りき 他力という言葉を用いて浄土教の特色をあらわしたのは、 曇鸞どんらん大師が最初である。 曇鸞大師は『ろんちゅう』(上) の冒頭に、 りゅうじゅ菩薩の難易二道説を示し、 難行道について 「ただこれ自力にして他力のたもつなし」 といい、 易行道について 「仏願力に乗じて、 すなはちかの清浄しょうじょうの土に往生を得、 仏力住持して、 すなはちだいじょう正定しょうじょうじゅに入る」 と述べている。 このことから、 曇鸞大師が難行道を自力の法門、 易行道を 「他力の持つ (乗仏願力・仏力住持)」 法門と分別されていたということが知られる。
 その他力の内容は『論註』(下) の末尾に設けられたかくほんじゃくにおいて詳らかにされる。 そこでは願生行者が五念門行を修して速やかに仏果を証し得ることの理由を示して 「まこともとを求むるに、 阿弥陀如来を増上ぞうじょうえん (最上最勝の力の意。 仏教一般にいう四縁の一つとしての増上縁ではない) となす」 といい、 それが仏力によるものであることをあきらかにする。 そして、 「おほよそこれかの浄土に生ずると、 およびかの菩薩・人・天の所起の諸行とは、 みな阿弥陀如来の本願力によるがゆゑなり」 と述べて、 浄土に往生するのも、 往生後におこすさまざまなはたらきも、 すべてみな阿弥陀如来の本願力によるものであると力説されるのである。 つづいて、 第十八、 第十一、 第二十二の三願をあげて、 その本願力を証明している (三願的証)。 すなわち、 第十八願力によって往生の因であるところの十念念仏が成就せしめられ、 往生すれば第十一願力によって必ず滅度に至ることのできる正定聚に住せしめられ、 さらにこの正定聚の菩薩は第二十二願力によって諸地の階位を超越していっしょうしょに至らしめられる。 こうして第十八・第十一・第二十二願力を増上縁とするがゆえに、 願生行者は速やかにじょうだい (仏果) を成就することができると証し、 「これをもって推するに、 他力を増上縁となす。 しからざることを得んや」 と結ばれるのである。
 ¬論註』のこうした説示からすると、 曇鸞大師のいわれる他力とは、 しゅじょう往生のいんを成就せしめる阿弥陀仏のすぐれた力用の意であったことがわかる。 それがまた本願力ともよばれるのは、 阿弥陀仏のいんの本願のとおりに完成された力であるからである。 曇鸞大師はこの他力の義を『論註』一部の帰結とし、 他力増上縁に乗ずべきことを勧められたのである。
 曇鸞大師の意をうけてどうしゃくぜんも『安楽あんらくしゅう』において盛んに他力の義を鼓吹し、 「もろもろの大乘経に弁ずるところの一切の行法に、 みな自力・他力、 しょう・他摂あり」 (上) と述べて、 自力自摂のしょうどうの法門に対し、 他力他摂の浄土の法門があることを明らかにしている。
 善導ぜんどう大師は曇鸞・道綽両師の伝統をうけて、 「げんぶん」 に 「一切善悪のぼん、 生ずることを得るものは、 みな阿弥陀仏の大願業力に乗じて増上縁となさざるはなし」 といい、 本願力による救済を強調しているが、 その著作に他力という語は用いられていない。
 法然ほうねん上人は主著の『せんじゃくしゅう』ではただ一度、 他力の語に言及するだけであるが、 和文の法語や消息類ではしばしばこの語を用いて教化をおこなっている。
 親鸞しんらんしょうにんは 「行巻」 に他力の語を規定して、 「他力といふは如来の本願力なり」 といい、 曇鸞大師の他力義をさらに他力こう義 (本願力回向) へと展開していかれた。 すなわち、 衆生の往生じょうぶつの因果はすべて如来より回施された法であるとして、 如来から衆生への回向を語るのである。 親鸞聖人はその如来の回向の内容を開いて往相おうそう (浄土に往生するすがた) と還相げんそう (浄土から穢土えどにかえり衆生をやくしていくすがた) の二種回向とし、 さらにその往相回向について教行信証の四法を示されている。 親鸞聖人のいわれる他力とは、 この二回向四法にかたちで一切衆生のうえに実現していく如来の救済活動のいいにほかならなかったのである。