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夫親鸞聖人の一流にその名をかけんともがらにおいては、 まづ聖人のすゝめましますところの他力真実の信心をもて本とせられたる、 そのいはれをくはしく存知すべきなり。 この信心といふことをしらざらん人は、 報土には往生すべからず。 そのゆへはつみをいへば十悪・五逆・謗法・闡提とて、 これにすぎてふかきはあるべからず。 しかれどもかゝる機までも、 不思議の願力として廻心すればみな往生す。 これによりてちかごろ当国・加州両国のあひだにおいて、 仏法についてまづ聖教をよみて人を勧化するに、 五人あれば五人ながらそのことばあひかはれりと 云々。 これしかしながら法流をたゞちに相承なきいはれなり。 あるひは聖道のはて、 あるひは禅僧のはてなんどが、 わが本宗の字ぢからをもて、 なまじゐに自骨に料簡をくはへて人をへつらひたらせるいはれなり。 これ言語道断あさましき次第なり。 所詮向後におきては、 かのことばをもて信用すべからざるものなり。

抑当流にたつるところの他力の大信心といふは、 善導和尚の解釈に、 すでに正雑二行とたてゝ、 もろもろの雑行をすてゝもはら正行に帰するをもて信心の体とす。 そ0288の正行のなかに五種の正行をたてゝ、 そのなかに第四の称名正行をもて往生の正業とすとみゑたり。 されば南无阿弥陀仏をもてわれらが往生の正業とすとなり。 また善導この南无阿弥陀仏の六字を釈していはく、 「南无といふはすなはちこれ帰命なり、 またこれ発願廻向の義なり。 阿弥陀仏といふはすなはちこれその行なり。 この義をもてのゆへにかならず往生をう」 (玄義分) といへり。 そのこゝろいかんぞなれば、 帰命といふも発願廻向といふもおなじこゝろなり。 されば 「帰命」 といふは、 弥陀をふかくたのむこゝろなり。 また 「阿弥陀仏」 といふは、 南无と帰命する衆生をかたじけなくも弥陀如来のよくこれをしろしめして、 すでに遍照の光明をはなちてわれらが命あらんかぎりは、 かの光明のなかにおさめおきてすてたまはざるこゝろをもて、 すなはち南无阿弥陀仏とはまふすなり。 このおもむきをよくこゝろゑたるを、 すなはち他力の大信心をゑたる人とはいふなり。 されば信心決定したるうへの行住座臥の念仏は、 ひとへに仏恩報尽のためとこゝろうべし。 このこゝろをまた善導釈していはく、 「上尽一形下至一念」 (礼讃意) といへり。 それ 「下至一念」 といふは、 本願をたもつ信心治定のこゝろなり。 「上尽一形」 といふは、 わが一期のあひだの仏恩報謝のための称名なりとこゝろうべし。 いまいふところのこのおもむきは、 親鸞聖人のまさしくひろめたまへるところの他力の真実信心といへるはこれなり。 このほかになをおくふかき信心といふいはれありといはんものは、 かへすがへすひがごとなりとこゝろうべきものなり。 あなかしこ、 あなかしこ。

*文明六年六月廿一日駿河国式庄八郎左衛門入道真慶所望之間於此炎天拭老眼染筆訖

右筆連(如)満六十(花押)