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倩以、 夫吉崎の当山にをいて此四ヶ年の日月をおくりし由来をおもひつゞくるに、 さらに覚悟におよばず、 たゞ昨日今日のごとし。 しかるに豫旧冬のころ心中におもへらく、 当年の開山聖人遷化の御正忌にまふあひ奉るべきこと、 存命不定とおもふところに、 はからざるにいますでにあふ事をえたり。 誠に宿縁のいたり、 報謝の志、 相叶冥慮歟之間、 悦ても猶可喜、 尊ても猶可貴は今此の時なり。 しかれば今月廿八日は聖人御正忌0330たる間、 かの御勧化をうけんともがらにをいては、 貴賎上下をいはず、 争此時にいたりて知恩報徳の御仏事にこゝろをかけざらん人は、 誠以木石にひとしからんものか。 これによりて当山の人数、 其外参詣の門徒中の面々にいたるまでも、 此両三ヶ年の流例にまかせ、 今月廿一日の夜より一七ヶ日の勤行をいたし、 報恩謝徳の懇念をはげまさんと擬するところなり。 就其たれの人も、 この聖人毎年不闕の報恩謝徳の御仏事をいたさんとおもはん人は、 たとひいかなる遠路をしのぎて足手をはこぶといふとも、 内心には真実信心といふことを決定する分もなくして、 人目ばかりに報謝の志をいたす体ばかりにては、 誠にもて 「水入てあかおちず」 といへる風情たるべし。 またあながちに米銭にこゝろをつくして、 これをもて報恩謝徳の根源ともおもふべからず。 そのゆへはいかんといふに、 夫聖人の御本懐には、 たゞ弥陀如来の他力信心を獲得して報土往生をとげん人をもて、 肝要とはおぼしめすべし。 然ば此一七ヶ日の報恩講の内にをいて、 不信心の人はすみやかに信心をとりて、 今度の往生の大益をとげんをこそ、 まことにもて聖人の御意にはふかくあひかなぶべけれ、 また報恩謝徳の御仏事にもあひそなはりつべし。 此道理を心得たらんひとは、 此一七ヶ日の報恩謝徳のまことをいたす志をば、 たゞちに聖人うけたまふべきものなり。 穴賢、 穴賢。

文明六年十一月廿一日