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或人申されけるは、 此一両年の間加賀・越前の諸山寺の内にある碩学達の沙汰し申さるゝ次第は、 近比越前国細呂宜郷内に吉崎と申して、 国ざかひに一宇をかまへられて、 京都より念仏者の坊主下向ありて、 一切の道俗男女をゑらばず集られて、 末代今時者念仏ならでは成仏すべからずとて、 諸宗をもはゞからずすゝめらるゝこと、 今さかんなりときこへたり。 これ言語道断の0278くはだてなり。 たゞし諸宗も我宗もいまは天下一同之儀にてあひすたりたりといへども、 仏説なればむなしからざるがゆへに、 此子細をもて両国の守護ゑ訴詔すべき由、 内々人の申なるあひだ、 あはれ此をもむきをかの吉崎へつげしらせたまひ候て、 斟酌も候へかしとおもふなり。 我等も貴方に等閑もなき間、 ひそかに申すなりと。 此子細を当山中の多屋の内に、 ものに心得たる人にかたりしかば、 申されけるは、 誠以両国の諸山寺の碩学達申すむね道理至極なり。 我等も吉崎も最初よりその心中にてありしかども、 此在所あまりにすぐれておもしろき間、 たゞ一年半年とおもふほどに、 いまに在国せり。 誠にかの吉崎は、 なまじゐに京ひとなるがゆへに、 ならはぬすまゐをせられて不相応なる子細これおほしといへども、 彼多屋の面々抑留あるによりて、 今日までの堪忍なり、 更に庶幾せしむる分はなし。

依之道俗男女いく千万といふかずをしらず群集せしむるあひだ、 かの吉崎もたれたれも今の時分しかるべからざる由申て、 殊両国の守護方のきこゑといひ、 又平泉寺・豊原其外諸山寺の内の碩学達も、 さぞ上なしにおもひたまふらんと、 朝夕そのはゞかりあるによりて、 *当文明四年正月の時分より諸人群集しかるべからざる由の成敗をくはへられしは、 そのかくれなし。 これしかしながら両守護・諸山をおもんぜし心中なり。 雖↠然其後道俗男女その成敗にかゝはらずしてかへりて申やうは、 それ弥陀如来の本願はまさしく今の時のかゝる機をすくひたまふ要法なれば、 諸人出入を停止あるときは、 まことに弥陀如来の御慈悲にもふかくあひそむきたまふべき由を申す間、 ちからなくそのまゝうちおかれつるなり。 これ更に吉崎の心中に発起せらるゝところにあらず、 たゞ弥陀如来の大慈大悲のちかひの、 あまねく末代いまの機にかうぶらしむる仏智の不思議なりとおぼへはんべるものなり。 更0279以我々がはからひともおもひわけぬ為体なり。 これによりてあまりに道俗男女群集せしむる間、 よろづ退屈の由申して、 かの吉崎も近日花洛にかへるべき心中におもひたくみたまふあひだ、 まづ去ぬる秋之比、 暫時に藤嶋辺へ上洛せらるゝ処に、 多屋面面抑留あるによりて、 先づ当年中は此方に居住すべき由申るゝところなり。 あなかしこ、 あなかしこ。

文明五年十二月 日