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抑此方北庄一里五十町の間、 念仏同行の坊主達の心中の風情をつくづくと、 この当庄にしづかにありて見及に、 まことに当流一儀の趣をうるはしく存知したる体は、 一人も更になきやうに思ひ侍べり。 これあさましき次第にあらずや。 そのゆへは名をばなまじゐに当流にかけて、 たが門徒といへるばかりをもて肝要とおもひて、 信心のとをりをば手がけもせずして、 たゞすゝめといふて銭貨をつなぐをもて一宗の本意とおもひ、 これをもて往生浄土のためとばかりおもへり。 これ大にあやまりなり。 夫極楽に往生することをくはしく存知せずは、 極楽には往生すべからざるものなり。 これに0324よりてその他力の信心といふ事をいまくわしく讃嘆すべし。 耳をそばだてゝこれをきゝて、 いよいよ決定の信心をまぶくべきなり。

夫親鸞聖人の勧化の趣は、 なにのやうもなく末代在家止住の輩は、 たゞ声にいだして南无阿弥陀仏ととなふるばかりにては仏にはなるべからず。 そのゆへはいかんといふに、 ひしと南无阿弥陀仏といふ仏体は、 我等が極楽に往生すべきいわれを、 この南无阿弥陀仏の六の字にしかとあらはしたまへりとおもひて、 さてこの南无阿弥陀仏はなにといへるこゝろぞといふに、 まづ南无といふ二字はすなはち一心一向に阿弥陀如来をふかくたのみたてまつりて、 後生たすけ給へとおもふ帰命の一念さだまるところをさして南无とは申なり。 さればこの南无とたのむこゝろのうちには、 もろもろの雑行・雑善、 諸仏・菩薩等をくはへずして、 一すぢに阿弥陀如来に帰命し奉るこゝろを南无とは申なり。 さて阿弥陀仏といへる四の字のこゝろは、 なにと申したるいはれぞなれば、 いまのごとくに南无と弥陀をたのみ奉れば、 すなはちそのたのむ衆生を仏力不思議のゆへによくしろしめして、 かたじけなくも弥陀如来の光明のうちにおさめとらせ給がゆへに阿弥陀仏と申すなり。 されば南無阿弥陀仏といへる六の字は、 しかしながら造悪不善の我等を御たすけありける御すがたにてましますぞとこゝろえわけたる道理をもて、 これを他力の信心をえたる行者とはまふすなり。 これによりて仏恩のふかきことは、 きはほとりもなきゆへに、 その報尽のためにはたゞ称名念仏をとなへて、 かの弥陀如来の御恩を報じ奉るべきものなり。 このうへになをこゝろうべきむねあり。 そのゆへは南无阿弥陀仏の六字の中には、 一切の功徳善根も、 一切の諸仏・菩薩も、 一切の諸神も、 みなことごとくこもれるなり。 されば阿弥陀一仏に帰すれば、 一切の諸神・諸仏・菩薩にも帰0325する道理なるがゆへに、 別して信ぜねども弥陀一仏を一心一向にたのめば、 かならずそのうちにこもれるがゆへなり。 あひかまへて一切の諸仏・菩薩・諸神等をかろしむることあるべからず。 いよいよ弥陀を信じ奉るべきものなり。 あなかしこ、 あなかしこ。

文明六年八月十日