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夫静に人間の无常有為の天変を案ずるに、 おくれさきだ0339つならひ眼前にさえぎれり。 一人としても、 たれかこの生をのがるべき。 かゝる不定のさかひと覚語しながら、 いまにおどろく気色はなし。 まことにあさましといふも猶おろかなり。 依↠之いそぎてもたのむべきは弥陀如来、 ねがふべきは安養世界にすぎたることあるべからず。 しかるに豫が年齢を勘へみるに、 まづ釈迦大師の出世は人数百歳より八十入滅をかぞふれば、 ひとの定命はいまは五十六にきはまれり。 われすでに当年は六十一歳なり。 しかれば六年まで年をのぶることをゑたり。 哀哉、 わが生所はいづくぞ。 京都東山粟田口青蓮院南のほとりはわが古郷ぞかし。 なにとなく此五ヶ年のあひだまで北国にをいて年をふること、 まことにもて存の外の次第なり。 すでにわが年はつもりて六十一になりぬれば、 めぐる月日をかぞふるにも、 当年の臨終極楽往生はまことに一定なりとおぼゆるなり。 それ人間は老少不定のさかひなれば、 さらにもてたのみすくなし。 さりながらいつまでと憂為の娑婆にあらんよりは、 はやく无為の浄土にいたらんことこそ、 まことによろこびのなかのよろこびこれにすぐべからずとおぼゆるなり。 依↠之今日このごろにをいて頓死ことのほかしげきあひだ、 なにとなく、 人病気するにつけても、 その人数一分にはよももるべからずとおもふによりて、 夜はよもすがら昼はひめもすに、 時をまち日ををくるばかりなり。 このゆへに善導和尚の日没の偈にいはく、 「人間悤々営衆務 不覚年命日夜去 如灯風中滅難期 亡々六道无定趣」 (礼讃) と釈したまふも、 今におもひあはせられたり。 しかれば朝夕はいたづらにあかしくらして、 かつて仏法にはこゝろをもかけ0340ざること、 あさましといふもおろかなり。 依↠之安心未決定ならんひとは、 速に信心獲得して今度の真実報土の往生をとげしめんとおもふべきものなり。 あなかしこ、 あなかしこ。

文明七年五月廿日