ごう宿しゅくごう 業については、 これまでも真宗学や仏教学・宗教学はいうまでもなく、 哲学・倫理学・民俗学などさまざまな方面から論じられてきた。
 また、 仏教思想のなかで業思想が、 その根幹に位置し、 深遠な仏教哲理の一分野であって、 膨大な体系を持つ教理であるとも主張されてきた。 そして、 宿業・宿縁業・罪業・ごっしょうごう・業縁・善悪業・業道など、 種々の語を用いて業が説かれている。
 業とは、 梵語カルマン (karman) の漢訳であり、 広い意味の行為のことで、 おこない、 はたらきのことである。 通常、 しん三業さんごうに分ける。 また行為の結果、 すなわち 「善因楽果、 悪因苦果」 といわれるように、 業による報いとしての業報の意味も含めて用いられる。
 元来仏教の業は、 仏教以前に用いられていた宿命論的ないん一貫の業論ではなく、 縁起の立場に立つ業論である。 それは衆縁によって成り立つ自己を、 縁起的存在であるとみ、 固定的な実体観を否定する無我の立場であるとともに、 主体的な行為によって真実の自己を形成すべきことを強調する立場であった。
 七祖の上で業の用法をうかがうと、 三つの用法がある。 第一は、 「一には業力ごうりき、 いはく、 法蔵ほうぞう菩薩の出世の善根ぜんごん、 大願業力の所成なり」 (ろんちゅう・下) とか、 「一切善悪のぼん生ずることを得るものは、 みな阿弥陀仏の大願業力に乗じてぞうじょうえんとなさざるはなし」 (げんぶん) とある、 阿弥陀仏の救済力としての業である。 第二には、 「けつじょうして深く、 自身は現にこれ罪悪しょうの凡夫、 曠劫こうごうよりこのかたつねにもっしつねにてんして、 しゅつの縁あることなしと信ず」 (散善さんぜん) といわれる、 「機の深信じんしん」 の内容として信知せられる業 (罪業ざいごうじんじゅうの業) である。 これは、 阿弥陀仏の大智大悲の光明に映し出されてあきらかに知らされた現実の自己は、 無始以来、 流転して迷界を出るてがかりのない煩悩ぼんのうそくの凡夫とあらわされたものである。 第三には、 「一心にもつぱら弥陀の名号を念じて、 行住ぎょうじゅう坐臥ざがに時節の久近を問はず念々に捨てざるは、 これを正定の業と名づく、 かの仏の願に順ずるがゆゑなり」 (散善義) といわれる、 往生のぎょうごうとしての業である。 親鸞しんらんしょうにんの業の用法も、 基本的には七祖を受けていかれたものとみることができるが、 ただし、 往生の行業については、 これを如来こうとみなされている。
 従来の業に対する誤解は、 その第二の用法にみられる 「罪業」 とか 「業障」 という言葉だけが、 あるいはまた、 罪業深重とされる現実の自己が、 限りない過去とつながっているという宗教的な見方を強調するものとして用いられる 「宿業」 という言葉が、 機の深信と切り離されて取り上げられたところから生ずるものである。
 例えば、 「このほうしょうぼうによるがゆゑに、 この人現身のなかに諸悪・重病・身根不具・聾盲ろうもうおん水腫すいしゅ鬼魅きみを来致して、 坐臥安からず、 生を求むるに得ず、 死を求むるに得ず。 あるいはすなはち死するに至りて地獄に堕し、 八万劫のうちに大苦悩を受く。 (中略) 後に人となることを得れども、 つねに下処に生れ、 百千万世にも自在を得ず」 (安楽あんらくしゅう・下) とか、 「この悪業によりて、 六千百千歳のうちに阿鼻あびごくに生れき。 (中略) かしこよりもっしをはりて、 かえりて人となることを得て、 五百世のうちに生盲しょうもうにして目なかりき。 在々の所生にしょうねん忘失もうしつし善根をしょうしき。 (中略) つねに辺地に生れて、 貧窮下劣なりき」 (おうじょうようしゅう・中) などと説かれているものを、 「いん応報おうほう」 の思想を強調して固定的な因果論を説き、 現実社会の貴賎、 貧富や、 身心の障害は、 その人個人の過去世の行い (=宿業) の報いによるものであることを教えたものと解説してきた。 このような理解は、 貴賎や身心の障害に関わる差別を助長し、 それによって、 政治的につくりあげられた封建的な身分差別までも、 すべて個人の行いの報い (=業報) であるとして社会的身分制度を正当化するような役割を果し、 また一方では被差別、 不幸の責任もその人個人に転嫁してきたのである。
 このような業・宿業の理解は、 江戸時代の説教などにみられるばかりでなく、 近年までつづいている。 すなわち、 仏教は因果応報という天地宇宙の真理を説くもので、 自己の幸、 不幸は、 あくまで自己の負うべきもので、 いかなる不幸や逆境に遭遇しても愚痴ぐちや不平をいわず、 他人をうらやまず、 その原因は自己にあることを知りさんして自己の欠点をあらため、 善き因をまくようにしなければならないというふうに解説するものも少なくなかった。
 しかし現実の幸、 不幸の原因のすべてを個人の過去世の行いのせいにし、 不幸をもたらしたさまざまな要因を正しく見とどけようとしないことはむしろ縁起の道理にそむく見解である。 歴史的社会的につくられた矛盾や差別によってもたらされた不幸の責任を、 被害者や差別されている本人に転嫁し、 その不幸をひきおこした本当の要因から目をそらせてしまうようなことがあってはならない。