄があるとして、 一人は焼けた鉄だと知っていますが、 他の一人は、 焼けていることを知らないで、 二人がともに手に取ったとき、 知らなかった者の手は焼けただれることが大きく、 知っていた者の手は火傷がわずかなようなものであります。 悪を作るのも、 また同じようなものであります。 愚かな者は、 自ら悔いることができないから、 罪を得ることが大きく、 智慧ある者は、 悪を作っても、 よくないと知っているので、 日々に自ら悔いるから、 その罪は少ないのであります。」

^十念の念仏で、 多くの罪を滅し、 阿弥陀仏の大悲の願船に乗って、 たちまちのあいだに往生することができるのも、 その道理はまたこのようなものである。

 ^また «十疑論» に解釈していわれている。

^いま、 三種の道理によって比べはかってみると、 罪の軽重は一定せず、 時間の長い短い、 多い少ないには依らないものである。 三種とは何か。 一つには心にあり、 二つには縁にあり、 三つにはその時の心の決定にある。

^心にあるというのは、 罪を造る時は、 みずからの虚妄の間違った心より生ずるが、 念仏する心は、 善知識が阿弥陀仏の真実功徳の名号を説くのを聞いた心より生ずるのである。 一は虚仮であり、 一は真実である。 どうして比べることができようか。 譬えていえば、 万年の暗室に、 日の光がしばらくでも入れば、 闇はただちに除かれるようなものである。 ながい間の闇だからといっても、 どうしてくならないことがあろうか。

^縁にあるというのは、 罪を造るときには、 虚妄の愚かな心が、 虚妄の対象を所縁とする顛倒の心から生ずるが、 念仏する心は、 仏の清浄真実の功徳の名号を聞いて、 無上菩提を所縁とする心から生ずる。 一は真実で、 一は虚偽である。 どうして比べることができようか。 たとえば、 人があって、 毒の矢にあてられたとする。 その矢は深く、 毒は激しく、 肌を傷つけ骨に到るほどであっても、 一たび滅除薬をぬった鼓の音を聞くならば、 すぐさま毒の矢が除かれるようなものである。 矢が深く入り、 毒がはげしいからといっても、 どうして毒の矢が抜け出ないことがありえようか。

^決定にあるというのは、 罪を造る時は、 いろいろの間雑する心、 まだ後があるというゆっくりした考えであるが、 臨終に念仏する時は、 専念の心、 もはや後がないという考えであって、 ついに命を捨てる時まで、 善心はたけくてするどい。 そういうわけで、 ただちに往生するのである。 たとえば、 十かかえの綱は、 千人の男がかかっても自在にすることができないが、 子供でも剣をふるえばたちまちに両断することができるようなものである。 また千年かかって積み重ねられた草でも、 大豆ほどのわずかな火で焼けば、 しばしのあいだに焼きつくしてしまうようなものである。 また人があって、 一生のあいだ十善業を修めて、 天上界に生まれることができるようになっていても、 臨終の時に一念の決定の邪見を起こすならば、 ただちに阿鼻地獄に堕ちるようなものである。 このように、 虚妄な悪業でさえも猛くするどいから、 よく一生涯の善業をはらいのけて、 悪道に堕とさせるのである。 まして、 臨終の猛くするどい心で念仏する真実で間雑のない善業が、 無始よりの悪業を排いのけることができずに、 浄土に往生することができないというようなことは、 あるはずがないのである。

 ^また «安楽集» には七つの喩で、 この意義を顕わしている。

^一つには、 わずかな火の喩。 これは前に述べたとおりである。 ^二つには、 いざりでも船に乗れば、 かぜに帆かけて走る勢いによって、 一日で千里の遠きに至る。 ^三つには、 貧しい人がある珍しい宝物を得て、 それを王に献上したところ、 王は喜ばれて重く賞せられ、 しばらくの間に富貴が望みどおりになる。 ^四つには、 劣夫が、 もし天輪王の行幸みゆきに従えば、 虚空にのぼって、 飛ぶことが自在である。 ^五つには、 十かかえの綱の喩。 これは前に述べたとおりである。 ^六つには、 ちんちょうが水の中に入ると、 魚や貝はそこでたおれてみな死ぬが、 犀の角をもって、 これに触れると、 死んだ魚や貝がまた活きかえる。 ^七つには、 鶴が死んだ子安を喚ぶと、 子安が甦ったとある。 どうして墓の下の死者は、 決して甦ることがないということができようか。 ^すべての法には、 みな自力・他力、 自摂・他摂があって、 種々無量である。 どうして、 凡夫の有礙の考えで、 仏の無礙の法を疑うことができようか。 また経論に説いてある五つの不思議の中で、 仏法が最も不可思議である。 どうして、 三界につながれる業は重く、 かのしばらくの念仏の功徳を疑って、 軽いものとしてよかろうか。 以上。 抜き書きした。

^いまこれに加えていう。 一つには、 栴檀せんだんの樹が芽ばえる時は、 よく四十由旬のらん林の臭気をすべて芳香に変えてしまう。 ^二つには、 獅子の筋で琴の絃を作り、 これを一たびかなでるならば、 その他のもので作った絃は、 みな断ち切れる。 ^三つには、 一斤のせきじゅうは、 よく千斤の銅を黄金に変える。 ^四つには、 金剛は堅いけれども、 羚羊かもしかの角で、 これを扣けば、 氷がとけるようにさらさらと解けてしまう。 以上は滅罪の譬である。 ^五つには、 雪山に草があって、 忍辱と名づける。 牛がこれを食べると、 醍醐味の乳を得る。 ^六つには、 しゃやくを、 ただ見るだけの人でも、 はかりしれない長い寿命が得られ、 念ずる者に至っては、 宿命智を得る。 ^七つには、 孔雀が雷の音を聞くと、 すぐ孕むことができる。 ^八つには、 尸利しりしゃという樹は昴星ぼうせいに照らされると、 果実を生ずる。 以上は生善の譬である。 ^九つには、 住水宝珠を瓔珞として身につけると、 深い水の中に入っても溺れない。 ^十には、 沙や小石はいくら小さくても、 水に浮かぶことはできない。 磐石は大きいけれども船に乗せるとよく浮かぶ。 以上は総じての譬である。 ^いろいろのもののはたらきが思い難いことは、 このようである。 念仏の功力も、 これに準じて疑ってはならない。

 ^問う。 臨終の心念はどれほどの力があって、 よくこのような大事を成しとげるのであるか。

 ^答える。 その力は百年の行業よりも勝れている。 ^故に «大経» にいう。

この心は、 時間は少ないけれども、 心力の猛くてするどいことは火のようであり、 毒のようであるから、 少ないけれども、 よく大事を成しとげるのである。 今にも死にそうな時の心は、 決定して勇健であって、 百年間の行業よりも勝れている。 この最後の心を大心と名づけるのである。 自分の身体およびいろいろの感覚を捨てることが急だからである。 ちょうど戦陣に臨んで、 身命を惜しまぬ人を、 けん (勇士) と名づけるようなものであり、 阿羅漢はこの身の執着を捨てるから、 阿羅漢のさとりを得るようなものである。

^これによって、 «安楽集» にいわれている。

すべての衆生は、 臨終の時には、 刀のように鋭い風が、 その身体を解き、 死の苦しみが迫って来て、 大きな怖れを生ずる。 (中略) そこで往生を得る。

 ^問う。 深い観念の力が罪を滅することは、 そのとおりであろう。 しかし仏の名号を称えて、 どうして無量の罪を滅するのであるか。 もしそうであれば、 指をもって月を指すような場合、 この指がよく闇を破らねばならぬではないか

 ^答える。 道綽和尚が、 これを解釈していわれる。

すべてのものは千差万別で一概にはいわれない。 自然にその名がものと異ならないものもあり、 名がものと異なるものもある。 ^名が法と異ならないというのは、 諸仏菩薩の名号や禁呪まじないのことば、 経の文句などがこれである。 禁呪のことばに、 「日出東方乍赤乍黄」 (日が出ると東方はたちまち赤く、 たちまち黄色い) というようなのは、 たといとり (午後五時~七時) (午後九時~十一時) の時刻に禁呪を唱えても、 患者が癒えるようなものである。 ^また人が犬にかまれた時、 虎の骨をあぶって、 患部をすと、 患者がなおる。 あるいは骨がない時には、 よく手のひらをひろげてその患部をなで、 口の中に 「らい虎来」 といったならば、 患者がまたなおるようなものである。 ^あるいはまた、 人が脚転筋こむらがえりを患った時は、 木瓜の枝をあぶっておさえると、 患者がなおる。 もし木瓜がない時は手をあぶって、 これをなで、 口に 「もっ」 と呼べば、 それでも患者がまたなおる。 ^名が法と異なるものがあるとは、 指をもって月をさすようなのが、 これである。

^«西方要決» にいわれている。

諸仏は願と行とをもって、 この果名さとりのみなを成就されたのであるから、 ただよく名号を念ずるならば、 つぶさに、 多くの徳を含んでいる。 それゆえ大善と成る。 以上。 かの文には «維摩経» と «成実論» との文を引く。 つぶさには、 上の助念方法門に示すとおりである。

 ^問う。 もし、 五逆罪を造った下下品のものも、 十たび念仏することに由って往生することができるというならば、 どうして、 «仏蔵経» の第三巻に、 次のように説かれているのか。

大荘厳仏の滅後に、 四人の悪い比丘があった。 第一義 (もっともすぐれた義理)・無所有 (とらわれのない)・畢竟空 (究極の空) の法を捨てて、 外道であるけんの論を貪り好んでいた。 この人が命終ったとき、 阿鼻地獄に堕ち、 熱鉄の上で、 仰向けに寝たり、 うつむけに寝たり、 左脇を下にして寝たり、 右脇を下にして寝たりして、 それぞれ九百万億年の間焼かれ、 ただれ死んでしまうと、 さらに灰地獄・大灰地獄・等活地獄・黒縄地獄に生まれて、 皆、 上に述べた年数のあいだ苦しみを受けた。 黒縄地獄で死んで、 また阿鼻地獄に生まれた。 比丘たちの在家や出家のときに親しくしていた人ならびに多くの信者たち、 およそ六百四万億人も、 この四人の比丘と共に生まれ、 共に死んで、 大地獄にあって、 さまざまの焼かれ煮られる苦しみを受けた。 劫が尽きると、 他方の地獄に生まれ変わり、 劫が成ると、 またこの世界の地獄に生まれた。 久しい時を経てやっと地獄を免れ、 人間に生まれることができたけれども、 五百生の間、 生まれながらのめしいであった。 その後、 一切いっさいみょうおう仏に値いたてまつって出家し、 十万億年にわたって勤め励み、 頭についた火を払うようにしたけれども、 順忍でさえも得られなかった。 まして、 さとりの果をどうして得ることができよう。 その命が終ると、 またもや阿鼻地獄に生まれた。 その後九十九億の仏に値いたてまつったけれども、 順忍でさえも得られなかった。 どういうわけかといえば、 仏が深い法を説きたもうたのに、 この人は信じないで、 これを破壊し、 これに逆らい、 賢者・聖者、 持戒の比丘を謗って、 そのとがを表わしたという破法の因縁があったので、 当然そうあるべきことであった。 以上。 抜き書きした。 「四人の比丘」 とは、 苦岸比丘・薩和多比丘・将去比丘・跋難陀比丘である。

 ^このように、 十万億年の間、 頭についた火を払うように励んだけれども、 それでも、 罪を滅しないで、 またもや地獄に生まれたというのである。 どうして一声や十声の念仏で、 ただちに罪を滅して浄土に往生することができようか。

 ^答える。 懐感師が解釈していわれる。

念仏には五つの縁があるから、 罪を滅するのである。 一つには、 大乗の心をおこす縁。 二つには、 浄土に往生したいと願う縁。 小乗の人は、 十方に仏がましますことを信じないからである。 三つには、 阿弥陀仏の本願の縁。 四つには、 念仏の功徳の縁。 かの «仏蔵経» の比丘は、 ただ四念処の観だけをなしたからである。 五つには、 仏が威力をもって加護したもう縁である。 こういうわけであるから、 念仏は、 罪を滅して浄土に往生することができるのである。 かの小乗の人は、 そうではないから、 罪を滅することはできぬのである。 抜き書きした。

 ^問う。 もし、 そうであるならば、 どうして «無量寿経» に、 十念往生を説いて、

ただ五逆の罪を犯し、 正法を謗るものだけは除かれる。

というのであるか。

 ^答える。 智憬などの諸師がいわれる。

もし、 ただ五逆だけを造った者は、 十念に由るから、 往生することができるけれども、 もし、 五逆罪を造った上に、 また正法を謗った者は、 往生することができないのである。

^ある師がいわれる。

五逆の不定業を造ったものは、 往生することができるけれども、 五逆の定業を造ったものは、 往生することができない。

 ^このようにして、 十五家の解釈がある。 ところで懐感法師は、 それら諸師の解釈を用いないで、 みずから、 こういっている。

もし、 五逆罪を造らない人は、 念仏の多少を論ずることなく、 一声でも十声でも、 ともに浄土に生まれることができる。 もし、 五逆罪を造った人は、 必ず十声を満たすべきである。 一声でも欠けたなら往生できない。 それ故に 「除く」 というのである。

 ^いま試みに解釈を加えるならば、 他のところでは、 あまねく往生の種類を顕わしているけれども、 本願では、 ただ決定して往生する人だけを挙げている。 それ故に、 「そうでなければ、 決してさとりを開くまい」 といわれてある。 五逆罪を犯さぬ人の十念は決定して往生することができるが、 五逆罪を犯した人の一念は、 決定して往生することができない。 五逆罪を犯したものの十念と、 そうでない人の一念とは、 みな不定である。 それ故に本願には、 ただ五逆罪を犯さぬ人の十念を挙げ、 他のところでは、 かねて五逆罪を犯した人の十念と、 犯さない人の一念とを取り扱っているのである。 この義はまだ決定したものではない。 別に考えるべきである。

 ^問う。 五逆罪を犯した人の十念は、 どういうわけで不定であるのか。

 ^答える。 宿善の有無に由って、 念力が別だからである。 また、 臨終と尋常 (平生) との念ずる時が別だからである。

 ^問う。 五逆罪というのは、 次の生に報いを受ける業 (順生業) である。 その報と時とは、 ともに定まっている。 どうして、 この罪を滅することができようか。

 ^答える。 懐感師が、 これを解釈していわれる。

九部 (小乗) の不了教の中には、 もろもろの業因の果報を信じない凡夫のために、 奥深い思し召しをもって、 「定まった報いの業がある」 と説いているが、 もろもろの大乗の了義教の中では、 「一妻の業は、 ことごとく皆不定である」 と説いてある。 ^«涅槃経» の第十八巻に解かれているとおりである。 耆婆が阿闍世王のために、 懴悔の法を説いて 「罪は滅することができる」 といい、 また 「わたくしが仏の教を聞きましたところ、 一つの善心を修めると、 百種の悪を破ります。 わずかな毒薬が、 よく衆生をそこなうようなものであります。 わずかな善根もまた同じことで、 よく大きな悪を破るのであります」 といった。 また «涅槃経» の第三十一巻に説かれている。 「善男子よ、 もろもろの人々の中には業因縁のいわれを心に軽んじて信じない者がある。 そういう人を済度するために、 このように説くのである。 善男子よ、 すべての行業には、 軽いものもあり、 重いものもある。 この軽・重の二種の業に、 またそれぞれ二種がある。 一つには決定の業、 二つには不決定の業である。」 また説かれている。 「あるいは、 重い業を軽くすることのできるものがあり、 あるいは、 軽い業を重くすることのできるものもある。 智慧のある人は、 智慧の力で、 地獄に落ちるような極めて重い業を、 この世で軽く受けるようにできるけれども、 愚かな人は、 この世の軽い業を、 地獄で重い報として受ける。」 こういうわけで、 阿闍世王は、 罪を懴悔し終ったので地獄に堕ちないようになり、 鴦掘おうくつ摩羅まらは、 阿羅漢のさとりを得たのである。 ^«瑜伽論» には 「まだ解脱さとりを得ないのを決定業と名づけ、 すでに解脱を得たのを不定業と名づける」 と説いている。 このようなもろもろの大乗の経や論では、 五逆罪などを、 みな不定業と名づけ、 ことごとく罪は消滅することができると説いているのである。 重い業を転じて軽く受けるありさまは «放鉢経» にくわしく出ている。

 ^問う。 いま引いた紋の中に、 「知恵のある人は、 重い業を転じて軽い報を受ける」 というが、 下品生の人はただ十念しおわって、 すぐさま浄土に生まれるのであるから、 どこで、 軽い報を受けるのか。

 ^答える。 «無量寿経» に、 かの極楽浄土の胎生の者を説いていわれる。

五百年のあいだ、 仏・法・僧の三宝に値うことができず、 諸仏を供養して、 もろもろの善根を修めることができぬ。 それだけが苦とせられるので、 ほかの楽しみはあるけれども、 かの宮殿に居たいとは思わないのである。

 ^この経文に準じてみると、 七七日 (四十九日)・六劫・十二劫のあいだ、 仏を見たてまつらず、 法を聞かないなどのことを、 軽く受ける苦しみとすることが知られる。

 ^問う。 もし臨終に、 一たび仏の名を念ずると、 よく八十億劫の多くの罪を滅するというならば、 平生の念仏の行者も、 またそうあるべきなのか。

 ^答える。 臨終の時の心は、 力が強いから、 よく無量の罪を滅するけれども、 平生にみ名を称えたのでは、 臨終のようにならないであろう。 けれども、 もし観念が成就すれば、 また無量の罪を滅するであろう。 もし、 ただ名を称えるだけならば、 その心の浅深にしたがって、 その利益を得ることは差別があるであろう。 くわしくは、 前の念仏利益門に述べたとおりである。

 ^問う。 浅い心の念仏でも、 また利益があるということは、 どうして知ることができるのか。

 ^答える。 «首楞厳三昧経» に説かれている。

すぐれた薬があって滅除と名づける。 もし、 いくさの時にこれを鼓に塗ると、 もろもろの矢に射られたり、 刀や矛で傷つけられたりしたものも、 この鼓の音を聞くことができたならば、 矢が抜け出て、 毒が除かれるようなものである。 このように、 菩薩が首楞厳三昧に入った時、 その菩薩の名を聞いた者は、 貪欲・瞋恚・愚痴の矢がひとりでに抜け出て、 もろもろの邪見の毒もみなことごとく除かれ滅し、 すべての煩悩も、 ふたたび起こることはないのである。 以上。 諸法の真如実相を観見し、 凡夫法と仏法とが不二であると見るのを、 「首楞厳三昧を修習する」 と名づける。

 ^菩薩でさえも、 すでにそうである。 まして仏の場合はなおさらのことである。 み名を聞くことでさえも、 すでにそうである。 まして念ずる場合はなおさらのことである。 浅い心で念じても、 その利益はまた空しくないということを知るべきである。

【76】^第六に、 粗心の妙果というのは、

 ^問う。 もし菩提を得るために、 仏に対して善根をなすならば、 妙果をさとり得るということは、 道理として必ずそうであろう。 もし人天の果を得るために、 善根を修めると、 どうなるのであろうか。

 ^答える。 あるいは煩悩に汚れていても、 あるいは浄らかであっても、 仏に対して善根を修めるならば、 速い遅いはあっても、 必ず涅槃に至るのである。 ^それ故に «大悲経» の第三巻に、 仏が阿難に告げて仰せられる。

もし人々があって、 生死まよいのこの世の楽果にとらわれて、 仏の福田に対して、 善根を種える者が、 「この善根をもって、 願わくはわたしは涅槃を得ることがないように」 と、 このようなことばいだすであろう。 阿難よ、 この人がもし涅槃を得ないというならば、 決して、 そんなはずはないのである。 阿難よ、 この人が涅槃を願い求めないとしても、 仏のみもとにおいて、 もろもろの善根を植えたのであるから、 わたしは、 この人は必ず涅槃を得るのであると説くのである。

 ^問う。 作った業は、 その願いにしたがって果を受ける。 どうして、 この世間のむくいを願うのに、 出世間の果を得るのであるか。

 ^答える。 業によって果をえる道理は必ずしも同一であるとは限らない。 もろもろの善業を仏果にふりむけると、 これはそのなした行業が心にしたがって仏果を得るための因となる。 鶏や犬のまねをする業で、 天上の楽を願い求めるのは、 これは悪見であるから、 天上界に生まれる因とはならないのである。 こういうわけで、 仏に対して、 もろもろの善業を修めるならば、 こころの願いは異なっていても、 必ず涅槃さとりに至るのである。 ^故に、 かの «大悲経» にたとえを挙げて説かれている。

たとえば長者が時節に依って種を良い田の中におろして、 時節にしたがって潅漑し、 常によく世話をし、 もし、 この長者がほかの時に、 かの田の所に到って 「おい、 種子よ。 おまえは種となってはいけない。 生えてはいけない。 おおきくなってはいけない」 と、 このように言ったとしよう。 それでも、 かの種子は必ず実を結ぶので、 決して果実ができないのではないようなものである。 意味をとって抜き書きした。

 ^問う。 そういう人は、 いつになったら、 涅槃さとりを得るのか。

 ^答える。 たとい、 久しい時にわたって、 生死に輪廻するとしても、 その善根は亡びないで、 必ず涅槃さとりを得るのである。 ^それ故に、 かの «大悲経» に説かれている。

仏が阿難に告げたもう。 「漁師が、 魚を取ろうとして、 大きな池で、 釣り針に餌をつけて、 魚に食わせる場合、 魚が食いおわると、 池の中にいても、 やがては引き上げられて出るようなものである。 (中略) 阿難よ、 すべての人々が諸仏のみもとにおいて、 敬信を生ずることができ、 もろもろの善根をえ、 布施を行じ、 さては発心して、 一念でも信心を得るならば、 また、 その他の悪業に障られて、 地獄・畜生・餓鬼に堕ちても、 (中略) 諸仏は仏眼をもって、 この人々を見そなわし、 その発心が勝れているために、 この人を地獄から抜き出したもう。 すでに抜き出し終ったならば、 涅槃さとりの岸に置きたもうのである。

 ^問う。 この «大悲経» の意のとおりであれば、 敬信することによって遂に涅槃さとりを得るのである。 もしそうであるならば、 ただ一たび聞くだけでは、 涅槃の因ではないであろう。 もし、 そうならば、 どうして «涅槃経» の偈に、

もしもろもろの人々があって まだ菩提心を発さなくても

一たび仏のみ名を聞くことができるならば 必ず菩提さとりを成就するであろう

と説かれてあるのか。

 ^答える。 あらゆるものの因縁は不可思議である。 たとえば、 孔雀が雷の音を聞くと、 ただちに孕むことができ、 また尸利沙果は、 それより前には形がなかったのに、 昴星に照らされた時、 このみができて、 長さ五寸になるようなものである。 仏の名号に依って、 ただちにほとけだねを結ぶことも、 またこのとおりである。 このようなわずかな因から、 ついに大きな果をあらわすのである。 かの尼拘にくじゅが、 芥子ぐらいの種から枝や葉を生じて、 五百両の車をあまねく覆うようになるようなものである。 このような手近な世間のものでも、 なお思いはかることはむずかしい。 まして出世間の甚深の因果にあっては、 なおさらのことである。 ただ、 信じ仰ぐべきで、 疑いの念を起こしてはならぬ。

 ^問う。 汚れた心で如来を縁ずる者も、 また利益があるだろうか。

 ^答える。 «宝積経» の第八巻に、 みつしゃく力士がじゃく菩薩に告げていわれている。

耆婆医王が、 もろもろの薬を合わせ集め、 薬草を取って、 童子の形を作った。 その姿は端正でうるわしく、 世にも稀なものである。 その動作は安らかで、 あらゆるものはととのい、 たぐいなくすぐれたものであった。 そのゆき・身のこなし・立ち・坐り・臥し・散歩するなど、 すべて欠けるところはなく、 いろいろと変わるわざがあった。 あるいは、 勢力のある国王・太子・大臣・役人・貴族・長者などが、 耆婆医王の所に到り、 この薬で作った童子を見て、 共に歌い戯れる場合、 童子の顔色を見ると、 病気は皆なおり、 そこで安らかに静かで無欲になることができたということである。 寂意よ、 まあ、 これを観ぜよ。 この耆婆医王が、 世間の人を治療することは、 その他の医師が及ぶことのできないことである。 このように寂意よ、 もし菩薩があって、 法身を奉行するならば、 たとい愛欲や怒りや愚痴おろかさの盛んな男女老少の人々が、 愛欲の想から慕い願って、 共にたのしもうとしても、 貪欲の煩悩はことごとくおさまることができるであろう。 五陰・十八界・十二処がない、 と信解し観察するのを 「法身を奉行する」 という。

 ^法身を奉行する菩薩の場合でさえ、 なおこのようである。 まして法身を証り得られた仏の場合にあっては、 なおさらのことである。

 ^問う。 愛欲の想で縁じても、 この利益があるように、 謗ったり憎み厭うても、 また利益があるのか。

 ^答える。 すでに、 愛欲と怒りと愚痴おろかといわれている。 ただ愛欲の想だけではないことが明らかである。 ^また «如来秘密蔵経» の下巻に説かれている。

むしろ如来に向かって、 悪業を起こしても、 外道や邪見の者の所に供養を施すことがあってはならぬ。 なぜかというと、 もし如来のみもとにおいて、 悪業を起こすならば、 その後に、 きっと悔いる心が生じて、 ついには、 必ず涅槃さとりに至ることができるであろうけれども、 外道の見解にしたがうならば、 きっと地獄・餓鬼・畜生に堕ちるからである。

 ^問う。 この文は因果の道理にたがい、 また、 かえって人々のまちがいの心を増すであろう。 どうして悪い心をもって、 大涅槃の楽を得られようか。

 ^答える。 悪い心があるから三悪道に堕ち、 一たび如来を縁ずるから、 必ず涅槃に至る。 こういうわけで因果の道理にはたがわぬのである。 ^経に説かれている。

かの人々は、 地獄に堕ちる時、 仏に対して信を生じ、 後悔の心を生ずる。 これに由って後には必ずはんに至るのである。 «大悲経» に見えている。

 ^このように汚れた心で如来を縁ずる利益でさえ、 かくも大きいのである。 まして浄らかな心で一たび念じ、 一たび称える場合はなおさらである。 仏の大恩徳は、 これでわかるであろう。

 ^問う。 もろもろの経文などに説く菩提涅槃は、 三乗の中にあっては、 どういう果であるか。

 ^答える。 初めには、 機類にしたがって、 それぞれ三乗の果を得るけれども、 ついには必ず無上の仏果に至るのである。 ^«法華経» に説かれているとおりである。

十方の仏土の中には ただ一乗のみのりだけがあり

二もなく また三もない 仏が方便てだてとして説かれたことを除く

^また «涅槃経» には、 如来の決定の説のわけを明かされていう。

一切衆生にはことごとく仏性がある。 如来は常住であって変わることがない。

^また説かれている。

一切衆生は、 かならず無上の仏果を得るのであるから、 わたしは、 一切衆生にはことごとく仏性があると説くのである。

^また説かれている。

一切衆生には、 ことごとくみな心がある。 およそ心がある者は、 かならず無上仏果を成就することができるのである。

 ^問う。 どういうわけで、 もろもろの経文などに説くことが同じでなく、 あるいは一たび仏の皆を聞くならば、 かならず菩提を成就すると説いたり、 あるいは頭についた火を払うように勤めよと説いたり、 また «華厳経» の偈には、

人が他人の宝を数えても 自分には半銭の分け前もないように

法において修行しないで 多く聞くだけなら またこのようである

と説かれているのか。

 ^答える。 もし、 速やかに解脱さとりを得ようと思うならば、 勤めなければ、 自分のものとならないようなものであるが、 もし永劫の末に成仏する因を期するのであれば、 一たび聞くこともまた虚しくはない。 こういうわけであるから、 もろもろの経文などに説く道理は相違しないのである。

【77】^第七に、 諸行の勝劣というのは、

 ^問う。 往生の業の中では、 念仏を最勝とするが、 その他の行業の中にあっても、 また最勝とするのか。

 ^答える。 その他の行業の中にあっても、 これはまた最勝である。 ^それ故 «観仏三昧経» には六種のたとえがある。 ^第一にいわれている。

仏が阿難に告げたもう。 「たとえば、 長者が、 まもなく死のうとするとき、 多くの蔵をその子に委ねた。 その子は、 これを得てから、 思いのままに遊び戯れた。 突然ある時、 国の乱れにい、 多くの賊が蔵の物をわれがちに奪い取った。 ところで、 ただ一つの金があった。 それは閻浮檀那紫金で、 重さは十六両である。 その金の延棒の長さも十六寸である。 この金の一両の価は、 その他の宝の百千万両に匹敵するのである。 そこで、 穢い物でこの真金を包み、 泥の中に置いた。 賊たちは、 それを見たけれども、 金であるとは知らず、 足で踏んで立ち去った。 賊が居なくなってから、 持主が、 この金を得て、 心大いに喜ぶようなものである。 念仏三昧もまたこのようなもので、 密かにこれを蔵すべきである。」

^第二にいわれている。

たとえば、 貧しい人が王の宝印を盗み、 逃走して樹の上に登った。 多くの兵が、 これを追うたところ、 貧しい人はそれを見て、 すぐに宝印を呑みこんだ。 兵たちは早くも追いついて、 その樹を倒してしまった。 貧しい人は地に落ちて身体はくだけたが、 金印だけはもとのままにあるようなものである。 念仏の心の因がくだけないことも、 またこのようである。

^第三にいわれている。

たとえば、 長者がまもなく死のうとするとき、 ひとり娘に、 「わたしには、 いま宝の中の最もすぐれた宝がある。 そなたは、 この宝を受けたら、 堅く密蔵して、 王に知られてはならない」 と告げた。 娘は、 父の言葉を受けて、 摩尼珠やもろもろの珍宝を糞穢の中に蔵しておいた。 家の中の人たちも、 皆知らなかった。 さて飢饉の世に値い、 如意珠で意のままに、 百味の飲食を雨ふらした。 このようにして、 いろいろと意のままに宝を得るようなものである。 念仏三昧の心が堅くて不同であることも、 またこのようである。

^第四にいわれている。

たとえば、 はげしいひでりで雨が得られないとき、 一人の仙人がいて呪文を誦えると、 神通力のために、 天からよい雨を降らし、 地から泉が湧き出るようなものである。 念仏を得た者は、 よく呪文を誦える人のようである。

^第五にいわれている。

たとえば力士が、 しばしば王法を犯して、 牢屋に幽閉せられたが、 逃げ出して海辺に至り、 もとどりの明珠をほどいて、 それで船頭を雇い、 彼の岸に到りついて、 安穏でおそれがないことを得たようなものである。 念仏を行ずる者は大力士のごとく、 心の鎖を免れて、 彼の智慧の岸に至るようなものである。

^第六にいわれている。

たとえば、 この劫が尽きるときには、 大地は燃え尽きるけれども、 ただ金剛山だけは砕かれることなく、 やはり本のままにとどまるようなものである。 念仏三昧も、 また、 このとおりである。 この三昧を行ずる者は、 過去の仏の真如海の中に住まるのである。 以上。 抜き書きした。

^また «般舟経» の問事品に、 念仏三昧を説いていわれる。

常にこれをたもつべきである。 常に守って、 また他の法にはしたがってはならぬ。 この法は、 もろもろの功徳の中で最も尊い第一のものである。

^また不退転の位に至るには、 難行と易行の二つの道がある。 易行道というのは、 念仏である。 それ故に、 «十住毘婆娑論» の第三巻にいわれている。

世間の道路みちに難しい道とやさしい道とがあって、 陸路を歩いて行くのは苦しいが、 水路を船に乗って渡るのは楽しいようなものである。 菩提さとりの道も、 また、 このとおりである。 あるいはいろいろな行を積んで行くものもあるし、 あるいは信方便の易行をもって速やかに不退転の位にいたるものもある。 (中略)

阿弥陀などの仏たち および多くの大菩薩たちの

み名を称えて一心を念ずれば また不退転を得る

 ^この «十住毘婆娑論» の文の中には、 過去と現在の百余の仏と、 弥勒・金剛蔵・維摩・無尽意・跋陀婆羅・文殊・妙音・師子孔・香象・常精進・観音・勢至などの百余の大菩薩とを挙げ、 その中で広く阿弥陀仏を讃めたてまつっているのである。 このように、 諸行の中にあって、 ただ念仏の行だけが、 修し易くて、 上位を証るのである。 最も勝れた行であることは、 これでわかる。

 ^また «宝積経» の第九十二巻に説かれている。

もし菩薩があって、 多くさまざまの行をつとめ、 七宝の塔を造って、 あまねく三千大千世界に満たしても、 このような菩薩は、 わたしを喜ばせることはできぬ。 また、 わたしを供養し恭敬するのでもない。 もし菩薩があって、 波羅蜜に相応した法を、 すくなくとも四句の一偈でも受けたもち、 読誦し、 修行し、 人のために演説するならば、 この人はわたしを供養するものといわれる。 なぜかというと、 諸仏の菩提さとりは、 法を多く聞くことから生ずるので、 さまざまの行をつとめることから生ずることができないものだからである。 (中略) もしこの世界 (閻浮提) のさまざまの行をつとめる菩薩は、 一人の読誦し修行し演説する菩薩の所に、 親近し供養し師事すべきである。 もし、 この世界の読誦し修行し演説するもろもろの菩薩たちは、 一人の禅定を勤める菩薩の所に、 また親近し供養し師事すべきである。 このような善業を、 如来は随喜せられ、 悦びをなしたもう。 もし、 智慧の行を勤める菩薩の所に師事し供養するならば、 はかりなき大きな福徳を得るであろう。 なぜかというと、 智慧の行は、 この上もなく最も勝れたもので、 すべての三界における行に超え過ぎたものだからである。

^«大集経» 月蔵分の偈に説かれている。

もし人が百億の諸仏のみもとで 多年にわたって常に供養したてまつっても

もしよく七日のあいだ閑静な処に居て 身心を摂めて禅定を得る福徳は彼よりも多い (中略)

閑静無為は仏の境界である かしこにおいて よく浄い菩提さとりを得る

もし人がかの禅定に住する者を謗るならば もろもろの如来を謗ると名づける

もし人が塔を壊すこと幾百年 また百千の寺を焼いたとしても

もし禅定に住する者を謗るならば その罪ははなはだ多くて彼よりもまさる

もし禅定に住する者に 飲食・衣服および湯薬を供養するならば

この人は無量の罪を消滅し また三悪道に堕ちることもない

この故私は今あまねくそなたたちに告げる 仏道を成就しようと思うなら常に禅定に住せよ

もし閑静な処に住むことができないならば 禅定に住する者を供養するがよい

 ^一般の禅定でさえも、 すでにこのような功徳がある。 まして念仏三昧は三昧 (禅定) の王であるから、 なおさらのことである。

 ^問う。 もし、 禅定の行が、 経を読誦したり仏法の義理を了解するなどよりも勝れているなのならば、 どうして «法華経» の分別功徳品に、 八十億那由他劫の間に修めたところの前の五波羅蜜 (布施・持戒・忍辱・精進・禅定) の功徳を、 «法華経» を聞いて一念に信じ領解する功徳に比較して、 百千万億分の一であるとし、 まして、 広く他のために説くのは、 なおさらのこととするのであるか。

 ^答える。 これらの諸行には、 それぞれ浅深がある。 すなわち、 偏教と円教との教に差別があるからである。 もしその教だけで論ずるならば、 その勝劣は前に述べたとおりである。 もし諸経を相対して論ずるならば、 偏教の禅定は、 円教の読誦の行には及ばない。 «大集経»・«宝積経» などは、 その教だけに就いて論ずるものであり、 «法華経» の比較は、 偏教と円教とを対照していうのである。 こういうわけで、 もろもろの経文の義は相違しないのである。 念仏三昧についても、 またこのとおりである。 偏教の三昧は、 その教では勝れているとするのであるが、 円教の人の三昧は、 あまねく諸行に勝れているのである。 ^禅定 (三昧) には二種がある。 一つには、 智慧と相応している禅定で、 これを最も勝れたものとする。 二つには智慧と相応していない禅定で、 まだ勝れたものとはいえない。 ところで念仏三昧は、 当然前者に摂められるものである。

【78】^第八に信・毀の因縁というのは、 ^«般舟三昧経» に説かれている。

般舟三昧を聞くことは深い因縁によるもので、 ただ一仏のみもとにおいて功徳を作っただけではない。 また二仏、 もしくは三仏、 もしくは十仏の所だけでもない。 ことごとく百仏の所において、 この三昧を聞き、 そうして後の世にこの三昧を聞くものである。 経巻を書写し、 学び、 となたもって、 最後に一日一夜たもつならば、 その福徳は計ることができない。 おのずから阿惟越致 (不退の位) に至って、 その願うところを得るのである。

 ^問う。 もしそうであるならば、 聞く者はかならず信ずるはずである。 どういうわけで、 聞いても信ずるものと信じないものとがあるのか。

 ^答える。 «平等覚経» に説かれている。

善男・善女があって、 無量清浄仏のみ名を聞いて、 喜び踊り、 身の毛がよだって抜けるように思う人は、 みなことごとく過去世にすでに仏道を修めているものである。 もしまた人があって、 仏を疑って信じないものは、 みな悪道から来て、 その罪がまだ尽きないもので、 なおまだ解脱を得ることができないのである。 抜き書きした。

^また «大集経» の第七巻 (第六巻) に説かれている。

もし衆生があって、 すでに無量無辺の仏の所において、 もろもろの徳本を植えたものは、 この如来の十力・四無所畏・十八不共法・三十二相を聞くことができるのである。 (中略) 下劣の人はこのような正法を聞くことができない。 たとい聞くことができたとしても、 まだ必ずしも信ずることはできないのである。

 ^これによってわかるであろう。 生死の因縁は不可思議なものである。 功徳が少ないものでありながら、 聞くことができるのは、 そのわけを知ることが難しい。 沢山の黒豆の中に、 一粒の青豆があるようなものである。 そういう人が聞いても、 信じ領解しないのは、 功徳が少ないからである。

 ^問う。 仏は昔つぶさにもろもろの菩薩の行を修めたもうたが、 八万年に及んでも、 このみのりを聞くことができなかったという。 どうして、 功徳の少ないものが、 たやすく聴聞することができようか。 たとい、 それは稀な例であると認めても、 やはり道理にたがうであろう。

 ^答える。 この義は、 なかなか難しいが、 試みにこれを考えてみよう。 だいたい衆生の善悪については、 四種の位の別がある。 ^一つには、 悪のはたらきがひとえに増す。 この位にあっては法を聞くことはない。 «法華経» に説かれているとおりである。

増上慢の人は、 二百億劫のあいだ、 常にみのりを聞かないのである。

^二つには、 善のはたらきが偏に増す。 この位にあっては、 常に仏法を聞くのである。 十地や十住以上の大菩薩などのようなものである。

^三つには、 善と悪とが入りまじる。 すなわち、 凡夫を捨て離れて聖者に入ろうとする時である。 この位の中には、 一類の人があって、 法を聞くことははなはだ難しいが、 たまたま聞くことができると、 すぐさま悟るのである。 常啼菩薩や須達長者の家の老女などのようなものである。 あるいは悪魔のために妨げられ、 あるいは自分の惑のために邪魔せられて、 仏法を聞見することを隔てられているけれども、 遠からぬうちに悟るのである。

^四つには、 善と悪とがゆるやかである。 この位の善悪は、 同じく生死流転のものであるから、 その多くは、 みのりを聞くことが難しい。 しかし悪が増すのでないから、 まったく仏法を聞かないのではない。 善と悪とが入りまじるのでもないから、 聞いたとしても大きな利益はない。 すなわち、 六趣四生にうごめいているたぐいが、 それである。 故に、 すぐれた人の中にも、 仏法を聞くことの難しいものがあり、 愚かな人の中にも、 仏法を聞くものがある。

 ^ところで、 この義は、 まだ決定したものではないから、 後の賢い方々は取捨していただきたい。

 ^問う。 信じない者は、 どのような罪の報を得るのであるか。

 ^答える。 «称揚諸仏功徳経» の下巻に説かれている。

もし、 阿弥陀仏の名号の功徳を讃めたたえることを信じないで、 謗りこぼつ者があるならば、 五劫のあいだ地獄に堕ちて、 つぶさにもろもろの苦を受けねばならぬ。

 ^問う。 もし深心がなくて、 疑念を生ずる者は、 結局往生できないのであるか。

 ^答える。 もし、 全く信ぜず、 往生の業を修めず、 浄土を願い求めない者は、 道理として往生するはずがない。 しかしながら、 もし仏智を疑うけれども、 それでもやはり、 かの浄土に生まれたいと願い、 往生の業を修める者は、 これもまた往生することができるのである。

^«無量寿経» に説かれているとおりである。

もし、 人々の中で、 疑いの心を持ちながら、 いろいろの功徳を修めて、 かの国に生まれたいと願い、 仏智、 思いもおよばぬ智慧 (不思議智)、 はかり知られぬ智慧、 すべての者を救う智慧、 ならびなくすぐれた智慧を知らず、 いろいろの仏の智慧を疑って信ぜず、 しかもなお罪の報を恐れ、 おのが善根をたのむ心をもって善の本を修め、 それによってかの国に生まれたいと願うものがあれば、 これらの人は、 かの国に生まれても宮殿の中にとどまり、 五百年のあいだ、 少しも仏を拝むことができず、 教法を聞くことができず、 菩薩・声聞などの聖衆を見ることもできない。 それゆえ、 これをたとえて胎生というのである。

 ^仏の智慧を疑うのは、 悪道に堕ちる罪に相当する。 けれども、 その願いにしたがって往生するというのは、 仏の大悲の願力によるのである。 ^«平等覚経» には、 この胎生を中輩や下輩の人としている。 しかしながら諸師の解釈については、 詳しく述べることはできない。

 ^問う。 「仏智」 などというのは、 そのすがたはどうであるのか。

 ^答える。 憬興師は、 «仏地経» の五法をもって今の五智を説明する。 すなわち、 清浄法界を仏智と名づけ、 大円鏡智などの四つを、 順次に不思議智などの四つに配当するのである。 玄一師は、 仏智は前のとおりであるけれども、 後の四智の順序を逆にして成事智 (成所得智) などの四つに当てている。 その他の異なった解釈があるけれども、 これを煩わしく述べることはできない。

【79】^第九に助道の資縁というのは、

 ^問う。 凡夫の行者は、 必ず衣食を用いる。 これは、 小さな資縁ではあるけれども、 よく大事をととのえるものである。 衣食に事欠いて不安であれば、 仏道修行もどこにあろうか。

 ^答える。 行者には二種がある。 すなわち、 在家と出家とである。 ^そのうち、 在家の人は、 家業を自由に営んで、 食物も衣服もあるから、 どうして念仏を妨げることがあろうか。 «木槵経» の瑠璃王の念仏の行のようなものである。 ^出家の人にも、 また三種類のものがある。 上根の者は、 草を敷いて座とし、 鹿の皮を衣とし、 一菜一果の生活である。 雪山大士のような人が、 これである。 中根の者は、 常に食を乞い、 ぼろを集めた衣 (糞掃衣) を着るのである。 下根の者は、 信者の施しによる。 ただ少し得たならば満足することを知る。 詳しくは «摩訶止観» の第四巻のとおりである。 まして、 もし仏弟子として、 専ら正道を修めて貪り求めることがないならば、 おのずから衣装などの資縁が備わるのである。 ^«大智度論» にいわれているとおりである。

たとえば、 比丘で、 貪り求める者は供養を受けられず、 貪り求めない者は、 欠けることのないようなものである。 心もまたこのとおりである。 もし分別して相に執われるならば、 実の宝を得ることはできない。

^また «大集経» の月蔵分の中に、 欲界の第六天、 日月星宿・天竜八部などが、 それぞれ仏の前で次のような誓願を発していう。

もし、 仏の声聞の弟子で、 法にもとづき、 法にしたがい、 三業がこれにかなって修行するならば、 わたくしたちはみな共に護り育て、 その必要な物をさしあげ、 欠乏しないようにいたしましょう。 もしまた世尊の声聞の弟子で貪り蓄えない者を護り育てましょう。

^また説かれている。

もし、 また世尊の声聞の弟子で、 貪り蓄え、 そして三業が法と相応しないような者は、 またこれを棄てましょう。 また養育いたしません。

 ^問う。 凡夫は、 いつも三業が相応するとは限らない。 もし欠けることがあるならば、 よるべがないであろう。

 ^答える。 そのような問難は、 懈怠で道心のない者のすることである。 もし本当に菩提を求め、 心から浄土を欣うものは、 たとい身命を捨てても、 どうして禁戒を破るであろうか。 この世の勤めを果たして永劫の妙果を期すべきである。 ましてまた、 たとい戒を破っても、 その人に分け前がないのではないから、 なおさらである。 ^同じ経 (大集経) に、 仏が仰せられるとおりである。

「もし衆生の中で、 わたしの法を聞いて出家し、 髪を剃り、 袈裟を着けるものがあれば、 たとい戒をたもたなくても、 かれらは、 ことごとく将来においてさとりを得ることを定められるのである。 もしまた出家して、 戒を持たない者でも、 この人を、 非法のしかたで悩まし、 罵り辱しめ、 こぼちそしり、 手に刀杖をもって打ったり切ったりし、 もしは衣鉢を奪い、 またいろいろの生きてゆくのに必要な物を奪うような者は、 三世の諸仏のまことの報身をやぶるものであり、 またすべての一切の人天の眼目をえぐり取るものである。 この人は、 諸仏の正法や三宝の種をなくしようとするものである。 人天に利益を得させず、 地獄に堕ちさせる。 それゆえ三悪道を増して、 充満させることになる。」

^そのとき、 また一切の天・竜をはじめ一切のたん・人非人などにいたるまでみなことごとく合掌して、 このように申しあげた。 「わたくしたちは、 一切の声聞の弟子に対して、 たとい、 もしまた禁戒をたもたなくても、 髪を剃って、 形ばかりの袈裟を着けた者にいたるまで、 それらの人に対して師長の想いをするでありましょう。 護り育てて、 その必要なものをさしあげ、 欠乏することがないようにいたしましょう。 もし、 ほかの天・竜・迦富単那などが、 それらの人を悩ましたり、 そのほか悪心のある眼で見るようなことがあれば、 わたくしたちは、 みな共に、 かの天・竜・富単那などがもっているもろもろの相を損じて醜い者といたしましょう。 そしてかれらを再びわたくしたちと共に住んだり食事をともにしたりしないようにいたしましょう。 また一緒に笑いたわむれることもできないようにいたしましょう。 このように追い出し罰するでありましょう。」 以上。 意味を取った。

^また説かれている。

その時に世尊は、 首座の弥勒菩薩、 および今の世 (賢劫) の一切の菩薩がたに次のように告げて仰せられた。 「もろもろの善男子よ。 わたしが昔、 菩薩の道を修行していた時に、 過去の諸仏がたに対して、 このような供養をしたてまつった。 この善根で、 わたしのための仏果のたねとしたのである。 わたしは、 いま多くの人々を哀れむから、 この果報を三分する。 その一分を留めて、 わたしがみずから受ける。 第二の一分は、 わたしの滅後において、 禅定解脱三昧と堅固に相応する声聞に与えて、 欠けることのないようにさせよう。 第三の一分は、 かの破戒でありながら経典を読誦し、 声聞に相応して、 正法や像法の時に頭を剃って袈裟を着る者に与えて、 欠けることがないようにさせよう。 弥勒よ、 わたしは今また身口意の三業が相応するもろもろの声聞たち、 僧・尼や信男・信女を、 そなたの手にゆだねる。 欠乏させたり孤独で終らせたりすることがあってはならない。 また、 正法や像法の時に、 禁戒を破って袈裟を着る者を、 そなたの手にゆだねる。 かれらの生きてゆくのに必要ないろいろなものを欠乏させて終らせることがあってはならない。 また旃陀羅王がともに悩ましそこなって、 その身心に苦を受けさせることがあってはならぬ。 わたしは今また、 かのもろもろの施主を、 そなたの手にゆだねる。」

 ^破戒の者でさえも、 このような利益を受ける。 まして持戒の者はなおさらである。 声聞でさえも、 このとおりである。 まして、 大菩提心を発して、 まごころから念仏するものの利益は、 いうまでもないことである。

 ^問う。 もし破戒の人も、 また天・竜のために護念せられるならば、 どうして «梵網経» には、

五千の鬼神が、 破戒の比丘のいた跡を払い浄める。

と説かれ、 «涅槃経» には、

国王・群臣、 および持戒の比丘は、 破戒の者をねんごろに取締り、 追いやって責めるべきである。

と説かれているのか。

 ^答える。 もし道理にかなってねんごろに取締るならば、 仏の教にしたがうことであるけれども、 もし、 道理に外れて悩ますならば、 反対に仏意にたがうこととなる。 それゆえ矛盾しないのである。 ^«大集経» 月蔵分に、 仏が仰せられているとおりである。

国王・群臣は、 出家した者の大きな罪業、 すなわち、 大殺生・大偸盗・大邪婬・大妄語、 およびその他の不善をなした者を見るならば、 このようなものを、 ただおきてのとおりに、 その国・町・村から追い出して、 寺にいることを許さないようにせよ。 また僧としての勤めを共にすることのないようにせよ。 利養の分け前は、 ことごとく共に同じくしてはならぬ。 しかし、 鞭で打ってはならぬ。 もし鞭で打つならば、 道理としてふさわしくないことである。 また口で罵り辱しめてもならぬ。 すべて、 その身体に罪を加えてはならぬ。 もし、 ことさらに法に背いて、 罰するならば、 この人は解脱さとりから退落し、 必ず阿鼻地獄に赴くであろう。 まして、 仏のために出家して、 つぶさに戒をたもっている者を鞭で打つならば、 なおさらのことである。 抜き書きした。

 ^問う。 人間が追い出し、 取締るという差別は、 そのとおりであろう。 天・竜などの非人がどうするかについては、 なおまだ明らかではない。 すなわち «梵網経» には、 ひたすらその跡を払い浄めるとあり、 «月蔵経» には、 ひたすら、 その人に生きる必要なものを与えるとある。 どうして、 忽ちに矛盾しているのであるか。

 ^答える。 罪悪と福徳との旨趣を知るためには、 人間がどのようにするかについての決定が必要なのである。 人間以外の天・竜八部などのいわゆる非人がどうするかを必ずしも決定する必要はない。 あるいは止めるのも許すのも、 それぞれに大きな利益を生ずるのである。 あるいはまた、 人の意楽こころが不同であるように、 非人の願いもまた不同であるという外はない。 学ぶ者は、 よろしく決めるがよい。

 ^問う。 ちなみに言う。 かの戒を犯した出家の人を供養したり悩ますならば、 どれほどの罪、 あるいは福を得るのであるか。

 ^答える。 «十輪経» の偈に説かれている。

恒河の沙の数ほどの仏の 解脱さとり幡相はたじるしの衣を着ているもの

この人に対して悪心を起こすならば かならず無間地獄に堕ちるであろう 袈裟のことを 「解脱幢相の衣」 というのである。

^«大集経» の月蔵分に説かれている。

もし、 かの人を悩ますならば、 その罪は、 万億の仏身から血を出す罪よりも重い。 もし、 この人を供養するならば、 やはり無量無数の大きな福徳を得る。 意味を取った。

 ^問う。 もし、 そうであるならば、 ひたすらこの人を供養すべきであろう。 どうして、 この人を取締って、 大きな罪の報を招いてよかろうか。

 ^答える。 もし、 その力がありながら、 破戒の者を、 ねんごろに取締らないならば、 その人もまた罪過つみとがを得るのである。 これは仏法の大きな怨である。 ^それ故に «涅槃経» の第三巻に説かれている。

法をたもつ比丘は、 戒を破り正法をそこなう者があるのを見るならば、 ただちに追いやり、 責め、 そのところをとりあげねばならぬ。 もし善い比丘が、 法をそこなう者を見ながら、 そのままにして、 責め、 追いやり、 その処を取りあげなかったならば、 この人は、 仏法の中の怨であると知るべきである。 もしよく、 追いやり、 責め、 その処を取りあげるならば、 これはわたしの弟子であり、 真の声聞である。 (中略) もろもろの国王や四部 (僧・尼・信男・信女) の人々は道を学ぶもろもろの人たちを勧めて、 すぐれた持戒・禅定・智慧を得させるべきである。 もし、 この三種の法を学ばず、 怠って戒を破り、 正法をそこなう者があるならば、 国王・大臣・四部の人々は、 ねんごろに取締るべきである。

^また説かれている。

もし比丘が、 たとい禁戒を持っても、 利養を受けたいために、 破戒の者と行動を共にし、 たがいに親しくし、 その行業を一緒にするならば、 これを破戒と名づける。 (中略) もし比丘が、 閑静な処にいても、 六根がさとくなく、 鈍くぼんやりし、 欲少なく、 乞食し、 説戒の日および自恣の時には弟子らを教えて、 清浄に懴悔させるけれども、 弟子でない者が禁戒を多く犯すのを見ても、 清浄に懴悔させるように教えることができないで、 かえってそのような者と共に説戒し、 自恣するならば、 この人を愚痴僧と名づける。 抜き書きした。

 ^これによって、 あるいは過ぎてもあるいは及ばなくても、 みな仏の仰せに相違するということが明らかに知られたのである。 その間のおもむきは、 すべてその意味を得ることに存するのである。

【80】^第十に助道の人法というのは、 略して三つある。

 ^一つには明師で、 内心・外相についてのおきてを善く知り、 障を教えて除くことのできる人に仕えて、 敬い習うがよい。 それ故に «大論» にいわれている。

また雨が降ると、 山の頂にはとどまらずに、 必ず低い処に流れこむようなものである。 もし人が心驕って、 自分を高くするならば、 法の水は入らぬ。 もし善い師を敬うと、 功徳はその人に入りこむ。

 ^二つには、 けわしい道を共にわたるようにする同行をもとめて、 そうして臨終に至るまで、 互に勧め励ましあうがよい。 それ故に «法華経» に説かれている。

善知識は、 大因縁である。

^また言われている。

阿難が 「善知識は半分の因縁であります」 というと、 仏は 「そうではない。 全分の因縁である」 と仰せられた。

 ^三つには、 念仏と相応する聖教の文を常に受けたもち、 ひらき読み、 習い学ぶがよい。 それ故に «般舟三昧経» の偈に、

この三昧を説く経は真の仏のことばである たとい遠方でもこの経があると聞くならば

さとりのための法であるから往って聴き受け 一心にとなえて忘れ捨ててはならぬ

たとい往き求めて聞くことができなくても その功徳の福は尽きることがなく

よくその徳義を量ることはできない まして聞きおわって すぐに受け持つ者はなおさらである

と説かれている。 「遠方」 というのは、 四十里・四百里・四千里などのことである。

 ^問う。 どういう聖教の文が念仏に相応しているのか。

 ^答える。 前に引いた西方極楽の証拠の文のごときは、 みなその文である。 ^けれども、 正しく西方浄土に往生するための観行、 ならびに九品の行果を明かすことは «観無量寿経» 一巻。 畺良耶舎の訳 には及ばない。 ^阿弥陀仏の本願、 ならびに極楽のくわしいすがたを説くことは、 «無量寿経» 二巻。 康僧鎧の訳 には及ばない。 ^諸仏の相好、 ならびに、 その相好を観ずることによる滅罪を明かすことは «観仏三昧経» 十巻あるいは八巻。 覚賢の訳 には及ばない。 ^色身・法身の相、 ならびに三昧の勝れた利益を明かすことは «般舟三昧経» 三巻あるいは二巻。 支婁迦讖の訳 «念仏三昧経» 六巻あるいは五巻。 功徳直と玄暢との共訳 には及ばない。 ^修行の方法を明かすことは、 上の三経、 ならびに «十往生経» 一巻 «十住毘婆娑論» 十四巻あるいは十二巻。 龍樹の造、 羅什の訳 には及ばない。 ^日々の読誦は «小阿弥陀経» 一巻五紙。 羅什の訳 には及ばない。 ^偈文にして総じて説くのは、 «無量寿経優婆提舎願生偈» あるいは «浄土論» と名づけ、 あるいは «往生論» と名づける。 世親の造、 菩提流支の訳。 一巻 には及ばない。 ^修行の方法は、 多く «摩訶止観» 十巻 および善導和尚の «観念法門» ならびに «六時礼讃» それぞれ一巻 に明かされている。 ^問答による解釈は、 多く天台大師の «十疑論» 一巻 道綽和尚の «安楽集» 二巻 慈恩大師の «西方要決» 一巻 懐感和尚の «群疑論» 七巻 にある。 ^往生した人々の伝記は、 多く迦才師の «浄土論» 三巻 ならびに «端応伝» 一巻 に明かされている。 ^その他、 いろいろ多いけれども、 要は、 この範囲を出ないのである。

 ^問う。 行者は自分でかのいろいろな聖教の文を学べばよい。 どういうわけで、 いまわずらわしくこの «往生要集» を著作したのであるか。

 ^答える。 序文でいっておいたではないか。 わたくしのようなものは、 多くの聖教の文をひらくことが難しいから、 少しばかり、 その肝要な文を抜き書きするのである。

 ^問う。 «大集経» に説かれている。

あるいは経文に抜き出し写すのに、 文字を抜かし、 あるいは他の法を損ない壊し、 あるいは、 他の経を覆いかくす。 こういう悪業の縁で、 いま盲目めしいの報を得たのである。

 ところで、 いま経や論を抜き書きする際、 あるいは多くの文を省略したり、 あるいは前後の順序を乱している。 これは生まれながらの盲目になる因であろう。 どうして、 みずからそこなうようなことをするのであるか。

 ^答える。 印度・中国の論師や人師たちが、 経論の文を引用する時、 多くは省略して意味だけを取っている。 それ故に、 経文の旨をあやまり乱すことは盲目となる因ではあるけれども、 文字を省略することは、 盲目となる因ではないことが知られるのである。 あるいはまた、 かの十法行の中において、 初めの書写の行について、 文を抜かすのはとがであるけれども、 理解させやすくするために、 抜き書きすることは過ではないのである。 まして、 今わたくしが抜き出したものは、 多くは、 そのままの文を引くか、 あるいは諸師が抜き出された文である。 またくわしく全文を出すことができないような場合には、 注を施して、 あるいは 「中略」 といい、 あるいは 「抜き書きした」 といい、 あるいは 「意味を取った」 といってある。 これは学ぶ者に、 本文を考え易いようにさせたい、 と思ったからである。

 ^問う。 引かれたそのままの文は、 誠に信を生ずべきである。 ただ、 しばしば私のことばを加えてあるのは、 どうして、 人の謗りを招かないことがあろうか。

 ^答える。 そのままの文ではないけれども、 決して道理は失われていない。 もし、 それでもまだあやまりがあるならば、 決してこれを固執しない。 この書を見る者は、 取捨して、 正しい道理に順わせていただきたい。 しかし、 もしひとえに謗りを生ずるならば、 これもまた決して辞するものではない。

^«華厳経» の偈に説かれている。

もし菩薩の いろいろの行を修めるのを見て

善心または不善心を起こしても 菩薩はみな摂めとるであろう

 ^これによって、 そしりを生ずるのもまた結縁になることが知られる。 わたしがもしさとりを得るならば、 願わくは、 かれを導き摂めよう。 かれがもし道を得るならば、 願わくは、 わたしを導き摂めていただきたい。 こうして菩提に至るまで、 互に師弟となろう。

 ^問う。 ちなみにいう。 長い間、 筆を染めて、 身心をわずらわしたことである。 その功は無いとはいえないが、 どういうことを期しているのか。

 ^答える。

このもろもろの功徳によって 願わくは 命終の時に

阿弥陀仏のはかりなき 功徳のおん身を見たてまつらんことを

わたくしおよびその他の信者たちはともに かの仏を見たてまつりおわり

願わくは煩悩を離れた智慧の眼を得て 無上菩提をさとらんことを

【81】^永観二年冬十一月、 天台山延暦寺首楞厳院でこの文を撰び集め、 明くる年の夏四月に、 その功を終えたのである。 ある僧の夢に、 毘沙門天が髪をあげまきに結った二人の童子をひきいて来られ、 「源信が撰んだ «往生要集» はみな経論の文である。 一たびでも見、 一たびでも聞いた人々は無上菩提を証ることができる。 是非とも一偈を加えて、 広く流布させるがよい」 と告げられたという。 他日、 その僧がわたくしにその夢を語った。 それで偈を作っていう。

すでに聖教と正理とに依り

人々を勧めて極楽に生まれさせる

さてもめぐりめぐって一たびでも聞く者は

願わくは共に速やかに無上仏果を証りたいものである