阿弥陀仏の相海を観念する三昧の功徳の法門 一巻

比丘善導集め記す

 

【1】^一、 ¬*かんぎょう¼ によって*観仏かんぶつ三昧ざんまいの方法を明かす。

二、 ¬*般舟はんじゅ三昧ざんまいきょう¼ によって*念仏ねんぶつ三昧ざんまいの方法を明かす。

三、 経 (般舟三昧経など) によって道場に入って修する念仏三昧の方法を明かす。

四、 経 (般舟三昧経など) によって道場内の*さん・発願の方法を明かす。

【2】 ^¬観経¼ によって観仏三昧の法を明かす。 ^(観経・*観仏三昧経に出ている)

 ^*弥陀みだぶつの真金色の御身の*円光えんこうが輝きわたり、 端正で比べものがないことを観ずるには、 ^行者たちは、 いついかなる処にあっても、 昼夜つねにこの想をなし、 *行住ぎょうじゅう坐臥ざがにもまたこの想をなして、 いつもこころをとどめて西方に向かい、 *じょうの聖衆や、 いろいろな宝でできている一切の荘厳などのありさまにいたるまで、 目の前に対するようにせねばならぬ。

【3】 ^また行者が、 もし坐して観じようと思うならば、 まず*けっ趺坐ふざせよ。 それは左の足を右のももの上に置いて足の裏を外とひとしくし、 右の足を左のの上に置いて足の裏を外と斉しくするのである。 そして右手を左の手掌てのひらの中に置き、 両手の親指の腹を合わせよ。 次に身をととのえて正しく坐り、 口を合わせて眼を閉じよ。 そのありさまは開くに似て開かず、 合しているようで合しないようにするのである。

 ^そこで心眼をもってまず仏の頂上の*けいよりこれを観ぜよ。 頭皮は金色で、 髪は紺青色をしており、 すべての髪の毛はうず巻いて頭上にあり、 頭骨は雪の色をして内外にすきとおり、 脳は*玻璃はりのような色をしている。 ^次には脳に十四のすじがあり、 その一々の脈に十四本の光があり、 それが髪の根元の孔より外へ出て髪蠃かみのうずまきを七たびめぐり、 また毛端の孔から入ると想え。 ^次に、 前の光が二つの眉の毛根の孔より出て外に放たれると想え。 ^次に、 額が広く平らでととのうているすがたを想え。 ^次に眉が高くて長く、 あたかも新月のようであるのを想え。 ^次に、 眉間の*びゃくごう相を想え。 それは巻いて眉と眉の間にあり、 その毛は白くて中がうつろになり、 金色の光をその毛端より出してただちに行者自身を照らすと想うのである。 ¬観仏三昧経¼ に説かれているとおりである。 「もし人あって、 しばらくの間でも白毫相を観ずるならば、 あるいは見ることができ、 あるいは見ることができなかったとしても、 九十六億*那由なゆ*ごうしゃ*だいじんこう生死まよいの重い罪を除く」 と。 常にこの想をなせば大いに障を除き、 罪を滅ぼす。 また無量の功徳を得て、 諸仏がお喜びになる。 ^次に、 両眼が広長で黒白がはっきりしており、 その光はあまねくゆきわたらぬところなく照らすと想え。 ^次に、 鼻は長く高くまっすぐで、 ちょうど鋳型にはめた金鋌きんのあらがねのようであると想え。 ^次に、 お顔は円満でよくととのっていることを想え。 ^次に、 耳朶みみたぶは垂れ下がって、 孔には七本の毛があり、 光が毛の内から出てあまねく仏身を照らすと想え。 ^次に、 唇の色が赤くあざやかで光りつややかなるを想え。 ^次に、 歯は白くて緻密にととのい、 その白いことはげつ (雪のように白く光る貝) のように内外がすきとおっていると想え。 ^次に、 舌は薄く広長でやわらかく、 舌の根元には二つの液道があり、 それより出て来る液が咽喉に入り、 まっすぐに心王 (心臓) に入る。 仏の心王は紅蓮華のようであって、 開いているようで開かず、 合しているようで合していない。 その心王には八万四千の花びらがあり、 互いに重なっている。 一々の花びらには八万四千のすじがあり、 一々の脈に八万四千の光があって、 一々の光が百宝の蓮華となる。 一々の華の上には一人ずつ*じゅうの位の菩薩がおられる。 その身はみな金色であって、 おのおの手に香華をもって如来の心王を供養し、 口をそろえて心王をほめたたえている。 もし行者たちがこの相をなすときには、 罪障を除き、 無量の功徳を得て、 諸仏・菩薩はお喜びになり、 天神・鬼神も歓喜するのである。 ^また心を上の方に向けて、 次にのどうなじのまどかな相や両肩のまどかな相を想え。 ^次に、 両ひじのまどかにととのった相を想え。 ^次に両手のたなごころがゆたかに平らで*せん輻輪ぷくりんの相があり、 十本の指は、 しなやかで長く、 指の間には*網縵もうまんの相があり、 爪が赤銅色をしている相を想え。 ^また心を上の方に向け、 次に、 仏の胸が平らかでゆたかな相をしており、 まんじの相が明らかであるのを想え。 ^次に、 腹が平らで出ていない相を想え。 ^次に、 ほぞが円く、 その孔が深くて、 光がつねに内外を照らしているのを想え。 ^次に如来の陰蔵かくしどころの相を想え。 平満なことあたかも十五夜の月のようであり、 また腹や背中のように平らで区別するところがない。 仏は 「もし男子や女人があって、 多く色欲を好むものは、 すなわちこの如来の陰蔵の相を想えば、 その欲心はただちに止んで、 罪や障が除かれ無量の功徳を得て、 諸仏は歓喜せられ、 天神・鬼神も心をくして、 影の形に添うように護り、 長命安楽でとこしえに病痛がない」 と説かれている。 ^次に、 両方のももや膝、 膝の骨が円かであると想え。 ^次に、 両脛が鹿王ろくおうはぎのようであると想え。 ^次に、 両足のかかとが象王の鼻のようであると想え。 ^次に、 両足の (甲) が高く、 亀王の背のようであると想え。 ^次に、 十本の足の指が長く、 その間には網縵があり、 爪が赤銅色であると想え。 ^次に、 仏の結跏趺坐の相を想え。 すなわち左の足を右のの上に置いて外と斉しくし、 右の足を左のの上に置いて外と斉しくしておられる。 ^次に、 両足の裏が平らで千輻輪の相があるのを想え。 たがとがそなわり、 みな光明があって十方世界をあまねく照らしている。

 ^このように頭の頂上から下は足の千輻輪の相に至るまで観想するのを、 ªつぶさに仏のおすがたの荘厳功徳を観ずるº と名づけ、 これを順観と名づける。

【4】 ^また次に、 華座のものがらを想え。 ^次に、 華台のすがたを想え。 ^次に、 華葉はなびらを想え。 華葉が互いに重なって八万四千重であり、 ^一々の華葉の上に百億の宝のかざりがあり、 一々の宝の中には八万四千の光明があって華台の上の仏身を照らすと想え。 ^次に、 その宝華の茎が八面よりなり、 ^一々の面は百千の宝でかざられ、 大光明を放って上下を共に照らすと想え。 ^次に、 茎の下は宝地に依り、 その地面の上の多くの宝はみな八万四千の光明を放ち、 一々の光明は仏身を照らし、 また十方の*六道ろくどうを照らすと想え。 ^またすべての光明が行者自身を照らし来たると想え。 ^この想をするとき、 罪や障が除かれ、 無量の功徳を得て、 諸仏・菩薩は歓喜せられ、 天神・鬼神もまた喜んで日夜行者の身に随って影のように離れず護ってくださる。 そこで行者は行住坐臥にいつも安穏で長命や富や楽しみを得て、 とこしえに病痛がない。 仏の教えにしたがうならば、 浄土の中のありさまを見ることができる。 もし見ることができたならば、 ただ自分が知るだけにとどめ、 他の人に向かって説いてはならぬ。 もし説けば大いに罪となり、 不慮の悪病や短命の報を招くのである。 ^もし教えにかなえば、 命終る時に阿弥陀仏国に上品往生をとげる。

 ^このように上方より観じ、 下方より観ずること、 前に示すとおりに十六遍あまねく観じ、 そうして後、 心をとどめて眉間の白毫相に向かい、 極めて心をひきしめて正しくし、 さらに雑乱してはならない。 もし雑乱すれば、 定心を失って*三昧さんまいを成就することがむずかしいと知るべきである。

 ^これを観仏三昧の観法という。 ^一切の時につねに観法の徳をふり向ければ浄土に*おうじょうすることができる。 ただ ¬観経¼ の十三観によって安心し、 決して疑ってはならぬ。

【5】 ^また行者にいう。 もし浄土に往生しようと思うなら、 ただ*かいたも*念仏ねんぶつし、 ¬*弥陀みだきょう¼ を読誦せよ。 日毎に十五遍読誦すれば、 二年で一万遍になり、 日毎に三十遍すると一年で一万遍となる。 日毎に一万遍念仏せよ。 また時 (昼夜六時) によって浄土の荘厳のことを礼拝し讃嘆するよう大いに精進せよ。 あるいは日に三万・六万・十万遍などの念仏をするものは、 みな*じょうぼん上生じょうしょうの人である。 そのほかの功徳もことごとく往生にふり向けよ。

 ^以上は観仏三昧の方法を明かした。

【6】 ^¬般舟三昧経¼ の請問品 (問事品) には七日七夜道場に入って修する念仏三昧の法を明かされている。 ^(一巻本による)

^仏がばつ陀和だわに告げられる。 「三昧があって、 その三昧を ª十方諸仏がことごとく前にあって立つº と名づける。 よくこの法を行ずるなら、 そなたの聞うところはことごとく得るであろう。」 ^跋陀和が仏に申しあげる。 「願わくは、 わたしのために、 それをお説きください。 それによって多くの衆生が救われ、 十方世界が安穏になるでありましょう。 もろもろの衆生のために三昧成就の大明相を示現してください。」 ^仏が跋陀和に告げられる。 「三昧があって定意と名づける。 修行しようとする者は、 常にこれを守りたもって、 また他の法に随ってはならぬ。 この法は功徳の中で最も勝れたものである。」

【7】 ^次に行品に説かれている。

仏が跋陀和に告げられる。 「菩薩がすみやかに、 この定意を得ようと思うならば、 常に大信を立てて作法どおりにこれを行ぜよ。 そうすれば得ることができる。 毛髪ほどの疑いの想もあってはならぬ。 この定意の法を ª菩薩のすべての行に超えすぐれたものº と名づける。

^専一の念を立てて この法を信じ

聞くところに随って 西方を念じ

よろしく念を一にして いろいろな想を断たねばならぬ

決定の信を立てて 疑ってはならぬ

励み行じて おこたってはならぬ

^有や無の想を 起してはならぬ

進をおもうてはならぬ 退を念うてはならぬ

前を念うてはならぬ 後を念うてはならぬ

左を念うてはならぬ 右を念うてはならぬ

無を念うてはならぬ 有を念うてはならぬ

遠を念うてはならぬ 近を念うてはならぬ

痛を念うてはならぬ 痒を念うてはならぬ

飢を念うてはならぬ 渇を念うてはならぬ

寒を念うてはならぬ 熱を念うてはならぬ

苦を念うてはならぬ 楽を念うてはならぬ

生を念うてはならぬ 老を念うてはならぬ

病を念うてはならぬ 死を念うてはならぬ

命を念うてはならぬ 寿を念うてはならぬ

貧を念うてはならぬ 富を念うてはならぬ

貴を念うてはならぬ 賎を念うてはならぬ

色を念うてはならぬ 欲を念うてはならぬ

小を念うてはならぬ 大を念うてはならぬ

長を念うてはならぬ 短を念うてはならぬ

好を念うてはならぬ 醜を念うてはならぬ

悪を念うてはならぬ 善を念うてはならぬ

瞋を念うてはならぬ 喜を念うてはならぬ

坐を念うてはならぬ 起を念うてはならぬ

行を念うてはならぬ 止を念うてはならぬ

経を念うてはならぬ 法を念うてはならぬ

是を念うてはならぬ 非を念うてはならぬ

捨を念うてはならぬ 取を念うてはならぬ

想を念うてはならぬ 識を念うてはならぬ

断を念うてはならぬ 着を念うてはならぬ

空を念うてはならぬ 実を念うてはならぬ

軽を念うてはならぬ 重を念うてはならぬ

難を念うてはならぬ 易を念うてはならぬ

深を念うてはならぬ 浅を念うてはならぬ

広を念うてはならぬ 狭を念うてはならぬ

父を念うてはならぬ 母を念うてはならぬ

妻を念うてはならぬ 子を念うてはならぬ

親を念うてはならぬ 疎を念うてはならぬ

憎を念うてはならぬ 愛を念うてはならぬ

得を念うてはならぬ 失を念うてはならぬ

成を念うてはならぬ 敗を念うてはならぬ

清を念うてはならぬ 濁を念うてはならぬ

もろもろの念を断って 一期のあいだ正念し

意を乱してはならぬ ^つねに精進して

歳をはかってはならぬ 日におこたってはならぬ

専一の念を立て 中断してはならぬ

睡眠を除いて そのこころをはげませ

^いつもひとりいて 多くあつまってはならなぬ

悪しき人を避け 善き友に近づき

明師に親しんで 仏のように仰げ

その志をたもって いつもやさしくし

あらゆるものを 平等に観ぜよ

郷里を避けて 親族みうちに遠ざかり

愛欲を棄てて 清浄の行を修め

*無為むいの道を行じて もろもろのよくを断ち

乱れる意を捨てて 定意の行を修め

経文の智慧を学んで 禅定にかなうようにせよ

*三毒さんどくを除いて *ろくにゅうの穢を去れ

淫欲を絶って 愛着を離れよ

財宝を貪って 多くたくわえてはならぬ

食は足ることを知って 味を貪ってはならぬ

生きものの命を大切にし 謹んで食べてはならぬ

衣服は法にかない 飾ってはならぬ

他人を嘲弄してはならぬ 憍慢であってはならぬ

自らおごってはならぬ 他に対してたかぶってはならぬ

もし経を説くならば 法のごとくにせよ

わが身は本より 幻のようであると知って

*うんに執着してはならぬ *じゅう八界はちかいにとらわれてはならぬ

五陰は賊のようであり *だいは蛇のようである

すべては無常であり かりそめのものである

常住の主体はなく 本来無である

因縁によってでき 因縁によって散ずる

このようにすべてを 本来無なりと知って

しかもあらゆるものに あわれみをかけ

貧しきものに施し 迷える者を救う

^これが定意であり 菩薩の行の中で

至要な智慧をうる法であり 最もすぐれた行である」

【8】 ^仏が跋陀和に告げられる。 「この行法を修めるならば、 *般舟はんじゅ三昧ざんまいを得て、 現在の諸仏がことごとく前にあって立たれる。 ^もし僧・尼や信男・信女があって法のごとく修行するには、 戒を完全にたもち、 独り静かな一処にとどまって西方の阿弥陀仏を念ぜよ。 いま現にかしこにましますと聞くところにしたがってまさに念ぜよ。 ここより十万億の仏国を過ぎて、 その国をしゅだい (*極楽ごくらく) と名づける。 ^一心にこれを念じて一日一夜あるいは七日七夜せよ。 七日を過ぎて後に阿弥陀仏を見たてまつるであろう。 たとえば、 人が夢の中で見るものは、 昼夜を分けず、 また内外の区別なく、 くらい中にあっておおいかくすところがあるからといって見えないのでもない。 ちょうどそれと同じようである。 跋陀和よ、 僧・尼や信男・信女がいつもこのおもいをするときには、 諸仏の世界の中のもろもろの大山や*しゅせん、 そのあらゆる幽冥くらがりの所が、 ことごとく開かれておおいかくされるところがない。 この*しゅ*天眼てんげんつうで見とおしたのではなく、 *てんつうで聴きとおしたのでもなく、 *神足じんそくつうでその浄土に到るのでもなく、 この世界に終ってかの浄土に生れるのでもない。 すなわち、 ここに坐して阿弥陀仏を見たてまつるのである。」

^*しゃぶつが仰せられる。 「四衆は、 この世界において阿弥陀仏を念ずるのに、 もっぱら念ずるから阿弥陀仏を見ることができるのである。 そこで ¬何の法をたもって浄土に生れることができましょうか¼ と問え。 阿弥陀仏が答えて仰せられるであろう。 ¬わが浄土に来生しようと思うならば、 まさにわが名を念ぜよ。 念ずることをやめなければ来生することができる¼ と。」

^釈迦仏が仰せられる。 「専ら念ずるから往生することができるのである。 つねに、 仏身には*さんじゅうそう*はちじゅうずいぎょうこうがあって、 はかり知れない光明が輝きわたり、 端正でくらべものがないおすがたで、 菩薩僧たちの中にあって法をお説きになっていることを念ぜよ。 しきを壊りすててはならぬ。 なぜかというと、 色を壊らないから仏の色身を念ずることによって、 この三昧を成就するのである」 と。

 ^以上は念仏三昧の方法を明かした。

【9】 ^三昧の道場に入ろうと思う時には、 もっぱら仏教の定める方法によれ。 まず道場をととのえて尊像を安置し、 香湯で拭き清めよ。 もし仏堂がないならば清らかな室でもよい。 それも法にかなって掃き清め、 一つの仏像を西側の壁に安置せよ。^行者たちは、 月の一日から八日まで、 あるいは八日から十五日まで、 あるいは十五日から二十三日まで、 あるいは二十三日から三十日までと、 月毎に四つの時期に分けるのがよい。 行者たちはみずから家業の軽重を考えて、 この時期の中の都合よいときに清浄の行道に入れ、 ^もしは一日より七日にいたるまで、 すべて清浄な衣服を用い、 鞋靺くつもまた新らしく浄らかなものを用いよ。 七日の間はいつも一食の長斎をもちい、 軟餠・粗飯で、 その時その時の味をつけた野菜を用いて、 質素を旨とし、 その量も適量を越えないようにせよ。

 ^道場の中では、 昼夜に心を散らさず相続して、 専心に阿弥陀仏を念じ、 心と声とをつづけて絶えないようにし、 ただ坐るも、 ただ立つも、 七日のあいだ眠ってはならぬ。 また時 (昼夜六時) によって礼拝したり、 経を読誦したりしなくてもよい。 じゅもまた持たなくてもよい。 ただ合掌して仏を念ずるばかりと知って、 念々に見仏の想をせよ。 釈迦仏が仰せられる。 「阿弥陀仏の真金色の御身は、 光明が輝きわたり、 端正でくらべものがなく、 行者の心眼の前にいられると想念せよ」 と。 正しく仏を念ずる時、 もし立つならたったままで一万遍・二万遍念ぜよ。 もし坐るなら坐ったままで、 一万遍・二万遍念ぜよ。 道場内では頭を寄せて私語を交えてはならぬ。

【10】^また、 昼夜にあるいは三回あるいは六回、 諸仏や一切の賢聖・天曹てんのかみ地府ちのかみや一切の業道 (五道の*みょうかん) に申しあげて、 生れてよりこのかたしん*三業さんごうに造った多くの罪を口にあらわし懴悔せよ。 事実に基づいて懴悔し終ったならば、 また法に依って念仏せよ。 そのとき現れた境界ありさまはたやすく説いてはならぬ。 それが善いものであるならば、 みずから知るにとどめ、 悪いものであるならば懴悔せよ。 酒や肉や五辛は決して手にとらず口に食べないと誓え。 もしこのことばたがうならば、 体や口に悪いかさができるように願え。 あるいは ¬阿弥陀経¼ を読むこと十万遍を満たそうと願え。 日毎に念仏を一万遍し、 経を読むこと日毎に十五遍、 あるいは二十遍・三十遍と力の多少に任せて浄土の往生を誓い、 仏の摂め取りたもうことを願え。

【11】^また、 行者たちが病んでも病まなくても、 命の終ろうとするときには、 もっぱら上に述べたような念仏三昧の方法に依って、 まさしく身心をうちこんで顔を西に向け、 心もまた専注して阿弥陀仏を観想し、 心も口も相応して称名を絶たすことなく、 決定して往生の想いをなし、 蓮台にのった聖衆が来たって迎えてくださる想いをせよ。 ^病人は、 もしその境界ありさまを見たならば、 看病人に向かって説け。 すでに説くのを聞きおわったならば、 説かれたとおりに記録せよ。 また病人が、 もし語ることができなければ、 看病人は必ずしばしばどのような境界を見たかと病人に問え。 もし罪の様相を説いたならば、 そばの人はその人のために念仏し、 助けて同じく懴悔し、 必ず罪を消滅させよ。 もし罪を滅することができて、 華台に乗った聖衆たちがその念に応じて目の前に現れたならば、 前と同じように記録せよ。 ^また、 行者たちは、 親族のものが来て看病する場合には、 酒や肉や五辛を食べた人がいないようにせねばならない。 もしそのような人がいたならば、 決して病人のほとりへ近づかせてはならぬ。 もしそういうことがあれば、 病人は正念を失い、 鬼神がこもごも来て乱し、 病人は狂死して*三悪さんまくどうに堕ちるであろう。 願わくは行者たちよ、 よくみずからつつしんで仏の教えを奉持し、 同じように仏を見たてまつる因縁をおこせよ。

 ^以上は入道場ならびに看病人についての作法である。

【12】^経によって五種の*ぞうじょうえんの義を明かす 一巻

 一、 ¬*りょう寿じゅきょう¼ による。

 二、 ¬*じゅうろくかんぎょう¼ による。

 三、 四紙の ¬阿弥陀経¼ による。

 四、 ¬般舟三昧経¼ による。

 五、 ¬*じゅうおうじょうきょう¼ による。

 六、 ¬*じょう三昧さんまいきょう¼ による。

【13】^謹んで釈迦仏の教えである六部の往生経などによって、 阿弥陀仏を称念して浄土に往生しようと願う者は、 現世に寿命を延ばすことを得て*おうなんに遇わないことを明らかにする。 その一々のくわしいことは、 下の五種の因縁の義の中に説くとおりである。

 ^問うていう。 仏はすべての衆生に*だいしんをおこして西方の阿弥陀仏の浄土に生れることを願えと勧められている。 また阿弥陀仏の像を造って、 その徳を称揚し礼拝し、 香華をもって供養し、 日夜に観想して絶えないように勧められ、 また専ら阿弥陀仏の*みょうごうを一万・二万・三万・五万遍から、 さらには十万遍称えることを勧められ、 あるいは ¬阿弥陀経¼ を十五・二十・三十・五十遍から百遍読誦して遂に十万遍を満たすことを勧められるが、 これは現生にどのような功徳を得るのか、 また百年の命をおわった後に、 どのような利益があって、 浄土に往生することができるのか、 どうか。

 ^答えていう。 現生および命をおわった後には必ず大きな功徳利益がある。 ^それについて仏の教えをよりどころとして五種のすぐれた利益の因縁を明らかにしよう。 一つには、 滅罪 (罪をほろぼす) の増上縁、 二つには、 護念得長命 (護念せられて長命を得る) の増上縁、 三つには、 見仏 (仏を見たてまつる) の増上縁、 四つには、 せっしょう (摂めとって往生させてくださる) の増上縁、 五つには、 証生しょうしょう (往生を証明してくださる) の増上縁である。

【14】^滅罪の増上縁とは、

 ^すなわち ¬観経¼ の下品上生の人のようなのは、 一生につぶさに*じゅうあくの重罪を造る。 その人が病を得て死のうとするときに、 *ぜんしきが教えて阿弥陀仏の名号を一声称えさせるのに遇う、 そこで五十億劫の生死まよいの重罪を除く。 これがすなわち現生における滅罪の増上縁である。

 ^また、 *ぼん中生ちゅうしょうの人のようなのは、 一生の間つぶさに仏法でいうところの罪を造る。 すなわち斎を破り、 戒を破り、 仏・法・僧の*三宝さんぼうのものをみだりに食し用いて*ざんを起さない。 その人が病を得て死のうとするとき、 *ごくの猛火が一時にみな現れる。 ことのき善知識がその人のために阿弥陀仏の身相おすがたの功徳や浄土の荘厳を説くのに遇う。 罪人はこれを聞きおわると、 八十億劫の生死の罪を除き、 地獄はたちまち消滅してしまう。 これまた現生における滅罪の増上縁である。

 ^また、 *ぼんしょうの人のようなのは、 一生の間つぶさに最も重い*ぎゃくの罪を造って、 死後、 地獄を経めぐって苦しみをうけることがきわまりないであろう。 この罪人が病を得てまさに死のうとするとき、 善知識が教えて阿弥陀仏のみ名を十声称えさせるのに遇う、 その一声一声において八十億劫の生死の重罪を除く。 これもまた現生における滅罪の増上縁である。

【15】^また、 もし人あって、 ¬観経¼ などによって浄土の荘厳の変相ありさまをえがいて、 日夜に浄土の宝地を観想するならば、 現生において念々に八十億劫の生死の罪を除く。

 ^また、 経によって浄土の変相ありさまをえがいて、 浄土の宝樹・宝池・宝楼閣などの荘厳を観想すれば、 現生において無量億劫のはかり知れない生死の罪を除く。

 ^また、 華座の荘厳の観法によって日夜に観想すれば、 現生において念々のうちに五十億劫の生死の罪を除く。 ^また、 経によって像観・真身観、 観音・勢至などの観をなすものは、 現生において念々のうちに無量億劫の生死の罪を除く。

 ^上に引くようなのは、 いずれもこれは現生における滅罪の増上縁である。

【16】^また護念の増上縁というのは、

 ^すなわち第十二観の中に説かれているとおりである。 もし人が、 あらゆる時、 いかなる処においても、 日夜に心をこめて弥陀の浄土の*しょうほうの荘厳を観想して、 もしは見ても、 見なくても、 *りょう寿じゅぶつは無数の化仏をあらわし、 *観音かんのん*せいの二さつもまた無数の化身をあらわして、 常にこの行者のところに来てくださる。 またこれが現生における護念の増上縁である。

 ^また、 ¬観経¼ の下の文にあるように、 もし人が、 まごころから常に阿弥陀仏および二菩薩を念じたならば、 観音・勢至は常にこの行者のために善き友となって、 影の形にそうように護ってくださる。 これもまた現生における護念の増上縁である。

 ^また、 第九の真身観に説かれてあるように、 阿弥陀仏は金色の御身であって、 眉間の白毫相の光明はあまねく十方世界の衆生を照らし、 御身の毛孔の光もまたあまねく衆生を照らし、 円光もまたあまねく衆生を照らし、 八万四千の相好などの光もまたあまねく衆生を照らされる。 また、 さきにいうような身相おすがたなどの光明は、 一々があまねく十方世界を照らすが、 ただ専ら阿弥陀仏を念ずる人だけを、 かの阿弥陀仏の心光は、 いつもこの人を照らし、 摂め護って捨てられない。 べて余の*りき*雑業ぞうごうの行者を照らし摂めるとはいっていない。 これもまた現生における護念の増上縁である。

【17】^また、 ¬十往生経¼ に説かれているとおりである。

仏が山海さんかい菩薩および*なんに告げられる。 「もし人が専ら西方の阿弥陀仏を念じて往生を願うならば、 わたしは今より後、 常に*じゅうさつに行者を影の添うように護らせ、 悪鬼や悪神に行者を悩乱せしめず、 日夜常に安穏ならしめよう。」

と。 これもまた現生における護念の増上縁である。

【18】^また、 ¬阿弥陀経¼ に説かれているとおりである。

もし男子・女人が、 七日七夜、 さらには一生を終るまで、 一心に専ら阿弥陀仏を念じて往生を願うならば、 この人は常に六方の*ごうしゃほどの仏たちがともに来たって護念せられる。 それゆえにこの経を ª護念経º と名づける。

と。 ª護念経º という意は、 またすべての悪鬼や悪神にその手がかりを得させず、 また不慮の病や不慮の死や不慮に厄難があることなく、 一切の災障わざわいがおのずから消散するからである。 至心まことのこころでない者を除く。 これもまた現生における護念の増上縁である。

【19】^また、 ¬般舟三昧経¼ の行品の中に説いていわれるとおりである。

仏が跋陀和に告げられる。 「もし人が七日七夜、 道場の中にあって、 世間のいろいろなわずらいを捨て、 すいを除き、 一心に専ら阿弥陀仏の真金色の御身を念ずること、 あるいは一日、 三日、 七日あるいは二七日とか、 五・六・七七日、 あるいは百日に至り、 あるいは一生を終るまで、 心をこめて仏を観じ、 また口にみ名を称え、 心に念ずるならば、 阿弥陀仏はその行者を摂め取ってくださる。」

と。 すでに摂めとられるのであるから、 かならず罪が消滅して、 浄土に往生できるということが知られる。

仏が仰せられる。 「もし人が専らこの阿弥陀仏を念ずる三昧を行じたならば、 いつも一切の諸天および*天王てんのう*はちしゅうなどがしたがいつきそい、 影のかたちにそうように護り、 よろこんでまみえられ、 とこしえにもろもろの悪鬼や悪神が災障・厄難をもって、 みだりに悩乱を加えることがない。」

と。 詳しくは護持品 (擁護品) の中に説かれているとおりである。 これもまた現生における護念の増上縁である。

【20】^また、 ¬*かんじょうきょう¼ によると第三巻 (第一巻) に説いていわれてある。

もし人が*さんかい*かいをたもてば、 仏は*たいしゃくてんに勅せられて、 「なんじは天神六十一人を遣わして、 昼も夜も、 年中その戒をうけた人につき随って護り、 もろもろの悪鬼神のために、 みだりに悩害されないようにせよ」 といわれる。

と。 これもまた現生における護念の増上縁である。

【21】^また、 ¬浄度三昧経¼ に説いていわれているとおりである。

仏がびょう大王 (*びんしゃ王) に告げられる。 「もし男子や女人が、 毎月の*ろく斎日さいにちおよび*はち王日おうにちに、 天曹てんのかみ地府ちのかみや一切の業道 (五道の冥官) に向かって、 しばしば自己の犯したあやまちを述べて、 斎戒をたもつならば、 仏は*ろく欲天よくてんの王に勅して、 おのおの二十五の善神を遣わして常に来て戒をたもつ人につき随って護り、 またもろもろの悪鬼神がみだりに来て悩害することがないようにし、 また不慮の病・死や禍や障りがなく、 いつも安穏を得させるように。」

と。 これもまた現生における護念の増上縁である。

【22】^また、 もろもろの行者たちに告げる。 ただ今生に日夜相続して専ら阿弥陀仏の名号を称え、 専ら ¬阿弥陀経¼ を読誦し、 浄土の聖衆荘厳を称揚・礼讃して往生を願うならば、 日毎に経を読誦すること十五・二十・三十遍以上の者、 あるいは四十・五十・百遍以上の者は、 十万遍を満たすことを願い、 ^また阿弥陀仏の浄土の依正二報の荘厳を称揚・礼讃し、 また三昧の道場に入る場合を除いて、 日毎に弥陀の名号を称えること一万遍して、 命の終るまで相続する者は、 すなわち阿弥陀仏の加護を受けて罪障を除くことができ、 また仏が聖衆たちとともに常に来て護念してくださる。 すでに護念をこうむれば、 寿命がのびて長命し安楽に暮らすことができる。 その因縁の一々はつぶさに ¬*譬喩ひゆきょう¼・¬*ゆい三昧さんまいきょう¼・¬浄度三昧経¼ などに説かれているとおりである。 これもまた現生における護念の増上縁である。

【23】^また見仏三昧の増上縁というのは、

^¬観経¼ に説いていわれるとおりである。

*摩伽まかこく王の夫人を*だいと名づける。 いつも宮殿の中にあって、 常に仏を見たてまつりたいと願い、 遥かに*しゃ崛山くっせんの方に向かい、 悲泣してきょうらいした。 釈迦仏は遥かに韋提希の念を知り、 すぐ耆闍崛山からかくれて王宮に現われたもうた。 夫人がすでに頭を挙げると、 ただちに釈迦仏を見たてまつった。 御身は紫磨金色に輝いて宝蓮華に坐りたまい、 *目連もくれんと阿難が左右に侍立し、 *梵天ぼんてん・帝釈天が空から華を散らして供養している。 夫人は仏を見たてまつって、 身を投げて号泣し、 仏に向かって哀れみを求めて懴悔し、 「願わくは、 世尊よ、 わたしに教えをたれて清浄な業の処 (浄土) を観せてください」 と申しあげた。

と。 ^この経の証拠のごときは、 ただ夫人の心が至り届いて仏を見たてまつったというだけではなく、 後の世の凡夫のために教えを起こされたことなのである。 ただ心に仏を見たてまつりたいと願う者は、 ひとえに夫人にならって、 心をこめて仏をおもうならば、 必ず仏を見たてまつること疑いない。 これはすなわち阿弥陀仏の三念願力が外から加えられるゆえに、 仏を見たてまつることができるのである。 ^その三力というのは、 ¬般舟三昧経¼ に説いていわれるようである。

一つには阿弥陀仏の大誓願力をもって加念してくださるから、 仏を見たてまつることができる。 二つには阿弥陀仏の三昧定力をもって加念してくださるから、 仏を見たてまつることができる。 三つには阿弥陀仏の因位の功徳力をもって加念してくださるから、 仏を見たてまつることができるのである。

^以下の見仏の因縁を述べる中にいうのも、 このいわれと同じである。 こういうわけで見仏三昧の増上縁と名づける。

【24】^問うていう。 韋提希夫人は福徳の力が強く勝れていて、 仏の加念をこうむるから仏を見たてまつったのである。 *末法まっぽうの世の人々はつみとがが深いから、 どうして夫人と同じ例にすることができようか。 またこのいわれははなはだ深く広大であるから、 一々くわしく経典を引用して明らかな証拠を示されたい。

 ^答えていう。 仏は*さんみょうに達せられた聖者で、 *ろく神通じんずうが自在である。 人々の*こんをよくごらんになって教えを説かれ、 機の浅深をえらばれない。 ただ誠をこめて帰依するならば、 どうして仏を見たてまつることができないと疑われようか。 ^すなわち ¬観経¼ の下の文に説いているとおりである。

釈迦仏は韋提希夫人を讃めて、 「よくこのことを尋ねた」 と仰せになり、 次いで 「阿難よ、 そなたは受けたもって広く多くの人々のために仏語を説くがよい。 わたしはいま、 韋提希および後の世のあらゆる人々に教えて、 西方の極楽世界を観じさせよう。 阿弥陀仏の願力によるから、 かの阿弥陀仏の国土を見ることが、 ちょうど明らかな鏡をもって自分の顔を見るようなものであろう。」

と。 またこの経をもって証拠とする。 また、 これも阿弥陀仏の三力が外から加えられるから、 仏を見たてまつることができる。 ゆえにこれを仏・浄土を見たてまつる三昧の増上縁と名づける。

【25】^また、 経の下の文に説かれているとおりである。

釈迦仏が韋提希に告げられる。 「そなたは愚かな凡夫で、 心想がまた劣っており遠くを見通すことができないが、 仏にはすぐれた方法があって、 そなたたちに見させるであろう。」 韋提希夫人が仏に申しあげる。 「わたしはいま仏の力によって、 かの浄土を見たてまつることができましたが、 もし仏がおなくなりになった後に、 濁悪不善で*五苦ごくめられるようなもろもろの衆生は、 どうして極楽世界を見たてまつることができましょうか。」 そこで釈迦仏が韋提希に告げられる。 「そなた、 および衆生は心を専らにし、 念をかけて、 西方浄土の*瑠璃るり地の下の一切の宝幢や地面の上のいろいろな宝や宮殿の荘厳などを想え。」

と。 専心にこころを注げば、 また上に述べた夫人と同じく見たてまつることができる。 ^そこで経文に説かれている。

一つ一つこれを観じて極めて明瞭にならしめよ。 目を閉じても目を開けても、 みな見ることができる。 このように想念するのを粗見と名づける。 これは*覚想かくそうの中に見るのであるから粗見というのである。 もし定心三昧および口称三昧を得たならば、 心眼が開けて、 かの浄土のあらゆる荘厳を見たてまつることが、 説いても説き尽すことはできない。

と。 ^また、 この経をもって証拠とする。 すべての凡夫は、 ただ心を傾けるならば、 必ず仏や浄土を見たてまつるいわれがあることを知るべきである。 たとい仏や浄土を見聞する者があっても、 驚き怪しむに及ばない。 なぜかというと阿弥陀仏の三昧の力が外から加えられるから見たてまつることができるのである。 ゆえに仏や浄土を見たてまつる三昧の増上縁と名づける。

【26】^また、 下の華座観の中に説いていわれるとおりである。

釈迦仏が阿難と韋提希に告げられる。 「わたしはそなたのために苦悩を除く法を説こう。 そなたは広く多くの者のために分別して解説せよ」 と。 この言葉をお説きになったとき、 無量寿仏と観音・勢至の二菩薩が釈迦の声に応じて現われ空中に立たれた。 韋提希はこれを見たてまつって礼拝し、 礼拝し終ってから釈迦仏に申しあげる。 「わたしは、 いま仏力によって無量寿仏や二菩薩を見たてまつることができました。 もし、 仏がくなられた後の世の衆生らは、 どうして阿弥陀仏や二菩薩を見たてまつることができるでしょうか」 と。 すると仏が告げていわれる。 「そなたや後の世の衆生が、 かの阿弥陀仏を見たてまつろうと思うなら、 まさに想念おもいをおこせよ。 七宝の地上に蓮華がある想をなせ。 蓮華の想を成し終ったなら、 次にその上に坐していられる阿弥陀仏を想え。 仏を想う時、 この心が仏の三十二相をうつしあらわすと想え。 頭上より、 下、 結跏趺坐の相に至るまでの一々のすがたについても、 またみなこれを想え。 心の想う時に随って仏身があらわれる。」

と。 これは阿弥陀仏の三力が外から加えられるから仏を見たてまつることができるのである。 また見仏三昧の増上縁という。

【27】^また、 経の下の文に説かれているとおりである。

かの阿弥陀仏を観想する者は、 まず仏の像を想うべきである。 すなわち一体の金色に輝く仏像が、 かの蓮華の上に坐していられるのを見たてまつるのである。 すでにそれを想見しおわったなら、 心眼が開けて、 極めてはっきりと浄土のあらゆる荘厳をも見たてまつる。

と。 これもまた阿弥陀仏の三力が外から加えられるために仏を見たてまつるのである。 それゆえ、 見仏三昧の増上縁という。

 ^また、 経の下の文に説かれているとおりである。

次に、 観音・勢至の二菩薩や、 そのいろいろな光明を想い、 極めてはっきりと見る。 このとき行者は、 すなわち三昧の定の中で、 まさしく水の流れや光明の荘厳などの説法する声を聞くであろう。 定より出ている時も、 定に入っている時も、 行者は常にこの妙なる法を聞くのである。

と。 これもまた、 阿弥陀仏の三力が外から加えられるから仏を見たてまつることができるのである。 それゆえ、 見仏三昧の増上縁という。

【28】^また、 下の真身観の中に説かれているとおりである。

釈迦仏が阿難に告げられる。 「像観を成就し終ったら、 次にはさらに無量寿仏の真金色の御身、 眉間の毫相、 円光・*ぶつおよび相好などの光を観ぜよ。 ただ憶想して、 心眼でもって見よ。 これを見おわれば、 十方世界のあらゆる仏たちを見たてまつることができる。 ゆえに念仏三昧と名づける。」

と。 この文をもって証拠とする。 またこれも阿弥陀仏の三力が外から加えられるから仏を見たてまつることができるのである。 それゆえ、 見仏三昧の増上縁という。

 ^また、 経の下の文に説かれているとおりである。

釈迦仏が仰せられる。 「このようなわけであるから、 智慧あるものは、 一心に無量寿仏をあきらかに観ぜよ。 それには一つの相好より入れ。 ただ眉間の白毫を観じて、 極めて明らかになるならば、 八万四千の相好は自然に見たてまつることができる。 見おわったならば、 十方の一切の諸仏を見たてまつり、 その諸仏の前で次々に*べつを授けられる。」

と。 またこの経の文をもって証拠とする。 またこれも阿弥陀仏の三力が外から加えられるから、 凡夫が専心に観ずることができたならば、 必ず仏を見たてまつることができるのである。 また見仏三昧の増上縁という。

【29】^また、 観音観・勢至観・普観・雑想観などや、 下の*ぼんの人々のようである。

一生の間、 行を修めることから七日、 一日、 十声、 一声などに至るまで、 その命終ろうとするときに阿弥陀仏を見たてまつりたいと願う者は、 もしその現生において善知識に遇うて、 行者がみずからよく心に阿弥陀仏を念じ、 口にみ名を称えるならば、 阿弥陀仏は聖衆や華台とともに現れてくださる。 行者は仏を見たてまつり、 また聖衆や華台なども見るであろう。

と。 またこの経の文をもって証拠とする。 これもまた阿弥陀仏の三力が外から加えられるために仏を見たてまつることができるのである。 それゆえ、 見仏三昧の増上縁という。

【30】^また、 経の下の文に説かれているとおりである。

釈迦仏が阿難に告げられる。 「この経を ª極楽国土・無量寿仏および観音・勢至菩薩を観ずる経º と名づける。 そなたは、 まさにこの経を受持して忘失してはならぬ。 この三昧を行ずるものは、 現身に無量寿仏および二菩薩を見たてまつることができる。

と。 またこの経文をもって証拠とする。 またこれは、 阿弥陀仏の三力が外から加えられ、 凡夫の念ずる者は自分の三心力によるから、 仏を見たてまつることができるのである。 行者の至誠心と信心と願心との三心を内因とし、 阿弥陀仏の三種の願力をもって外縁とする。 内因と外縁とが和合するから仏を見たてまつることができるのである。 それゆえ、 見仏三昧の増上縁という。

【31】^また、 ¬般舟三昧経¼ に説かれているとおりである。

仏が跋陀和菩薩に告げられる。 「三昧があって、 その三昧を ª十方諸仏がことごとく前にあって立たれるº と名づける。 もし速やかにこの三昧を得ようと思う者は、 常にみずから守り持って、 毛髪ばかりの疑いもあってはならない。 もし僧・尼・信男・信女がこの三昧を学ぼうと思うならば、 七日七夜睡眠を除き、 いろいろの乱れる想を捨てて、 独り静かな処にとどまって、 西方の阿弥陀仏の御身が真金色で三十二相をそなえ、 光明があまねく照らして、 おすがたの端正で比べるものがないのを念ぜよ」 と。 このように一心に観想し、 心に念じ口に称えて、 念々に絶えないものには、 仏が仰せられる。 「七日過ぎて後に、 仏を見たてまつるであろう」 と。 ^たとえば、 人が夜、 星座をるようなもので、 一つの星が一仏に当たる。 もし僧・尼・信男・信女がこのような観をなせば、 すべての星を見るように、 一切の仏を見たてまつることができよう。

と。 ^またこの経をもって証拠とする。 またこれは、 阿弥陀仏の三力が外から加えられるから、 仏を見たてまつることができるのである。 三昧というのは、 念仏の行者が心に仏を念じ、 口にみ名を称えて、 さらに他の想をまじえず、 念々に心をとどめ声々相続するならば、 心眼がすなわち開けて、 阿弥陀仏がはっきりと現れるのを見たてまつることができる。 これをすなわち定と名づけ、 また三昧という。 まさしく仏を見たてまつるときには、 また浄土の聖衆やいろいろな浄土の荘厳相を見たてまつる。 ゆえに、 仏・浄土を見たてまつる三昧の増上縁と名づけるのである。

【32】^また、 ¬*月灯がっとう三昧ざんまいきょう¼ に説かれているとおりである。

仏の相好や徳行を念じて

よく諸根 (眼・耳・鼻・舌・身・意) を乱さないようにし

心に惑いなく観ずる法にかなえば

聞き得 知り得ることは大海のようである

智慧ある人はこの三昧に入り

念を摂めて行ずれば その経行の所で

千億の如来を見たてまつり

また無量の恒河沙の仏に遇いたてまつる

と。 またこの経をもって証拠とする。 またこれが見仏三昧の増上縁である。

【33】^また、 ¬*文殊もんじゅ般若はんにゃきょう¼ に説かれているとおりである。

文殊菩薩が仏に申しあげる。 「どのようなのを一行三昧と名づけるのですか。」 仏が仰せられる。 「もし男子や女人が静かな処にあって、 いろいろな乱れ心を捨て、 仏のおられる方所に随って身をただしてまさしく向かい、 おすがたを観ぜずして専ら仏名を称え、 念じてやすむことがなければ、 その念の中において過去・現在・未来の三世の諸仏を見たてまつる。」

と。 また、 この経をもって証拠とする。 すなわちこれは、 諸仏が同体の大悲の念力を加えられて、 見せてくださるのである。 これもまた凡夫の見仏三昧の増上縁である。

【34】^また摂生の増上縁というのは、

 ^¬無量寿経¼ の四十八願の中に説かれているとおりである。

阿弥陀仏が仰せられる。 「もしわたしが仏になったならば、 十方世界の人々が、 わが国に生れようと願って、 名号を称えること、 わずか十声の者に至るまで、 わが願力に乗じて、 必ず往生させよう。 もしそうでなければ決して仏になるまい。」

と。 すなわちこれは浄土に往生を願う行者が命終ろうとするとき、 阿弥陀仏の願力が行者を摂めとって、 浄土に往生させてくださるのである。 ゆえに摂生の増上縁と名づける。

 ^また、 この経の上巻にいわれている。

もし人あって西方の無量寿仏の国に生れることができるのは、 みな阿弥陀仏の大願などの業力によって増上縁とする。

と。 すなわちこれを証拠とする。 これもまた、 摂生の増上縁である。

 ^また、 この経の下巻の初めにいわれている。

釈迦仏が説かれる。 「一切衆生の根機はまちまちで上・中・下の三種がある。 その根機に随って、 仏はみな無量寿仏のみ名をもっぱら称えることを勧める。 その人が命終ろうとするときに、 阿弥陀仏は聖衆と共にみずから来て迎えとり、 ことごとく往生させてくださる。」

と。 これもまた、 摂生の増上縁である。

【35】^また、 ¬観経¼ の第十一観 (第十二観) や下の九品の文のようである。 みなこれは仏みずから説かれたもので、 *じょうぜん*散善さんぜんの二行をそれぞれ修める人が、 命終ろうとするときには、 一人一人にことごとくこの阿弥陀仏がみずから聖衆と共に、 蓮台をもって手をさずけて迎えとり、 往生させてくださる。 これもまた、 摂生増上縁である。

【36】^また、 四紙の ¬阿弥陀経¼ の中に説かれているとおりである。

釈迦仏が仰せられる。 「もし男子や女人が、 あるいは一日・七日のあいだ、 一心に専ら阿弥陀仏のみ名を称えるならば、 その人の命が終ろうとするとき、 阿弥陀仏が多くの聖衆と共にみずから来て迎えとってくだされて、 すなわち西方の極楽世界に往生することができる。」 仏が仰せられる。 「わたしはこのような利益を知るから、 この言葉を説くのである。」

と。 すなわちこれを証拠とする。 これもまた摂生の増上縁である。

【37】^また、 四十八願の中に説いていわれるとおりである。

もしわたしが仏になったとき、 十方世界の人々が菩提心をおこしていろいろの功徳を修め、 心をはげましてわたしの国に生れたいと願うなら、 臨終に多くの聖衆と共にその人の前に現れるであろう。 そうでなければ決してさとりを開くまい。

と。 これもまた、 摂生の増上縁である。

 ^また、 次の願に云われているとおりである。

もしわたしが仏になったとき、 十方世界の人々がわたしの名号を聞いて、 わが国に念をかけ、 心をはげましてわが国に生れたいと願うなら、 それをかならず果たし遂けさせよう。 そうでなければ決してさとりを開くまい。

と。 これもまた、 摂生の増上縁である。

 ^また、 下の願に云われているとおりである。

もしわたしが仏になったとき、 十方世界の女人が、 わたしの名を聞いて喜び信じ、 菩提心を発して女身をきらうならば、 命終ってふたたび女身とならないであろう。 もしそうでなければ決してさとりを開くまい。

と。 ^その願のいわれをいうと、 それは阿弥陀仏の*本願ほんがんによるから、 女人が阿弥陀仏のみ名を称えるならば、 まさに命が終ったとき、 女身を転じて男子となることができ、 阿弥陀仏は手をとり、 菩薩がたは身をたすけて宝華の上に坐らせ、 そこで阿弥陀仏に随って浄土に往生し、 仏の説法の大会に加わって*しょうをさとるのである。 また、 すべての女人は、 もし阿弥陀仏の名号願力によらなかったならば、 千劫・万劫・恒河沙等の劫を経たとしても、 遂に女身を転ずることができない。 よく知るべきである。 今、 あるいは、 もし、 僧・俗の人があって、 女人は浄土に往生することができないというならば、 これはまちがった説であって、 信じてはならぬ。 また、 この経をもって証拠とする。 またこれが摂生の増上縁である。

【38】^また証生の増上縁というのは、

 ^問うていう。 今すでに、 阿弥陀仏の四十八願がすべての衆生を摂めとって浄土に往生を得させるというならば、 どのような人々を摂めとって往生を得させるのか。 また、 誰が往生できることを保証してくださるのか、 いまだ知らない。

 ^答えていう。 それは ¬観経¼ に説いていわれるとおりである。

仏が韋提希に告げられる。 「そなたは今知っているかどうか。 阿弥陀仏はここを去ること遠くはない。 そなたはまさに念をかけて、 あきらかにかの阿弥陀仏の国土を観ぜよ。 そうすれば清浄の業が成就する。 また、 後の世のすべての凡夫をして、 西方の極楽国土に往生することを得させよう。」

と。 今この経をもって証拠とする。 ただ、 これは、 釈迦仏のなくなられた後の世の凡夫が、 阿弥陀仏の願力によって、 必ず浄土に往生することができるのである。 すなわち、 これが証生の増上縁である。

【39】^また問うていう。 釈迦仏が教えを説いて人々を悟らせる。 同じ仏法であるのに、 なぜ信ずる者と信じない者とがあって、 共にあいそしりこぼつものがあるのは、 どういうわけがあるのか。

 ^答えていう。 凡夫の根性には二種ある。 その一つは善性の人であり、 他の一つは悪性の人である。 ^その善性の人とは、 一つには教えを聞けば悪を捨てて善を行なう善人であり、 二には邪を捨てて正を行なう善人であり、 三には虚を捨てて実を行う善人であり、 四には非を捨てて是を行う善人であり、 五には偽を捨てて真を行う善人である。 これら五種の人は、 もしよく仏に帰依するならば、 よくみずから利益し、 また他の人をも利益する。 家にあっては孝を行い、 外にあっては他人のために尽し、 野にあっては信を行い、 朝廷にあっては立派な人といわれ、 君につかえてはよく忠節をつくす。 それゆえ、 自性の善人と名づけるのである。

 ^悪性の人というのは、 一には真を謗って偽を行う悪人であり、 二には正を謗って邪を行う悪人であり、 三には是を謗って非を行う悪人であり、 四には実を謗って虚を行う悪人であり、 五には善を謗って悪を行う悪人である。 またこの五種の悪人は、 もし仏に帰依しようと願っても、 みずからを利益することができず、 また他人をも利益しない。 また、 家にあっては孝行でなく、 野にあっても信望がなく、 朝廷にあってはつまらぬ人といわれ、 君につかえては常にへつらいおもねる心をいだいている。 これを不忠という。 また、 この人たちは、 他の賢徳や善人の身の上において、 よく是をこぼって非をつくりあげ、 ただ人の悪い所ばかりを見いだす。 それゆえ、 自性の悪人と名づける。 また上は諸仏や賢聖がたより人天・六道のすべての善人に至るまで、 これらの悪人はそしりはずかしめている。 もろもろの智慧ある者はよく知らねばならぬ。 ^今、 一々くわしく善と悪との二性の人を挙げた。 その道理はあきらかである。 上の問に対して答えおわる。

【40】^また、 経 (観経) の下の文に説かれている。

仏が韋提希に告げられる。 「そなたおよび未来の衆生は、 心を専一にしておもいを一処にかけ、 西方浄土の地下にある金幢や地上のあらゆる宝の荘厳を想え。」

と。 下、 十三観に至るまでは、 総じて上の韋提希の二つの請いに答えられたものである。 これをもって、 明らかな証拠として、 釈迦仏が、 善悪の凡夫に心をふり向けて行を修めさせ、 ことごとく往生を得させたいと思召おぼしめされるのである。 これもまた、 証生の増上縁である。

 ^また、 経の下の文にいわれているとおりである。

多くの宝で荘厳されている国土には、 五百億の宝楼閣があり、 その楼閣の中には無数の天人がいて、 すぐれた伎楽をかなで、 このいろいろな音楽の中に、 みな仏・法・僧を念ずることが説かれている。 この観想が成就したならば、 命終ろうとするとき、 必ずかの阿弥陀仏の国土に生れることができる。

と。 またこの経をもって証拠とする。 またこれが、 証生の増上縁である。

 ^また、 経の下の文にいわれているとおりである。

仏が阿難に告げられる。 「このようなすぐれた華は、 もと*法蔵ほうぞうさつの願力によって成就せられたものである。 もしかの阿弥陀仏を観念しようと思うならば、 まずこの華座の観法をなせ。 その一々の相を観じて、 みなあきらかになるように観ぜよ。 この観想が成就した者は、 必ず極楽世界に生れるであろう。」

と。 またこの経をもって証拠とする。 またこれが証生の増上縁である。

【41】^また、 ¬無量寿経¼ に説かれているとおりである。

仏が阿難に告げられる。 「人々があって、 かの阿弥陀仏の国土に生れる者は、 みなことごとく*正定しょうじょうじゅに住する。 十方世界におられる諸仏がたは、 みな共にかの阿弥陀仏をほめたたえていられる。 もし人がその名号のいわれを聞いて、 信じ喜ぶことわずか一念の者に至るまで、 かの国に生れようと願えば、 すなわち往生を得て、 *退たいくらいに住するであろう。」

と。 またこの経をもって証拠とする。 またこれが証生の増上縁である。

【42】^また、 ¬観経¼ の九品の文に説かれているとおりである。 一々の品の中に告げられる人々は、 いずれもみな、 もしは仏の在世、 もしは仏の滅後の*じょくの世にある凡夫であって、 善知識が勧めて信をおこさせるのに遇うて、 戒をたもち、 仏名を称え、 経典を読誦し、 礼拝讃嘆してまちがいなく往生する。 阿弥陀仏の願力によって、 ことごとく往生することができるのである。 これもまた証生の増上縁である。

【43】^また、 ¬阿弥陀経¼ に説かれているとおりである。

六方におのおの恒河沙の数ほどの諸仏がおられ、 みな*舌相ぜっそうべてあまねく*三千さんぜん大千だいせんかいを覆い、 誠実まことの言を説かれる。 「もしは仏の在世、 もしは仏の滅後のすべての造罪の凡夫が、 ただ心をふり向けて阿弥陀仏を念じ、 浄土に生れようと願うならば、 上は百年を尽すものから、 下はわずかに七日・一日・十声・三声・一声などのものに至るまで、 その命終ろうとするとき、 阿弥陀仏は聖衆と共にみずから来て迎えとり、 すなわち往生を得る。」

と。 上の六方などの仏が舌を舒べられるのは、 定めて凡夫のために 「罪を滅して往生を得る」 と証明してくださるのである。 もし、 この証明によって往生を得ないならば、 六方の諸仏の舒べられた舌は、 一たび口より出て後、 ついに口に還り入らずに、 おのずからくさってしまうであろう。 これもまた証生の増上縁である。

【44】^また、 謹んですべての往生を願う人々に申す。 もしこのことを聞いたならば、 すなわち声に応じて悲しんで涙を流し、 どれほど劫をかさねても身を粉にし骨を砕いて仏恩の深い由来いわれを報謝し、 仏の思召しにかなわねばならぬ。 どうしてさらに毛髪ほどもこれをはばかる心があってよかろうか。

 ^また、 もろもろの行者たちに申す。 すべての罪深い凡夫でさえ、 なお罪がほろぼされ摂め取られて往生できることを証明される。 まして聖者が浄土に生れることを願って、 しかも往生できないということがあろうか。

 ^以上は総じて、 前の問いに 「どのような人々を摂めとって浄土に往生を得させるのか」 というたのに答えた。

 ^五種の増上縁のいわれを述べ終る。

【45】^問うていう。 釈尊がこの世に出られて五濁の時の凡夫を*さいせんがために、 すなわち慈悲もって、 十悪の因が*さんの苦しみの報いを受けることを説き示され、 また、 平等の智慧をもって、 人天が心をふり向けて阿弥陀仏国に生れるということを知らせてくださることは、 諸経の*とんぎょうに文義が明瞭に示されている。 しかるに、 人あっていま公然としてこれを信ぜず、 あいよってそしるならば、 この人が現生および来世にどのような罪の報いをうけるのであろうか。 くわしく仏経を引いて、 それらの人のために証拠として悔い改める心をおこし、 仏の大乗の法を信じさせ、 心をふり向けて浄土に生れさせ、 利益しようとするのである。

 ^答えていう。 仏経によって答えるならば、 またこのような悪人は、 上の五つの悪い性分を示す中にすでに説いたとおりであるが、 ^いまはただちに仏経を引いて明らかな証拠としよう。 すなわち、 ¬十往生経¼ に説かれているとおりである。

^仏が山海慧菩薩に告げられる。 「そなたは今、 あらゆる人々を済度するためには、 この経をたもつべきである。」 仏がまた山海慧に告げられる。 「この経を ª阿弥陀仏の色身おんみを観じて、 正念に住して解脱する三昧の経º と名づける。 また、 ªもろもろの生死まよいに沈み*八難はちなんしょにいる有縁の衆生を済度する経º とも名づける。 このように受持せよ。 ^衆生のまだ念仏三昧の縁のないものには、 この経はよく大三昧の門を開き、 この経はよく衆生のために地獄の門を閉じ、 この経はよく衆生のために人を害する悪鬼を除いてことごとく滅ぼし、 四方をすべてみな安穏にさせる。」 仏が山海慧に告げられる。 「わたしが説くところは、 その義このとおりである。」 ^山海慧が仏に申しあげる。 「未来の衆生にはそしるものが多くあるでしょう。 このような人は後にどうなるのでしょうか。」 仏が告げられる。 滅後に、 この世界において、 僧・尼や在家の男女がこの経を読誦するのを見て、 あるいはあい共に怒って心にそしりの思いをいたくであろう。 このように正法をそしることによって、 この人は現在の身にもろもろの悪い重病を得て、 身根からだが不具となり、 あるいは聾病つんぼ盲病めしい・失陰病・鬼魅もののけ邪狂きちがい風冷かぜ・熱痔・水腫みずばれ・失心などの病にかかる。 このようないろいろの悪い重病は、 幾世にもわたって身に伴うであろう。 このように苦を受け、 坐っても臥しても安らかでなく、 大・小便もまたみな通じないで、 生きようとしても生きられず、 死のうとしても死ぬことができない。 この経を謗ることによって苦しみを受けることはこのとおりである。 あるときには、 死後に地獄へ堕ちて八万劫のあいだ大苦悩を受け、 百千万の世にわたってかつて水や食物の名さえも聞かない。 この経を謗るために受ける罪の報いは、 このとおりである。 あるときには、 地獄から脱れ出て人間の中にあっても、 牛・馬・猪・羊となって、 人のために殺されて大苦悩を受ける。 この経を謗ったためである。 後に人間の身を得ても、 いつも賎しい身分に生れて、 百千万の世にも自在を得ることができず、 百千万の世にも仏・法・僧の三宝の名さえも見ない。 この経を謗ったために苦を受けることはこのとおりである。 ^それゆえ、 おろかな人の中にあって、 この経を説いてはいけない。 正しく観じ、 正しく念ずるような人には、 始めてこれを説け。 かれこれもすべてこの経を敬わないならば、 地獄に堕ちる。 彼も此もすべてこの経を敬重するならば、 正しい*だつを得て、 阿弥陀仏の浄土に往生することができる。」

と。 ^今またこの経をもって証明する。 こういうわけであるから、 こぼつ者と敬う者について、 仏が損失と利益とを示されることは虚しくない。 よく知るべきである。 これでくわしく前の問いに答え終る。

【46】^また問う。 もし仏の滅後のすべての善悪の凡夫で、 菩提心を発して阿弥陀仏の国に往生しようと願う者が、 昼も夜も心をかけてこの一生を終るまで、 称名・観察・礼拝・讃嘆し、 香華もって阿弥陀仏および観音などの聖衆や浄土の荘厳を供養し、 念々に観想して、 三昧があるいは成就し、 あるいはまだ成就しない者は、 現生にどのような功徳を得るのか、 くわしく仏経を引いて明らかな証拠として、 三昧を修めようとする行者に喜んで信じ行じさせたいと思う。

 ^答えていう。 よくこの義を問うた。 すなわちこれは六道の生死まよい因行もとを閉じて、 とこしえに常楽の浄土に入る肝要の門を開くのである。 これは、 ただ阿弥陀仏の思召しにかなうばかりでなく、 また諸仏がたもみな同じようによろこばれる。

 ^今、 経によってくわしく答えるならば、 ¬般舟三昧経¼ に説かれているとおりである。

^釈迦仏が跋陀和菩薩に告げられる。 「この念仏三昧の中において、 四事の供養がある。 飲食と衣服と臥具と湯薬とうやくとである。 これらを師匠などに供養して*ずいせよ。 過去の仏たちは、 阿弥陀仏を念ずる三昧をたもつのに、 四事をもって随喜して、 みな仏となられたのである。 現在、 十方世界におられる仏がたも、 またこの念仏三昧をたもち、 四事をもって随喜して、 みな仏となられたのであり、 未来世の諸仏たちもまたこの念仏三昧をたもち、 四事をもって随喜して仏となられるのである。」 ^仏が跋陀和に告げられる。 「この阿弥陀仏を念ずる三昧の四事をもって随喜することを、 わたしはこの三昧の中において、 少しばかりの喩えを説き、 念仏の功徳とくらべてみよう。 譬えば人間の寿命を百歳として、 生まれてから老いるまで疾風よりも早く走るとすれば、 誰かよくその道の長さを計ることができるか、 どうか。」 跋陀和が申しあげる。 「よく計るものはないでありましょう。」 仏が告げられる。 「わたしはそういうわけで、 そなたやもろもろの菩薩たちに云う。 もし善男子や善女人が、 この人の走って行った所に満ちるほどの珍宝をもって布施した場合に、 得るところの功徳は、 人がこの阿弥陀仏を念ずる三昧を聞いて、 四事をもって随喜する功徳に及ばない。 上に述べた布施の者に超えすぐれること千万億倍で、 また比べるものがない。」 ^仏が告げられる。 「はかり知ることのできない遠い昔に仏がおられた。 名を私訶しかだいといい、 その国をばつ陀和だわといった。 そこにきんという*転輪てんりんじょうおうがいて、 仏のみもとに往った。 仏は王の意を知られて、 王のために、 この念仏三昧の四事をもって随喜することを説かれた。 王はこれを聞いて喜び、 そこで、 種々の珍宝をもって来て仏のほとりに奉り、 王みずから願っていうには、 ¬この功徳をもって、 十方世界の人・天にみな安穏を得させたい¼ と。」 釈迦仏が告げられる。 「その王は命終って後、 またみずからもとの王家に生れて来て太子となった。 名をぼんたつという。 そのとき一人の比丘があって、 名を珍宝ちんぽうといい、 僧・尼や信男・信女のために、 この念仏三昧を説いていた。 ときに王がこれを聞いて四事をもって随喜し、 すなわち宝物をもって比丘のほとりに奉り、 また衣服をもって比丘に供養した。 そして王は千人の人と共に比丘のみもとで出家し、 この念仏三昧を修めようと求め、 いつも千人の人と共にその師につかえ、 八千年のあいだ昼夜おこたることがなかった。 ただ一度この念仏三昧を聞くことができて、 すなわち高明な智慧のさとりに入った。 その後さらに六万八千の諸仏がたを見たてまつり、 一々の仏のみもとでみなこの念仏三昧を聞いて仏果を成就することができた。」 ^仏が告げられる。 「もし人が百里・千里・四千里離れていても、 この念仏三昧を聞こうと願うならば必ず行ってこれを求めよ。 まして近いところにあって求学せずにいる者があってよかろうか。」

 ^また、 もろもろの往生を願う人々に申す。 以上に引用した仏の経をもって証拠とするのである。 一々くわしくは、 この経の四事供養功徳品 (勧助品) の中に説いているとおりである。

【47】^問うていう。 仏の教えにのっとって勤めて苦行し、 昼夜六たびに礼拝・念仏し、 行道し観想し転誦し、 斎戒をたもって、 一心に生死をきらい、 三途の苦しみを畏れ、 この一生を終って弥陀の浄土に生れようと願う者が、 また恐らくは残った罪が尽きず、 現に十悪が起るであろう。 このような障のあることを知ったならば、 どのように除いたらよいのか、 くわしく仏の経を引用してその方法を示されよ。

 ^答えていう。 仏の経によって答えるならば、 すなわち ¬観仏三昧海経¼ に説かれているとおりである。

^釈迦仏が、 父王やもろもろの大衆のために説かれる。 「過去に仏がおられて、 その名を空王くうおうといった。 その*像法ぞうぼうのときに四人の比丘がいて、 戒を破り、 重罪を犯した。 ときに空王仏が夜、 空中において声を出し、 四人の比丘に告げていわれる。 ¬そなたたちの犯した罪は救うことのできない罪という。 この罪を滅しようと思うならば、 わたしの塔の中に入って、 わたしの形像すがたを観じ、 心から懴悔せよ。 そうすればこの罪を滅することができよう¼ と。 このとき四人の比丘は、 よろずのことをみな捨てて、 一心に教えにしたがい、 塔の中に入って仏像の前においてみずから身をなげうち、 懴悔すること大山の崩れるように、 地面にころげまわって泣き叫び、 空王仏に向かって死ぬまで日夜に続けた。 そして命が尽きた後に、 空王仏の国に生れることができた。」

 いまこの経をもって証拠とする。 行者たちよ、 懴悔しようと思うときも、 またこの経に明かす法門に依れ。

^仏が仰せられる。 「もし、 わたしの滅後のもろもろの仏弟子たちで、 もろもろの悪を捨て、 言葉数少なくする法をねがって、 昼夜六たびに、 よく一時を分かって少時とし、 その少分の中のしばしの間でも仏の白毫を念ずる者は、 もし、 それを見たてまつることができなくとも、 このような人は九十六億那由他恒河沙微塵劫の生死の罪を除くであろう。 もしまたこの人がこの白毫のいわれを聞いて、 心に驚き疑うことなく喜び信ずるならば、 この人もまた八十億劫の生死の罪を除くであろう。 もしはもろもろの僧・尼、 もしは男や女が*じゅうきん・十悪などの罪や五逆罪を犯し、 および大乗を謗るような罪を犯すならば、 このような人たちが、 もしよく懴悔して昼夜六時に身も心も休むことなく五体を地に投げること大山の崩れるようにし、 号泣して涙を流し、 合掌して仏に向かい、 仏の眉間の白毫相の光を念じて一日より七日に至るならば、 さきに述べた四種の罪が軽くなる。 白毫を観ずるのに、 心が暗くて見えないならば、 塔の中に入って眉間の白毫を観じ、 一日より三日に至るまで合掌して声をあげて泣け。 また、 このいわれをしばらく聞いても、 また三劫のあいだの罪を除くことができる。」

^仏が父王に告げ、 さらに阿難に勅せられる。 「わたしは今そなたのためにことごとく身相からだの光明をあらわそう。 もしは不善心ある者、 もしは仏の禁戒を破る者は、 仏を見たてまつることが、 それぞれ同じではない」 と。 そのとき、 五百人の釈迦族の人たちには仏の色身おんみを見たてまつるに灰色の人のようであり、 千人の比丘は仏を見たてまつるにあたかも赤土のようであり、 十六人の居士や二十四人の女人は仏を見たてまつるに真黒であり、 比丘尼たちは仏を見たてまつるに銀色のようである。 ときに比丘・比丘尼や信男・信女たちが仏に申しあげて、 「わたしたちは、 今、 仏の御身の妙なる色を見たてまつることができません」 といって、 みずから頭髪を抜き、 全身を地面に投げて声をあげ涙を流して泣き、 みずから身をってころげまわった。 ^仏が告げられる。 「善男子よ、 如来が世に現れたのは、 まさしくそなたたちの罪咎を除くためである。 そなたは今、 過去の七仏のみ名を称えて仏に礼拝せよ。 そなたの過去世の邪見の罪を説こう。 そなたはもろもろの大徳の僧たちに向かって、 言葉にあらわしてとがを悔い、 仏の言葉に随って仏法衆の中で大山の崩れるように身を地面に投げ、 仏に向かって懴悔せよ。 すでに懴悔し終ったならば、 心眼が開かれて、 仏の色身を見ることができ、 心大いに歓喜するであろう。」

^仏がもろもろの比丘たちに告げられる。 「そなたたちは前世に無量劫のあいだ、 邪見であって師を疑い、 無戒で虚しく信者の布施を受けた。 この因縁のために*餓鬼がき道や地獄におちて八万歳のあいだ苦を受け、 今、 人間界に出ることができたけれども、 無量世にわたって諸仏を見たてまつることができず、 ただ仏の名を聞くだけである。 今、 仏身を見ても赤土のようで、 まさしくたけが五尺の仏身を見るだけである。」

^仏がこの語を説き終られると、 千人の比丘たちは仏に向かって懴悔し、 全身を地に投げること大山の崩れるようにし、 悲しみに声をあげて泣き、 涙を流した。 すると、 あたかも風が吹いて重雲が四方に散るように、 尊い金色のお顔があらわれた。 すでに仏を見たてまつり終って、 比丘たちは歓喜し、 菩提心を発した。

^仏が父王に告げられる。 「この千人の比丘たちは、 ねんごろに法を求めて、 心におこたることがなかったので、 仏は同じように南無なもこうしょう如来にょらいと号する仏になるであろうという記別を与えられた。」

 以上、 述べた懴悔の法は ¬観仏三昧海経¼ 第二・第三巻に出ている。

【48】^¬仏説観仏三昧海経¼ 第十巻の密行品第十二に説かれている。

^仏が阿難に告げられる。 「未来の衆生で、 この念仏三昧を得た者、 仏のもろもろの相好を観じた者、 諸仏が目の前に現れたもう三昧を得た者、 こういう者には次のように教えよ。 身と口と意をかたく守って、 よこしまな生活くらしをしてはいけない。 おごりたかぶってはいけない。 もしよこしまな生活をし、 おごりたかぶる心を起すならば、 まさに知るべきである。 この人はおそろしい慢心であって、 仏法を破滅させ、 人々に多く不善心を起させ、 *ごうそうを乱し、 異をとなえて衆を惑わす。 これは悪魔のなかまである。 このような悪人はまた念仏しても、 その甘露の味を失なう。 この人の生れるところは、 おごりたかぶる心をもっての故に、 身はつねに卑しく、 下賎の家に生れ、 貧しく困っていろいろの衰えがあり、 無量の悪業で身をかざる。 このようないろいろな数多くの悪事は、 みずから防ぎ護って、 とこしえに起さないようにせよ。 もしこのようなよこしまな生活の業を起したならば、 このよこしまな業はちょうど狂った象が蓮華の池をやぶるように、 善根を壊るのである。」

^仏が阿難に告げられる。 「念仏する者は、 まさにみずから防ぎ護って、 決して放逸であってはならない。 念仏三昧を修める者がもし防ぎ護らずにおごりたかぶる心を起すならば、 よこしまな生活の悪風が憍慢の火をあおって、 善法を焼きほろぼしてしまう。 善法とは、 いわゆるすべての無量の禅定、 もろもろの念仏の法であって、 心想より生ずる。 これを功徳の蔵と名づける。」 ^仏が阿難に告げられる。 「この経を ª想を繋けて動かぬ経º と名づける。 このように受持せよ。 また ª仏の白毫相を観ずる経º とも名づける。 このように受持せよ。 また ª如来の身を順観・逆観する経º とも名づけ、 また ª一々の毛孔に如来の身を分別する経º とも名づけ、 また ª三十二相八十随形好やもろもろの智慧の光明を観ずる経º とも名づけ、 また ª仏を観ずる三昧の海º とも名づけ、 また ª仏を念ずる三昧の法門º とも名づけ、 また ª諸仏の妙なる華で色身を荘厳する経º とも名づける。 そなたはよく受持して、 慎んで忘失してはならぬ。」

【49】^また、 ¬*大集だいじっきょう¼ のさいりゅうぼんに説かれているとおりである。

ときにしゃ伽羅からりゅうおうが仏を請待して宮殿に迎え入れ、 供養申しあげたところ、 仏は竜王の請を受けて聖衆たちと共に食べおわられたときに、 大竜王はまた法を説かれるようにお願いした。 このとき竜王の太子でめんと名づける者がみずから仏前に立って両手両足を地につけ、 悲しい声を出して懴悔し、 「過去に何の罪を作ったために、 この竜身を受けたのでしょうか」 といった。

 ^また、 この経をもって証明しても、 またこれ懴悔のまことなる方法である。 よく知るべきである。 一切の経のうちにみなかような文がある。 広く収録することはできないので、 今略して ¬観仏三昧経¼・¬大集経¼・¬*木槵もくげんぎょう¼ の三部の経典を略抄して、 もって後学の者に示す。 至心まことでないものを除く。 これをなすものは、 みな、 仏は決してむなしい言葉を説かれないということを知れ。

【50】^また ¬木槵経¼ に説かれているとおりである。

^ときになんこくに王があって瑠璃るりと名づけられた。 この王が使者を遣わして仏のみもとに来させた。 使者は仏のみ足を礼拝し、 仏に申しあげていう。 「世尊、 わたしの国は辺鄙で小さく、 年毎に賊が侵入し、 五穀のあたいが高く、 疫病が流行し、 人民が苦しんでいます。 わたしはいつも安らかに眠ることができません。 如来の法門は多くて、 ことごとく深広でありますから、 わたしにはくるしい務めがあって修行ができません。 ただ願わくは世尊、 ことにいつくしみを垂れて、 わたしに肝要な法を賜り、 日夜にたやすく修行することを得させ、 未来世には多くの苦しみを離れさせてください。」

^仏が使者に告げて仰せられる。 「そなたの大王に語れよ。 もし煩悩の障りや、 その報いの障りを滅しようと思うならば、 木槵子むくろじの種子百八を貫き、 それをいつも身につけて持つがよい。 もしは歩むにも、 坐るにも、 もしは臥すにも、 つねに至心まことをもって心を散らさず、 口に仏・法・僧の名を称えては一つの木槵子をつまぐれ。 このようにして、 もしは十遍、 もしは二十遍、 もしは百遍、 もしは千遍、 さらには百千万遍せよ。 もしよく二十万遍を満たして身心が乱れずに、 いろいろないつわり曲ったことがなければ、 命終って第三*夜摩やまてんに生れることができ、 衣食が自然に得られて、 いつも安らかな楽しみを受け、 百八の煩悩のはたらきを断ち、 迷いの流れに背いて*はんの道に趣き、 ついに無上の仏果を獲るであろう」 と。

^使者が帰って王に申しあげると、 王は大いに喜び、 ぬかずいて仏を礼拝し、 遥かに世尊に向かって申しあげた。 「尊い教えをいただいて、 わたしは教えのとおりに行いましょう」 と。 そこで役人や人民に勅して木槵子をととのえさせ、 千の数珠を作り、 親類のものや国の高位の人たちにみな一連ずつ与えた。 王はいつも誦念し、 戦に出ていてもこれをやめなかった。 また王はこのように思った。 ª世尊の大慈非はあまねくすべての者に応ぜられる。 もしわたしのこの善根で長く苦海に沈むことを免れることができるならば、 世尊はまさにここに現れて、 わたしのために教法をお説きくださいº と。 王はこのような願いを起し、 心をひきしめて、 三日のあいだ食を断った。 すると、 世尊は御身を現して、 もろもろの聖衆たちと共に王宮においでになり、 王のために教法を説かれた。」

 ^また、 この経をもって証拠とする。 ただこれは王の心が真実まことであったから、 一念一念に罪障が除かれ、 世尊は罪が滅んだことを知って、 王の願いにこたえて御身をあらわされたのである。 まさによく知るべきである。

阿弥陀仏の相海を観念する三昧の功徳の法門経 一巻

 

十六観経 ¬観無量寿経¼ のこと。
六斎日 在家の仏教信者が八戒斎を守り、 善事を行うべきであるとされた日。
八王日 立春・春分・立夏・夏至・立秋・秋分・立冬・冬至のこと。