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ひとつ あるひといはく、 昨日きのふははや一日ゐちにちちうなれば、 さみだれにもやなるかとおもひ、 またかいじやうのなみのおとまでも、 たかくものさびしくおとづれければ、 もとよりいとゞこゝろのなぐさむこともなきまゝに、 いよいよ睡眠すいめんはふかくなりぬれば、 しやうかいにうかみいでたる0258その甲斐かいもなく、 あさましくこそはおもひはんべれとまふしたりしかば、 こゝに若衆わかしゆのわたりさふらひけるがまふされけるは、 われらはあながちに睡眠すいめんのをこりさふらへばとて、 いたくかなしくもおもはずさふらふ。 そのゆへは安心あんじむのことはこゝろゑさふらふつ、 また念仏ねむぶちはよくまふしさふらひぬ、 またざふぎやうとてはさしてもちゐなくさふらふあひだ、 つかふまつらずさふらふ。 ことにわれらはきやう一族ゐちぞくぶんにてさふらふあひだ、 たゞいつもものうちよくくひさふらひて、 そのゝちはねたくさふらへば、 いくたびもなんどきもふみぞりふせりさふらふ。 また仏法ぶちぷふのかたはさのみこゝろにもかゝらずさふらふ。 そのほかなにごとにつけても、 ひとのまふすことばをきゝならひてさふらふあひだ、 しやうにんおんにてもあるかなんど、 ときどきはおおふこゝろもさふらふばかりにてさふらふ。 こゝにまたあるひとのまふしけるは、 さてはあれらさまはきやう一族ゐちぞくにて御座ござさふらふあひだ、 さだめてなにごともぞんあるべくさふらふほどに、 われらがまふすことはをよばぬおんことにてこそさふらへ。 あるひとまたとふていはく、 われらがやうなるにてかやうのまふしごと、 如法によほふ如法によほふそのおそれすくなからぬことにてさふらへども、 仏法ぶちぷふのかたなればまふすにてさふらふ。 あまりにおんこゝろゑのとゞきさふらはぬをもむきをひとはしまふしたくさふらふ。 そのいはれは、 当流たうりうだい信心しんじむをもてさきとせられさふらふあひだ、 信心しんじむのことなんどはそのさたにをよばずさふらふて、 きやう一族ゐちぞくかさにめされさふらふこと、 これひとつおほきなるおんあやまりにてさふらふ。 ことにめぶりなんどもいたくかなしくおもはぬなんどおほせさふらふこと、 これひとつ勿体もつたいなくさふらふ。 はう随分ずいぶん仏法ぶちぷふしやにておんいりさふらへども、 いまのさい一族ゐちぞくにおそれまふされさふらひて、 ひとはし御まふしさふらはぬこと、 くれぐれ0259おんあやまりとこそぞんじさふらへ。

こたえていはく、 われらももともその心中しむちうにてはさふらひつれども、 ぞんのごとくべん短才たんさいにてさふらへば、 ふかくしんしやくをなしてまふさず、 はうにゆづりまふしさふらふなり。 ひとはしこのさいをまふしさふらはゞ興隆こうりうにてあるべくさふらふ。

とふていはく、 われらもしんしやくにさふらへども、 所望しよまうさふらふうへは、 これちやうもんつかふまつりさふらふをおもむき、 ひとはしまふすべくさふらふ。 そのゆへはわれらもすでにみやうのやみにねぶり、 しづみゐたるにてさふらふが、 たまたまかいりきによりて、 いまなんしやうをうけて、 あひがたき仏法ぶちぷふにあへり。 さればこのたび信心しんじむ決定くゑちぢやうするむねなくば、 さむきうにかへらんことをかなしみおもはゞ、 などかねぶりをこのみさふらふべきや。 されば ¬観経くわんぎやう¼ には 「唯除ゆいじよすい恒憶ごうおく此事しじ」 ととき、 善導ぜんだうは 「煩悩ぼむなうじんてい しやうかいへん (礼讃) とも、 「うんげう睡眠すいめん (礼讃) ともはんぜり。 このもんのこゝろは、 煩悩ぼむなうはふかくしてそこなし、 しやううみはほとりなきの、 いかんが睡眠すいめんをこのまんやといへり。 また ¬観経くわんぎやう¼ にも、 「たゞねぶりをのぞきてこのことををもへ」 ととかれたり。 経釈きやうしやくともにねぶりをこのむべからずときこへたり。 このときは一族ゐちぞくにて御座ござさふらふとも、 仏法ぶちぷふおんこゝろあしくさふらはゞ、 ほうわうじやういかゞとこそぞんじさふらへ。 ふかくあんさふらふて、 仏法ぶちぷふほふおんたしなみさふらはゞ、 まことにもて千秋せんしふ万歳ばんせいめでたくぞんずべくさふらふ。 かへすがへす所望しよまうによりてかくのごとくのだいまふしいれさふらふでう千万せんばんをそれいりさふらふ。 あら勿体もつたいなや。 南无なもわあ0260ぶち南无なもわあ弥陀みだぶち

[文明五年九月 日]