15 方便ほうべん隠顕おんけん 方便とは、 仏がしゅじょうを救済するときに用いられるたくみな方法 (てだて) をいう。 その中に真実とごんとがある。 真実の方便とは、 仏の本意にかなって用いられる教化の方法で、 ずい自意じいの法門をいう。 それは、 大智を全うじた大悲が巧みな方法便宜をもって衆生をさいされるというので、 ぜんぎょう方便ともいう。 阿弥陀仏を方便法身ほっしんというときの方便がそれである。 権仮方便とは、 未熟な機は直ちに仏の随自意真実の法門を受けとれないから、 その機に応じて、 仮に暫く誘引のために用いられる程度の低い教えをいう。 機が熟すれば真実の法門に入らしめて、 権仮の法門は還って廃せられる。 このように暫く用いるが、 後には還って廃するようなずい他意たいの法門を権仮方便という。 「方便ほうべんしん」 といわれるときの方便がそれである。
 親鸞しんらんしょうにんは四十八願の中で、 往生の因を誓われた第十八願、 第じゅう願、 第二十願のうち第十八願のみが真実願であり、 第十九願、 第二十願は方便願であるとされた。 第十八願は、 他力こうぎょうしんによって、 真実報土の果を得しめられる真実願であり、 第十九願は、 自力諸行によって往生を願うものを、 臨終に来迎らいこうして方便化土けどに往生せしめることを誓われたものであり、 第二十願は、 自力念仏によって往生を願うものを、 方便化土に往生せしめることを誓われた方便願であるといわれるのである。 そしてこの三願は、 しょうどう門の機を浄土門に誘うために第十九願が、 自力諸行の機を念仏の法門に導き、 さらにその自力心を捨てしめて第十八願の他力念仏往生の法門に引き入れるために第二十願が誓われたとされている。
 阿弥陀仏の第十九願に応じて説かれた釈尊の教えが ¬かんぎょう¼ であり、 第二十願に応じて説かれた教えが ¬小経しょうきょう¼ である。 ¬観経¼ に説かれた教えは、 じょうぜん散善さんぜんといういろいろな善根ぜんごんによって阿弥陀仏の浄土に往生するというものであり、 ¬小経¼ に説かれた教えは、 一心不乱の自力称名念仏によって往生するというものである。 第十九願・第二十願の教えが、 第十八願の教えに引き入れようとするものであるのと同じく、 ¬観経¼ 、 ¬小経¼ を説かれた釈尊の本意は、 他力念仏の教えを説くことにある。 したがって表面に説かれた教えは、 前に述べたようなものであるが、 その底を流れる釈尊の真意が、 部分的に表面にあらわれている。 ¬観経¼ に、 「なんぢよくこの語をたもて。 この語を持てといふは、 すなはちこれ無量寿仏のみなを持てとなり」 とあり、 ¬小経¼ に 「難信の法」 とあるのがその例である。 このように表面に説かれた自力の教えを 「顕説けんぜつ」 といい、 底に流れる他力の教えを 「隠彰おんしょう」 という。 これによって ¬観経¼ 、 ¬小経¼ には、 隠顕の両意があるといわれる。 こうして浄土三部経は、 顕説からいえば真実教と方便教の違いがあるが、 隠彰の実義からいえば三経ともに第十八願の真実の法門が説かれていることがわかる。