おうじょうじょう 浄土経典は阿弥陀仏の浄土の荘厳相しょうごんそうについて詳説し、 一切衆生しゅじょうがひとしく往生を願うべき旨を説き述べている。 天親てんじん菩薩はその経説によって『じょうろん』を著し、 阿弥陀仏の浄土を讃詠して、 三厳二十九種 (国土十七種・仏八種・菩薩四種) のどく荘厳を説き示している。 そして、 その三厳の浄土について、 「この三種の成就は、 願心をもって荘厳せり」 といい、 浄土が法蔵ほうぞう菩薩のいんの願行によって成就された願心荘厳の世界であることを明らかにしている。
 曇鸞どんらん大師はこれをうけて 「この三種の荘厳成就は、 もと四十八願等の清浄しょうじょう願心の荘厳したまへるところなるによりて、 因浄なるがゆゑに果浄なり」 (論註・下) と述べ、 浄土建立の因が法蔵菩薩の清浄なる四十八願心であるから、 成就された果の浄土も清浄であると説き、 浄土といわれるゆえんを明らかにしている。 その浄土に往生することの意義について曇鸞大師は 「かの浄土はこれ阿弥陀如来の清浄本願のしょうの生なり。 さんもうの生のごときにはあらざることを明かすなり。 なにをもつてこれをいふとならば、 それほっしょうは清浄にして畢竟ひっきょう無生なり。 生といふはこれ得生のひとの情なるのみ」 (同・下) と述べている。 浄土への往生は消滅しょうめつを完全に超えた法性無生のことわりにかなった生 (無生の生) であって、 ぼんの認識するような実体的な生とはまったく異なるものである。 それを往生といいあらわすのは得生者の情をあえて否定しないためである。 大師は往生の実義をこのように明かし、 さらに、 「氷の上に火をくに、 火たけければすなはち氷く。 氷解くればすなはち火滅するがごとし。 かのぼんの人、 法性無生を知らずといへども、 ただ仏名を称する力をもつて往生の意をなして、 かの土に生ぜんと願ずるに、 かの土はこれ無生の界なれば、 見生の火、 ねんに滅するなり」 (同・下) と説いて、 無生の理を知らず、 往生を実の生ととらえる凡夫の見生の惑も、 浄土に至ればその徳のはたらきによっておのずから消滅し、 無生の智慧ちえへと転じていくと主張している。
 善導ぜんどう大師の時代、 しょうどうの諸師は阿弥陀仏の国土をおう (応身仏おうじんぶつの土)、 あるいはまた凡聖同ぼんしょうどう居土こど (ぼんと聖者が雑居する世界、 応土に対応) などとする説を立てていた。 善導大師は 「げんぶん」 において、 阿弥陀仏の国土を本願に酬報したほうと判定し、 諸師の説を斥けた。 そのうえで、 報土という高妙な世界にしょうの凡夫がどうして往生することができようかという問いを立てて、 「もし衆生の垢障を論ぜば、 実に欣趣ごんしゅしがたし。 まさしく仏願に託してもって強縁ごうえんとなすによりて、 五乗 (人・天・しょうもん縁覚えんがく・菩薩) をしてひとしく入らしむることを致す」 と答え、 仏願力によって、 凡夫 (人・天) も聖者 (声聞・縁覚・菩薩) もひとしく往生を遂げると説き、 ぼん入報にっぽうの義を明らかにしたのである。
 この報土である阿弥陀仏の浄土をさらに報・の二土に弁別したのは源信げんしんしょうである。 源信和尚はかんぜんの『ぐんろん』の釈によって、『さつ処胎経しょたいきょう』に説くまんがいを化の浄土 (報中の化) とし、 雑修ざっしゅのものの生れる世界とした。 そして、 専修せんじゅのものは報の浄土に生れると説き、 専修と雑修の得失を浄土の得果の上にあらわしたのである。
 親鸞しんらんしょうにんは以上のような釈義をうけて、 真の仏土 (真実報土) をこうみょう無量、 寿命無量のじょうはんがいとし、 往生すればただちに阿弥陀仏と同体の仏果をきわめると説き示した。 さらに、 仮の仏土 (方便化土) を示して、 自力信の往生者の感見に応じて現れた世界とし、 真仮あわせて大悲の願界に酬報した報土であると明かされたのである。