16 さつ 菩薩とは、 梵語ボーディサットヴァ (bodhi-sattva) を音写した語で、 だいさっともいい、 漢訳してかくじょうどうしゅじょう・道心衆生などともいう。 さとりを求めて修行するもの、 すなわち求道者の意味である。 最初期は成仏する以前の修行時代の釈尊を指す言葉であった (釈迦菩薩)。 その意味では 「さとりに定まった有情」 を指すのが元の語義であった。 それが大乗仏教になると、 意味が拡大されて、 出家・在家、 男女を問わず、 ぶっのさとりを求めて修行するものをすべて菩薩と呼ぶようになったのである (ぼんの菩薩)。 また、 ろくげん文殊もんじゅ観音かんのんなどのもう一つの菩薩があって、 これらの菩薩は、 現にましまして衆生を教化しつつある菩薩 (大菩薩) である。 大乗仏教の菩薩はすべてがんぎょうとを具えているといわれる。 その願は、 それぞれの菩薩によって異なる。 それを象徴的に示したのが、 普賢の行、 観音の慈悲、 文殊の智慧ちえなどである。 しかしすべての菩薩に通じるものは、 自らさとりを完成する (自利) と同時に生きとし生けるものを救う (利他) という目標を持って、 深い慈悲に根ざしているということである。
 このような願と行とを具する菩薩の典型的なものは、 ¬だいきょう¼ に説かれる法蔵ほうぞう菩薩である。 ¬大経¼ には、 過去しゅこう (無限の過去) に一人の国王があり、 出家して法蔵と名のり、 ざい王仏おうぶつの弟子となり、 諸仏の国土を見て五劫の間ゆいし、 一切衆生を平等に救おうとして四十八願をおこし、 ちょうさい永劫ようごう (無限の時間) の修行を経て阿弥陀仏となられたと説かれてある。 いんの法蔵菩薩が願と行に報われて阿弥陀仏となられたのであり、 このような仏陀を報身ほうじんぶつと呼ぶ。
 そのことから菩薩は、 後には総合的に成仏道を歩む修行者という向上的な意味とともに、 すでに仏となったものが、 衆生救済のために菩薩のすがたをとるという向下的な意味をあわせもつようになった。 いわゆる菩薩道とはこのような意味を含むものである。
 阿弥陀仏の因位である法蔵菩薩についても、 その発願ほつがん・修行の結果阿弥陀仏となったと説かれているが、 おんじつじょうの阿弥陀仏 (無限の過去より、 すでに仏であったところの阿弥陀仏、 ¬じょうさん¼ ・ ¬でんしょう¼ に出る) が、 衆生救済のために菩薩の発願・修行のすがたを示されたのであるという見方もある。