刃物 (9月1日)

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何だか突然、刃物がちゃんと研げるようになりました。

一口に刃物といっても、カンナやノミ、あるいは工作用の小刀などは子どもの頃から研ぐのは嫌いではありませんでした。とにかく刃が真っ直ぐなので、表面の平らな砥石さえあれば、後は角度を決めて気長に仕上げるだけのことで、機械的、あるいは論理的な作業です。その点包丁は刃が曲がっていて少し勝手が違うのですが、曲がり方が 「凸」 なので、カンナが研げればその応用で対応できなくはありません。

あるいは、草刈機やチェーンソーの刃にしても、草刈機の刃であれば台座に固定してハンドルを操作すれば電動のグラインダーで 「規格通りに」 研ぎあげられます。チェーンソーも丸やすりの角度を固定して鈍った鋭角を復元するだけのことで、どちらも得意です。

問題は鎌です。正直、どうしてこんなに研ぎにくい刃物を作ったのだろうといぶかしく思うくらい、鎌だけは取りかかる前から逃げ腰で、実際これまでうまく研げたことがありませんでした。昔、母に頼まれて研いだことがあるのですが、あまり切れるようにはならなくて、母もあきらめ (?) 今では自分で研いでいます。その実、母が研いだ方がよく切れていました。

夏休み中、子どものクラブの合宿に寺を使い、イベントとして山に竹で 「秘密基地」 を作りました。私も手伝った (というか、結局私が一番本気でやっていた) のですが、そのとき竹を割るために厚鎌 (ふつうの鎌が通常の包丁だとしたら、出刃包丁に相等するような鎌) を子どもたちに使わせたところ、刃を欠いでしまっていました。また、水源の見回りなどで薮に入るときには柄長鎌 (草刈機がなかった頃、山の下刈りなどに使っていた柄の長い鎌) を持っていくのですが、父が研いだまま研がずにいたものがさすがに錆びてしまっており、思い立って家中の鎌を研ぎました。

思い返してみれば、そもそも鎌を研ごうと思い立ったこと自体私には初めてで、その時点ですでに何かが変わっていたのでしょう。とにかく、あれだけ苦手だった鎌が研げるのです。しかも、これまでは自分にはできなことと決めてかかって父が研いだものを後生大事に使っていたのですが、父の研ぎ方が思っていたほど丁寧でなかったことも、研いでいるうちによくわかりました。刃の打ち込み自体の良し悪しもあるので全部が全部ではないものの、研いだものは面白いくらいによく切れるようになりました。

必要に迫られて数をこなしているうちにおのずとできるようになっていた、というのとは根本的に違っていて、大げさな言い方をすれば 「刃物」 に対する私の姿勢というか、受け止め方ががらりと変わったのです。

鎌に限らず、たとえば楽器なども含めて、道具の良し悪しは詰まるところ材質と精度の問題です。名人の技といったものを軽視する訳ではありませんが、感性を過大評価する必要もない。何を・どのようにというノウハウの部分がきちんと言語化され、コスト的に見合いさえするならば、どのような道具であっても、近代的な工場の大量生産でよりよいものが作れると私は思っています。

しかし道具の場合、「製品」 として仕上げるという出来事と、実際に使い続ける中で手入れをするという出来事とは質的に違う。

私はこれまで、刃物を研ぐという作業を、どこか工業製品を 「仕上げる」 かのようなイメージでとらえていたのだろうと思います。だから、十分な工具のない素人にとっても対応のできる 「直線」 については抵抗がなかった。擬似的に、「新品」 の状態に戻すことができるのです。

その点で、鎌の曲線は特異です。「工業製品的に仕上げる」 という発想では、目標が見えず、手を入れることがそのまま質の悪化としかとらえられなかったのでした。

この度、生れて初めて、自分が道具として使っている刃物 (正確にはもろもろの鎌) を、「生きもの」 のアナロジーでとらえることができたのです。

工業製品と比べるならば、生き物はかなりアバウトです。変化・変質が前提であって、変動の幅がある許容値の中におさまっていさえすれば、形の寸法は必ずしも問題にはならない。刃物の場合、どの 「部分」 にもちゃんと刃がついていなくては役に立ちませんが、切れさえすれば、あるいはもう少し厳密に言ったとしてもバランスよく切れる限り、形は結果であって主目的ではない。

手元と刃先で切れ味が違うのは、使っていてストレスになります。刃が欠けていて困るのも同じことで、実用上関係のないところが欠けているのならばほおって置いても構わないのです。

今回鎌を研ごうと思い立ったのも、厚鎌の刃が欠けたことよりも、柄長鎌の不自然な切れ味の方が主な動機でした。最初は錆びたためにそうなったのだろうと思っていたのですが、実際には父の研ぎ方が悪かったのでした。

研ぎあがった柄長鎌は、かなりいびつです。でも、私に必要なバランスのよい切れ味は持っている。(父に使いやすいかどうかはわかりません。)

それでいいんですね。というか、生きているということはそういうことなのだと納得できました。

合掌。

文頭


現金収入 (9月10日)

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台風 18 号の被害の見回りに、昨日山を一通り歩いてみました。今回の被害というだけでなく、山の荒れように、暗澹たる気分になってしまいました。

二つの枯れ谷に挟まれた一ひだ分が寺の山および有國の私有林で、私有林の方は中腹まで植林されています。父が元気な頃は、暇を見ては手入れしていました。下刈り、枝打ち、間伐と、几帳面に世話をしていたものです。父が山に入らなくなってからはほったらかしになっていたのですが、あまりにも下薮がひどくなってきて、せめて下刈りだけでも一巡りしておこうと思い立っているところです。

寺から見て西側の谷の奥に、寺の水源 (取水口) があります。時々その見回りをすることもあって、こちらの谷沿いの山はまだ気持ちが届きます。下刈りもこちら側から取り掛かりました。しかし東側の谷は日頃入ることもなく、事実上忘れてしまっています。

この谷は数年前の台風で鉄砲水が出、畑を流しました。谷の奥はそのときの後片付けをまったくしていませんから、たくさんの木が倒れたままで枯れています。そこが開いた空間になって風が入り込むのか、今回新たにうちの山だけでも 20 本近くの木が倒れたり傾いたりしていました。一抱え以上あるヒノキなども倒れているので、片付けようにも私の手には負えません。

台風 18 号の風は、母も始めてというすさまじいものでした。それを思うと、実は被害は覚悟していたよりも軽かった。雨が少なかったのがよかったのでしょう。あるいは、風が舞わなかったのか。

谷を挟んだ反対側の斜面はよその山ですが、被害も荒れ方もそちらの方がひどい。うちの山を父がまだ手入れしていた頃から見回る人もなく放っておかれていたので、数十年、数度の台風で、一区画 200 本見当の杉が全滅に近い有様です。しかしその割には下の薮が育っていなくて、山の中にポカッと開いた傷口を思わせます。

ここに来るのに、今では道もありません。私が子どもの頃は炭焼きなどで山に入る人があり、踏み固めた道がどこにもあったものでした。それが廃れていった後も、父が足しげく通 (かよ) った後が道の体を残していました。ところが先述の鉄砲水で谷の流れそのものが変わり、こちらには土石や流木の壁、あちらには深くえぐれた崖と、まともに歩ける状況ではなくなっています。道が流れたとしても人が通り続けているならば、通りやすいところに新しく道ができ、邪魔になるところから片付けも進みます。人事ではなく、「私」 がここを通らない以上、ここに道ができることはない。

この傷口が、このまま放っておいたとして、どうなっていくのかなあと考えました。いずれは雑木林に戻るのでしょうが、私が目にするのに間に合いそうな気配はありません。仮にうちの山の倒木や傾いた木を私が片付けたとして、それで山が回復するのが早まるのかどうかもわかりません。

人が山に入らなくなったのは、要は割に合わないからです。今山の木を伐ったとしても、手間代を引いて利益が出るか出ないかといったくらいです。山ごと売ろうにも買い手はなく、近頃では植林してある山より雑木のままの山の方が売りやすいとか。

というよりも、「割に合う・合わない」 ということをみんなが本気で気にし始めたとき、自給自足をベースにしたライフスタイルがくずれて、手っ取り早くかつ確実な現金収入を得る方向へと時代が動き始め、それに伴って山が廃れたのでしょう。

人口の8割が 「サラリーマン」 と化している現在、いったいどれだけのものが切り捨てられ見棄てられているのだろう。あるいは、私たちは 「生(なま)」 な生活を離れてどこへ行こうとしているのだろう。現金が手に入るわけではない以上、実際問題として私がここの片づけをするわけにもいかないなあと感じつつ、ぼーっとそんなことを思いました。

そもそも、現金収入とは何なのでしょうか。今さらマルクスを勉強し直そうという気もないのですが、私自身を含め現代先進国の人間が 「生活」 の心配をするとすれば、それはそのまま 「どうやって現金収入を得るか」 という問題に置き換わっているように思います。生活=現金収入では、やはり変な気がする。

正確に言えば、ここでの現金はすでに 「現」 金ではなくなっており、もう一回り抽象的な何か (貨幣? あるいは経済システム内の通行手形?) です。私にはそれが、ある種の生命体のような印象で感じられます。直接の立脚点は人間という動物種の知的活動であり、還元するならば個々人の 「悩」 に行き着くはずなのですが、とても個々人の 「脳内活動」 の単なる総和にとどまるものとは思えない。とすると、「個々人の脳では理解することのできない」 有機的なシステムが動き出しているということになります。

私には 「経済学」 の文脈でこれ以上考えを進める素養はないのですが、何がしか 「生命体」 を連想させるシステムには、生命の譬喩として関心があります。

山が生きているとするならば、それと少なくとも同等の意味において、経済システムも生きている。そしてそれは、我々個々人が理解できるという限りにおいての合理性を超えている。私たちにそれを否定する術はない。

実はここで、私は 「他力」 を考えています。つまり、古きよき時代 (そのようなものが実際にあったのかどうかは知らないのですが) を懐かしんでいるのでも経済効率優先の現代を嘆いているのでもなくて、どのような形であるにせよ――悪意に解釈するならば、わけのわからない大きなシステムの 「歯車」 の一つに過ぎないのかもしれない――私が現に今ここで生きている (あるいは生かされている) という事実が何を語っているのだろうということを気にしているのです。

私たち凡夫の目に 「経済システム」 と見えるもの 「も」 如来の慈悲すなわち大きないのちの顕現であるのならば、ただ任せておけばよい。それを、任せ切ることができずにあれこれ詮索している自分自身が、一番の厄介者なのですが。

合掌。

文頭


いいとこどり (9月18日)

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小児がんに罹患し、この春に無事手術を終えて現在術後の化学療法(以下化療)を続けている次子の治療に、東京の癌研究所付属病院(以下癌研病院)と山口大学医学部付属病院(以下山大病院)の二つの病院を利用させてもらっています。

手術はじめ、主な治療を受けたのは癌研病院で、一月半~二ヶ月に一回の割合で定期的に入る化療を毎回東京まで通うのは大変ということから、化療は山大病院でという形です。

昔、学習塾で仕事をしていた頃の話に、一番困るのは二股をかけて来る保護者の対応でした。実際に勉強するのは当の本人で文字通り「体は一つ」なのに、周囲からばらばらな指示を出されては本人がたまりません。状況から押して「うちが主ではないな」 と判断されたときには、ですから極力何もはたらきかけないように注意していました。差別したわけではなく最低限の良心のつもりではあったのですが、それでよかったのかどうかはわかりません。

あるいは、カツオやマグロの一本釣りで、初心者が最初に注意されるのは「持て余すほど引かれたときにはためらわず竿を離せ」ということだそうです。そのくらいかかった魚の引きは強い。ところが、たまには二匹一緒にかかってしまうこともあるらしく、素人考えにそんなときはよほどの経験者でもない限り持て余すだろうと思ったところ、実際には「持ち上げるだけでよい」 とのことでした。二匹で相談して同じ方向に引くのでない以上、力を打ち消しあってしまうのです。

二つの病院で治療を受けるというのも、よほど注意していないと、それと同じことになってしまう。

丁寧に考えてみたところ、うちの子の場合には、三つの文脈が錯綜していることになります。腫瘍科、整形外科、そして小児科の発想です。(癌研病院では整形外科、山大病院では小児科にかかっています。なお、癌研病院にも山大病院にも「腫瘍科」という実体はありません。)

素人が考えることですから真に受けられても困りますが、腫瘍科の最大関心事は再発の防止で、以下同様に整形外科では後遺症の軽減、小児科では(可能な限り)自然な成長と言えるでしょうか。(ついでに言い添えておけば、私立財団法人の癌研病院と国立大学の付属施設である山大病院とでは、医療行為に対するスタンスそのものも大きく違います。職人気質の癌研病院 vs システム勝負の山大病院というところです。)

後日加筆:癌研病院も、'05 年3月に有明に移転して癌研有明病院となって以降は、システム的にその時点における最先端になりました。皮肉なことにというか当然と言うべきか、かつての「職人気質」は薄まっているのですが。

担当いただく各先生は、各位が引き受けていらっしゃる枠内における精一杯のことをしてくださっているのですが、困るのはついつい「いいとこどり」 をしてしまう身勝手な親――つまり私――です。

もちろん、今日(こんにち)のことですから、いわゆる「医療連携」は十分に(ただし、身勝手な親の「ここまでして欲しい」という理不尽な要求は無視するものとして)なされています。

遊雲(ゆううん、次子の名前。中一)の調子そのものは、至って良好というか、順調です。腫瘍科的に言って、転移――この言葉も語義が広く、あらためてもう一度整理するつもりです。ここでは最狭義の転移、つまり警戒ないし具体的な治療の必要な転移ないし再発の意味です――の気配はありません。整形外科的に、現時点ではまだ関節が堅くてリハビリが必要とされるものの、長期的に見ての後遺症は(障害者の認定がもらえるほどには)残らないでしょう。小児科的にも、背も伸びてきているしひげもそろそろ濃くなるし、何しろ親が「やっぱり小学生とは違うなあ」という気にさせられる中学生になってきています。

それにも関わらず、二つの病院にかかっていると、あっちでもこっちでも、部屋の大きさから看護師さんの会話における「語彙」に至るまで、違いばかりが目についてしまう。しかも情けないことに、「両方ともそれぞれにいい」と思うことはまれで、病室を含めた環境は山大病院の勝ち、食事は僅差で癌研病院が上(でも山大病院では三時におやつが出るなあ)、看護師さんは癌研病院の方がきれい(?)、先進度では圧倒的に山大、と、ことごとく優劣をつけているのです。

(上は私の話で、遊雲本人は案外そうではないかもしれません。私も、子どもの前で不用意に優劣判断につながることは口にしないよう気をつけています。というより、親バカながら、うちの子は――三人とも――どんな状況でもそれなりに楽しんでいるように見えます。)

ここは山大病院風で、ここは癌研病院の色合い、先生はこの人とこの人、で、治療はこういう方針で……。少しばかり脚色するとすれば、親はついついそんなことを想像している。

はっきり言えることは、100m を 10 秒切って走れると同時にフルマラソンで優勝できるような人間がいないように、こんなことは実現不可能なのです。妥協などではなしに、一つのことを実現するためには他の事を犠牲にしなくてはならないという逆らいようのない事実に照らして、不可能です。それを、理不尽に想像するばかりか、要求するのが権利だとまで考えてしまうのは身体を忘れた言葉――概念の化け物でしょう。

極論すれば、どの病院におけるどのような治療がよいかということをすでに離れて、ここで一方的に治療を打ち切ったとしてもおそらく遊雲は「治って」いる。他方、同じ病気で大人になる前に死んでいく子もいる。それは、「よい」治療を受けられたかどうかというだけではなくて、とても計算し尽くせないたくさんの偶然――あるいは縁――によるはずです。

後日加筆:息子にはその後転移が見つかりました。ですから上で「治って」いると判断したのは、結果に照らす限り完全に間違っていたことになります。もちろん、本当はそんなことはどうでもよいのですが。(重要であり真実でもあったのは、この記事を書いた時点で私は息子は治って「いる」と感じたことの方です。)

いいとこどりなどというのは、一見合理的で賢そうに見えて、その実愚かさそのものではないか。

他力の教えが「易往而無人(往き易くして人無し)」と言われる重さ――打ち任せるということの難しさ――を思います。

合掌。

文頭


可能性 (9月24日)

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人間とはつくづく、目に見えないものを見ながら、場合によってはおびえさえして、生きているものなのだなあと思います。

直接には、子どもの病気 (小児がん) のことを考えています。現在治療の最終段階で、要するに転移 (あるいは再発) とはどのような出来事であり、どう受け止めていけばよいのかが問題なのです。

極端な話、転移 「している」 ということがはっきりしたならば、ある意味話は簡単です。新たに見つかったがんに対して、なしうる対処をしていくだけのことになる。しかし転移の出発点が 「細胞1個」 であるとすると、技術的に転移 「していない」 ことを証明することはできません。結局今考えたいことは、転移している 「かもしれない」 という状況をどのように理解し受け入れればよいのかということです。

問題の核心は、相手が見えないことです。具体的なものに直面しての対応ではなくて、可能性といういたってつかみにくいものにさらされつつ、そのときそのときの態度を決めていかなくてはならない。ということは、表向きの主題が何であれ、実際に問われているのは私たちが 「生きている」 という現実なのですが。

「可能性」 という言葉自体、意味の幅がものすごく広い。手元の辞書類も参考にして、とりあえず次のように整理してみます。

・ 論理的可能性 probability

・ 潜在的可能性 potentiality

・ 蓋然的可能性 possibility

・ 勝算的可能性 chance ……着目していることが起る見込み

・ 現実的可能性 viability ……実現し、持続し得る見込み

注:あくまで私的な仮のものです。定着している用語・区別ではありません。

うちの子の場合に照らして、転移に対するそれぞれの可能性が 「ある」 か 「ない」 かを判断してみると、論理的には当然 「ある」。潜在的にも、相手が小児がんである以上、可能性としてではなく、原発部位から遊離したがん細胞が別の場所へ移動したという事実として、おそらく 「あった」 と考えるべきでしょう。ただ、それらが別の場所で生き延び、定着したかは別の問題です。

このあたりで、主題の現れ方の 「質」 が大きく変ります。論理的、潜在的には、すべての人にがんの可能性は 「ある」 訳ですから。それがこの段階で、現実に発現するかどうかというより切実な問題になります。統計的にも、たとえば5年生存率などという形で数字が出てくる。ユーイング肉腫の場合、70~75% と言われています。ただ、うちの子の場合、手術・化学療法が功を奏しているという条件下なので、そのままこの数字が当てはまるのではありませんが。しかしまあ、ここでの「ある」 か 「ない」 かの判断は保留しておきます。

さらに勝算的可能性に移ったとき、着目しているのは、(治療をまったくしていない状況下でも) それが生き延び増殖するとは限らない細胞単位の転移ではなくて、実際に増殖している、細胞数で言えば億に近い転移叢です。これは慎重な検査で見つけることができる。そして、うちの子にこのレベルでの転移の可能性は (慎重に言ったとしても、現時点で) 「ない」。ましてや現実的可能性にいたれば、その可能性があるのならば、すでにやせ始めるなどの症状が出ていることになりますから、明らかに 「ない」。

このように、がんの転移という具体的で抜き差しならないように思えることですら、どのレベルでその可能性を問題にするかで判断が逆になってしまいます。

もちろん、本人および親にとって、どのレベルの 「可能性」 が問題なのかは言うまでもありません。結論として、転移の心配はしなくてよい。ならばこれ以上の術後の化療は不要かというと、それは行き過ぎです。潜在的可能性に関わることであり、潜在的には転移は 「ある」 のですから。

おそらく、医療現場の医師と当事者との間で、何を問題にしているのかは常に大きく食い違っているだろうと思います。というか、医師の間でも専門が違えば判断が逆になることが平気でありえるでしょう。

結局、私は私のできること、私が引き受けなければならないことをしていればいいのであって、それを越える部分は各専門家に任せるしかなく、任せればよい。

「信じる」 ことはむつかしい。信じるにもいろいろな意味があるでしょうが、ここでは与えられた状況にきちんとしたリアリティをもち、引き受けるべきことは引き受けながら、あとは状況そのものに任せ、無益な心配をしないことくらいの意味です。

自分からつかもうとしている限り、可能性という名前の不確定性に満ちた現実をトータルなリアリティでもって感じとるのは無理だと思います。逆に手を緩めたとき、現実の方からちゃんと私にはたらきかけてくれる。Reality bites. 直訳すれば 「現実が噛みつく」 で、「現実は厳しい」 といった意味なのですが、私には現実は決して裏切らないと味わえます。可能性は、怖がればどこまでも私を脅かしてくる 「得体の知れないもの」 ですが、すがればそのまま私を支えてくれる 「現実」 なのでした。

合掌。

文頭


大丈夫 (9月30日)

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今さら蒸し返すのもためらわれるところがあるのですが、思えば記録を残していないので、書いておこうと思います。

息子への「がん告知」の話です。

昨年秋、息子が小児がんと診断されたとき、ほぼリアルタイムで、状況を隠さずすべて本人にも伝えてきました。親にも思いがけないことで、また専門外のことでもあり、どう考えてよいのかよくわからなことも多々ありましたが、それも「どう考えてよいのかわからない」とその時そのときのありのままを伝えました。

息子の診断は、最初の外からの検診時点で「横紋筋肉腫」、簡単な針生検を行った時点で「滑膜肉腫」、そして遺伝子レベルの検査を行ったところで「ユーイング肉腫」と変わりました。

(素人考えであることを断った上で、横紋筋肉腫は血管系・リンパ系の二通りの転移があり得るのが怖い――通常の「肉腫」は内臓や皮膚など「表皮系」のがんと異なり、リンパ経由はほとんどなく血管経由の転移が主で、ふつう転移は肺に見られる――が、抗がん剤はある。滑膜肉腫は転移の畏れは横紋筋肉腫と比べると少ないものの、効果のはっきりした薬がない。ユーイング肉腫は、抗がん剤が効かなかった場合は予後がよくないが、薬が効けば転移のリスクは滑膜肉腫と同等、という違いがあります。)

最初、小児がんであることは明らかとしても、より具体的にどのような質(たち)のもので、どのような治療が考えられ、また予後がどう予想されるか漠然としていた頃、周囲の「雰囲気」からある程度の覚悟は必要だろうと思うものの、実際にどこまで覚悟がいるのかわからず、単刀直入に担当の先生に聞いたことがあります。「最悪の場合は三年を覚悟してください」というのが返答でした。ここで「最悪」とは、すでに転移しており、しかも効果的な抗がん剤がなかった場合です。

そう告げられた「その時」は、思い返しても不思議なくらい冷静でした。むしろ、ただもやもやとしていたものがはっきりとした輪郭を得て、ほっとしたというのとは違うもののどこかすっきりした覚えがあります。

相手を突き止めるための検査が進む中、検査の結果待ちで時間をつぶす必要があり、息子と弟とを連れて、大平山という山に登りました(→歴史)。このときはまだ「あんまり暢気なことは言ってられないみたいだよ」程度のことしか伝えておらず(というか、実際その程度のことしか分っていなかった)、気持ちのまとめようがなくて、じっとしているとはらわたが捻じ切れてしまいそうな感覚に襲われたものです。今でもこの山のそばを通りかかると、その時の感覚が鮮やかに蘇ってきて、あまり平気ではいられません。

ここまでは徳山の中央病院にかかっていました。それが身内のつてで癌研病院のことを知り、そちらにすがることを決めたことで、一歩話が進みました。とは言え、上京する列車の中で、上京してとりあえず落ち着いた宿で、まだ何をどう伝えたらよいのか、いえ、伝えるべき内容――実際に続く治療の具体的な様子、心構え――すら見えてこず、必死の思いでバランスを壊さずにいるのが精一杯でした(→旅人)。

癌研病院のベッドが空くのを待つ間、水戸にいる兄のところへ身を寄せていました。結局、その間にきちんとした話をしたことになります。それまでは、小児がんであること、これから治療に臨むことまでは伝えていましたが、それをどのように受け止めればよいのかはわからず、「父さんにもまだよくわからない」としか言えずにいたのです。もっとも、この頃本人が一番心配していたのは「手術」の方であったようですが。

兄のもとでのある晩、いよいよ治療に臨むに当たって、心構えを伝えておかなければと意を決し、布団の中でゆっくりと話しました。小児がんとは何か。横紋筋肉腫という診断が滑膜肉腫と変わったことで何が変わったのか。(この時点ではユーイング肉腫とは判明していませんでした。) 5年生存率とは何か。転移とは何か。それ以後も考え続けて理解の変わったものもあり、その時点での私の精一杯の理解にとどまるものですが、すべて、話した。これからの治療および経過がどのように考えられるか。このとき、一番厳しい状況だった場合、「高校生の遊雲(ゆううん、息子の名)には会えないかもしれない」と言いました。それを伝えたとき、ただ正確な話だけではなく、一番大事なことをもう一言、言わねばならぬと感じた。ほとんど切羽詰って、思わず「でも、何があっても、大丈夫だからね」と口に出た。何があっても、とは、高校生になれなくても、ということです。それでも、大丈夫。ある意味、言った当人も半信半疑のような状況だったのですが、遊雲は、それを、そのままに信頼して聞いてくれた。それで、私自身が本当にわかったのです。何があっても大丈夫だと。

大丈夫だと言ってくださるのは阿弥陀様です。何があっても、大丈夫。そう口にできる環境――ご縁――をめぐまれていたことに、ただ、感謝しました。

今、結果的に手術も無事終わり、術後の化療を続けているところです。親として本人が「元気」でいてくれることが何よりであることは言わずもがなとして、しかし、元気になること、治ることのみが「大丈夫」の内容ではない。それは見失わずにおきたいと思っています。

合掌。

文頭