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当流上人の御勧化の信心の一途は、 つみの軽重をいはず、 また妄念妄執のこゝろのやまぬなんどいふ機のあつかひをさしをきて、 たゞ在家止住のやからは、 一向にもろもろの雑行雑修のわろき執心をすてゝ弥陀如来の悲願に帰し、 一心にうたがひなくたのむこゝろの一念をこるとき、 すみやかに弥陀如来光明をはなちて、 そのひとを摂取したまふなり。 これすなはち仏のかたよりたすけましますこゝろなり。 またこれ信心を如来よりあたへたまふといふもこのこゝろなり。 さればこのうへには、 たとひ名号をとなふるとも、 仏たすけたまへとはおもふべからず。 たゞ弥陀をたのむこゝろの一念の信心によりて、 やすく御たすけあることの、 かたじけなさのあまり、 如来の御たすけありたる御恩を報じたてまつる念仏なりとこゝろうべきなり。 これまことの専修専念の行者なり。 これまた当流にたつるところの一念発起平生業成とまうすもこのこゝろなり。 あなかしこ、 あなかしこ。

*寛正二年三月 日