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文明十歳初春下旬之比より、 河内国まむ中振なかふり郷山本之内出口村里より、 当国宇治郡山科郷之内野村柴の庵に、 昨日今日と打過行程に、 はやうら盆にもなりにけり。 依之無常を観ずるに、 誠以夢幻の如し。 然而今日までもいかなる病苦にもとりあはず。 されども又いかなる死の縁にかあひなんずらん。 今日無為なればとて、 あすもしらざる人間なれば、 たゞ水上の泡、 風前の灯ににたり。 此故にいそぎもいそぎもねがふべき物は、 後生善所の一大事に過たるはなし。 たとひ此世は栄花にふけり、 財宝は身にあまるとも、 無常のあらき風ふき来らば、 身命財の三ともに一も我身にそふ事あるべからず。 此道理をよくよく分別して後生をふかくねがふべし。 而に諸教の修行は本より殊勝にしてめでたけれども、 末代の根機には叶がたければ、 こゝに幸にらい悪世のためにおこし給へる弥陀如来の他力本願を一向にたのみ奉りて、 信心決定してぢやう不退に仏恩報尽のために、 行住座臥をゑらばず、 称名念仏申べきものなり。

于時文明十年うら盆会筆の次に書之訖。 あらあら。

以御筆御うつし候。 御本にて又うつし申候也。 正本は加州すゑのぶ行観所持候也。