(22)

そもそも昨日きのふひとのまふされさふらひしは、 たれびとにてわたりさふらひつるやらん、 かたりまふされけるは、 このごろなにとやらんばうたちの、 まことに仏法ぶちぽふにこゝろをいれたまひさふらふか、 またにとりて仏法ぶちぽふのかたにちときずもいたかもおんわたりさふらふか、 さらに心中しむちうのとほりをもしかしかと懺悔さむぐゑもなく、 またとりわけ信心しんじむのいろのまさりたるかたをもまふされさふらふぶんもみえずさふらふて、 うかうかとせられたるやうにぼへさふらふは、 いかゞはんべるべくさふらふや。 たゞ他屋たややくばかりおんなうらひさふらふて、 しきすぎさふらへば、 やがて他屋たや他屋たやえかへらせたまひさふらふは、 よきおんふるまひにてさふらふか、 よくよくあんあるべくさふらふ。 されば善導ぜんだうおんしやくにも 「しんけう人信にんしん ない しんじやうほう仏恩ぶちおん (礼讃) しやくせられさふらふときは、 しんもこのほふしんじひとをしても信心しんじむなきものをすゝめさふらはんこそ、 まことにもて仏恩ぶちおん報尽ほうじんだうにてもあるべくおぼへさふらふ。 また 「じやうじんゐちぎやう下至げし一念ゐちねむ (礼讃意) はんぜられさふらふときも、 一念ゐちねむ信心しんじむ発得ほちとくのすがたもみえずおんわたりさふらふ。 またゐちぎやう憶念おくねむもさらにじやうじゆせられたるともみおよびまふさずさふらふ。 よくよくけうりやうあるべくさふらふ。 あさましあさまし。 こゝろにうかむとおりまふすなり。 めんめん南无なもわあ弥陀みだぶち

文明五年二月九日