きぐさ (10月8日)

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家で飼っていたうさぎが死にました。

「きぐさ」という名前です。長女の命名で、もらってきた子うさぎのとき、庭の「黄色い草(正体は不明)」をよく食べていたのと、白い中に背中にすっと薄茶の模様があるのとでこの名前になりました。今年大学生になった長女が小5になる春休みに生れてすぐをもらって来たので、満8歳です。うさぎの平均寿命は10年くらいと聞きますから、やや短い。

うさぎらしくないうさぎでした。第一、頭が大きい。きぐさを見慣れていてふつうのうさぎを見ると、頭が小さくてとがっているので、貧相に見えます。また、うさぎにしては賢かった。お腹がすいたときや遊んで欲しいときなど、ケージの戸を口でくわえてゆすってがたがた音をたて、催促していました。それも、いつでもというのではなくて、相手をしてくれそうな人がそばにいるときだけです。

とにかく、家族の一員でした。耳を掻いてやるのが好きで、左手に頭をのせて右手でそうしてやると、気持ちがいいのか猫みたいに手を舐めたものです。また、うさぎが鳴かないというのは嘘で、興奮したときなど私にはグー、グーと聞える小さい声を出します。何といっても長女に一番なついていたのですが、長女がそばにいて相手をしてもらえそうで嬉しいとき、声を出しながらケージの中をぐるぐる回って、娘が「またきぐさがブーブー言っている」と笑っていました。

最近では大分歳を取って落ち着きが出てきて、前足を折りたたんで大福餅のようになった「うさぎ座り」でじっとしていると、初老の風格でした。

2、3週間くらい前でしょうか、首の毛づくろいがよくなくて毛玉ができていて、また洗ってやろうかななどと思っているうち、それが腫瘍であることに気付きました。見ると少しずつ大きくなっている。あれでもと思って長女に伝えたのが 10 日前です。でも本人が特に元気がないようでもないので、いくら早くても長女が冬休みに帰省するまでは元気だろうと思っていました。それが、ここ4、5日あまり食べなくなって心配していたところ、とうとう昨日の朝には立てなくなってしまいました。

え、こんなに早く? とあわてながら、長女に様子を伝えて目を離さないようにしていると、お昼前にかなり激しい痙攣が続きました。子供たちがみんな学校で、もう少し踏ん張れと思っていたら、お昼過ぎには一旦、これなら今日中ということもないのかなという気になるくらい生気が戻りました。

やがて下二人が帰ってきて、交代でそばにいてやりました。食べ残した葉っぱがたまっていたので、暗くなってから新しい草を採りに出ました。食べさせるためにではなくて、少しでも気持ちのよいところに寝させてやりたくて。その時に持ち上げたら、え、いつの間にと驚いたことに、悲しくなるくらい軽くなっていました。夜にかかりそうなら私がついていてやろうと、寝るまでは頼むねと二人にまかせて、急ぎの用事に区切りをつけ、9時ごろそろそろ交代と居間へ降りたときには、虫の息というのでしょうか、もう弱々しい呼吸になっていました。でもまだしばらく先のように思えて、ちょうどテレビでスズメバチの放送をしていたためそれを見ていたら、9時20分頃、突然「クーン」と大きな声で鳴きました。

驚いてそばへ行ってみると、もう規則的な呼吸をしていません。忘れた頃にふっと大きくお腹が動いて、それを吐き出すときに「クーン」と鳴く。大丈夫だよ、大丈夫だよ、と言いながら頭をなでてやっていると、それが5、6回続いて、とうとう声も出なくなりました。でもまだ、生きている。ずっと頭をなでてやりながら、開いたままの眼をそっと閉じさせようとしていたら、いたたまれなくなったのか下の子が手を出して頭をなでてやりました。それを待っていたかのように、軽い伸びをするような感じで、全身に力がこもりました。あ、最期の痙攣だ、と思ったら、本当にそうでした。すーっと、「生きている」という感触が薄らいで、消えていきました。すぐに時計を見たら、9時33分でした。

一番可愛がっていた長女がそばにいなかったのは残念でしたが、下の子が代理で、看取ってくれた。そんな気がしました。

今、土に帰してやろうと思っているのですが、あいにく雨です。午後には止むように言っているのでそれを待つ気でいます。

浄土真宗では、動物の葬儀はしません。うるさいことを言えば、墓も作らない。

一つには、「人間として生を受けている」ということの重さ・大きさを見失わないためです。決して人間の方が動物よりも高等だなどという意味ではなく、同じ 〈いのち〉 としてつながっている側面と同時に、まさしく人間として生れたことの決定的な意味――仏法に出会わなくてはならぬということ――を、有耶無耶にしてはならない。

そしてもう一つには、「弔(とむら)う、供養する」 という発想を嫌うためです。私たち凡夫に、他の生を弔い供養する力などない。もしとむらうのであれば、仏法をこの私まで伝えてくださった先人の跡を訪(とむら)うことしかできない。間違うことなく 「仏」 とさせていただいて、その上で存分に一切衆生――このとき人間も動物もまったく区別はありません――を救済することこそ肝要だ。

さらに、もし動物の葬儀をしてその場でお念仏を口にするとして、「かわいそうに」 と哀れむような気持ちが紛れ込んでしまうならば、そのお念仏は偽物です。この私の側のお念仏には、「救われようのないこの私が確かに仏とさせていただける」 という、感謝のお念仏しかないのです。

その説明を、子供たちにしてやりました。教義は別にして気持ちは、よくわかってくれました。ただ、きぐさの墓は作ります。供養のための墓ではなくて、きぐさという名の、家族同様のうさぎがうちにいたことを私たちが忘れないために。

また、腫瘍(獣医さんにみせたわけではありませんが、要するにがんでしょう)で死んだことを、同じ病気に罹患している息子がどう受け止めるか気がかりでした。結局、息子の病気を、きぐさが代ってくれた、ということに落ち着きました。決してきれいな考え方ではないのですが、息子がそう受け止めてくれると、正直私自身もほっとします。なんやかんや言って自分中心だよねと息子と笑いながら、そういうことになりました。

きぐさも、私に仏恩を伝えてくださる菩薩様だったのだなあと、しみじみと味わっています。

合掌。

文頭


後手 (10月16日)

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いろんなことが思ったように片付いていかず、どんどん後手に回っています。

外周りの片付けなどが中心の話です。台風で栗の木が全滅し、庭がごみだらけになりました。壊れてしまったビニールハウスの修復など、急ぐところから手をつけていたのですが、台風以後雨が続いたこともあって一向にはかどりません。今週は割合天気にめぐまれ少しはめどがついてきたものの、目の前の状況を見るとげんなりしてしまいます。

倒木の片付けは、何とか今日で終えられそうなところまで来ました。切り倒して、枝をみんな離し、さらに太い枝の小枝を落とし、小枝は小枝で支枝や葉っぱをはらって、太いものから細いものまで、みんなそれぞれに一本の形にします。太いところはチェーンソーで、チェーンソーを使うにはうるさいところは鋸で、そして最期のはらいは手斧での仕事です。木の「ばらし」が終ったら、運べる大きさに切って、肩に担いで平地まで降ろし、そこで短く切り、太いものは割って、木小屋に積み上げればやっと薪です。手で折れるくらいの細い枝も、山で束に縛ってから運び降ろし、炊きつけにします。

とにかく手間がかかります。一人で黙々と半日作業をしていると、多少は仙人に近づいたかしらんという気になります。

子供たちが秘密基地を作った(→刃物)のとは別のところの竹やぶも、一やぶ一本残らず切り倒しました。台風でたくさん倒れた上に今年は竹の花が咲いて、放っておいてもみな枯れるためです。一度きれいに片付けておけばまた生えてきて、いい竿の取れるきれいな竹やぶに戻りますが、このままでは後々手がつけられなくなってしまいます。切った竹は枝を払って、真っ直ぐなものは竿にし、割れたのや曲がっているのは枝といっしょにみんな燃やして片付けました。数百本の竹ですから枝の量も半端でなく、また竹には油があってよく燃えるので、豪勢な焚き火になりました。

結局、ただ今年の台風の後片付けというだけでなく、これまで放棄していたところがとうとうこれ以上放っておけなくなったということになります。思いたったはいいものの、そもそも一日二日で終るような作業ではありませんし、しかも雨や行事で中断されるので、はかどっているという感触が持てなくて苦労しました。今週になって行事が開き、晴が続いたので救われています。

ただ、予定外の仕事に時間を取られているわけですから、しなければいけないことがどんどん溜まっていきます。

第一に、冬支度の薪作りが大幅に遅れてしまいました。当初当てにしていた木は取りに行く暇が取れず、台風の片付けと兼ねて倒れた木をそのまま薪に回したので、何とか量は確保できたものの、乾くのが間に合いません。一年置いて乾かせばいい薪になるのにと思うと残念な気がして、あちこちから集めた乾いたもので何とかこの冬がしのげないものかと、余計な仕事を増やしています。

庭も散々です。目につくごみだけは拾って何とかかっこうを繕っているものの、結局秋の草引きはまだ手すらつけていません。夏まで、いつ急な行事が入っても庭は大丈夫だというくらいに目が配れていたのですが、振り出しに戻ってしまいました。

それに、山の下刈りも手をつけたところで止まったままです。今からかかったのでは、雪が降るまでに一巡というのはむつかしくなってきました。この秋はシイタケの榾木(ほたぎ)を作る予定だったのですが、それも事実上キャンセルです。

一つ後手に回ってしまうと、シャツのぼたんの掛け違いのように、どこまでいってもちぐはぐさが尾を引きます。

しかし考えてみれば、人生そのものが後手の連続になるしかないような類のものです。話を商売や業績だけに限れば、いわゆる「成功」した人たちはうまく先手を取っているようにも見えますが、そもそも生れてきた時点で後手です。生れてきた後から、生きているということの意味を、自分が生れたということの意義を、考え始めるのですから。

後手、所詮逃るるべからず、先手が取れると思い上がるが間違い、後手ならずは思いがけない出会いもあることかなわじ、後手、また楽しからずや。

思えば、一切に先手を打ってくださってある、如来様のお慈悲なのでした。

合掌。

文頭


当たり前 (10月24日)

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心温まる光景に出会いました。

鹿野から徳山市街まで、距離は約 30km あるのですが、途中ほとんど信号がなく、車での所要時間は正味で 30 分というところです。昨日徳山からの帰り、通常はいつも青で通過している押しボタン信号が赤になっていて、車が3台ばかり止まっているところへ行き合わせました。

私もその後ろに並んで停車し、ふと見ると、学校が休みで遊びに行く途中といった風情の小学校高学年の男の子が、自転車を押してちょうど横断歩道を渡り終えたところでした。ところが、渡り終えても走り去るでなく、そのままそこで待っているのです。後から友達でも来るのかしらと思って見ている間に、信号が青になって、止まっていた車が動き出しました。と、その子が、止まっていた車が前を通り過ぎるたび、一台一台に、「ありがとうございました」といった表情で丁寧にお辞儀をするではありませんか。

驚きました。そして素朴に、感動しました。

道は、ほとんど田んぼの中の一本道です。すぐ近くに長穂小学校があり、そこの児童の通学路ということで押しボタン信号になっているのでしょう。そして学校で、「信号を赤にして渡ったら、止まって待ってくださった方にちゃんとお礼をしましょうね」と習ったのだろうと思います。(ああいうことは、自分で思い付いてできるものではありません。)そして、それをそのまんま真に受けている子がいる。

道路交通法上、横断歩道を渡ろうと待っている人をみかけたら、確か車は止まって待たなくてはいけなかったはずです。(信号がある場合は違っていたかもしれません。) ましてや信号が「赤」なのですから、車は止まるのが当たり前、それに「お礼」を言う必要などないという話も、十分以上に「正論」として通る。実際、学校給食で「いただきます」と言わせるのはおかしい、きちんと給食費を払っている以上配られた給食は当人のもので、食べる権利はもちろん嫌いなものを残す権利もある、といった内容の投書を目にしたことがあります。

しかし私が出会ったあの子は、そういう正論――どの立場からのものにせよ――を、みんなまとめて吹っ飛ばしてしまいました。少なくとも私において。

正論の名を借りた「権利」をきちんと主張することが賢い行為とみなされているように思える今日(こんにち)、言われた通りを実行しているなどというのはもっとも愚かなことと見えかねません。が、賢くあるべくすべてを主体的に判断していこうとする(しているつもりの)毎日がいかに窮屈なものになるのか、それも丁寧に振り返ってみてよいと思います。

本来、私が生得の権利のように主張できる「当たり前」のことなどない。

ご恩とは、本来、私の「ために」なされたことを知る、という意味です。そこからするならば、ご恩を感じ取ることのできる毎日こそ自ら楽で、その上まわりをも寛がせることのできるものであるという(正論を離れた)事実、これが本当の当たり前なのかも知れません。

合掌。

文頭


信頼 (10月28日)

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今まで味わったことのない「信頼」の中で、支え支えられるという体験をしました。

つい最近新設したブログ(ウェブログの略。「ログ」は本来「記録、日誌」の意で、ウェブ――コンピュータネットワーク――上で関心をもった主題に対し、自分自身のメモや関連するサイトのアクセス先などを情報として記録していたのが母体。現在では、そのような情報の収集や関連づけを離れ、かなり自由な利用をされている。私は「踏み込んだ議論~意見交換~対話」を意図して設置)「方丈」での出来事です。

今までのところ、実際に「やり取り」をさせていただいた方々の中に、直接お会いしたことのある方はいらっしゃいません。一昔前であるならば、「見ず知らず」というしかない人ばかりです。

本当に、すごい――私にとっては「素晴らしい」ではなくて「凄まじい」――やり取りでした。それを通じて、私自身何度か致命的にと言っても大げさでないくらいに打ちのめされ、そして私も少なからず、参加くださった方を深く傷つけたことと思います。

当初から、議論の勝ち・負けはもちろんのこと、結論めいたものさえ求めてはおらず、どんな展開になるのかすら具体的には予測がつかないやり取りでした。多少美化した上であえて言うならば、(少なくとも私にとっては)とにかく考えてみたい、いえ、生きたい――それも何かが響きあうというようなかたちで、「ともに」生きたい――とでも形容するしかないような思いのみを、必死でたどったようなことでした。

今、やっと一段落したところです。結論が出た、とかいうのではなく。そして、現時点での私の思いは、結局私は自分にこだわっているだけだなあ、ひとのことなどこれっぽっちも理解できない(というか、理解しようなどとしていない)なあといったものなのです。

で、それが空しいかというと、そこが大きく違うのです。どうしようもない無力感のようなものは確かにあるのですが、徒労感はない。

これまで味わったことのない感覚なので、どのように表現してよいのかわかりません。が、これも「信頼」なのだということは納得できているのです。

信頼を、私はこれまで「機能的」にとでも言えばいいのでしょうか、要は「やるべき人がやるべきことをしてくれている」といった感覚でとらえていました。ルールがきちんと守られている。プロがプロの仕事をしている。パスを出したらそこにちゃんと味方がいる。そんな感覚です。

そうだったら、快適です。

ところが、(私が漠然と想定している)ルールが通用しない(逆に言えば、私は自分の外にあるルールにはまったく従おうとしていない)ところで、自分の外にあるものが、「訳わかんないけど、こいつ(注:これは、「個人」を意識しているのではありません。私に理解できないものすべて、と言ってもよいようなものです)、生きてる!」と感じられたとき、逆に、それに照らされて、自分自身が(自分がそれまでほとんど意識すらせずに頼っていた)ルールを離れてでもやっぱり生きてるわいと生々しくいとおしく立ち現われてきて、なあんだ、みんな生きてるじゃないか、と「納得」できたならば、快適とは限りませんが、きっと愉快です。

正直に白状して、今の私はそこまで愉快ではありません。しかし、きっとそういう愉快さもあるなと、感じ始めています。そして、これも「信頼」の姿だと。

如来の呼び声にことごとく逆らっているこの私、その「訳の分らなさ」を、筋を糺(ただ)すのではなく、ただ抱き包んでくださってあるはたらきを思います。

「それが生きているということなのだよ。迷いの姿なのだよ。迷いなさい。安心して迷いなさい。それがいのちの姿でもあるのだから。私はただ愉快です。愉快であることにおいて、あなたの迷いの中にいます。」

合掌。

文頭