正定しょうじょうじゅ 正定聚とは、 まさしく仏になることにけつじょうしているなかまという意味である。 かならず仏になるということは、 言葉をかえれば決して退転しないということであるので、 不退転ともいう。 親鸞しんらんしょうにんはこのような正定聚は平生へいぜいの信の一念に与えられるやくであるので、 これを現生げんしょう正定聚といわれた。 このようにかならず往生し成仏することに決定するのは、 臨終のときではなく平生 (ふだん) であるので、 これをまた平生ごうじょうともいう。
 しゅじょうが阿弥陀仏によって救済され、 現生において与えられる利益について親鸞聖人は、 ¬文類もんるいじゅしょう¼ に、 「また現生無量の徳を」 と示され、 「信巻しんかん」 (末) には具体的に、 「現生に十種の益を獲」 といい現生十益が示されているが、 これらはいずれも正定聚に入るという利益におさまるものである。
 本願を信じ念仏するものは阿弥陀仏の本願に随順し、 釈尊の教説に随順し、 諸仏の教意に随順するものであるから、 真の仏弟子といわれ、 またふん陀利だり (白蓮華) に喩えてほめたたえられている。 また金剛の信心をいただいた信心の行者は、 しょうにおいて必ず仏になることに決定しているという意味で、 いっしょうしょさつと同じ位にある。 すなわち現にそつてんにあって、 次生にこの娑婆に出現して仏となるといわれるろく菩薩と同じ等覚とうがくの位であるというので、 「便同べんどう弥勒」 (すなはち弥勒に同じ)、 「にょ弥勒」 (次いで弥勒のごとし) といわれる。 等覚は平等しょうがくの意味として仏の地位をあらわす場合もあるが、 ここでは 「等しい」 を 「ほとんど同じ」 という意味にとり、 仏のさとりである正覚とほとんど同じ徳をもつ菩薩の最高位をあらわして等覚というのである。 阿弥陀仏の救済をうけた人々を 「如来とひとし」 という場合の 「ひとし」 というのもこの意味で、 念仏者の絶対の尊厳性を示された言葉である。 なお、 これについては親鸞聖人の ¬しょうそく¼ 第十一通等に明かされてある。