(12月28日)

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「いのちの輝き」と題した講演の依頼を受けました。

実は、こういう「耳触りがよくて間口の広い」演題は、正直に言うと苦手なのです。当たり障りのない無難なところでまとめてすむのであればどうにでも格好はつけられますが、話していて当のわたし自身が面白くありませんから。

以前も同様の演題で依頼されたことがあり、そのときは構成を「いのち」-「出会い」-「輝き」として、間に「出会い」をはさむことで支えました。今回は現場の看護師さんたちを中心とする研修会とのことなので、副題を「老・病・死からの反照」とさせてもらい、老・病・死にきちんと触れることで問題提起をしていこうと構想しています。

が、そうするといきなりやっかいなことになりました。「老」についてはこれまでにも何度か触れたことがあり、多少の話の持ち合わせはあるし、「死」については最近集中して考えたばかりですからとりあえず問題ないのですが、「病」をきちんと主題として考えたことがまだないのです。話のネタがない。

ということで、泥縄よろしく、病について考えなくてはならないことに追い込まれてしまいました。

とりあえず、病気全般を、盲腸や肺炎などのような急性・一過性のものと、糖尿病やがんといった慢性・生涯性のものとに分けます。当然、関心は後者にあります。前者のような「わかりやすい」病気だけであったならば、現場の看護師さんが何か考えるきっかけを求めて話を聞きに集まるなどということもないでしょう。

さて、かんたんなふるいにかけて残ったこれらの「病気」をどう眺めるか。

生活習慣病、という観点は採りません。「元気で長生きするための健康講座」などではありませんし、そもそもわたしでは役回りが違う。生活習慣病というとらえ方に、どこか病気の原因を「自己責任」に還元しようとするにおいは感じられますから、そこをつついてみたい興味はありますが、わたしの土俵に引っ張り込むには少し方向が違いそうです。

ところで、病気が「単なる生理学的な現象」などではなくて、文化的・社会的な出来事であることも念のために確認しておきましょう。わたしとしては、病気を、患者という個人の問題から離陸させ、生き物である限りだれもが抱えている「具体的な」課題としてとらえようとしているのです。

これで多少考える上での方向性は整理できてきましたが、まだきっかけがつかめません。こういうときの常套手段として、語義を確認し直してみます。

病〔やまい〕

①わずらうこと。からだの故障。いたつき。

②わるい癖。欠点。短所。きず。       【広辞苑、大辞林、学研国語大辞典などから整理】

とありました。ちなみに、漢字の「病」は、疒(人が寝台の上にねているさま)+丙(両またをぴんと開いたさま)で、「病気になってからだが弾力を失い、ぴんとはって動けなくなること【漢字源】」の意味だそうです。

直接ではないにしても、少しヒントがつかめました。病に触れる項目のタイトルは、「病の健全さ」としよう。

そういえば先日、よそのお寺で法話をしている真っ最中に、お聴聞しておいでの方が心臓発作を起こされたことがありました。最初はわけがわからなかったのですが、次第に周囲の方が気づかれ、救急車を呼んでの大騒動になりました。幸い救急車が着く頃には顔色も戻っており、大事には至りませんでした。

駆けつけられた身内の方が「とんでもないことでご迷惑をおかけしました」と恐縮して挨拶なさったのですが、「とんでもないこと」などではありません。いつだれに起こっても不思議ではない、その意味で「当たり前」のことなのです。ほかの場ならいざ知らず法話の席ですから、むしろ「得がたいご縁」だったことでした。

病とは、患者さん(およびその家族)にとっての特別なことではなくて、誰しもが潜在的に、というよりも根源的に抱えている具体的な性癖です。わたしはそのように見る。あえて言うならば、「生きているという病」と形容してもよい。

講演全体の枠組みは「(老・病・死から反照された)生」であるわけですが、ここでわたしの意図をはっきりさせておかなくてはなりません。「生」を、「老・病・死」と対置して定位しようとしているのではないのです。むしろ、老・病・死こそが生だととらえている。その意味では「反照」はまずいかもしれませんが、生という実体があるわけではなくて、老・病・死からの照り返しによって初めて浮かび上がってくるものが生という幻影にほかならないのだ、という提言の意とさせてもらいましょう。

生・老・病・死は、仏教で言う四苦です。基本的なことを確認しておくと、最初のしょう苦は「生まれる」苦しみであって、「生きる」苦しみではありません。もし「生きる苦しみ」を位置づけるならば、老・病・死の苦こそがせい苦だということになります。ついでに「苦」もかみ砕いておく必要があるでしょうか。今の関心からすれば、あっさり「リアリティ」とでも受け止めておいていただけたらわかりやすくなりそうです。

だいぶ整理ができました。病を、わたしは「病の健全さ」として提示する。生は、病を抜きには語れない。とすると、後残る問題は一点です。病の意義とは何か、生をリアルにとらえていく上で病の「不可欠さ」はどこにあるのか。

生老病死は、せいの起承転結なのでしょう。生苦、「生まれる」リアリティとは、だれにも代わってもらうことのできないわが生を、わがものとして「生き始めよ」と促す。老苦、「老いるリアリティ」とは、そこにおける成熟を生きる手応えを明かす。そして病苦、「病むリアリティ」は、その成熟が何を語るのか問い直しを迫る。最後死苦、「死にゆくリアリティ」において、輪郭定まらぬ浮ついた生が輝く「今」に成就する。

よし。気持ちのつながりはつきました。これから講演の当日まで、ゆっくり時間をかけて味わい、肉付けさせてもらいましょう。

病とは、わが生を振り返れとのお達しなのでした。

合掌。

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