「御文章」 の制作は、 蓮如上人が寛正二 (1461) 年頃に授与されたのがそのはじまりとされる。 従来、 本願寺において聖教は、 聖教の書写を求めた寺院に対して、 本願寺から正式な許可が与えられることによって書写・伝持されてきた。 第三代覚如上人の時代には、 聖教の書写を求めた寺院に対して、 覚如上人の高弟である乗専が覚如上人の代筆として聖教を書写し各寺院に聖教が授与されている例も認められる。 また第六代巧如上人や第七代存如上人のときには、 当時信濃にあった高田浄興寺の芸範・性順・周観の三代が上山してきて、 上人から聖教の伝授を受けるなどのことがあった。 さらに蓮如上人も永享八 (1436) 年の 「三帖和讃」 の書写をはじめ、 存如上人の代筆として、 加賀木越光徳寺の性乗や京都金宝寺の教俊、 近江長沢福田寺の琮俊などに、 聖教を授与していった。 その聖教書写は ¬空善聞書¼ に 「聖教わたくしにいづれをもかくべきやうにおもへり、 機をまもりてゆるすなり」 とあり、 機を守って許していたのである。 この聖教授与の形式は、 蓮如上人の継職を機に少なくなっていくが、 その理由の一つに挙げられるのが、 「御文章」 の述作である。 蓮如上人は各地の門弟に対する 「御文章」 の授与を盛んに行っており、 授与された 「御文章」 は、 門弟の蓮崇あるいは道宗などの各人によって蒐集書写され、 それらは冊子等の各形態にまとめられて伝持される。 このように、 「御文章」 の授与や書写のあり方は、 従来の本願寺における聖教伝持の形式を大きく変えるものであった。
 さて、 本集成は、 現在までに確認されている蓮如上人の 「御文章」 を、 自筆本や書写本等から網羅的に収録したものである。 蓮如上人はその生涯を通して、 非常に多くの 「御文章」 を制作している。 「御文章」 の制作については、 四十七歳頃から八十四歳までの約四十年間にわたって続けられており、 ¬天正三年記¼ に 「千のものを百に選び、 百のものを十に選ばれ、 十のものを一に、 早く聞分申様にと思しめされ、 御文にあそばしあらはされ」 とあるように、 蓮如上人がその内容を選び抜いた上で著されたものである。
 「御文章」 は、 現在二百数十もの種類が確認されており、 その内、 自筆 「御文章」 が現存するものはおよそ六十三通である。 それら自筆 「御文章」 をみると、 その内の約半数は本文に加筆・訂正がなされ、 さらに料紙が不均一なものも見受けられる。 本来、 「御文章」 は蓮如上人より門末に与えられたものとされるが、 このように加筆や訂正がなされているものについては、 正式に授与されたものではなく、 蓮如上人の手控え、 もしくは下書きであったとする見方もある。 その一方で、 自筆 「御文章」 には、 花押が添えられ、 料紙の形態が掛軸装を意図したと思われるものもあり、 これらについては蓮如上人より正式に授与されたものとみることができる。
 また、 自筆 「御文章」 の表記についてみると、 平仮名で記された 「御文章」 も数通あるものの、 その多くは片仮名交じりで記されている。 通常、 平仮名で記されたものは、 それが読み物として繰り返し本文に目が通されることを想定して記されたものとされるが、 「御文章」 の表記の中心は片仮名交じり文である。 これは 「御文章」 が読みものではなく、 誰かが読み上げたものを聞くという、 聞きものであることを想定して記されたことを意味している。 さらに 「御文章」 には、 「田舎」 を 「井中」 と書くような、 通用字の字義や用法にかかわりのないものを代替字として記す 「借用字」 が用いられている。 これも先ほどの片仮名交じり文の依用と同じく、 「御文章」 が読みものではなく、 聞きものであるということを中心として制作されたことを示すものである。 このように 「御文章」 の表記法とは、 読みものとしての視覚的な表記ではなく、 聞きものというその性質に合わせたものとなっている。 しかしまた、 先ほど述べた掛軸装の 「御文章」 については、 その料紙に、 蓮如上人が多数制作した六字名号と同じものが用いられ、 さらに、 本文には平仮名が用いられている。 これについては、 「御文章」 を名号と同様に人前で奉懸することを目的とし、 また眼前に置かれた本文を読みながら、 そこに解説が付されることも想定して制作されたものとみられる。
 また 「御文章」 の文体についてみてみると、 石川県西光寺蔵蓮崇書写本の端書には、 蓮如上人の自筆で 「さだめて文体のおかしきこともありぬべし、 またことばなんどのつゞかぬこともあるべし」 (「御文章集成」 37) 等と述べられており、 実際 「御文章」 には、 同趣旨の文章の反復等が随所に見受けられる。 しかし、 「御文章」 における表現の反復という特徴については、 これを 「話し言葉」 に近似した文体であるとする指摘がなされている。 すなはち、 表現の反復とは、 会話において相手に正しく意志を伝えるための重要な手段であり、 「御文章」 もまた聞きものであるということを考慮すると、 文中で同趣旨の内容が繰り返されていることは、 相手の正確な理解を促すものであるということができる。
 その他、 「御文章」 にみられる特徴として、 そのほとんどに授与先の宛名が記されていないということが挙げられる。 これは 「御文章」 が特定の相手に対して著されたものではなく、 蓮如上人が浄土真宗の教義を広く人々に示したものであることを意味している。
 さて、 「御文章」 の制作はとりわけ分明三 (1471) 年からの吉崎時代と、 その後の数年に盛んに行われており、 この時期に百通以上の 「御文章」 が著されている。 ただし、 この時期の 「御文章」 をみると、 当初は吉崎への参拝を勧める内容のものも多くみられるが、 文明五 (1473) 年以降のものになると、 吉崎への参拝を禁止する旨や、 門徒に対する掟を定めたものがみられるようになる。 この時期、 急激に増加した参拝者や、 拡大を続ける教団をまとめることが容易ではなくなり、 そのため蓮如上人は参拝者の抑制や掟の制定によって統率を図ろうとした様子が窺われる。
 また、 この文明三年からの時期と同じく、 蓮如上人が多くの 「御文章」 を制作しているのが、 大坂坊舎に居住した最晩年である。 第九代実如上人に寺務を譲った後、 大坂坊舎へ移った蓮如上人は精力的に 「御文章」 の制作を行っている。 蓮如上人は大坂坊舎へ居を移したことを 「大坂建立の章」 において 「この在所に居住せしむる根元は、 あながちに一生涯を心やすくすごし、 栄華栄耀をこのみ、 又花鳥風月にもこゝろをよせず、 あはれ无上菩提のためには信心決定の行者も繁昌せしめ、 念仏をも申さんともがらも出来せしむるやうにもあれかしと、 おもふ一念のこゝろざしをはこぶばかりなり」 (「御文章集成」 187) と述べており、 大坂坊舎への移住は単なる隠居ではなく、 さらなる教化の場を求めてのことであったことが知られる。 その大坂坊舎を拠点として、 多くの 「御文章」 の制作を続けている。 また、 これら晩年の 「御文章」 をみると、 表現や内容の類似するものが増え、 あるいは 「御文章」 が全体として短文化している傾向が窺われる。 これについては、 蓮如上人が高齢に達したことで、 新作や長文の 「御文章」 の制作が体力的に難しくなったためという指摘もあるが、 この時機にかなり多くの 「御文章」 を著していることからすると、 年齢や体力の問題というよりは、 蓮如上人が意図的にそのような 「御文章」 を著されたと考えられる。 ¬蓮如上人一語記 (実悟旧記)¼ 第三条には、 晩年の 「御文章」 の執筆の様子について 「御文等をも近年は御詞すくなにあそばされ候。 今は物を聞うちにも退屈し、 物をきゝおとす間、 肝要の事をやがて知るやうにあそばされ候よし仰られ候」 とあり、 「御文章」 があまり長文であると聞き落としもあることから、 肝要なことのみを短く記すようになったという旨が述べられている。 つまり、 大坂時代の 「御文章」 が短文かつ表現が類似していることは、 教義の要を短くまとめてそこに記すことに注意が払われたことによるものといえる。
 さて、 先に述べたように、 現在確認されている 「御文章」 の全体からすると、 自筆 「御文章」 の数はあまり多いとはいえず、 その多くは散失している。 そのため、 「御文章」 の内容を知るためには、 自筆 「御文章」 に加えて、 それに準ずる史料的価値を有するものによってみていくことが重要である。 本集成においては、 自筆 「御文章」 をはじめ、 門弟や蓮如上人の室などが書写した書写本、 あるいは実如上人の証判本等を底本として採用している。
 本集成は、 蓮如上人の 「御文章」 を一堂に集めたもので、 蓮如上人自身の 「御文章」、 上人の門弟の蓮崇や道宗、 蓮能尼、 実如上人が蒐集書写された書写本、 室町時代末期に書写された林松院文庫等に収載されているものを、 大きく年紀、 無年紀、 真偽未定の三種に分けて載せた。 その際、 原則として各 「御文章」 のなかで年代が近い類文や関係の深い 「御文章」 は連続して載せるよう配慮した。 また無年紀の 「御文章」 の最後において、 通番号 (253) からは、 実如上人への譲状や、 法名・寺号に関するものを収載し、 さらに通番号 (257) からは、 講中に宛てた書状について、 高田本、 本善寺本、 林松院文庫本などの 「御文章集」 に収載されているものをまとめて配した。 その際、 四講中宛の書状は月日が入り乱れているが、 龍谷大学が所蔵する 「加賀六日講四講宛書状」 (永禄四年十二月十五日記之) の記載に準じて載せた。