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抑当流にすゝめましますところの信心をとるといふは、 すなはち我身のうへのつみとがのふかきことをばまづうちすてゝ、 それ弥陀如来とまふすは、 その機をいへば十悪・五逆、 五障・三従のあさましき女人までもことごとくすくひまします不思議の本願なりとふかくしりて、 さてそのうへに阿弥陀如来の本願をばなにとやうにたのみ、 いかやうにこゝろねをももちて信じまひらせて、 後生をばたすかるべきぞといふに、 なにもわづらひもなくこゝろをひとつにして阿弥陀仏をたのみたてまつりて、 うたがふこゝろなくは、 弥陀如来はかならず摂取の光明をはなちてそのひかりのうちにおさめをきたまふべきこと決定なり。 かくのごとくこゝろゑたらんひとは、 すなはちこれ真実信心の行者なるべし。 このうへになをこゝろうべきやうは、 かゝる弥陀如来のわれらをやすくたすけましましたる御恩のふかきこと0495をつねにおもひたてまつりて、 仏恩報謝のためにはねてもおきてもただ念仏をまふすべきばかりなり。 あらありがたの弥陀如来の本願や。 これによりてかたじけなくもこの法を三国の祖師・先徳の次第相承して、 われら凡夫にをひてねんごろにとききかしめたまふは、 まことに曠劫多生の宿縁のもよほすところなり。 これすなはち別して開山聖人のこの法をときひろめたまはずは、 われら迷倒の凡夫道法までもこのたびの報土往生の本意をたやすくとくべきやとおもふべきものなり。 あなかしこ、 あなかしこ。