せん陀羅だら 旃陀羅とは、 梵語チャンダーラ (caṇḍāla) の音写で、 語源的にはチャンダ (caṇḍa)、 「激しい、 獰猛どうもうな、 残酷な」 から来た語とみられる。 中国では、 ごんしゅう、 暴悪人、 しゃ、 殺者などと訳されている。
 善導ぜんどう大師の 「序分義」 に、 「ªせん陀羅だら〉といふはすなはちこれ四姓の下流げるなり。 これすなはち性、 匈悪をいだきて仁義をならはず、 人の皮を着たりといへども行ひ禽獣に同じ」 とある。 これは『かんぎょう』(ほっじょ) に、 母を殺害しようとするじゃ王を月光がっこう耆婆ぎばが誡めて、 「大王、 臣聞く、 『毘陀びだろんきょう』に説かく、〈劫初よりこのかたもろもろの悪王ありて、 国位をむさぼるがゆゑにその父を殺害せること一万八千なり〉と。 いまだかつて無道に母を害することあるを聞かず。 王いまこの殺逆の事をなさば、 せつしゅを汚さん。 臣聞くに忍びず。 これ旃陀羅なり。 よろしくここに住すべからず」 とあるのを釈したものである。 これによれば、 旃陀羅は下層の下流、 すなわち最下層の身分のものであり、 母をも殺すような凶悪な性格を持つものということになる。
 また、 源信げんしんしょうの『おうじょうようしゅう』には、 「たとへば旃陀羅の牛を駆りてしょに至るに、 歩々ぶぶに死の地が近づくがごとく、 人の命もまたかくのごとし」 (上) とか、 「下劣の想をなすこと、 旃陀羅およびけんのごとく」 (中) とある。 前者は、 人道の無常の相を『摩耶まやきょう』の譬喩ひゆの文によって説示したものであるが、 ここでは、 旃陀羅は屠畜を業とするものとみなされているのであり、 後者では犬と同列に置いて人間以下の存在とみなしている。
 古代インドのカースト社会で、 旃陀羅は四姓の身分からもれた卑しく汚れたものとされたグループであった。 『マヌ法典』によれば、 梵天ぼんてん (ブラフマン) の口から司祭者 (バラモン=婆羅ばら門種もんしゅ)、 腕から王族 (クシャトリヤ=せつていせつしゅももから庶民 (ヴァイシャ=しゃ)、 足から隷民れいみん (シュードラ=しゅ陀羅だら) がそれぞれ生れたとしている。 しかし、 旃陀羅は梵天から生れたものでないから、 アウトカーストとして人間以下の犬や豚と同じ存在であるとみなされていた。 この身分制度は支配者が権力を維持するために、 神の名によって権威づけ、 人為的につくったものであることはいうまでもない。 旃陀羅階層には財産を持たせず、 行刑や、 屠殺、 清掃等の仕事を強制して行わせ、 教育を受けることを許さず、 ヴェーダ聖典を聞かせないことなど、 これらを神の律法として制度化したのである。 この制度は、 歴史を通じて長く伝承されてきた。 これを打破しようとする運動がおこわれているが、 差別の現実はいまだに解消されていない。
 釈尊が、 こうしたインドの社会にあって生れによる貴賎・尊卑という考え方を否定し、 一切のものの平等を説き、 一人ひとりの人間の行為に注目されたことはよく知られている。 しかしながら、 仏教の長い歴史のなかには、 「旃陀羅は悪人である」 とか 「母をも殺すようなものである」 というような言葉を用い、 生れによるとして社会的に差別されている人々を、 さらに倫理的にもさげすみ差別してきたこともあった。
 インドだけでなく、 中国や日本でも同様である。 江戸時代には、 このインドに起源をもつ旃陀羅と、 その成立を異にしている中国の屠者と日本の被差別身分である 「穢多・非人」 を無理に結びつけて差別の合理化がはかられた。 そして被差別部落の人びとには、 その死後に 「桃源旃陀羅男」 などの戒名をつけ、 墓石にきざみつけて差別したのであった。
 浄土真宗でも、 室町時代につくられたとされる 「十三箇条」 制誡には、 「御門下と号する、 ある一類のなかに、 この法をもて旃陀羅を勧化すと云々。 あまさへ、 これがために、 あひかたらふて値遇出入すと云々。 事実たらば、 はなはだもて不可思議の悪名なり」 とあり、 「旃陀羅・屠類」 に対する教化を不名誉なこと (悪名) として否定している。 さらに、 江戸時代の『かんぎょうしょ』の註釈書には、 「旃陀羅は此方の穢多のやうなるものなり。 (中略) 然れば甚だいやしきもので、 此国の穢多の蓑笠を着てつねに人に差別するがごとし。 (中略) 旃陀羅は其性甚だ悪なるものなり」 などといい、 また、 親鸞しんらんしょうにんの『じょうさん』(七六) に、 「是旃陀羅とはぢしめて (中略) 闍王の逆心いさめける」 といわれているのを、 「無道に母を害し給ふは、 穢多非人の仕業である」 と註釈した解説書が、 明治以降近年に至るまで存在したのである。 このように経典の権威によって差別を正当化するだけではなく、 旃陀羅の存在は過去世の行いの結果であるとされてきた事実をふまえ、 「穢多・非人」 の存在も過去世の行い (=宿業) の結果であるとして差別の合理化を支える役割も果してきた。 こうした差別的な理解が布教の現場でもなされ、 旃陀羅を、 部落差別を温存し助長する用語として利用してきたことを、 われわれは厳しく反省しなければならない。
 親鸞聖人が 「是旃陀羅とはぢしめて」 といわれたとき、『観経』の教説に準拠して、 母を殺すような行為は、 極悪非道であり、 最も恥ずべきことであるということを強調するためであって、 旃陀羅を悪人であるときめつけるためでなかったことはあきらかである。 倫理的な善悪の行為と、 民衆支配のために人為的につくりあげた身分制度とはまったく別種のものであるのに、 両者を結びつけて、 刹利種 (クシャトリヤ) は善を行うもの、 旃陀羅は悪を行うものというようにみる誤まった社会意識が聖典のなかにさえ反映していることの一例であろう。
 七祖の聖典には、 旃陀羅の他にも、 貧窮・下賎などの言葉、 あるいは、 乞人と帝王が対比的にのべられているところがあるが、 拝読するにあたって、 旃陀羅同様、 聖典の成立した時代背景や思想に十分に留意し、 社会的な身分差別を容認するような理解に陥らないよう、 その本意を読み取っていかなければならない。 なお、 聖典に出てくる 「非人」 は、 人間でないもの、 天・竜・しゃなどの鬼神を指す。