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せいひきゝひとのいはく、 先年せんねんきやうじやうらくのとき、 かうへのぼるべき心中しむちうにてさふらふところに、 じようせんまふされけるは、 りうはあながちにかうなんどへまひるはほんにあらず、 当流たうりう安心あんじむ決定くゑちぢやうせしめんときは、 いかにもほん0242堪忍かんにんつかまつりたらんが、 報恩ほうおん謝徳しやとくだうたり。 しかればわれもそのにて堪忍かんにんまふすなりと、 こまごまと仏法ぶちぽふだいかたりたまふほどに、 それよりりう安心あんじむにはもとづきたてまつるなり。 さいはひに和田のおん新発しんぽち、 そのぶんざいきやうさふらふあひだ随逐ずいちくまふしさふらひて、 いよいよ仏法ぶちぽふだいちやうもんつかまつりさふらひて、 それよりこのかたりう安心あんじむにはなをなをもとづきまふすなり。 これしかしながらおん新発しんぽちおんいまにあさからざるなり。 さ候あひだ、 ちやうもんつかまつりさふらふだいすこしはわろくもまふしさふらふ、 またはあらくもまふしさふらふいはれにや、 越州えちしうしう信心しんじむ面々めんめんにはくだんしむぐゑんとまふされさふらひて、 かぜをひきさふらひき。 しかれどもしやうぼふくわうによりて儀理ぎりのちがひさふらふところをも、 うけたまはりわけさふらふによりて、 ぜんのごとくにはあひかはりて沙汰さたつかまつりさふらふあひだ、 すでにはやそのをあらためて蓮崇れんそうとこそまふし候なり。 なほなほもさうさいあるべくさふらふほどに、 たれびともよくよく教訓けうくんにあづかりさふらはゞ、 まことにもて 「同一どうゐち念仏ねむぶち別道べちだう (論註巻下) のことはりにあひかなひさふらふべきものなり。

文明三年九月十八日