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夫南无阿弥陀仏のうちには、 万善諸行恒沙無数の功徳法門聖教さらにのこることもなく、 またあらゆる諸神・諸仏・菩薩もことごとくこもれるなり。 阿弥陀一仏をたのめば、 一切の仏・菩薩、 一切の諸神に帰するいはれあり。 このゆへに弥陀一仏に帰すれば、 いかなる四重・五逆の衆生も五障・三従の女人も浄土往生をとげずといふことなし。 あら殊勝の要法や、 あらたふとの弥陀如来や。 依↠之かの弥陀如来を何とたのみ何と信じて、 かの浄土へは生ずべきぞなれば、 たゞもろもろの0473雑行をすてゝ一心一向に弥陀に帰すれば、 十人は十人百人は百人ながら、 すなはち浄土に生ずべき身にさだまるなり。 このうへにはたゞ朝夕は名号をとなへて、 かの弥陀の御恩を報尽すべきばかりなり。 されば後生を一大事とおもひて信心決定して極楽をねがふものは、 後生のたすかる事は中々申にをよばず、 今生もあながちにのぞみこのまねども、 をのづから祈祷ともなるなり。 そのいはれを他経にかくのごとくとけり。 その文にいはく、 「それ現世をいのる人はわらをえたるがごとし、 後生をねがふ人はいねをえたるがごとし」 (蘇婆呼請問経巻上意) とたとへたり。 いねといふものいできぬればをのづからわらをうるがごとし、 これは後生をねがふ人のことなり。 今生をいのる人はわらをばかりえたるがごとしといへるこゝろなり。 されば信心決定したる人は今生も別してこのまずねがはざれども、 諸仏・菩薩、 諸天・善神の加護にもあづかるあひだ、 かゝる殊勝にめでたき无上の仏法を信じて今度の極楽往生をとげんとねがふべきものなり。

そもそもいま聴聞するとをりをよくよく心中におさめおきて他門の人にむかひて沙汰すべからず。 また路次大道にても、 我々が在所にかへりても、 あらはに人をもはゞからずこれを讃嘆せしむべからず。 次には守護・地頭方にむかひて、 我は他力の信心をえたりといひて粗略の儀なく、 いよいよ公事をまたくすべし。 またもろもろの仏神等をも、 をろかにかろしむることなかれ。 これすなはち南无阿弥陀仏の六字のうちにこれらの仏神はこもれるゆへなり。 あなかしこ、 あなかしこ。