1 阿弥陀あみだ仏ぶつ 阿弥陀仏とは、 西方浄土 (極楽世界) にあって大悲の本願をもって生きとし生けるものを平等に救済しつつある仏である。 ¬大だい経きょう¼ によれば、 法蔵ほうぞう菩ぼ薩さつが光こう明みょう無量 (第十二願)、 寿命無量 (第十三願) であろうと願い、 その願いに報いて成就されたので、 無量光 (アミターバ Amitābha)、 無量寿 (アミターユス Amitāyus) の徳をもつといい、 このような徳をあらわすために阿弥陀と名づけられたといわれている。 無量寿とは仏のはたらきの時間的無限性をあらわし、 無量光とは空間的な無辺性をあらわしており、 時間的空間的な限定を超えて、 あらゆる衆しゅ生じょうをもらさず救う仏の名である。 これによって親鸞しんらん聖しょう人にんは、 「摂取してすてざれば阿弥陀と名づけたてまつる」 といわれる。 善導ぜんどう大だい師しは、 阿弥陀仏は念仏の衆生を救うことができなければ仏になるまいと誓い、 永劫ようごうの修行によってその願いを成就してなられた仏であるから、 願行に報いた報身ほうじん仏ぶつであるといわれた。 そして、 聖しょう道どう諸師の中において阿弥陀仏を応おう化げ身しんとみるような説を否定するとともに、 念仏の衆生は、 仏の本願力に乗じて必ず報仏の土 (報土) へ往生できると強調された。
 また親鸞聖人は曇鸞どんらん大師の教えによって法ほっ性しょう・方便の二種法身ほっしんとして阿弥陀仏を説明されている。 法性法身とは、 さとりそのものである法性真如しんにょを本身とする仏身のことで、 それはあらゆる限定を超え、 私どもの認識を超えたものである。 これについて ¬唯信ゆいしん鈔しょう文もん意い¼ には、 「いろもなし、 かたちもましまさず。 しかれば、 こころもおよばれず、 ことばもたえたり」 とある。 そして方便法身とは、 「この一如 (法性法身) よりかたちをあらはして、 方便法身と申す御すがたをしめして、 法蔵比丘びくと名のりたまひて」 といわれる。 すなわち、 万物が本来平等一如のありようをしていることを人々に知らしめ、 自他を分別し執着して、 煩悩をおこし苦悩しているものをよびさまし、 真如の世界にかえらしめようとして、 絶対的な法性法身がかたちを示し、 阿弥陀仏という救いの御名を垂れて人々に知らしめているすがたを方便法身というのである。 ¬論ろん註ちゅう¼ (下) には、 「正直を方といひ、 おのれを外にするを便といふ」 といい、 真如にかなって、 おのれを捨てて一切衆生を救う大悲のはたらきを方便というとされている。 要するに大悲の本願をもって衆生を救済する仏を方便法身というのである。
 この阿弥陀仏を ¬浄じょう土ど論ろん¼ には 「尽じん十方じっぽう無碍むげ光こう如来にょらい」 といわれた。 十方世界にみちみちて、 一切衆生をさわりなく救う大悲の智慧ちえの徳をもつ如来ということである。 また ¬讃さん弥陀偈みだげ¼ には 「不可思議光仏」 といわれた。 人間の思議を超えた絶対の徳を成就された如来ということである。 親鸞聖人は、 これによって阿弥陀仏を 「帰き命みょう尽十方無碍光如来」、 「南無なも不可思議光仏 (如来)」、 「南無阿弥陀仏」 と十字、 八字 (九字)、 六字の名みょう号ごうをもって讃嘆さんだんし、 敬信きょうしんせられた。