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抑開山聖人の一義は、 余の浄土宗に大に義理各別にしてあひかはれりとしるべし。 されば当流の義は、 我身の罪障のふかきに心をかけずして、 もろもろの雑行のこゝろをふりすてゝ、 たゞ阿弥陀如来を一心一向にたのみ奉りて後生たすけ給へと申す人は、 たとへば十人も百人も、 みなともにたすけたまふべし。 これすなはち法蔵菩薩のちかひまします正覚の一念といへるはこのこゝろなりとこゝろうべし。 この義を当流には一念発起平生業成とはまうすなり。 しかればみな人の本願をばたのむとはいへども、 さらにおもひいれてたのむ人なきがゆへに、 真実報土の往生をとぐる人まれなり。 されば一心といふうちには、 もろもろの雑行ををふりすてたるをこそ一心とはいへるこゝろなり。 しかればこのごろの当流の念仏者はみなみな心をとめて、 一心に阿弥陀如来をふかくたのみまひらせて後生たすけ給へとおもはん人々は、 かならず真実報土の往生をとぐべきことさらにそのうたがひあるべからざるものなり。 あなかしこ、 あなかしこ。