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夫当流安心之趣といふは、 あながちに捨家棄欲の心を0501表せず、 又出家発心のすがたをあらはさず、 たゞもろもろの雑行をすてゝ一向に阿弥陀仏に帰命して、 今度の一大事の後生たすけたまへと一心に阿弥陀如来をひしとたのみたてまつらん衆生は、 みなことごとく報土往生すべきこと、 さらさらうたがふべからざるものなり。 さればこの ろにみな人をもとづけんとてこそ、 いろいろの廃立をたて、 又もろもろの聖教なんどいふこともいできたり。 かやうにこゝろえたる人こそ正覚の一念に帰したる人ともいふなり。 さるほどにこの道理を一念きゝて信をとる人もあり、 又宿習といふことなき人は、 いくたびきゝても更に信をばとらぬ人もあり、 かくのごとくよくこゝろえたる人を 「一念発起住正定聚」 (論註巻上意) とも無上涅槃を証すとなづくるなり。