1022往生要集云

 

信毀因縁者、 ¬般舟経¼ 云、
ひとり一仏のみもとにして功徳をなすにあらず。 もしは二、 もしは三、 もしは十において、 ことごとく百仏のみもとにしてこの三昧をきくのみにあらず。 さりてのちのよのときにこの三昧をきくものなり。 経巻を書学し誦持して、 最後にまもること一日一夜せむ、 その福はかるべからず。 おのづから阿惟越致にいたらむ。 ねがふところはうるなりと。 とう。 もししからば、 きくもの決定して信ずべし。 なんがゆへぞ、 きくといへども、 信・不信あるやと。 こたえていはく、 ¬无量清浄覚経¼ にいはく、 善男子・善女人、 无量清浄仏のみなをきゝて、 歓喜踊躍して、 みのけいよだつことをなし、 ぬけいづるがごとくなるものは、 みなことごとく宿世宿命に、 すでに仏事をなせるなり。 それ人民あて、 うたがふて信ぜざるものは、 みな悪道のなかよりきたりて、 あう悪いまだつきず。 これいまだ解脱を得ざるなり。 略抄 また ¬大集経¼ の第七にいはく、 もし衆生あて、 すでに无量无辺の仏のみもとにして1023もろもろの徳本をうへて、 いましこの如来の十力・四无所畏・不共の法・三十二相をきくことをう。 乃至 下劣の人、 かくのごときの正法をきくことをうることあたはず。 たとひきくことをうれども、 いまだかならずしもよく信ぜず。 以上 まさにしるべし、 しやう因縁いんねん不可ふか思議しぎなり。 薄徳はくとくにしてきくことをうる。 そのえんをしることかたし。 烏豆うづじゆのごとし。」 (要集巻下)

 南无阿弥陀仏

 

底本は茨城県称名寺蔵真仏上人書写本。