しゅじょう 機とは、 法 (教法) に対する言葉である。 つまり、 仏の教えをこうむるべき対象であり、 法によって救済されるべきものをいう。 一般に機と衆生は同じような意味で用いられているが、 衆生 (じょう) は、 「生きとし生けるもの」 という意味であり、 その衆生が教法に対したときに機といわれるのである。
 真宗の聖教しょうぎょうにおける機の用例には種々の意味がある。 まず 「その機はすなはち一切善悪大小凡愚なり」 (ぎょうかん) とは、 教法を受けるべき衆生が千差万別であることをあらわしている。 また 「しょうたるあくぼん」 (でんしょう・十九) とは、 法 (阿弥陀仏の救済) のまさしきめあてが、 悪人 (罪悪じんじゅうの凡夫) であることをあらわし、 「正定しょうじょうじゅの機」 (信巻しんかんひょう) とは、 本願の法を正しく受けて、 必ず仏になるべき身に定まっていることをあらわしている。
 このうち、 阿弥陀仏の救済のめあてが悪人であるという場合の悪機とは、 ¬たんしょう¼ (二) に、 「いづれの行もおよびがたき身」 とあるように、 仏になるべき能力も素質もそなわっていないもののことである。 仏道を修行するについて、 すぐれた能力・素質をそなえた人々がじょうこんとよばれるのに対し、 またこんといわれるのも同じ意味である。
 このような悪人とは、 阿弥陀仏の教法を信受してはじめて知らされることがらであって、 これを機の深信じんしんという。 善導ぜんどうだいは機の深信を表す文に、 「けつじょうして深く、 自身は現にこれ罪悪しょうの凡夫、 曠劫こうごうよりこのかたつねにもっし、 つねに流転して、 しゅつの縁あることなしと信ず」 (信巻・本、 引文) といわれている。
 また 「金剛の信心は絶対不二の機なり」 (行巻) とあるのは、 信心のことを機といったものである。 これは法 (阿弥陀仏の救済の力) が機たる衆生に至り届いたのが信であるから、 信心を法に対して機とよぶのである。 南無阿弥陀仏の六字に、 行 (必ずたすけるという阿弥陀仏の法) も信 (南無とたのむ機) も成就されていることを、 蓮如れんにょしょうにんが機法一体の南無阿弥陀仏といわれるのも同じ意味である。