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夫於当流の念仏行者、 まづ弥陀如来他力本願の趣を令存知、 真実信心を発起せしむべし。 それにつゐて第十八の願意をよくよく分別せよ。 そのこゝろいかんといふに、 阿弥陀仏、 法蔵比丘のむかしちかひたまひしは、 十方衆生にわが願行をあたへて、 この功徳力をもて往生をとげさしめんに、 もしわれ成仏せずは弥陀も正覚をなりたまふべからずといふ大願をおこしたまふに、 その願すでに成就して阿弥陀仏となりたまへり。 されば衆生にかはりて願と行とを成就して、 我等が往生をすでにしたゝめましましけり。 これによりて十方衆生は仏体より願行を円満するがゆへに、 衆生の往生成就するすがたを、 機法一体の南无阿弥陀仏とは正覚を成じたまふなりとこゝろうべきなり。 かるがゆへに仏の正0404覚の外は衆生の往生はなきなり。 十方衆生の往生成就する時、 弥陀も正覚をなりたまへるがゆへに、 仏の正覚なりしと我等が往生の成就せしとは同時なり。 されば他力の願行をば、 弥陀のはげみて功を无善の凡夫にあたへて、 謗法・闡提の機、 法滅百歳の機まで成ずといふ不可思議の功徳なり。 このゆへに凡夫は他力の信心を獲得することかたし。 しかるに自力の成じがたきことをきくとき、 他力の易行なることもしられ、 聖道の難行なるをきくとき浄土の修しやすきこともしらるゝなり。 依之仏智のかたよりなにのわづらひもなく成就したまへる往生を、 われら煩悩にくるはされてむなしく流転して、 不可思議の仏智を信受せざるなり。 されば此上には一向に本願のたふときことをふかくおもひて、 仏恩報尽のためには行住座臥をいはず称名すべきなり。 また法蔵菩薩の五劫兆載の願行は、 凡夫のためにとてこそ願行をば成就したまへ。 されば阿弥陀仏の衆生のための願行を成就せしいはれを、 すなはち三心とも三信とも信心ともいふなり。 これによりて阿弥陀仏は此の願行を名に成ぜしゆへに、 口業にこれをあらはせば南无阿弥陀仏といふなり。 故に領解の心も凡夫の機にはとゞまらず、 領解すればやがて仏願の体にかへるなり。 又仏恩報尽のためにとなふる念仏も弘願の体にかへる故に、 浄土の法門は第十八の願をこゝろうるほかにはなきなり。 第十八の願をこゝろうるといふは名号をよくよくこゝろうるなり。 又念仏という名をきかばわが往生は治定とおもふべし。 十方の衆生往生成就せずは正覚とらじとちかひたまへる法蔵菩薩の正覚の果名なるが故にとおもふべし。 又弥陀仏の形像をみたてまつらば、 はやわが往生は決定とおもふべし。 又極楽といふ名をきかば法蔵比丘の成就したまへるゆへに、 我等がごとくなる愚痴悪見の凡夫の楽のきはまりなるがゆへに極楽といふなり。 さればひし0405とわれらが往生を決定せしすがたを南无阿弥陀仏とはいひけるといふ信心おこりぬれば、 仏体すなはちわれらが往生の行なり。 こゝをこゝろうるを第十八の願をおもひわくとはいふなり。 まことに往生せんとおもはゞ、 衆生こそ願をも行をもはげむべきに、 願行は菩薩のところにはげみて感果は我等がところに成ず。 これすなはち世間・出世の因果の道理に超異せり。 このゆへに善導はこれを別異超世の願とほめたまへり。 念仏といふはかならずしもくちに南无阿弥陀仏ととなふるのみにあらず、 阿弥陀仏の功徳を我等が南无の機において十劫正覚の利益より成じいりたまひけるものをといふ信心のおこるを念仏といふなり。 さて此領解をことはりあらはせば、 南无阿弥陀仏といふにてあるなり。 この仏心は大慈悲を本とするがゆへに、 愚痴悪見の衆生をたすけたまふをさきとするゆへに、 名体不二の正覚をとなへましますゆへに、 仏体も名におもむき名に体の功徳を具足するゆへに、 なにとはかばかしくしらねども往生するなり。 このゆへに仏の正覚の外に衆生の往生もなく、 願も行もみな仏体より成じたまへりとしりきくを念仏の衆生といひ、 この信心をことばにあらはるゝを南無阿弥陀仏といふなり。 あなかしこ、 あなかしこ。

文明十三 十一月十四日