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そもそも当流に沙汰するところの信心といふ二字をば、 まことのこゝろとよむなり。 また安心とかきては、 やすきこゝろとよむなり。 これによりて不信あり。 信心の二字をばまことのこゝろとよむは、 弥陀如来の他力のまことの御こゝろときこえたり。 また安心といふ二字をやすきこゝろとよめるは、 さらにそのいはれきこえはんべらず。 如来の他力の御こゝろなれば大事のこゝろとこそよむべきに、 やすきこゝろとよむは不審におぼへはんべり。 こたへていはく、 まことにこの不審は道理至極ときこえたり。 まづ无善造悪のわれらが一念にもろもろの雑行をすてゝ、 一心一向に弥陀如来にふたごゝろなく帰命する衆生が如来の仏心となりき、 やすくたすけすくひたまふことは不思議なり。 これをおもふときは、 仏の御こゝろはまことのこゝろなり。 无0517善の衆生がなにのやうもなく一心にうたがひなくたのめば、 かならずやすくたすけたまふこゝろなれば、 安心とはやすきこゝろとよめるは、 まことに道理にかなへりときこえたり。 念々弥陀如来のまことのこゝろのとりやすの安心やといへるこゝろなり。 あなかしこ、 あなかしこ。