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[河内国にて]

文明八歳丙申林鐘上旬二日にも成ぬれば、 今年もはやほどなく半年をうちすごしぬ。 就其いとゞ人間は老少かぎりなきならひながら、 昨日もすぎ今日もすぎて、 いつをいつとて何の所作もなくして日月をおくりしむなしさをおもふばかりなり。 然に短慮不覚の身として、 つくづく古へ今を案ずるに、 我身既に今年はよはひつもりて六十二歳になりぬれば、 先師法印にも同年なり。 誠に親の年まで同くいけるは、 ありがたき事なり。 このゆへに当年正月一日の早天につらつらおもふ様は、 去年北国より風度上洛して、 思外に当国に居住せしめ、 すでに越年せし事と、 又親と同年にあひあたり、 此方にありておくりむかへし初春のめづらきさのあまり、 かたがたにつけてもかやうにこそおもひつゞけゝり。

たらちをと 同年まで 生ける身も
あけぬる春も はじめなりけり

とおもひつらねけるも、 誠にことはりにあらずや。 然れば六月十八日は正忌なれば、 それについて豫が心におもふ様は、 十八日まで存命あらんこそ、 まことに同年の同じ月日まで命のながらへたるしるしとも思ふもの0349なり。 乍去人間不定とはいひながら、 今身にとりつめての病なければ、 十八日の明日にもやあひなんと思も、 まことに猶々もて同じまよふ心なりと我身をいませめて、 またかやうにおもひつゞけゝり。

おやのとしと おなじきいきば なにかせん
月日をねがふ 身ぞおろかなる

と加様になにともなき事を筆にまかせてかきつけおはりぬ。

于時文明八年六月二日筆にひまありし時書之畢

六十二歳(花押)

誠これ三仏乗縁・仏法輪因ともなり侍らん者歟。 「観仏本願力 遇无空過者」 (浄土論)