おうじょう真実しんじつしょうじょう 往生とは、 阿弥陀仏の浄土に往き生れることである。 阿弥陀仏の浄土は完全に煩悩がじゃくめつした無為むいはんがいであるから、 生れるとただちに仏となる。 これを 「往生即成仏」 という。 「信巻しんかん」 (末) に、 「念仏のしゅじょうは (中略) 臨終一念のゆうべ大般だいはつ涅槃を超証す」 とあるように、 げんしょうの命を終えるとすぐ、 阿弥陀仏の浄土に往生し、 ただちに仏となるのである。 これをなん思議じぎ往生という。 親鸞しんらんしょうにんは 「ぎょうかん」 に、 「往生はすなはち難思議往生なり」 と示され、 また 「しょうかん」 の冒頭に 「ひっめつの願、 難思議往生」 とかかげられている。
 必至滅度の願とは第十一願であり、 その願文には、 「たとひわれ仏を得たらんに、 国中の人天にんでんじょうじゅに住し、 かならず滅度に至らずは、 しょうがくを取らじ」 とある。 滅度とは、 梵語ニルヴァーナ (nirvāṇa) の漢訳で煩悩の寂滅した 「さとり」 のことであるから、 「証巻」 は衆生のさとりを明かした巻である。 だいぎょうだいしんの因によって得る果であるから、 これを真実の証という。 「証巻」 に、 「つつしんで真実の証を顕さば、 すなはちこれ利他円満の妙位、 無上涅槃のごくなり」 とある。 真実の証とは自身の迷いを完全に脱却するとともに、 衆生さいが自由自在に可能となることである。 このように阿弥陀仏の浄土に往生したのち衆生救済の活動に出ることを還相げんそうといい、 親鸞聖人は 「証巻」 の約三分の二にわたって還相の釈をなされている。
 衆生が往生するところの阿弥陀仏の浄土については、 「しんぶつかん」 においてあきらかにされる。 すなわち第十二願、 第十三願に報いて完成された浄土であるから、 こうみょう無量、 寿命無量の徳の実現している真実報土である。 それゆえ親鸞聖人は、 「土はまたこれ無量光明土なり」 と、 浄土を光明の世界としてあらわされている。 光明とは、 智慧ちえのはたらきをあらわしているが、 智慧が人々を導き救うすがたが大悲方便であるから、 浄土とは大悲の顕現した阿弥陀仏のさとりの世界であることはあきらかである。 前に述べたように真実の証果はこの浄土において完成するのであるが、 浄土は往相、 還相の二こうがあらわれでてくる衆生救済の淵源えんげんでもある。