観経正宗分定善義 巻第三

沙門善導集め記す

 

【1】 ^これより下、 次に*正宗しょうしゅうぶんを解釈する。 それに十六ある。 また一々の観については、 その経文にあたって説明するから、 前にわずらわしく述べない。 ^今、 正宗分を定めるのについては、 他師と同じでない。 ^今、 ただちに法について定めるならば、 日想観の初めの句より下品下生に至るまでが正宗分である。 日想観の文より前の文については、 いろいろの義の別があろうけれども、 この文勢よりみると、 ただ序であると知るべきである。

【2】 ^初めの日想にっそうかんの中について、 まず挙げ、 次に解釈し、 後に結ぶ。 その中に五つある。

 ^一つに、 「仏韋提に告げたまわく」 より 「西方を想すべし」 までは、 まさしく総じて告げ、 総じて勧められることを明かす。 ^これは*だいが前に*弥陀みだぶつの浄土を願い、 また*観察かんざつの行をお願いしたところ、 その時に如来は韋提希の願いを許して説かれる。 ^ただ、 しかし*じょうぜんだけではすべての機類をおさめることができず、 行をあらわすことが十分でないから、 さらに*散善さんぜん*三福さんぷくの因行を仏みずから開いて、 いまだかつて聞いたことのない尊いご利益を施され、 また如来は重ねて告げ、 後の世にひろめることを勧められ、 この法は聞きがたい尊い教えであるから広く未来世のものを悟らせようとされることを明かす。

 ^「仏韋提に告げたまわく、 汝及び*しゅじょう」 というのは、 これは告げ勧められることを明かす。 もし、 ひとしく迷いを出でて浄土に生まれようと思うものは、 よろしく心をはげますべきである。

 ^「まさに心を専らにし」 より以下は、 衆生の心が乱れることは猿よりもはげしく、 *六塵ろくじんの境にとらわれて、 しばらくも休むことがないことを明かす。 ただ、 対象が一つでなく、 よろずのことに*貪欲とんよくをおこして、 想いを乱すから、 心を*三昧さんまいにおくことがどうしてできようか。 心を乱すものを離れて、 静かな処によらないならば、 心を専注することが続こうか。 ^ただちに西方を指すのは、 ほかの九方にえらんだのである。 こういうわけで、 身を一にし、 心を一にし、 回向を一にし、 処を一にし、 境界を一にし、 相続を一にし、 帰依を一にし、 正念を一にするならば、 これを観想が成就して*しょうじゅをうると名づける。 この世も後の世も心に従って*だつをうるのである。

 ^二つに 「云何いかんが想をさん」 より 「皆日没を見る」 までは、 まさしく観ずるところの事物ものを示すことを明かす。 ^すなわち、 多くの衆生は久しく生死に流転して、 心を三昧におくことを知らない。 西方を指しても、 どのようにおもいをなすべきかを知らないから、 如来はそれらのために自ら問いをおこして疑いを除き、 正しい観察の方法を示されることを明かす。

 ^「およそ想をす」 というのは、 これは、 総じて前の文の意を受けて、 後に観想に入る方法を述べられることを明かす。

 ^「一切衆生」 というのは、 総じて*おうじょうをうる機類をあげる。

 ^「生盲にあらざるよりは」 という以下は、 それに堪えるものと、 堪えないものとの*を区別することを明かす。 ^「生盲」 というのは、 母胎から出た時より眼が物を見ないものを生盲と名づける。 こういう人には、 日想観をなすことを教えることができない。 日輪の光明のありさまらないからである。 ^生盲を除いて以外は、 因縁によって眼を患うたものでも日想観をなすことを教えるならば、 すべて成就することができる。 まだ眼を患っていなかった時に日輪の光明などの相を知っているから、 今眼を患っていても、 ただよく日輪などの相を心に思い浮かべて、 正念に堅持し、 時節を限らないならば、 必ず成就することができる。

 ^問うていう。 韋提希は、 さきに請うて*極楽ごくらくの境界を見ようと願ったのに、 今、 如来が請いをいれてお説きになる時になって、 まず心をとどめて日輪を観ずることを教えられるのはどういうわけがあるのか。

 ^答えていう。 これには三つの意味がある。 ^一つには、 衆生に、 浄土の境を知って、 そこに心をとどめさせようとなさるので、 西方を指されたのである。 冬夏の両時をとらず、 ただ春秋の両時を取ったのは、 日輪が真東に出て、 真西に没するからである。 弥陀の仏国は日の没する処にあたり、 真西の十万億の世界をこえた所がこれである。

 ^二つには、 衆生に自分の*ごっしょうの軽重がある事を知らしめたいためである。 ^どうして知ることができるかといえば、 ^心をとどめて日を観察することを教えるのによる。 ^初めに心をとどめようとする時には、 ^脚を組んで正座させる。 右の脚を左のももの上につけ、 外とひとしくする。 左の脚を右のの上において外とひとしくする。 左手を右手の上に置いて身を正しくする。 口をとじて歯を近づけてはならない。 舌が上顎をささえるのは、 咽喉のどと鼻の気道が通るようにするためである。 ^また、 *だいからなる身が、 内も外も、 ともに空であって、 すべて一つもないことを観ぜしめる。 ^身の地大の皮肉筋骨などが、 西方に散って、 西方の際をつくして、 わずか一塵の相をも見ないと想え。 ^また身の水大の血汗つば涙などを想え。 それが北方に散って、 北方の際をつくして、 わずか一塵の相をも見ないと想え。 ^また身の風大が東方に散って、 東方の際をつくして、 わずか一塵の相をも見ないと想え。 ^また身の火大が南方に散って、 南方の際をつくして一塵の相をも見ないと想え。 また、 ^身の空大が、 十方の虚空と一つになって、 わずか一塵もへだてるところがないと想え。 ^また身の五大がみな空無であって、 ただ識大だけが動かず静かにとどまり、 あたかも円鏡のようで、 内も外も明らかに照らし、 朗然として清浄であると想え。 ^この想いになるときには、 乱れる想いが除かれて、 心はようやく凝り定まる。 ^その後、 おもむろに心を移して、 あきらかに日輪を観ずる。 その利根の人は、 一坐ですぐ明らかな相が現われるのを見る。 境の現われる時にあたっては、 あるいは銭の大きさのようであり、 あるいは鏡面の大きさのようである。 ^この明らかなおもての上におのずから業障の軽重の相を見る。 ^一つには黒障、 あたかも黒雲が日を障えぎるようである。 二つには黄障、 またあたかも黄雲が日を障えぎるようである。 三つには白障、 あたかも白雲が日を障えぎるようである。 ^この日は、 雲にさえぎられるから明らかに照らすことができないように、 衆生の業障もまたこのとおりである。 清浄な心の境地を障え蔽って、 心を明らかに照らすことができない。 ^行者がもしこの相を見るならば、 道場を飾って、 仏像を安置し、 清浄に洗浴して、 浄らかな衣をつけ、 またよい香をたいて、 諸仏ならびに一切の賢聖方に申しあげ、 仏の形像に向かって、 現在の一生において、 無始以来のしん口意くい*三業さんごうに造るところの*じゅうあく*ぎゃく*じゅうきん*謗法ほうぼう*一闡いっせんだいなどの罪を*さんすべきである。 極めて悲しみ歎き、 涙を流して深く*ざんをおこし、 心髄に徹って骨を切るほどに自ら責めよ。 ^懴悔し終わって、 また前の坐法のように心をとどめて境を見る。 境がもし現われた時には、 前のような三つの障りがすべて除かれ、 観ずる清浄な境がはっきりと明らかになる。 これをすみやかに障りを滅するという。 あるいは、 一たびの懴悔でことごとく滅する人は、 利根の人と名づける。

 ^あるいは一たびの懴悔で、 ただ黒障だけを除き、 あるいは一たびの懴悔で黄・白などの障りを除くことができる。 あるいは一たびの懴悔で白障だけを除く。 これを漸次に除くと名づけて、 頓に滅すると名づけない。 ^すでに、 自分の業相がこのようであると知ったならば、 ただ心をはげまして懴悔すべきである。 日夜三時六時などにただ想うてすぐさま懴悔することができるものは、 最もすぐれた上根上行の人である。 たとえば、 熱湯や火が身を焼くような場合に、 それを知ったならばすぐに退くようなものである。 どうしていたずらに時を待ち、 処を待ち、 縁を待ち、 人を待って始めて除いてよかろうか。

 ^三つには、 衆生に弥陀の*しょうほうの種々の荘厳、 光明などの相が内も外も照り輝いて、 この世界の日輪よりもすぐれていることが百千万倍であることを知らせようとされる。 行者たちで、 もしかの浄土の光明の相を識らないならば、 この日輪の光明の相を見て、 *行住ぎょうじゅう坐臥ざがに礼拝し、 念じ、 憶想するにも、 常にこの想いをなせ、 久しくたたないうちに観が成就し、 浄土のありさま、 快楽の荘厳を見るであろう。 ^こういうわけで、 *そんはまず日想観を教えられたのである。

 ^三つに 「まさに想念を起こし」 より 「かたち鼓を懸けたる如くなるを」 までは、 まさしく観察を教える。 ^これは、 身の作法を正し、 かおを西方に向け、 境を定めて、 心をそこにとどめ、 堅く保って移らないならば、 期するところの境が現われることを明かす。

^四つに 「すでに日を見おわらば」 より 「明了ならしめよ」 までは、 日想観が成就した相を明かす。 ^これは、 心をもって日輪を観じ、 想いを制し、 わずらわしい縁を除いて、 いつも念ずる心が移らないならば、 清浄な相があきらかに現われることを明かす。 ^また行者が初め定中にあって、 この日を見る時には、 三昧禅定の楽をえて、 身も心も内外ともに心地よく楽しいことが不可思議である。 ^これを見る時にあたっては、 よく心を引きしめて、 その定中に楽しみ貪ることのないようにすべきである。 もし貪りの心をおこすならば、 心水が動く。 心が動くゆえ、 清浄な境がなくなる。 あるいは心が動き、 あるいはくらくなり、 あるいは黒くなり、 あるいは青・黄・赤・白などの色になり、 安定することができない。 ^こういうことを見た時にはみずから心に思え。 「このように境のすがたが動いて不安定であるのは、 わが貪る心が、 この定の念を動かすによって、 表れた清浄な境が動き滅するのである」 と。 心をおちつけ、 念を正しくして、 また初めからやりなおせば、 動く相が除いて、 静かな心がまた現われる。 すでにこの過失を知ったならば、 定の楽しみを貪る心を起こしてはならない。 ^これから後のすべての観の邪正得失は、 みなこれと同じである。 ^日を観じて日を見れば、 心と境が相応するので正観と名づける。 日を観じて日を見ず、 他のいろいろなものを見るのは、 心と境が相応しないので邪観と名づける。 ^これは*しゃの迷いの世界では、 すべてこれに比べるものがない。 ただ光を放つ日輪だけがあって、 これに想いを寄せて、 遠く極楽をあらわすのである。

 ^五つに 「是為」 より下は総じて結ぶ。

 ^以上五句の不同があるけれども、 広く日想観を明かし終わった。

【3】 ^二つに、 水想すいそうかんの中について、 また、 まず挙げ、 次に解釈し、 後に結ぶ。 その中に六つある。

 ^一つに 「次に水想をなせ」 より 「内外映徹ようてつせるを」 までは、 総じて地のものがらをあらわす。

 ^問うていう。 前に教えて日を観じさせるのは、 業の相などを知らせるために日を観じさせたのであるが、 今、 この観の中で、 また水を観ずることを教えられるのは、 どういうわけであるのか。

 ^答えていう。 日輪が常に照らしているのをもって、 極楽がとこしえに輝いていることをあらわすのであるが、 また、 浄土の地面が平らかでなくて、 この世界に高い低いがあるのに類すると思うことを恐れる。 およそ娑婆の境界では、 ただ日だけが明らかであり、 この世界は丘坑きゅうきょうがあって高低のない処はない。 それで極楽の平らかな相を観じようとするならば、 水にすぎたものはない。 この水が平らかになる相をもって、 かの浄土の*瑠璃るりの地面を比較してあらわすのである。

 ^また問うていう。 この世界の水はうるおうてやわらかである。 かの浄土の地面もまたこの水と同じであるのかどうか。

 ^答えていう。 この世界の平らかな水をもって、 かの地面が平等で高い低いのないことに比べるのである。

 ^また、 水を観ずることを転じて氷を観ずるのは、 かの浄土の瑠璃地が内外にすみとおるのに比べる。 これは、 阿弥陀如来が、 *曠劫こうごうの昔に、 *ほっしょう*びょうどうにかなって修行せられて、 かたよったところがなく、 *根本こんぽん煩悩ぼんのうも余残の気もともに滅して、 すきとおった浄土の地面を成就されたことを明かす。

 ^また問うていう。 すでに教えて、 水を観じて心をとどめ、 水を観ずることを転じて氷を観じ、 氷を観ずることを転じて瑠璃地を観ぜしめるのは、 どういう作法をしたならば、 その境界が現われるのか。

 ^答えていう。 身の作法などは、 すべて前の日想観の中の作法と同じである。 ^また水を観じて定心を得ようとするならば、 またよく似たものに対して観ずれば、 定心をうることがたやすい。 ^行者たちは静かな処において、 一椀の水をとり、 床の前の地面において、 水を一杯いれて自分は床の上に坐る。 自分の眉間に一つの白い物で豆ほどの大きさのものをつけ、 頭を低くしてかおを水の上に向かわせ、 一心にこの白い処を見て、 さらに他のことを思ってはならない。 また水が初め地上にあって波がとまらない時は、 面をそれに向けて見ても面像を見ない。

 ^観を続けておれば、 次第に面が現われる。 初めの時、 面相が動く時は、 長くなったり、 短くなったり、 広くなったり、 狭くなったり、 見えたり見えなかったりする。 この相が現われる時には、 さらに極めて細かに心を用うべきである。 すると久しくたたないうちに、 水波が細かになって、 動くようで動かぬようになり、 面相が次第に明らかに現われる。 面の上に眼耳鼻口などを見るけれども、 また、 それを見ようともせず見るのを妨げようともせず、 ただ身心をゆるやかにし、 有ることを知ってそれにとらわれてはならない。 ただ白い処だけを心にかけて、 明らかにこれを観じて、 その心を守り、 うっかりしてほかに心を移してはならない。 これを見る時には、 心がようやく安らかにとどまり、 水も湛然と静まっている。 ^また行者たちは、 自分の心中に波がとまらないのを知ろうと思うならば、 ただこの水の動・不動の相を観じて、 自分の心にうつる境が現われたり現われなかったり、 明るくなったり闇くなったりするのを知るがよい。 ^また、 水が静かな時をまって、 一粒の米ほどのものをとり、 水の上にあたって手をもってこれを水中に投げると、 水波が動いて椀内にひろがる。 自分の面をその上に向かわして、 これを見ればその白いものが動いてくる。

 ^さらに、 豆ほどのものをとり、 これを投げると水波はさらに大きくなって、 面上の白いものは見えたり見えなかったりする。 またさらに、 なつめほどのものを水に投げると、 水の波はいよいよ大きくなって、 面上の白いものも、 自分の頭面こうべも、 すべて隠れて現われない。 水が動くからである。 ^「椀」 というのは、 自分の身体にたとえる。 「水」 というのは、 自分の心水にたとえる。 「波浪」 というのは、 乱想の煩悩にたとえる。 「次第に波浪がやむ」 というのは、 いろいろのかかわりを捨てて、 心を一境にとどめることである。 「水が静まり境が現われる」 というのは、 観ずる心が乱れなかったならば、 現われる境も動かないで心のうちも外の境も静かになり、 求める相が明らかになる。 また、 細かい想、 あらい想があれば心水が動く、 心水が動けば静かな境もなくなる。 また、 こまかい塵やあらい塵を静かな水の中に投げると、 その水波が動く。 ^また行者たちは、 ただこの水の動・不動の相を見て、 自分の心のとどまると、 とどまらないとを識るのである。 また境の現われることの得失・邪正などはすべて前の日想観に同じである。

 ^また*天親てんじんさつの讃 (*じょうろん) にいわれる。

かの世界のありさまを観ずるに この*三界さんがいの因果に超えすぐれている

なにものにもさえぎられないことは虚空のごとく 広大であってきわほとりがない

 ^これは総じてかの国の地面の分量を明かす。

 ^二つに 「下に金剛*七宝しっぽうの」 より 「つぶさに見るべからず」 までは、 まさしく地下じげの荘厳を明かす。 その中に七つある。 ^一つに、 はたぼこものがらは無漏金剛であることを明かす。 ^二つに、 地面をささえて互いにうつり合う荘厳を明かす。 ^三つに、 八方八角を具足して円相でないことを明かす。 ^四つに、 多くの宝からできており、 それが量りしれないことを明かす。 ^五つに、 宝より千の光を出して、 その光が無辺に行き渡ることを明かす。 ^六つに、 光にはいろいろの色が多くあり、 その色が他方世界を照らし、 *こんに応じていろんな形を現わし、 時として利益しないことがないということを明かす。 ^七つに、 多くの光がそれぞれ色彩いろどりを放ち、 日輪のかがやきよりもこえすぐれ、 新しく往生した者はこれを見て、 すぐに見つくすことができないことを明かす。

 ^讃嘆していう。

地下荘厳の七宝のはたぼこは 無量無辺無数億である

八方八角で百宝よりできている かれを見ればねん*しょうを悟る

無生なる宝国はとこしえに常住である 一々の宝より無数の光が出る

この土の行者は心を傾けて常に観じ こころをおどらして喜んで西方に生まれよ

 ^また讃嘆していう。

西方寂静*無為むいのみやこは 最上のさとりで有無のまよいを離れている

大悲の心を起こして十方世界に遊び からだを分けて衆生を済度することは等しくて区別がない

あるいは神通を現わして法を説き あるいは仏のすがたを現わして*はんに入る

いろいろの荘厳が意のままに現われ出る これを見るすべての人々は罪がみな除かれる

 ^また讃嘆していう。

いざ帰ろう  迷いのさとにとどまるべきではない

はかり知れぬ昔よりこのかた流転して *六道ろくどうの境界をみな経めぐってきた

どこへ行っても楽しみはない ただ愁え嘆きの声を聞くばかりである

この一生をおえてのちに かの涅槃のみやこに入ろう

 ^三つに 「瑠璃地の上には」 より 「分斉分明なり」 までは、 まさしく地上の荘厳のあらわれていることのすぐれたことを明かす。 ^これは依持の円浄をあかす。 七宝の池や林などはそれに依るもので、 瑠璃宝地がそのよりどころである。 地はよくたもつものであり、 池やうてなや樹などは、 それにたもたれているものである。 これは阿弥陀仏の*いんの修行があまねく備わっているから、 円満明浄な果報をえられたのである。 明浄であるわけは*無漏むろものがらとするからである。

 ^讃嘆していう。

宝地の荘厳は量り比べるものがない 処々に光明があって十方を照らす

宝閣華台があらゆる処に満ちている いろいろの色が美しく輝いて量りがたい

立派な雲 立派な宝蓋ほうがいが空から覆っている 聖衆は神通をもって互いにゆききし

立派な幢や幡蓋が風のまにまにひるがえり 立派な楽器は輝きを含んで思いのままに従って鳴る

疑いをもって往生するものは蓮華が開けず てのひらを合わしたように華に包まれてあたかも胎内におけるようであるが

華の内で法楽を受けていささかの苦しみもない 障りつきればたちまちに華がおのずから開いて

耳も目も清く明らかで、 身は金色である 菩薩はしずかに立派な衣を授け

光明が体にふれると*さん法忍ぼうにんを成就する そこで阿弥陀仏を拝もうと思って金台をおりると

多くの聖者たちが迎えて説法の大会に入る 仏の尊いみ顔を仰いで よいかなとほめたてまつる

 ^こんじょう」 というより以下は、 まさしく黄金をもって道となし、 その形がこがねの縄のようであることを明かす。 ^あるいは、 いろいろな宝をもって地面となし、 瑠璃をもって道となす。 あるいは瑠璃をもって地面となし、 白玉をもって道となす。 あるいは紫金・白銀をもって地面となし、 百宝をもって道となす。 あるいは説くことのできないほどの宝をもって地面となし、 また説くことのできないほどの宝をもって道となす。 あるいは千万の宝をもって地面となし、 二・三宝をもって道となしている。 ^このようにだんだんじわりあって、 いろいろのものからできている。 互いに照らし、 互いにうつり合っている。 光と光、 色と色とがおのおの違っているが、 しかも乱れていない。 ^行者たちは、 ただ黄金の道だけがあって、 ほかの宝でできた道がないといってはならない。

 ^四つに 「一一の宝の中に五百色の光有り」 より 「楽器をもって荘厳とす」 までは、 まさしく空の荘厳を明かす。 それに六つある。 ^一つには、 宝が多くの光を出すことを明かす。 ^二つには、 その相をたとえてあらわすことを明かす。 ^三つには、 光が変じてうてなを現わすことを明かす。 ^四つには、 光が変じて楼閣を現わすことを明かす。 ^五つには、 光が変じてどうを現わすことを明かす。 ^六つには、 光が変じて宝楽ほうがくを現わすことを明かす。 ^また、 地上のいろいろの宝が、 一々にそれぞれ五百色の光を出し、 一々の色光が空中にあがって光の台となる。 一々の台の中に千万の宝楼閣があり、 おのおの一・二・三・四乃至説くことのできないほどの宝で飾られてできあがっていることを明かすのである。

 ^「華の如くまたしょうがつの如し」 というのは、 仏が慈悲をもって、 人の知らないことを怖れられて、 喩えをもってあらわされるのである。

 ^「台の両辺に於いておのおの百億の華幢有り」 というのは、 地面は多くの宝からできており、 光明も無量で、 一々の光が等しくかわって、 光の台と現われ空中に満ちていることである。 行者たちは行住坐臥に常にこの想をなせ。

 ^五つに 「八種の清風」 より 「無我のこえ」 までは、 まさしく光がかわってがくとかわり、 その音が説法の相を現わすことを明かす。 その中に三つある。 ^一つに、 八風が光明から出ることを明かす。 ^二つに、 光明の風が楽器をならしてこえを出すことを明かす。 ^三つに、 じょうらくじょうと誤った見解、 くうじょう無我むがという真実のいわれなど、 はかることのできない法門を説くことを明かす。

 ^(浄土論) にいわれる。

安楽国は浄らかで いつも尊い説法をしている

一念同事に十方に あらゆる衆生を利益し

仏のいろいろの徳を讃嘆して わけへだての心がない

それをきくものに功徳の宝を すみやかに満足させる

 ^六つに 「是為」 よし下は、 総じて結ぶ。

 ^以上六句の不同があるけれども、 広く水想観を明かし終わった。

【4】 ^三つに、 そうかんの中について、 また、 まず挙げ、 次に解釈し、 後に結ぶ。 その中に六つある。

 ^一つに 「この想成ずる時」 というのは、 まさしく前を結んで後を起こすことを明かす。

 ^二つに 「一一にこれを観じて」 より 「つぶさに説くべからず」 までは、 まさしくこの観が成就した相を述べることを明かす。 その中に六つある。 ^一つには、 心に一つの境を思って、 べてじえて観じてはならないことを明かす。 ^二つには、 すでに心を一境に専ら注げば、 境がすなわち現われる。 すでに現われたならば、 必ず明らかに見られることを明かす。 ^三つには、 境がすでに心に現われたならば、 目を閉じても、 目を開けても、 その境を守って失わないようにすることを明かす。 ^四つには、 行住坐臥に昼夜常に念じ、 ただ眠る時だけを除いて憶持して捨てないことを明かす。 ^五つには、 心を凝らして絶えないならば、 ついに浄土の相を見ることを明かす。 これを想心中の見と名づける。 なお覚のおもいがあるからである。 ^六つには、 想心がだんだん微かになって、 覚念がついにとれて、 心が定心になれば、 三昧をさとって、 ほんとうに浄土の妙なるありさまを見ることは、 くわしく説かれぬことを明かす。 ^これはすなわち浄土の大地は広大無辺であり、 宝幢も一つではなくていろいろの珍しい宝がいろどりを輝かし、 いろいろのものを現わすことがいよいよ多い。 こういうわけで、 仏は、 衆生を勧めて、 心を注いでいつも目の前にあるようにさせられるのである。

 ^三つに 「是為」 より下は総じて結ぶ。

 ^四つに 「仏*なんに告げたまわく」 より 「この観地の法を説け」 までは、 まさしく後の世に進めひろめて、 機縁に従い広く説くべきことを明かす。 その中に四つある。

 ^一つには、 仏が阿難に告げられることを明かす。

 ^二つには、 仏の語をうけて、 広く未来の人々のために、 前の地想観の利益を説くことを勧められることを明かす。

 ^三つには、 機がこれを受けて信ずるのに、 堪えるものと堪えないもののあることを明かす。 この娑婆の迷いの身のさまざまの**三悪さんまくどうの苦などを捨てようと願って、 聞いて信じ行ずるものには、 身命を惜まず、 急いでこれを説け。 ^もし一人でも苦をすて迷いを出させたならば、 これをまことに仏恩を報ずると名づける。 なぜかといえば、 諸仏が世に出られて種々方便して、 衆生を勧化せられることは、 ただ悪をおさえて*善根ぜんごんを修め、 人間・天上の楽しみを受けさせるためではない。 人・天の楽しみはなお電光のようで、 しばしのうちになくなり、 また三悪道に入って長い苦しみを受ける。 こういうわけであるから、 ただ浄土の往生を求め無上の仏果に向かわせることを勧めるのである。 それゆえ今の時の有縁のもので、 あい勧めて浄土に生まれようと願うものは、 諸仏の思召おぼしめしにかなうものである。 ^もし、 信じ行ずることを願わないものは、 ¬*びょう等覚どうがくきょう¼ にいわれてあるとおりである。

もし人があって、 浄土の法門が説かれるのを聞き、 聞いても聞かないような、 見ても見ないような、 こういう人は、 はじめて三悪道から出て来たので、 その罪障がまだつきない。 こういうわけで、 浄土に心を向け信ずることができないと知るべきである。

仏が仰せられる。 「わたしは、 こういう人は、 まださとりをうることができないと説くのである。」

 ^この経にまた仰せられる。

もし人が、 浄土の法門を説かれるのを聞いて、 悲喜の心がこもごも流れ、 身の毛がためにいよだつような人は、 まことにこの人は過去世において、 かつてこの法を修めたものである。 いま重ねて聞くことを得て歓喜を生じ、 正念に修行して、 必ず往生することができると知るべきである。

 ^四つには、 まさしく浄土の宝の地面を観じて、 心をとどめるよう教えられることを明かす。

 ^五つに 「もしこの地を観ずる者は」 より 「心に疑いなきを得よ」 までは、 まさしく地想観の利益をあらわされることを明かす。 その中に四つある。 ^一つには、 観ずるところのものがらを指して、 ただ宝地を観じてほかの境をいわないことを明かす。 ^二つには、 浄土の無漏の宝地を観ずることにって、 よく長い間の有漏の罪を除くことを明かす。 ^三つには、 命が終わった後にかならず浄土に生まれることを明かす。 ^四つには、 因を修めるについて正念に修行して、 疑いをじえてはいけないことを明かす。 ^もし疑いを雑じえるならば、 たとい浄土に往生できても、 華にふくまれて出られない。 あるいは*へんに生まれ、 あるいは*たいしょうとなる。

 ^また、 大悲*観音かんのんさつ*かい三昧ざんまいに入られることによって、 衆生の疑いが除かれ、 その華が開いて、 身相があらわれ、 聖衆が手をたずさえて、 仏の説法の*会座えざに行く。 こうしてすなわち、 心を注いで、 浄土の地面を観ずれば、 宿世の障りや罪とがをなくして、 願行が円満し、 命が終わって往生することは疑いないのである。

 ^今すでに、 このようなすぐれた利益をみて、 さらに観の邪正を知るべきことを勧められる。

 ^六つに 「この観をす」 より下は、 まさしく観の邪正を区別することを明かす。 邪正のことは、 前の日観想の中にすでに説いてある。

 ^以上六句の不同があるけれども、 広く地想観を明かし終わった。

【5】 ^四つに、 宝樹ほうじゅかんの中について、 また、 まず挙げ、 次に解釈し、 後に結ぶ。 その中に十ある。

 ^一つに 「仏阿難に告げたまわく」 より 「次に宝樹を観ぜよ」 までは、 まさしく阿難および韋提希に告げて、 総じて観の名をあげ、 前を結び次をおこすことを明かす。

 ^二つに 「宝樹を観ず」 というのは、 重ねて観の名を出す。

 ^「一一にこれを観じ」 より以下は、 後の観の相をおこしてまさしく観法の方法を教えられる。 これは、 弥陀の浄土は、 広大無辺で、 宝樹宝林はただ七重の行列のみをもって分量とするものでないことを明かす。 ^今 「七重」 というのは、 あるいは一樹があって、 黄金を根となし、 紫金を茎となし、 白銀を枝となし、 *のうこえだとなし、 珊瑚を葉となし、 白玉を華となし、 真珠をこのみとする。 このように七重に互いに根・茎乃至華・菓などとなって、 七七四十九重である。 あるいは一宝をもって一樹となせるもの、 あるいは二・三・四宝乃至百千万億、 数えることのできない多くの宝をもって一樹となせるものなどがある。 このいわれは ¬*弥陀みだきょう¼ の中にすでに広く述べ終わった。 だから 「七重」 と名づける。 ^ごう」 というのは、 浄土の林樹は多いけれども、 列と列とが真直ぐに整うて乱れがないことをいう。 ^「想」 というのは、 まだ真実の観を修めることが、 自在に思いのままにできないならば、 必ず方便の仮想を用いて心をとどめてまさによく利益をうるのである。

 ^三つに 「一一に」 より 「*じゅんなり」 までは、 まさしく樹の体量を明かす。 ^これは、 いろいろな宝林樹はみな阿弥陀仏の無漏心の中から出る。 仏心が無漏であるから、 その樹もまた無漏であることを明かす。

 ^(浄土論) にいわれる。

法性にかなった智慧と慈悲 この無漏の善根によって成就されている

浄らかな光明をそなえていることは 鏡や日輪やまた月のようである

 ^「量」 というのは、 一々の樹の高さは三十二万里である。 また枯死するものなく、 また小さなものなく、 また初め生じてよりだんだん大きくなるものもなく、 できる時には、 同事にすみやかにできて、 その分量はひとしい。 どうしてそうなるかといえば、 かの浄土は無漏であり生滅のない世界であるから、 どうして、 できたり枯れたりだんだん大きくなることがあろうか。

 ^四つに 「そのもろもろの宝樹」 より 「もって映飾ようじきす」 までは、 まさしくいろいろの樹が種々の宝で飾られ、 さまざまの色光の異なった相のあることを明かす。 その中に四つある。 ^一つには、 林樹の華や葉は、 いろいろな飾りがまじわって同じくないことを明かす。 ^二つには、 一々の根茎枝条菓などがみな多くの宝を具えていることを明かす。 ^三つには、 一々の華と葉が次々と互いに不同であって、 瑠璃の色より金色の光を出し、 このように次々とあいじわっていることを明かす。 ^四つに、 さらにすべてのいろいろの宝をもってこれを飾ることを明かす。

 ^また讃 (浄土論) にいわれる。

法性にかなったあらゆる宝からできていて 妙なる荘厳かざりを具えている

煩悩のけがれをはなれた光が 浄土のすべての飾りに曜いている

 ^また讃嘆していう。

弥陀の浄土は宝樹が多い 四面にこえだをたれ

清浄な衣がかかりめぐっている 宝の雲が上からかぶさって

化現の鳥が声をつらね 空に飛びかい

説法の声を出して会座に入ってくる 他方の聖衆は

その響きを聞いて心が開け 本国の人々は

その形を見て悟りをひらく

 ^五つに 「妙真珠網」 より 「色中の上なる者なり」 までは、 まさしく樹上の空中の飾りを明かす。 その中に七つある。 ^一つには、 妙なる真珠の網が空から樹を覆うことを明かす。 ^二つには、 網が多く重なっていることを明かす。 ^三つには、 宮殿の数を明かす。 ^四つには、 一々の宮内に多くの童子がいることを明かす。 ^五つには、 童子の身に珠の*瓔珞ようらくをつけていることを明かす。 ^六つには、 瓔珞の光が遠近を照らすことを明かす。 ^七つには、 その光が超えすぐれた色であることを明かす。

 ^六つに 「このもろもろの宝林」 より 「七宝のこのみ有り」 までは、 その林樹が多いけれども、 乱れることなく、 華とこのみが現われる時は同事であることを明かす。 これは、 *法蔵ほうぞうさつの尊い因位の*誓願せいがんから自然に華菓をあらわすのである。

 ^七つに 「一一の樹葉」 より 「葉間に婉転えんでんせり」 までは、 まさしく華と葉の色相が不同であることを明かす。 その中に五つある。 ^一つには、 葉の分量は等しくて大小の差別がないことを明かす。 ^二つには、 葉より光色を出す数を明かす。 ^三つには、 疑ってわからないことを恐れて喩えをもってあらわし、 天の瓔珞のようであることを明かす。 ^四つには、 葉の間に妙なる華があり、 その色は*えんだんごんのごとく、 すがたはめぐれる火の輪のようであることを明かす。 ^五つには、 互いに照らして葉の間にあでやかに動いていることを明かす。

 ^八つに 「しょうせる諸菓」 より 「また中において現ず」 までは、 まさしくこのみに不思議な徳用はたらきすがたがあることを明かす。 その中に五つある。 ^一つには、 宝菓の生ずる時はねんにわき出ることを明かす。 ^二つには、 喩えをかりて菓の相をあらわすことを明かす。 ^三つには、 菓に不思議な光があって、 それが化してはたがさとなることを明かす。 ^四つには、 宝蓋が円く輝いてその中に*三千さんぜん大千だいせんかいが現われ、 *ほう*しょうぼうの二荘厳のいろいろの相が現われることを明かす。 ^五つには、 十方の浄土があまねくその蓋の中に現われ、 かの浄土の人天がすべて見ないものはないことを明かす。 ^またこの宝樹の量は、 いよいよ高く、 縦横がいよいよ広い。 華や菓は多く、 その不思議なはたらきは一つでない。 一樹がすでにこのとおりであるから、 かの浄土に満ちているあらゆる樹の菓も多いことがみなこのとおりである。 すべての行者は行住坐臥いつもこの想をなすべきであると知るべきである。

 ^九つに 「この樹を見おわらば」 より 「ぶんみょう」 までは、 観成就の相を述べる。 その中に三つある。 ^一つには、 観成就の相を結ぶことを明かす。 ^二つには、 次第にこれを観じて雑乱してはならないことを明かす。 ^三つには、 一つ一つ想をおこして心に境をとどめて、 まず樹の根を観じ、 次に茎枝から華菓に至るまでを想い、 次に網の間の宮殿を想う。 次に童子と瓔珞とを想い、 次に葉の量と華菓の光色とを想い、 次に幢幡・華蓋が広く衆生*やくの事を現わすのを想う。 すでによく一々を次第に観ずるものは、 明了ならぬものはないことを明かす。

 ^十に 「是為」 より下は、 総じて結ぶ。

 これはすなわち、 宝樹はいろいろの輝きをつらね、 宝珠の網が空中の宮殿の上にすだれのようにかかり、 華はいろいろの色に分かれ、 菓は他方世界を現わす。

 ^以上十句の不同があるけれども、 広く宝樹観を明かし終わった。

【6】 ^五つに、 ほうかんの中について、 また、 まず挙げ、 次に解釈し、 後に結ぶ。 その中に七つある。

 ^一つに 「次にまさに水をそうすべし」 より以下は、 総じて観の名を挙げる。 すなわちこれは前を受けて後をおこす。 これは、 宝樹が精妙であっても、 もし池水がなかったならば、 まだいとはいわれない。 ^一つには、 世界をくうのないようにするためである。 二つには、 依報を飾るためである。 こういうわけで、 この池渠ちこの観があることを明かす。

 ^二つに 「極楽国土に」 より 「如意珠王より生じ」 までは、 まさしく池の数を明かし、 ならびにその出る所を示す。 その中に五つある。 ^一つには、 帰する所の浄土をかかげ示すことを明かす。 ^二つには、 池に八つあることを明かす。 ^三つには、 一々の池の岸が七宝よりできていることを明かす。 まさしく宝の光が八徳の水に映り通って、 水の色がいろいろな宝の色と同じであるから宝水と名づける。 ^四つには、 この多くの宝の体性は柔軟であることを明かす。 ^五つには、 八池の水はみな如意宝より出るから如意水と名づけることを明かす。 この水には八種の徳がある。 ^一つには清浄で光っている。 これは視覚に摂まる。 二つには臭みがない。 これは嗅覚に摂まる。 三つには軽い。 四つには冷たい。 五つにはやわらかい。 これは触覚に摂まる。 六つには甘美である。 これは味覚に摂まる。 七つには飲むときに心地がよい。 八つには飲んでうれいがない。 これは意に受け込む法に摂まる。 この八徳のいわれは、 すでに ¬弥陀経義¼ の中に広く説き終わった。

 ^また讃嘆していう。

極楽荘厳の安養浄土は 八功徳水の池が浄土に満ち

四方の岸は美しく輝いて七宝をまじえ 水の色は明らかで宝光に映じている

水の体性は柔らかで堅い触りがない 菩薩は静かに歩いて宝香を散らし

宝香・宝雲は宝蓋となり 宝蓋は空から宝幢を覆い

宝蓋の美しい飾りが宝殿をかこんでいる 宝殿の宝鈴が珠網に垂れて

宝網の宝楽がいろいろにかなで 機類に従って宝の宮殿楼閣を讃嘆する

一々の宮殿楼閣に仏の会座があり 数しれない聖衆が坐して思量する

願わくは この有縁の人々はつねに*憶念おくねんして 命終わってもろともにの説法の座に生まれよう

 ^三つには 「分かれて十四支と為る」 より 「もって底沙たいしゃす」 までは、 まさしく池が分かれて支流となり、 めぐり帰って乱れないことを明かす。 その中に三つある。 ^一つには、 みぞの数を明かす。 ^二つには、 一々の渠の岸は黄金の色をなしていることを明かす。 ^三つには、 渠の底の砂はいろいろの宝の色をなしていることを明かす。 「金剛」 というのは、 無漏のものがらである。

 ^四つに 「一一の水中に」 より 「樹を尋ねて上下す」 までは、 まさしく水に不思議のはたらきがあることを明かす。 その中に五つある。 ^一つには、 別してみぞの名を指して、 その荘厳相をあらわすことを明かす。 ^二つには、 渠の内に法華の多いことを明かす。 ^三つには、 華の分量の大きさを明かす。 ^四つには、 *摩尼まに宝水が華の間を流れることを明かす。 ^五つには、 宝水が渠から出て、 多くの宝樹をたずねて自在に上下するから、 如意水と名づけることを明かす。

 ^五つに 「その声微妙にして」 より 「諸仏しょぶつ相好そうごうしゃ」 までは、 まさしく水に不思議な徳があることを明かす。 それに二つある。 ^一つには、 宝水が華の間を流れ微波さざなみが触れあって妙なる声を出し、 その声の中に尊い法を説くことを明かす。 ^二つには、 宝水が岸に上り樹の枝・こえだ・華・葉・このみなどを尋ねて、 あるいはのぼり、 あるいはくだり、 その中間で触れあって妙なる声を出し、 その声の中にみな尊い法を説いている。 あるいは衆生の苦しみのことを説いて、 菩薩の大悲心をさまし動かし、 勧めて他の衆生を済度せしめる。 あるいは人法 (*かい) や天法 (*じゅうぜん) などの法を説き、 あるいは*じょうなどの法を説き、 あるいは*ぜんじょうなどの菩薩の法を説き、 あるいは仏の境界の*三身さんしんなどの法を説くことを明かす。

 ^六つに 「如意珠王」 より 「仏法僧を念ず」 までは、 まさしく摩尼宝珠に多くの不思議な徳のあることを明かす。 それに四つある。 ^一つには、 珠王の内より金色の光を出すことを明かす。 ^二つには、 光が変化して百宝の鳥となることを明かす。 ^三つには、 鳥の声はやさしくみやびやかで天の音楽も比べものにならぬことを明かす。 ^四つには、 宝鳥が声をつらねて同じく仏法僧を念ぜよと讃嘆することを明かす。

 ^ところで、 「仏」 は衆生の無上の大師であり、 邪を除いて正法に向かわせてくださる。 ^「法」 は衆生の無上の良薬であって、 よく煩悩の毒病を除いて清浄な智慧とならしめる。 ^「僧」 は衆生の無上の*福田ふくでんである。 ただ飲食・衣服・臥具・湯薬の四事をもって供養することに心を傾けて、 たゆまなかったならば、 五乗の果が自然に求めに応じて成就する。 ^摩尼宝珠は、 前には八徳の水を生じ、 後には種々の金色の光を出す。 ただ煩悩の闇を破り、 迷いのくらきを除くばかりでなく、 いたる処によく衆生利益の事をなしている。

 ^七つに 「是為」 より下は、 総じて結ぶ。

 ^以上七句の不同があるけれども、 広く宝池観を明かし終わった。

【7】 ^六つに、 宝楼ほうろうかんの中について、 また、 まず挙げ、 次に解釈し、 後に結ぶ。 その中に十一ある。

 ^初めに 「衆宝国土の」 というのは、 総じて観の名をあげる。 前をうけて後をおこす。 ^これは、 浄土には宝流があって注いでいても、 もし宝楼・宮殿がなかったならば、 まだ精妙とはいわれないことを明かす。 これによって、 国土の荘厳がいろいろまどかにそなわるのである。

 ^二つに 「一一の界上に」 というのは、 まさしく宝楼の立っている場所が国中にあまねく行き渡っているので、 宝楼もまた数えることのできないことを明かす。

 ^三つに 「五百億有り」 というのは、 まさしくその数をあらわす。 一区域の上がすでにそうである。 国中に満ちていることもまたこのとおりであると知るべきである。

 ^四つに 「その楼閣の中に」 より 「天の伎楽をし」 までは、 まさしく楼閣の内の荘厳を明かす。

 ^五つに 「また楽器有って」 より 「鼓せざるにおのずから鳴る」 までは、 まさしく楼閣の外の荘厳を明かす。 宝の楽器が空にかかって、 その鳴る声は説法の響きを出して、 昼夜六たびに、 天の宝幢のごとく、 考えることなくして自分のはたらきをなす。

 ^六つに 「この衆音の中に」 より 「念比丘僧」 までは、 まさしく楽器にはこころがないけれども説法のはたらきがあることを明かす。

 ^七つに 「この想成じおわるを」 より 「宝池」 までは、 まさしく観が成就した相をあらわすことをいう。

 これは、 専ら心を境にとどめ、 宝楼を見ようと願い、 おもいをこめて、 ほかに移らなかったならば、 おのずから上に述べた地想観以来の荘厳がすべて現われることを明かす。

 ^八つに 「是為」 より下は、 総じて結ぶ。

 ^九つに 「もしこれを見る者は」 よりは、 前の観成就の相をうけて、 後の利益をおこす。

 ^十に 「じょりょう」 より 「かの国に生ず」 までは、 まさしく作法によって観察すれば多劫の障りを除き、 身が清浄となり、 仏の本心にかない、 命終わって次の世には必ず往生するに間違いないことを明かす。

 ^十一に 「この観をすをば」 より 「邪観」 までは、 観の邪正の相を区別する。

 ^以上十一句の不同があるけれども、 広く宝楼観を明かし終わった。

【8】 ^七つに華座けざかんの中について、 また、 まず挙げ、 次に解釈し、 後に結ぶ。 その中に十九ある。

 ^一つに 「仏阿難に告げたまわく」 より 「苦悩を除く法」 までは、 まさしく聴くことを命じ、 許して説かれることを明かす。 その中に三つある。 ^一つには阿難および韋提希に告げられることを明かす。 ^二つには、 聴くことを命じて、 これをあきらかに受け、 正念に修行させることを明かす。 ^三つには、 仏は二人のために、 華座の観法は、 ただよく心をとどめて念ずれば罪苦を除くことができると説かれることを明かす。

 ^二つに 「汝等憶持して」 より 「解説せよ」 までは、 まさしく後の世にひろめるように勧められることを明かす。 ^これは、 この観法は、 深く大切なものであり、 常に迷いに沈む衆生が愛欲におぼれて六道に漂い流されるのを急いで救うものであるから、 汝らはこの観法をたもち、 いたる処で修めることを勧めて、 あまねく人々に知らしめ、 もろともに解脱さとりに昇られよということを明かす。

 ^三つに 「この語を説きたもう時」 より 「たぐいすことを得ず」 までは、 まさしく、 娑婆に出られた釈尊が衆生のためにおもいを西方にとどめさせ、 浄土の阿弥陀仏は韋提希のこころを知りたもうから、 姿を娑婆に現わされたことを明かす。

 ^これは、 釈迦仏が許されたおことばと、 阿弥陀仏がそれに応じて現われたもうたこととが同じ思召しであることをあらわす。 ただ二尊が互いに隠顕の相を示される違いがあるのは、 まさしく衆生の根機がいろいろ異なるので、 互いに左官・大工の名匠といわれたえいしょうのように一致して化益されることを明かす。

 ^「この語を説きたもう時」 等というのは、 まさしくこの文の意について七つあることを明かす。

 ^一つには、 阿難と韋提希に告げられる時を明かす。

 ^二つには、 阿弥陀仏が釈迦仏のお声に応じてただちに現われて、 往生できることを証明されることを明かす。

 ^三つには、 阿弥陀仏が空中にあって立ちたもうのは、 心を向けて信じ、 わが国に生まれようと願うならば、 すみやかに往生できることを明かす。

 ^問うていう。 仏徳は尊高であるので、 たやすく軽々しい振舞はなさらぬはずである。 すでによく因位の*本願ほんがんにたがわず、 ここに来たって、 大悲を現わされるならば、 どうして端坐せられて根機に向かいなさらないのか。

 ^答えていう。 これは、 如来には別して奥深い思召しがあることを明かす。 ^思うに娑婆は苦しい世界であって、 いろいろの悪人が同居し、 八苦に苦しめられ、 ともすれば互いに背き、 心をいつわり親しんでえみを浮べている。 いつも六つの賊がつき随って、 三悪の火のあなにまさにち入ろうとしている。 もし阿弥陀仏がみ足をあげて、 いそいで迷いを救われなかったならば、 この三界の牢獄をどうして免れることができよう。 こういうわけで、 立ちながら衆生をつまみって行かれ、 端坐して機類におもむくことをなさらないのである。

 ^四つには、 *観音かんのんさつ*せいさつが侍者となって、 そのほかのものがないことをあらわすことを明かす。

 ^五つには、 阿弥陀仏と観音菩薩・勢至菩薩の三尊が身心ともに円満清浄で光明がいよいよ盛んであることを明かす。

 ^六つには、 仏身の光明は明らかに十方を照らされ、 煩悩の障りをもっている凡夫は、 どうしてつぶさに見ることができようかということを明かす。

 ^七つには、 仏身が無漏であるから、 光もまた同様に無漏である。 三界有漏の閻浮檀金色をもってどうして比べることができようかということを明かす。

 ^四つに 「時に韋提希、 見無量」 より 「らいし」 までは、 まさしく韋提希はまことにこれ煩悩のさわりをもっている女人で、 いうに足らぬ身、 ただ仏力がひそかに加わってくださることによって、 かの阿弥陀仏が現われたもうた時、 仏を見たてまつって礼拝させていただくことができたことを明かす。

 ^これはすなわち序分においては、 浄土を眺めて、 喜び嘆じて自らたえることができなかった。 いま、 まさしく阿弥陀仏を見たてまつって、 さらにいよいよ心が開けて*しょう法忍ぼうにんをさとったのである。

 ^五つに 「仏にもうしてもうさく」 より 「及び二菩薩を」 までは、 まさしく韋提希夫人が釈迦仏の御恩をいただいて、 衆生のために疑いを述べて後の問いをおこすことを明かす。 ^これは、 韋提希夫人の心は、 釈迦仏がいま現にましますから、 その尊い*加被かびの力を蒙って、 弥陀仏を見たてまつることができたけれども、 世尊が入滅なされた後の衆生は、 どうして見たてまつることができようかということを明かす。

 ^六つに 「未来の衆生」 より 「及び二菩薩を」 までは、 夫人が未来の衆生のためにお願いをもうけて、 自分と同じように仏を見たてまつらせようとすることを明かす。

【9】 ^七つに 「仏韋提に告げたまわく」 より 「まさに想念を起こすべし」 までは、 まさしく総じて告げ、 許してお説きなさることばを明かす。

 ^問うていう。 夫人が自分と同じように、 未来の衆生のためにとお願いをしたのに、 世尊がそれに答えられるにいたっては、 ただ韋提希だけを指して、 未来の衆生に通ぜしめられないのはどうしたわけか。

 ^答えていう。 仏身が教化に臨んで法を説いて機に応じられるには、 お願いしなくても、 なおみずからあまねくひろめられる。 どうして別して韋提希だけを指して、 ほかのものはひとしくそれに加わっておらないなどというべきであろうか。 ただ文が簡略であるから、 かねて未来のためという文字はないが、 その心は必ずある。

 ^八つに 「七宝の地上に」 より 「華想」 までは、 まさしく観に入る方法を教えられることを明かす。

 ^問うていう。 衆生は煩悩をもっているめしいで想いをめぐらすに従って疲れを増し、 何を見てもくらくてわからないことは、 夜歩くようである。 遠く清浄な境界に心を向けても、 どうしてことごとく見ることができようか。

 ^答えていう。 もし、 衆生の障りがあり心が動くことについていうならば、 いたずらに自ら疲労するばかりであろうが、 今は仰いで尊い仏の加被力をたのむのであるから、 観ずる境をみな見ることができる。 ^どのように作法して心をとどめて見ることができるのか。 作法しようと思うならば、 行者たちは、 まず仏像の前において、 心から懴悔して自分の造った罪を述べて深く慚愧を生じ悲泣の涙を流して、 ^その過ちを悔い終わって、 また心にも口にも釈迦仏および十方*ごうしゃ等の諸仏を請い、 またかの阿弥陀仏の本願を念じていえ。 「弟子それがしたちは、 生まれながらのめしいのようで、 罪が重く、 障りにさえぎられることは深い。 どうか仏の慈悲をもって摂め護り、 教えて開悟して、 観ずる境を成就させてください。 今すみやかに身命を捨てて仰いで弥陀仏に帰依いたします。 見るも見ないも、 みな仏の御恩であります」 と。 ^このことばをいい終わって、 さらにまた深く懴悔し、 それが済むと静かな処に行って顔を西方に向け、 正坐跏趺すること、 すべて前の坐法と同じようにし、 すでに心をとどめ終わったならば、 おもむろに心を移して、 かの浄土の宝地のいろいろな色が明らかであるのを想え。 ^初めの想には多くの境をとりまぜて想うてはいけない。 それは定をうることがむずかしい。 ただ一寸・一尺四方などを観ぜよ。 あるいは一日・二日・三日、 あるいは四・五・六・七日、 あるいは一月・一年・二・三年など、 昼夜を問わず、 行住坐臥に身口意の業を常に定と合うようにせよ。 ^ただよろずの事をともにすてることが、 失意の人・つんぼめしい・無智の人のようになれば、 この定は必ず成じやすい。 もしこのようにしなければ、 身口意業が所縁の境にしたがって移り、 禅定の想も波のように動いて、 たとい千年の命をかけても智慧の眼は開けない。

 ^もし心に定をえた時は、 あるいは、 まず光明の相が現われることがある。 あるいは、 まず浄土の宝地などの種々の相が明らかで不思議なものを見る。 それに二種の見がある。 一つには、 想見で、 なお心が動いているから清浄な境を見てもあまり明らかでない。 二つには、 もし内外の覚相がすべてなくなって、 まさしく観想に入れば、 その清浄な境を見ることが想見の時と比べものにならない。

 ^九つに 「りょうれん」 より 「八万四千の光」 までは、 まさしく宝華に種々の荘厳があることを明かす。 その中に三つある。 ^一つには、 一々の華びらに、 多くの宝の色をそなえていることを明かす。 ^二つには、 一々の華びらに多くのすじがあることを明かす。 ^三つには、 一々の脈に多くの光色があることを明かす。 ^これは、 行者に心をとどめて一つ一つ想わせ、 ことごとく心眼に見ることができるようにさせるのである。 ^すでに華びらを見終わったならば、 次に華びらの間の多くの宝を想い、 次に宝から多くの光を出し、 光が宝蓋となるのを想い、 次に華台と台上の多くの宝と、 真珠の網などを想い、 次に台上の四柱の宝幢を想い、 次の幢の上のひきまくを想い、 次に上の宝珠より光明が出て、 いろいろの色が虚空に満ち渡り、 おのおの異なった相を現わしているのを想え。

 ^このように、 次第に一々心をとどめて、 止めないならば、 久しからぬうちに定心をうる。 すでに定心をうれば、 かの浄土のいろいろの荘厳がすべて明らかに現われると知るべきである。

 ^十に 「了々」 より下は、 観が成就した相を述べる。

 ^十一に 「華葉の小なる者」 より 「あまねく地上に覆えり」 までは、 まさしく華びらに種々の荘厳があることを明かす。 その中に六つある。 ^一つには、 華びらの大きさを明かす。 ^二つには、 華びらの数を明かす。 ^三つには、 華びらの間の珠の飾りの数を明かす。 ^四つには、 珠に千の光明があることを明かす。 ^五つには、 一々の珠光が変じて宝蓋となることを明かす。 ^六つには、 宝蓋が、 上、 虚空を照らし、 下、 地上を覆うことを明かす。

 ^十二に 「しゃりょう」 より 「もってきょうじきす」 までは、 まさしく台上の荘厳相を明かす。

 ^十三に 「その台上にいて」 より 「妙宝珠もって映飾ようじきす」 までは、 まさしく幢上の荘厳相を明かす。 その中に四つある。 ^一つには、 台上におのずから四柱の宝幢があることを明かす。 ^二つには、 はたぼこの体量の大きさを明かす。 ^三つには、 幢上におのずから宝幔ほうまんがあり、 その形が天宮に似ていることを明かす。 ^四つには、 幢上におのずから、 あまたの宝珠があって、 光り輝いて飾りとなっていることを明かす。

 ^十四に 「一一の宝珠に」 より 「仏事を施作せさす」 までは、 まさしく宝珠の光に不思議な徳用の相があることを明かす。 その中に五つある。 ^一つには、 一々の珠に多くの光があることを明かす。 ^二つには、 一々の光がおのおの異なった色をなしていることを明かす。 ^三つには、 一々の光の色が浄土の地面にあまねく輝いていることを明かす。 ^四つには、 光のいたる処はおのおのさまざまの荘厳をなしていることを明かす。 ^五つには、 あるいは金剛台・真珠網・華雲・宝楽となって十方にあまねく満ちわたっていることを明かす。

 ^十五に 「是為」 より下は総じて観の名を結ぶ。

 ^十六に 「仏阿難に告げたまわく」 より 「*願力がんりきの所成なり」 までは、 まさしく華座が成就せられたわけを明かす。

 ^十七に 「もしかの仏を念ぜんとおもわん者は」 より 「自ら面像を見る」 までは、 まさしく、 重ねて願の作法をあらわして、 前のように次第に心をとどめて、 雑乱してはならないことを明かす。

 ^十八に 「この想成ぜば」 より 「極楽世界に生ず」 までは、 まさしく観成就の相を結ぶことを明かす。 すなわち二つの益がある。 ^一つには、 罪を除く利益を明かし、 ^二つには、 往生をうる利益を明かす。

 ^十九に 「この観をすをば」 より 「名づけて邪観とす」 までは、 まさしく観の邪正の相を区別することを明かす。

 ^これは、 蓮華は宝地をよりどころとし、 華びらの間に珍しい宝をまじえ、 うてなには四本の幢をかがやかし、 光は衆生化益のはたらきをなしているのである。

 ^以上十九句の不同があるけれども、 広く華座観を明かし終わった。

【10】^八つに、 像想ぞうそうかんの中について、 また、 まず挙げ、 次に解釈し後に結ぶ。 その中に十三ある。

 ^一つに 「仏阿難に告げたまわく」 より 「次にまさに仏を想すべし」 までは、 まさしく前を結んで後をおこすことを明かす。 「所以ゆえんいかん」 というのは、 その問いである。 仏を観察するわけはどういうわけかというのである。

 ^二つに 「諸仏如来は」 より 「心想中に」 までは、 まさしく、 仏の大慈悲心は衆生の観ずる心に応じて現われる。 こういうすぐれた利益があるから、 そなたはこれを想えと勧められることを明かすのである。

 ^問うていう。 韋提希が、 さきにお願いしたのは、 ただ弥陀如来だけをさしているのに、 釈迦如来が今すべて諸仏を挙げられるのは、 どういう思召しがあるのか。

 ^答えていう。 諸仏は、 同じく法報応の三身をさとられ、 慈悲と智慧との果は円満で、 ひとしくて差別がない。 一処に端坐しながら姿を現わされるのが自在である。 そこで仏の思召しで有縁の機に応じられる時には、 あらゆる*法界ほうかいに現われたもうことを示そうとされるのである。

 ^「法界」 というのは、 三義がある。 一つには、 仏心があまねく行き渡るから法界という。 二つには、 仏身があまねく行き渡るから法界という。 三つには、 何者にもさまたげられないから法界という。 まさしくお心が行き渡るから、 おからだも従って行き渡る。 お身がお心に従うから 「これ法界身なり」 という。 ^「法界」 というのは、 化導せられる境界すなわち衆生界である。 「身」 というのは、 化導なさるお身すなわち仏身である。

 ^「衆生の心想中に入りたもう」 というのは、 衆生が観察のこころをおこして仏を見ようと願うことによって、 仏はすなわち自在の智慧をもって、 それを知られて、 よく衆生の観想の心の中に入って現われたもう。 ただすべての行者たちが、 あるいは観想の中に、 あるいは夢の中で仏を見るのは、 このいわれである。

 ^三つに 「この故に汝等」 より 「心想り生ず」 までは、 まさしく利益を勧めて結ばれることを明かす。 ^これは、 心に専ら注いで仏を観ずることを明かす。 ただ仏の*相好そうごうを観察すること、 いただきよりみ足に至るまで観察し続け、 一々これを観じて、 しばらくも休むことがなく、 あるいは頂相を観じ、 あるいは眉間の*びゃくごう相乃至み足の下の*せん輻輪ぷくりん相を観ずる。 この観想をなす時に、 仏像の端厳なる相好がそろって、 明らかに現われる。 ^心に一々の相を想うことによって、 一々の相が現われる。 心にもし観じないならば、 すべての相は見ることができない。 ただ自分の心に観想をすれば、 その心に応じて仏身が現われるから 「この心すなわちこれ三十二相なり」 というのである。

 ^*はちじゅうずいぎょうこう」 というのは、 仏の相 (*さんじゅうそう) がすでに現われると、 好 (八十随形好) がみな随うのである。 これはまさしく如来が観察するものに具足観を教えられることを明かす。

 ^「この心作仏す」 というのは、 自分の信心によって仏の相好をそこにあらわすことが、 あたかも作るようなものである。

 ^「この心これ仏なり」 というのは、 心でよく仏の相好を観ずると、 その観想によって仏の相好が現われる。 すなわちこの心が仏である。 この観察の心を離れてほかに、 さらに別の相好身はないのである。

 ^諸仏しょぶつしょうへん」 というのは、 これ諸仏は円満で、 無礙自在の智慧をえて、 意を用いると用いないとにかかわらず、 常によくあまねく法界衆生の心を知りたもう。 ただよく観想をなせば、 すなわち汝の心に従って仏の相好が現われることが、 あたかも心より生ずるようである。 ^あるいは、 一類の行者があって、 この一段の経文の意を、 聖道でいうような*唯識ゆいしき法身ほっしんかんとなし、 あるいは*しょう清浄しょうじょうぶっしょうかんとなすようなのは、 その意がはなはだ誤っている。 いささかも似たところがない。 ^すでに像を想えというて、 三十二相のすがたを立てるのは、 もし真如法界身ならば、 どうして相があって観ずることや、 からだがあって取ることができようか。 ところで、 法身は色がなく見ることができない。 さらに、 比べるべき同類のものがないから、 虚空をもって法身のものがらにたとえる。 ^また、 今この観察の法門は、 みな西方を指し、 相を立てて、 そこに心をとどめさせ、 その境を取らせる。 べて相もなく、 念を離れるということはいわないのである。 ^釈迦如来は、 はるかに末代の罪の深い凡夫の根機をよく知っておられる。 仏の相好を立て、 そこに心をとどめて観ずることさえ容易にできないのに、 まして*そうねんの立場から観察することができようか。 あたかも、 神通力のないものが空中に家を建てるようなものである。

【11】^四つに 「この故にまさに」 より 「三仏陀」 までは、 まさしく、 前にいったような利益は、 専ら心を注ぐならば必ず成就するから、 そこで次々に教説を教えて、 かの仏を観ずるよう勧められることを明かす。

 ^五つに 「かの仏を想せん者」 よりは、 前をうけて後をおこす。 「ずまさに像を想すべし」 というのは、 観ずるところの境を定める。

 ^六つに 「閉目開目に」 より 「掌中をるが如く」 までは、 まさしく観成就の相を明かす。 その中に四つある。 ^一つには、 行住坐臥に眼をあけても閉じても一つの金像を見ることが目の前に現われるようで、 常にこの想いをすることを明かす。 ^二つには、 すでによく像を感じたならば、 像には必ず坐所があるべきである。 そこで前の華座を観じて像がその上に坐せられると想うことを明かす。 ^三つには、 像の坐せられるのを観じ終われば、 心眼が開けることを明かす。 ^四つには、 心眼がすでに開けば、 金像やかの極楽のいろいろの荘厳のものがらを見るのに、 地上・虚空のありさまが明らかに見られ、 さえぎられることがないことを明かす。 ^また、 像を観じて心をとどめる作法はもっぱら前に説いた三十二相の観法のとおりである。 頂より一々これを想うて、 かお・眉・毫相・眼・鼻・口・耳・のどうなじ・肩・ひじ・手・指を想い、 またさらに心を上の方に向けて胸・腹・ほぞかくしどころすね・膝・かかと・足・十指・千輻輪などを一々想う。 上より下に向かうのを順観と名づける。 下の千輻輪より上に向かうのを逆観と名づける。 ^このように順観・逆観して心をとどめれば久しくたたないうちに必ず観を成就することができる。 また、 仏身および華座・宝地なども必ず上下に通じて観ずべきである。 ところで十三観の中で、 この地想観・華座観・像想観などは最も肝要である。 もし人に教えようと思うならば、 この法を教えよ。 ただこの一つの法が成就すれば、 ほかの観は自然に成就するのである。

 ^七つに 「この事を見おわらば」 とは、 上の像身の観を結んで、 後の観音・勢至の二菩薩の観をおこすのである。

 ^八つに 「またまさに更に一の大蓮華」 より 「右の華座に坐す」 までは、 まさしく上の弥陀・観音・勢至の三身観を結んで後の多身観をおこすことを明かす。 ^この二菩薩を観じようとするものは、 もっぱら仏像を観ずる作法のごとくせよ。

 ^九つに 「この想成ずる時」 より 「かの国に徧満す」 までは、 まさしく、 上の多身観を結んで後の説法の相を生ずることを明かす。 ^これは、 すべての行者たちは、 行住坐臥、 常にかの浄土の一切の宝樹、 宝楼・蓮華・池などを観ずることを明かす。 もしくは、 礼拝・念仏、 もしくは観想するに、 常にこのおもいをなせ。

 ^十に 「この想成ずる時」 より 「憶持して捨てざれば」 までは、 まさしく、 定によって極楽の荘厳を見ることができ、 また一切の荘厳がみな妙法を説くことを聞く。 ^すでにこれを見聞し終わって、 つねに心をたもって失わないようにするのを定心を守ると名づけることを明かす。

 ^十一に 「*しゅ多羅たらと合せめよ」 より 「極楽世界を見ると」 までは、 観の邪正の相を区別する。

 ^十二に 「是為」 より下は総じて結ぶ。

 ^十三に 「この観をす者は」 より 「念仏三昧を得ん」 までは、 まさしく、 心をこめて観を修すれば、 現に利益をこうむることを明かす。 これは、 多くの衆生は障りが重くして真仏の観をなすことができない。 こういうわけで、 大聖釈尊が哀れみをたれて、 しばらく心を形像に注がしめたもうのである。

 ^以上十三句の不同があるけれども広く像観を明かし終わった。

【12】^九つに、 真身しんしんかんの中について、 またまず挙げ、 次に解釈し、 後に結ぶ。 その中に十二ある。

 ^一つに 「仏阿難に告げたまわく」 より 「身相光明を」 までは、 まさしく、 二人に告げて、 前の像観を結び、 後の真身の観をおこすことを明かす。

 ^二つに 「阿難まさに知るべし」 より 「金色」 までは、 まさしく、 真仏の身相が天金の色にこえていることをあらわすことを明かす。

 ^三つに 「仏身の高さ六十」 より 「由旬なり」 までは、 まさしく身量おからだの大きさを明かす。

 ^四つに 「眉間の」 より 「菩薩もって侍者とす」 までは、 まさしく総じて仏の身相を観ずることを明かす。 その中に六つある。 ^一つには、 白毫相の大きさを明かす。 ^二つには、 眼相の大きさを明かす。 ^三つには、 毛孔の大きさを明かす。 ^四つには、 *円光えんこうの大きさを明かす。 ^五つには、 化仏の数を明かす。 ^六つには、 侍者の数を明かす。

 ^五つに 「無量寿仏に」 より 「摂取して捨てたまわず」 までは、 まさしく、 仏身の別相を観じ、 その光が有縁の衆生を利益することを明かす。 その中に五つある。 ^一つには、 相の数を明かす。 ^二つには、 好の数を明かす。 ^三つには、 光の数を明かす。 ^四つには、 遠く光の照らすことを明かす。 ^五つには、 光の至るところ、 ひとえに摂取の利益を蒙ることを明かす。

 ^問うていう。 いろいろの行をよく修めて、 それを往生の因に向けるならば、 みな往生できる。 どうして阿弥陀仏の光はあまねく照らされるのに、 ただ念仏のもののみを摂められるのは、 どういう意味があるのか。

 ^答えていう。 これに三つのわけがある。 ^一つには、 親縁しんえんを明かす。 衆生が行をおこして、 口に常に*みょうごうを称えるならば、 仏はすなわちこれを聞きたもう。 身に常に仏を礼敬すれば仏はすなわちこれを見たもう。 心に常に仏を念ずれば仏はすなわちこれを知りたもう。 衆生が仏を憶念相続するならば、 仏もまた衆生を憶念せられる。 かの阿弥陀如来の三業とこの衆生の三業とが互いに離れないから親縁と名づける。 ^二つには近縁ごんえんを明かす。 衆生が仏を見たてまつろうと願えば、 仏はすなわち念に応じて目の前に現われられるから近縁と名づける。 ^三つにはぞうじょうえんを明かす。 衆生が仏名を称えるならば、 すなわち多劫の罪が除かれて、 命が終わろうとする時、 阿弥陀仏が聖衆と共に自ら来たって迎えられ、 いろいろのよこしまな業の障りにさまたげられないから増上縁と名づける。 ^ほかのいろいろな行は、 これを善根といわれるけれども、 もし念仏に比べたならば全く比べものにならない。 こういうわけであるから、 諸経の中に処々に広く念仏の効能はたらきをほめていられる。 ¬*りょう寿じゅきょう¼ の四十八願の中のごときは、 ただ弥陀の名号を専ら称えて往生をうると明かされてある。 また ¬*弥陀みだきょう¼ の中のごときは、 一日あるいは七日専ら弥陀の名号を称えて往生をうるとあり、 また十方恒河沙の仏がたが、 そのむなしくないことを証明されることが説かれてある。 またこの ¬*かんぎょう¼ の定散十六観の文の中で、 ことにただ名号を称えて往生をうるとあらわされている。 このような例は一つでない。 広く念仏三昧をあらわし終わった。

【13】^六つに 「その光相好」 より下は、 少を結んで多をあらわす。 たやすく観じようと思っても、 なかなかつくすことはむずかしい。

 ^七つに 「だまさに憶想して」 より下は、 まさしく、 荘厳は不可思議であって、 われわれ凡夫の知る境界をこえており、 目の前に見ることはできないが、 ただ観想して、 心眼で見ることを明かす。

 ^八つに 「この事を見る者は」 より 「もろもろの衆生を摂す」 までは、 まさしく観察の功があらわれて失われず観の利益が成就することを明かす。 その中に五つある。 ^一つには、 観察によって十方諸仏を見ることができることを明かす。 ^二つには、 諸仏を見ることによって念仏三昧を成ずることを結ぶ。 ^三つには、 ただ弥陀一仏を観じて、 一切の仏身を観ることを明かす。 ^四つには、 仏身を見るによって、 仏の心を知ることを明かす。 ^五つには、 仏の心は、 大慈悲を*たいとし、 この平等なる大慈悲をもってあまねく一切の衆生を摂められることを明かす。

 ^九つに 「この観をす者は」 より 「無生忍を得ん」 までは、 まさしく、 命終わって次の世に浄土に往生をうる益を明かす。

 ^十に 「この故に智者」 より 「現前に*じゅす」 までは、 重ねて観察を修する利益を結び勧められることを明かす。 その中に五つある。 ^一つには、 観察のできる人を出すことを明かす。 ^二つには、 専心に無量寿仏を観ずることを明かす。 ^三つには、 相好が多いのでそれらを一緒にじえて観察することができない。 ただ白毫相の一つだけを観ずる。 ただ白毫相だけを見ることができれば、 すべての相好が自然に現われることを明かす。 ^四つには、 すでに阿弥陀仏を見たてまつれば、 すなわち十方の諸仏を見たてまつることを明かす。 ^五つには、 すでに諸仏を見たてまつれば、 定の中で諸仏より往生の記別を授けられることを明かす。

 ^十一に 「是為ぜい徧観へんかん」 より下は、 総じて結ぶ。

 ^十二に 「この観をすをば」 より下は、 まさしく観の邪正の相を区別することを明かす。 ^これはすなわち、 弥陀仏の真身の量ははなはだ大きく、 白毫は五つの須弥山のようであり、 説法の響きは衆生の根機に応じ、 光明は衆生をうるおされる。 そこで世尊は衆生をして、 如来に*みょうし、 専ら心を注いでみなのこりなく、 弥陀の*ほんぜいがんに乗じて、 みなともに浄土に入らしめたいと思召されるのである。

 ^以上十二句の不同があるけれども、 広く真身観を明かし終わった。

【14】^十に観音かんのんかんの中について、 またまず挙げ、 次に解釈し、 後に結ぶ。 その中に十五ある。

 ^一つに 「仏阿難に告げたまわく」 より 「菩薩」 までは、 まさしく、 前の真身観を結んで後の菩薩観をおこすことを明かす。

 ^二つに 「この菩薩は身のたけ」 より 「皆中において現ず」 までは、 まさしく総じて身相をあらわす。 その中に六つある。 ^一つには、 身量の大きさを明かす。 ^二つには、 おからだの色が仏と同じでないことを明かす。 ^三つには、 菩薩の頂上の*肉髻にくけいが仏の*けいと同じでないことを明かす。 ^四つには、 円光の大きさを明かす。 ^五つには、 化仏と侍者の数を明かす。 ^六つには、 おからだから放つ光の中にあまねく五道の衆生を現わすことを明かす。

 ^三つに 「頂上にはりょう」 より 「二十五由旬なり」 までは、 まさしく、 天冠の中の化仏がすぐれていることを明かす。

 ^四つに 「観音」 より下は、 まさしくお顔の色とおからだの色とが同じでないことを明かす。

 ^五つに 「眉間の」 より 「蓮華色の」 までは、 まさしく、 白毫相の光が化仏・化菩薩を現わして十方に満ち、 化仏・化菩薩がいよいよ多く、 またれんの色のようであることを明かす。 その中に五つある。 ^一つには、 白毫相が七宝の色をなしていることを明かす。 ^二つには、 白毫の光の数を明かす。 ^三つには、 光の中におられる化仏の数を明かす。 ^四つには、 その侍者の数を明かす。 ^五つには、 化仏やその侍者が変現して十方にあまねく満ちることを明かす。

 ^六つに 「八十億の光明有りて」 より 「荘厳の事」 までは、 まさしく、 おからだにつけている光の瓔珞が世のいろいろの宝でできたものでないことを明かす。

 ^七つに 「しゅしょうに五百億の」 より 「衆生をしょういんす」 までは、 まさしく手に慈悲のはたらきがあることを明かす。 その中に六つある。 ^一つには、 手掌てのひらがいろいろの蓮華の色をなしていることを明かす。 ^二つには、 一々の指のさきに八万の印文もようがあることを明かす。 ^三つには、 一々の印文に八万四千の色があることを明かす。 ^四つには、 一々の色に八万四千の光があることを明かす。 ^五つには、 光明の体は柔軟でひとしく一切を照らすことを明かす。 ^六つには、 この宝光の手をもって有縁の衆生を導くことを明かす。

 ^八つに 「足を挙げる時」 より 「まんせざることし」 までは、 まさしく、 足に功徳のはたらきの相があることを明かす。

 ^九つに 「その余の身相」 より下は、 仏の相と同じであることを明かす。

 ^十に 「ただ頂上の」 より 「世尊に及ばず」 までは、 まさしく、 本師と弟子との位が別であり、 従って果をさとることがいまだまどかでない。 頂上の肉髻とけんちょうそうの二相が世尊に及ばず、 なお仏果に至っていないことをあらわしている。

 ^十一に 「是為」 より下は、 総じて結ぶ。

 ^十二に 「仏阿難に告げたまわく」 より 「まさにこの観をすべし」 までは、 まさしく重ねて前の文を結んで後の益をおこすことを明かす。

 ^十三に 「この観をす者は」 より 「いかいわんや諦観せんをや」 までは、 まさしく観の利益を勧められることを明かす。

 ^十四に 「もし観音を観ぜんと欲すること有らん」 より 「掌中を観るが如く」 までは、 まさしく重ねて観の作法をあらわして衆生を勧め、 心を傾けて現世と来世の両益にうるおさしめられることを明かす。

 ^十五に 「この観をす」 より下は、 まさしく、 観の邪正の相を区別することを明かす。 ^これは、 すなわち、 観音の衆生済度の願いが重くして、 身を十方に現わされ、 その尊い手に輝きをもって、 根機に従ってこれを済度されるのである。

 ^以上十五句の不同があるけれども、 広く観音観を明かし終わった。

【15】^十一に、 せいかんの中について、 またまず挙げ、 次に解釈し、 後に結ぶ。 その中に十三ある。

 ^一つに 「次に大勢至を観ず」 より下は、 総じて観の名をあげる。

 ^二つに 「この菩薩の身量大小」 より下は、 次に観の相をのべる。 その中に五つある。 ^一つには、 おからだの量は観音にひとしいことを明かす。 ^二つには、 お身の色などが観音にひとしいことを明かす。 ^三つにはお顔の相も観音にひとしいことを明かす。 ^四つには、 身光や相好も観音にひとしいことを明かす。 ^五つには、 白毫相が光を放って転変することも観音にひとしいことを明かす。

 ^三つに 「円光のおもておのおの二十五由旬なり」 より下は、 まさしく円光などが観音の相と同じでないことを明かす。 その中に四つある。 ^一つには、 円光の大きさを明かす。 ^二つには、 光の照らす遠近を明かす。 ^三つには、 化仏の数を明かす。 ^四つには、 化仏の侍者の数を明かす。

 ^四つには 「しんの光明」 より 「大勢至と名づく」 までは、 まさしく、 身光が遠く照らして、 有縁の衆生を利益し、 ひとしく他方に及び、 みな紫金色をなしていることを明かす。 その中に八つある。 ^一つには、 身光の総相・別相の違いを明かす。 ^二つには、 光の照らす遠近を明かす。 ^三つには、 光の触れる処は、 みな紫金の色をなしていることを明かす。 ^四つには、 ただ勢至菩薩と宿世から因縁のあるものが、 この光を見、 お身にふれることができることを明かす。 ^五つには、 ただ一毛孔の光をみれば、 すなわち多くの諸仏の清浄微妙な身光を見ることを明かす。 これは、 少をあげて多くの益をあらわし、 この観を行ずる者に、 こい願わせ、 渇仰かつごう して、 観に入り、 これを成就させようとされるのである。 ^六つには、 光によって名を立てることを明かす。 ^七つには、 光のものがらはたらきとを明かす。 すなわち、 無漏を体とするから、 智慧光と名づける。 またよく十方の三悪道の苦しみを除くから無上力と名づける。 すなわちこれを用とする。 ^八つには、 大勢至と名づけるのは、 徳によって名を立てることを明かすのである。

 ^五つに 「この菩薩の天冠に」 より 「皆中において現ず」 までは、 まさしく天冠の荘厳相が観音と同じでないことを明かす。 その中に四つある。 ^一つには冠上の宝蓮華の数を明かす。 ^二つには一々の蓮華の上の宝台の数を明かす。 ^三つには一々のうてなの中に十方諸仏の浄土をうつしあらわすことを明かす。 ^四つには、 かの他方の浄土がこの浄土に現じてもかれこれと全く増減がないことを明かす。

 ^六つに 「頂上の肉髻は」 より 「あまねくく仏事を現ず」 までは、 まさしく肉髻とほうびょうの相を明かす。

 ^七つに 「余のもろもろの身相」 より下は、 観音と同じであることを明かす。

 ^八つに 「この菩薩行きたもう時は」 より 「極楽世界の如し」 までは、 まさしく、 歩まれる時、 観音と同じでない相を明かす。 その中に四つある。 ^一つには、 歩まれることの同じでない相を明かす。 ^二つには、 遠近を震動させる相を明かす。 ^三つには、 震動する所に華が多く現われることを明かす。 ^四つには、 現われた華は高く、 また秀でており、 いろいろの宝珠の飾りがあって、 極楽の荘厳のようであることを明かす。

 ^九つに 「この菩薩坐する時は」 より 「苦の衆生を度す」 までは、 まさしく坐る時の相が観音と同じでないことを明かす。 その中に七つある。 ^一つには、 坐る相を明かす。 ^二つには、 まず本国を動かす相を明かす。 ^三つには、 次に他方を動かす遠近の相を明かす。 ^四つには、 上下の仏国を動かすことの多い相を明かす。 ^五つには、 弥陀・観音などの分身が雲のように集まる相を明かす。 ^六つには、 空に満ちふさがって、 みな宝蓮華に坐ることを明かす。 ^七つには、 分身の仏・菩薩の説法がおのおの根機に応じて済度することを明かす。

 ^問うていう。 ¬阿弥陀経¼ には、 「かの浄土の衆生は、 いろいろの苦しみあることなく、 たださまざまの楽しみを受けるから極楽と名づける」 と説かれてある。 どうして、 この経では、 分身の仏・菩薩が法を説いて、 苦の衆生を済度するとあるのか。 何かわけがあるのか。

 ^答えていう。 いま苦楽というのに、 二種がある。 一つには、 三界の中の苦楽である。 二つには、 浄土の中の苦楽である。 ^三界の苦楽というのは、 苦とは、 *さんの苦、 八苦などであり、 楽とは、 人天が五欲放逸で*ばくされているなどの楽である。 これは楽といっても実は大の苦であって、 ついに少しも真実まことの楽がないのである。 ^浄土の苦楽というのは、 苦は初地以前を初地以上に望めて苦といい、 初地以上を初地以前に望めて楽という。 初地以上の下位のさとりを上位のさとりに望めて苦といい、 上位のさとりを下位のさとりに望めて楽という。 この例は一つをあげて、 ほかのことは知るべきである。

 ^いま 「苦の衆生を度す」 というのは、 ただ、 下の位を進めて上の位にのぼらせ、 下のさとりを転じて上のさとりをえさせるためである。 本来の希望にかなうから楽と名づける。 ゆえに 「苦を度す」 というのである。 もしそうでないならば浄土の中の一切の聖者は、 みな無漏を体とし、 大悲をその用とし、 畢竟常住で、 *分段ぶんだんしょうの迷いを離れている。 この上に、 どのようなわけをもって苦と名づけようか。

 ^十に 「この観をすをば」 より 「十一観」 までは、 まさしく、 観の邪正を区別し、 総じてこの観の分斉を結ぶことを明かす。

 ^十一に 「この菩薩を観ずる者は」 より下は、 まさしく、 観を修める利益が、 罪を除くこと多劫であることを明かす。

 ^十二に 「この観をす者は」 より 「浄妙の国土」 までは、 まさしく、 総じて前の文を結び、 重ねて浄土の益を得ることを明かす。

 ^十三に 「この観成ず」 より下は、 まさしく、 総じて二菩薩を挙げて観成就の相をのべることを明かす。 ^これは、 勢至の威力は高く、 坐れば他の国をゆるがし、 よく弥陀・観音・勢至の分身は雲のごとく集まり、 法をのべて衆生を利益する。 ながく迷いを離れて法界に行き衆生利益をさせる。

 ^以上、 十三句の不同があるけれども、 広く勢至観を解釈し終わった。

【16】^十二にかんの中について、 またまず挙げ、 次に解釈し、 後に結ぶ。 その中に六つある。

 ^一つに 「この事を見る時」 というのは、 まさしく、 前をうけて後をおこすことを明かす。

 ^二つに 「まさに自心を起こすべし」 より 「皆妙法をぶ」 までは、 まさしく、 心を凝らして観察に入り、 常に自分の往生するおもいをなすことを明かす。 その中に九つある。 ^一つには、 自分の往生する想を明かす。 ^二つには、 西方に向かう想を明かす。 ^三つには、 蓮華に坐する想を明かす。 ^四つには、 蓮華が合している想を明かす。 ^五つには、 蓮華の開く想を明かす。 ^六つには光が来たって自分の身を照らす想を明かす。 ^七つには、 すでに光明のお照らしを蒙って、 眼が開く想をなすことを明かす。 ^八つには、 眼がすでに開いて、 仏・菩薩を見たてまつる想をなすことを明かす。 ^九つには、 法を聞く想を明かす。

 ^三つに 「*じゅう二部にぶきょうと合せしめ」 より 「失せざれ」 までは、 まさしく、 入定の時も、 また散心の時も、 忘れることなく、 心を散らさず、 つねに想うことを明かす。 ^一つには、 観ずる心が明浄となる。 二つには、 諸悪がおこらない。 内には法の楽しみを受け、 外には三業の悪の障りがないからである。

 ^四つには 「この事を見る」 より下は、 観が成就した益を明かす。

 ^五つには 「是為」 より下は、 総じて結ぶ。

 ^六つには 「無量寿」 より 「常にこの行人の所に来至したもう」 までは、 まさしく重ねて観ずる人を挙げて弥陀・観音・勢至の三身に護念せられる利益を蒙ることを明かす。 ^これは、 衆生がこころをそそいで、 西方の依正二報の荘厳を見ようと願えば、 明らかに、 常に目の前に見るようである。

 ^以上六句の不同があるけれども、 広く普観を解釈し終わった。

【17】^十三に、 雑想ざっそうかんの中について、 またまず挙げ、 次に解釈し、 後に結ぶ。 その中に十一ある。

 ^一つに 「仏阿難に告げたまわく」 より下は、 まさしく、 二人にごうみょうされ、 上の諸観を結び、 勧めて後の観想をおこすことを明かす。

 ^二つに 「ずまさに一のじょうろくの像を観ずべし」 より下は、 まさしく、 像身を観じて、 真身を表わし、 宝池水を観じて浄土の大地を表わすことを明かす。 ^これは、 世尊がもろもろの衆生を教えて諸観の境をかえ、 心を転じて観に入ることを教えられるのである。 あるいは、 池水の華の上におられ、 あるいは、 宝宮・宝閣の中におられ、 あるいは、 宝林・宝樹の下におられ、 あるいは、 宝台・宝殿の中におられ、 あるいは、 虚空・宝雲・華蓋の中におられる。 このような所に一々心をとどめてこれを想い、 みな化仏の想をなさしめるのは、 根機と対境とがあいかなって、 観の成就をたやすくするためである。

 ^三つに 「先の所説の如き」 より 「心力の及ぶ所にあらず」 までは、 まさしく、 所観の境は大きく、 能観の心は小さくて、 にわかに真観を成就することがむずかしいから、 世尊はあわれみたもうて、 小身を観ずるように勧められることを明かす。

 ^四つに 「然るにかの如来」 より 「必ず成就することを得しむ」 までは、 まさしく、 凡夫の心は狭小で、 仏身の量はいよいよひろいから、 そこに心を注ぐことができなくて、 恐らく観が成就しがたいことであろう、 ^けれどもこれは、 心が小さいから成就することがむずかしいのではない、 所観の境が大であるから現われないのではない、 ただ弥陀の深重なる願力によって観察するものをして、 ことごとく成就させてくださるのであることを明かす。

 ^五つに 「だ仏像を想うすら」 より 「具足の身想」 までは、 まさしく、 比べてみてすぐれているとあらわすことを明かす。 ^像を観じてさえも、 なお、 自分に福をうることは無量である。 まして真仏を観ずるならば、 利益をうる功はさらに多い。

 ^六つに 「阿弥陀仏」 より 「丈六八尺なり」 までは、 まさしく、 所観の仏像をよく観ずると、 その仏身に大小があるけれども、 明らかにみなこれ真金色であることを明かす。 その中に三つある。 ^一つには、 弥陀の仏身の神通は無礙自在で、 意のままにあまねく現われることを明かす。 ^「意の如し」 というについて、 二種の意味がある。 一つには衆生の意の如しという意味で、 衆生の心に従ってこれを済度される。 二つには阿弥陀仏の意の如しという意味で、 *げんまどかに照らし、 *六通ろくつう自在で、 機の済度すべきものをみそなわして、 一念のうちに前後なく衆生のところにおもむき、 身口意の三業をもって、 衆生を悟らせ、 機類によってそれぞれ利益を与えられる。 ^二つには、 あるいは大身を表し、 あるいは小身を現わされることを明かす。 ^三つには、 仏身の量に大小あるけれども、 みな真金色であることを明かす。 これは観の邪正を定めるのである。

 ^七つに 「所現の形」 より下は、 まさしく、 現われた身には大小の別があるけれども、 光明の相は真身と異ならないことを明かす。

 ^八つに 「観世音菩薩」 より下は、 まさしく、 前の二菩薩観に同じであることを明かす。 仏が大であれば侍者も大であり、 仏が小であれば、 侍者も小である。

 ^九つに 「衆生だ首相を観じて」 より下は、 まさしく、 二菩薩の別なることを観ずるよう勧めることを明かす。 どのように二菩薩が別なのか。 観音菩薩のこうべの上には一の立ちたまえる化仏がおられる。 勢至菩薩の頭の上には一つのほうびょうがある。

 ^十に 「この二菩薩」 より下は、 まさしく、 弥陀・観音・勢至はひとしく因位における発願の因縁が深く、 同じように誓いを立てて、 悪を捨ててひとしく菩提に至らせるまで、 影や響きのごとく、 あい離れずに十方の世界を化益されることを明かす。

 ^十一に 「是為」 より下は、 総じて結ぶ。

 ^以上十一句の不同があるけれども、 広く雑想観を解釈し終わった。

 ^かみ日想観よりしも雑想観までは、 総じて世尊が前の韋提希の第四のお願いに 「我に思惟を教えたまえ、 我に正受を教えたまえ」 と申しあげた両句に答えられたことを明かす。

【18】^総じて讃嘆していう。

初めに日想観を教えてくらき心の闇を除き 水を観じ 氷想を成じて内心をきよめる

地面の下の金幢は互いにうつりあい 地上の荘厳かざりははかりしれなく重なっている

宝雲・宝蓋が空中に現われ 人天の音楽が互いにあいつづく

宝樹は瓔珞かざりをたれていろいろなこのみをまじえている 池には八功徳水が流れて花の中にそそぐ

宝楼・宝閣はみなあいつづき 光と光とは互いに照らしていずこにも影がない

阿弥陀三尊の華座はひとりはるかにほかの座にすぐれ 四方のはしらひきまくをうけて珠で飾った網がかかっている

衆生の心は迷って いまだ明らかでないから 心をとどめて像が静かにかの華座に坐せられるのを観ずる

一念に心が開けて真仏を見れば この身光相好はいよいよ多い

苦しみを救いたもう観音は十方世界をながめて いつでも形を現わして娑婆に入られないことはない

勢至の威光はよく法界を動かし 機縁に従ってこれを摂めて弥陀の世界に入らせる

いざ帰ろう  極楽は身を安らかにすることまことにすぐれている

正念に住して西方に帰し華につつまれたおもいをせよ 仏の荘厳を見たてまつって説法の声をきく

また衆生あって心に惑いをもつものは 真仏の境を観じても恐らく成就しがたい

そこで如来は次第に観ずる方法を開かれ 華や池や一丈六尺などの真金色のおすがたを観じさせる

現われた尊いおすがたに大小の別があるけれども 根機と時のよろしきに応じて衆生を済度せられる

あまねくすべての人々に勧める もっぱら念仏して西方に向かって心を傾けることを

【19】^また前の請いに答えられる中、 初め日想観より華座観までは、 総じて依報の荘厳を明かす。 二つに、 像観より雑想観までは、 総じて浄土の正報を明かす。

 ^以上依報・正報の不同があるけれども、 広く定善一門の義を明かし終わった。

観経正宗分定善義 巻第三