◗974: 2 選択註解鈔第五

◗974: 4   第十三 多善根章

◗974: 5 一 この章より已下四段は、阿弥陀経によりて念仏の徳を讃嘆するなり。上の章には、念仏の一行、釈尊付属の法なることをあかしをはりぬ。今の章には、その念仏の多善根なる義を釈するなり。

◗974: 8 一 所引の経文はその心見やすし。別の釈をまうくるに及ばず。和尚の解釈は、法事讃の下巻の文なり。

◗974:10 極楽无為涅槃界といふは、涅槃は法性なり、実相なり、真如なり。されば極楽は无為法身の理を証する土なりといふなり。

◗974:11 随縁雑善といふは、定散八万の諸行なり。

◗974:12 要法と云は、念仏をさすなり。観経には此法之要とゝき、疏には浄土之要と釈せるこれなり。

◗974:13 専復専と云は、専は雑に対することばなり。故に二たび専といへるは、一行一心を顕義なり。

◗974:14 坐時即得无生忍と云は、十信外凡の位なり。

◗974:15 証得不退入三賢と云は、三賢は内凡の位なり。三賢といふは、十住・十行・十廻向の三十心をさすなり。

◗975: 1 問て云く、无生忍は地上の証悟なり、なんぞ十信の位と可得意哉。

◗975: 2 答云く、のちの益を三賢と釈するが故に、三賢のさきなれば十信と心得るなり。无生忍の名はおなじけれども、地前・地上の忍、その浅深あるなり。序分義に経の応事即得無生法忍の文を釈するに、因茲喜故、即得无生之忍。亦名喜忍、亦名悟忍、亦名信忍。乃至 此多十信中忍也といへる、これなり。

◗975: 6 重て問ていはく、浄土の往生は即悟无生ととく、これ地上の无生なるべし。往生の益、外凡・内凡ならばこれ浅位なり。念仏の益その功なきに似たり、いかん。

◗975: 8 答て云、実にはしかなり。浄土は純一の報土なるがゆへに、自然に无生のさとりをうること、もとも地上の深位なるべし。いまは一往九品の階級をたつるとき、下輩造悪の機に約して釈するところなり。観経に下輩の発心をとくに、花開のゝち无上道心をおこすととくがゆへなり。発心は十信のくらゐなるが故也。

◗975:13 一 私の釈にひくところの、龍舒の浄土の文のなかに、襄陽といふは、漢土の所の名なり。随といふは、代の名なり。陳仁稜といふは、人の名なり、能書の人なり。字画清婉といふは、字のかたち優美にして、いつくしきなり。

◗976: 1 今世に伝本に脱此二十一字といふは、この字ををとせりといふなり。諸善をさして少善根とときぬれば、念仏は多善根なること義として勿論なるうへに、かの二十一字ある本をもておもふに、この義いよいよ分明なりと釈成するなり。

◗976: 4   第十四 証誠章

◗976: 5 一 上の章には、念仏の多善根なることをあかし、またいまの章には、その念仏を諸仏証誠することをあらはすなり。

◗976: 6 問て云く、証誠の義をあかさば、直にもとも阿弥陀経の原文をひくべきなり。なんぞ経文をひかずして和尚の釈をひき、しかもこの釈にのするところの経文をひくや。

◗976: 8 答ていはく、和尚の釈にひかれたるを、その定にて、弥陀経にいふがごとしとひくうへは、直にひくとおなじことなり。

◗976:10 これすなはち経のごとくひきのするならば、六方の文をつぶさにひくべきがゆへに、その文広博なり。いま和尚の所引は六方各有恒河沙等諸仏といふて、文をば省略して、しかもその義つぶさに存ずるがゆへに、ことばのたくみなるをとりて、ひきのせらるゝなり。

◗976:13 各々の仏名は、いまその詮なし。段々の重説は、合して一段にひくに相違なきがゆへなり。そのうへ、経のことばの略せるところをさぐり、仏意を決して甚深の義をのべらるゝこと、今師の釈のならひなり。これによりて、かの釈の所引にまかせて、ひきのせらるゝなり。

◗977: 2 一 所引の観念法門の文に若仏在世、若仏滅後、一切造罪凡夫といふは、経には在世・滅後のことばなけれども、義をもてこのことばをのせられたり。いはゆる経文に、已発願・今発願・当発願の機みな往生すべしとときたれば、在世・滅後の機もるべからざるなり。

◗977: 5 経に善男子・善女人とときたるは、機は造罪の凡夫なれども、所信の法につきて善男・善女といふなり。その機は悪人なりとしることは、流通に五濁悪世の衆生のために難信の法をとくといふがゆへに、かのこゝろによりて造罪の凡夫といふなり。

◗977: 8 上尽百年の言も経にはなけれども、これも義としてあるべきゆへなり。このゆへに、いまの釈にも上尽百年といひ、法事讃にも長時起行倍皆然と釈するなり。

◗977:10 十声三声一声等もこのことばなしといへども、本願の文のないしのことばによりて、上尽一形下至十念一念とこゝろえつれば、この義かならずあるべきがゆへなり。

◗977:12 諸仏の舒舌を釈するに、一出口已後終不還入口、自然壊爛といふは、この言も経にはみゑざれども、証誠の仏意を決了する和尚の釈、もとも甚深なり。

◗978: 1 一 礼讃の二文ならびに疏の釈、法事讃の文等、そのこゝろみな観念法門の釈におなじ。

◗978: 2 五会讃の文に万行之中といふは、諸善をさす言なり。為急要といふは、念仏を嘆ずる言なり。

◗978: 3 本師金口説といふは、釈尊誠諦の説なり。十方諸仏といふは、六方の諸仏なり。

◗978: 4 六方・十方は、開合の異なり。開するときは十方とす、四方と四維と上下となり。合するときは六方とす、四維を四方に摂するなり。阿弥陀経には六方ととき、大経には十方世界諸仏如来、皆共讃嘆ととけり。かるがゆへに和尚、処々の解釈にあるひは十方と釈し、あるひは六方と判ず。いづれもひとつなることをあらはすなり。

◗978: 8 十方と釈する文は、当章にひくところの散善義の深心のしたの就人立信の釈、ならびにおなじき釈のかみに決定深信弥陀経中、十方恒沙諸仏証勧一切凡夫決成得生といへる釈、また玄義の別時門に十方各如恒河沙等諸仏、各出広長舌相遍覆三千大千世界、説誠実言といへる釈、また法事讃の上巻の召請の讃に十方恒沙仏舒舌、証我凡夫生安楽といへる等これなり。

◗978:14 六方といへる釈は、下巻の唱讃の釈等これなり。

◗978:14 般舟讃の釈にも、一処には六方如来慈悲極、同心同勧往西方といひ、一処には十方如来舒舌証、定判九品得還帰と判ぜり。いまひくところの礼讃の釈も十方・六方は異本の不同なり。

◗979: 2 詮ずるところ、六方といへばとて減ずるにあらず、十方といふによりて増すべきにあらず。おなじことなるむねをしめさんがために、処々の釈一准ならざるなり。たゞ恒沙の諸仏、一仏ももれず証誠すとこゝろうべきなり。

◗979: 6   第十五 護念章

◗979: 7 一 上の章には諸仏の証誠をあかし、この章には諸仏の護念をあかす。証誠・護念相続して、上下次第を成ずるなり。これすなはち経に六方の証誠をとくとき、一々に当信是称讃不可思議功徳、一切諸仏所護念経ととくによりて、証誠と護念とあひはなるべからざるがゆへなり。

◗979:11 一 所引の文は、これも阿弥陀経の文をひくに、たゞちに経をばひかず。観念法門にいはくといふて、かの書にひきのせられたる定にその文をひきて、経と釈との意を顕なり。故名護念経と云までは、経を引とみえたり。護念意者と云よりは和尚、仏意をえて護念の義を釈せらるゝなり。

◗979:14 次に所引の礼讃の文も阿弥陀経によれる釈なり。これに二重の釈あり。

◗979:15 初重に証誠此事。故名護念経と釈して、第二重に次下の文に云といふて、いまの釈をまふけたり。かるがゆへに、初重は六方証誠の段にあたれり。第二重はおくの皆為一切諸仏共所護念の文にあたれり。これいまの所引の文なり。

◗980: 3 そのなかに、若称仏往生者といへるは、すなはち経の聞是諸仏所説名及経名者のこゝろなり。

◗980: 5 常為六方恒沙等諸仏之所護念といふは、皆為一切諸仏共所護念の文にあたれるなり。

◗980: 7 一 問ていはく、私の釈のなかに、また礼讃と観念法門とをひきて、かの両部にひくところの諸経の文をいだせり。これさきにひくところの二文の一具の文なり。しかれば、もとも礼讃の文をばさきの礼讃の文にひきくはへ、観念法門の文をばさきの観念法門の文にひき具すべし。しかるに一具の文をひききりてわたくしの釈のなかにひくは、いかなるゆへぞや。

◗980:11 答ていはく、一具の文なりといへども、かみの二文は六方諸仏の護念をあかすがゆへに、六方諸仏の証誠についてきたれる章なれば、これを本としてひくなり。私の釈にひき具するところの釈は、たゞ総じて仏・菩薩乃至諸天等の護念をあかすがゆへに、別してこれをひくなり。

◗981: 1 一 礼讃にひくところの十往生経の文に彼仏即遣二十五菩薩、擁護行者といへるは、この菩薩は極楽の聖衆なり。その一一の名字は往生要集にみえたり。いまこれを略す。

◗981: 4 一 観経の文は、普観の无量寿仏化身无数。与観世音・大勢至常来至此行人之所の文のこゝろをとりてひくなり。

◗981: 5 問ていはく、観音・勢至の護念はしかなり。二十五の菩薩の護念は観経にその文なし。なんぞ与前二十五菩薩等囲繞すといへるや。

◗981: 7 答ていはく、実に現文にはなけれども、義としてあるべきによりて、かくのごとくひきのせらるゝなり。そのゆへは、観音・勢至は二十五菩薩の上首なり。かの二菩薩あらば、余の聖衆も定あるべし。したがひて、十往生経に護念の益をとくに、かの二十五の菩薩をつらねたり。しりぬ、今の経にも文は略せりといへども、かならずあるべきがゆへに、かくのごとくひくなり。

◗981:12 例せば、かみの章に天臺の十疑をひきて、文は阿弥陀経にありといへども、義は他経にも通ずる義を成ずるがごとし。

◗981:14 一 観念法門にひくところの観経の文は、流通の文なり。いはゆる観世音菩薩・大勢至菩薩、為其勝友の文のこゝろなり。

◗982: 1 一 おなじき所引の般舟経の文のなかに、一切諸天といふは、総じて三界の天衆なり。

◗982: 2 四天大王といふは、多聞・持国・増長・広目なり。護法護持の大将なるがゆへに、ことに護念するなり。

◗982: 3 八部といふは、いまいふところの諸天と竜神とに、夜叉・乾闥婆・阿修羅・迦楼羅・緊那羅・摩睺羅伽をくはへて、総じて八部といふなり。

◗982: 5 除入三昧道場といふは定善入観のほかといふこゝろなり。これ口称念仏の益をあらはさんがためなり。

◗982: 7   第十六 名号付属章

◗982: 8 一 第十三多善根の章より当章にいたるまでの四段は、弥陀経をひくにとりて、かみの三段は正宗の文なり。いまは流通の文をひきて、名号付属の義を釈するなり。

◗982:11 一 標章に付属舎利弗等之文といへる等の字に二種のこゝろあり。

◗982:11 一には目連・迦葉等の諸大声聞、文殊・常精進等の諸大菩薩を等取するなり。これらの菩薩・声聞は、ともに一会の同聞衆として、みな仏法護持の大法将なるがゆへなり。

◗982:14 一には未来の衆生を等取するなり。法事讃に経の正宗の衆生々者皆是阿毘跋致といへる文にあたりて告命を釈するに、釈迦如来告身子、即是普告苦衆生といへば、流通の文もその義おなじかるべきがゆへなり。

◗983: 2 このふたつの義は異義にあらず、并べて可存之也。

◗983: 3 一 問て云、いまの所引の経文はたゞ一経の説時をはりて、在座の衆の歓喜信受して退散することをとくばかりなり。付属の義におきては、文もなし、こゝろもみえず、いかんがこれをこゝろうべきや。

◗983: 5 答ていはく、三経にをのをの付属の文あり。大経には仏語弥勒、其有得聞彼仏名号の文なり。観経には持是語者、即是持无量寿仏名の文なり。阿弥陀経には、いまの所引の文これなり。この文のなかに付属の義を含せるなり。

◗983: 8 そのゆへは、上に舎利弗、汝等皆当信受我語及諸仏所説ととき、釈迦・諸仏の所説名号なることをあらはし、しもに当知、我於五濁悪世行此難事、得阿耨多羅三藐三菩提、為一切世間、説此難信之法。是為甚難とときて、釈尊凡地の本行なることをあかし、つぎに仏説此経已とときくだしたる説相、もとも付属の義にかなへり。

◗983:13 したがひて、和尚この義趣を解したまへるゆへに、いまの法事讃の文にこの経文を釈するとき、弥陀の名号を付属する義を釈せること、はなはだ経の深意を得たまへるものなり。

◗984: 1 一 法事讃の文は、いまのぶるところの付属の義を釈するなり。

◗984: 1 世尊説法時将了といふは、弥陀経の説時をはるといふばかりにはあらず。ひろく一代諸経のをはりにこの経をときたまへりとあらはすこゝろなり。上の文に如来出現於五濁、随宜方便化群萌。或説多聞而得度、或説少解証三明、或教福恵双除障、或教禅念坐思量といへるは、一代諸経の説時をいだすときこえたり。そのつぎに世尊説法時将了といへる、一代のをはりといふこと分明なり。

◗984: 7 かのをはりに釈尊凡地の本行なる念仏を一切世間のためにときて末法に流通するを慇懃付属弥陀名といふなり。

◗984: 9 一 五濁増時多疑謗以下は、末法五濁の世に念仏誹謗のともがらおほかるべきことをあげて、かつは謗法の果報をあらはし、かつは懺悔の方法をしめすなり。

◗984:11 如此生盲闡提輩といふは、念仏誹謗の人を生盲闡提にたとへらるゝなり。かの謗法の人をば无眼人・无耳人となづくるがゆへなり。

◗984:12 毀滅頓教永沈淪といふは、まさしく謗法の罪苦をあらはすなり。

◗984:13 頓教といふはいまの念仏なり、常没の凡位よりたゞちに報土に生ずるがゆへに頓教と釈するなり。玄義には頓教一乗海といひ、般舟讃には即是頓教菩提蔵といへるこれなり。

◗984:15 永沈淪といふは、苦報の長遠なることをあかすなり。すなはち下の句に超過大地微塵劫、未可得離三塗身といへる、その義なり。

◗985: 2 大衆同心、皆懺悔所有破法罪因縁といふは、まさしく懺悔をすゝむることばなり。破法罪といふは、すなはち謗法罪なり。

◗985: 4 問ていはく、いますゝむるところの懺悔といふは、いかやうに修すべきぞや。また念仏の行者かならず懺悔の方法をもちゐるべしや。

◗985: 5 答ていはく、礼讃に三品の懺悔をいだせり。身毛孔中血流、眼中血出者名上品懺悔。中品懺悔者、遍身熱汗従毛孔出、眼中血流者名中品懺悔。下品懺悔者、遍身徹熱、眼中涙出者名下品懺悔といへり。起行の辺にて修せんときは、その方法をもちゐるべき。すなはちいまの礼讃にいだすところの広・要・略の懺悔、また法事讃にもちゐるところの十悪懺悔等これなり。

◗985:10 たゞし礼讃にいふところの三品の懺悔をあげをはりて、つぎしもの釈に此等三雖有差別、即是久種解脱分善根人。致使今生敬法、重人不惜身命、乃至小罪、若懺即能徹心徹髄。能如此懺者、不問久近、諸有重障頓皆滅尽。若不如此、縦使日夜十二時急走衆是無益。若不作者といへり。

◗985:15 種解脱分善根人といふは、大乗・証誠ともに下品のくらゐなり。この釈のごとくならば、凡夫この懺悔を修せんこと成ずべからずとみえたり。

◗986: 1 さればこの釈のつぎに雖不能流涙流血等、但能真心徹到者即与上同といへり。真心徹到といふは、金剛心なるがゆへに、念仏の信心堅固にして称名をつとむれば、別してその功をもちゐざれども、懺悔を修する義ありといふなり。般舟讃に念々称名常懺悔、人能念仏々還憶といへるも、このこゝろなり。

◗986: 7 一 私の釈には、八種の選択をあげられたり。一々の義みな文にありてみつべし。八種の義、しかしながら諸行をえあびすてゝ、念仏をえらびとるになづけたり。さればこの書のこゝろは、たゞ専修の義をあらはすなり。

◗986:10 一 計也夫といふ以下は、総結の釈なり。

◗986:10 速欲離生死、二種勝法中、且閣聖道門選入浄土門といふは、第一の教相のこゝろなり。

◗986:11 欲入浄土門、正雑二行中といふより称名必得生。依仏本願故といふにいたるまでは、第二の二行の章のこゝろなり。

◗986:13 この二行のなかに選択するところの正宗の念仏をもて、第三の本願の章の法体とし、その一法にをのをの種々の利益にしたがへ、一々の功徳につきて、しもの諸門をひらくなり。

◗987: 1 一 善導和尚の徳を嘆ずるに、時人諺曰、仏法東行已来、未有禅師盛徳といふは、少康法師の瑞応刪伝に和尚の徳行を讃ずることなり。

◗987: 3 絶倫之誉といふは、古今の諸師等のなかにこえたりといふなり。そのゆへは、常没流転の未断惑の凡夫、報仏の浄土にいたるといふこと、諸師のいまだのべざるところ、諸宗のいまだ談ぜざるところなり。

◗987: 5 これすなはち大経の文に声聞或菩薩、莫能究聖心といひ、二乗非所測、唯仏独明了と云へる文をもて案ずるに、まさしく正意を解することかたきがゆへなり。しかるに今師ひとり仏意を解して、衆生のために依怙たり。これ権化の再誕なるがゆへなり。このゆへに、かくのごとく嘆ずるなり。

◗987:10 一 ひくところの疏の証定分の文に毎夜夢中常有一僧而来指授玄義科文といふは、ふたつの文点あり。

◗987:11 一には指授玄義科文とよみては、玄義七門の科文をきづくるなり。これはまさしく経文にあたりて一々の義釈をまふくることはつねのことなり。依文にさきだちて玄遠の深義をのべらるゝこと、今家の釈の肝要なり。まことに如来の指授にあらずは、たやすくこの義を解しがたし。されば諸師この経について疏をつくるひとおほしといへども、いまだ玄義の釈をつくりたる師なし。しかるにいま、仏の指授によりてこの玄義をのぶとなり。

◗988: 2 一には指授玄義科文とよみては、玄義も依文も、義四巻ともに指授すといふこゝろ也。科文といふは依文の義なるがゆへなり。

◗988: 3 さきの義は、四帖の義理ならびに礼讃・観念法門等の具書までも、その義みな甚深なりといへども、なを玄義の釈の深遠なる気味をまさんとなり。さればとて、自余の釈のおろそかなるべきにはあらず。

◗988: 6 のちの義は、玄義・依文の釈、いづれも仏意に順ず。用捨あるべからざれば、ともに仏の指授なりといはんとなり。これまた玄義の釈のひでざるべきにはあらず。

◗988:8z 然れば、両義ともに相違なきなり。

◗988: 8 問ていはく、玄義の釈をつくること今家の釈にかぎらず。いはゆる天臺大師、法華を釈するに玄義十巻をつくりたまへり。また嘉祥大師の釈に大乗玄・三論玄といふ書等あり。しからば、めづらしきことにあらず。なんぞ和尚の釈をひでたる義とせんや。

◗988:12 答ていはく、他師の釈にをきて、おほよす玄義の釈なしといふにはあらず、すなはち天臺の玄義は名・体・宗・用・教の五重玄義をあかせり、これも玄遠の旨をのべたる義なり。嘉祥の釈また玄遠の義をあかすをもて玄の名を立たり。今師の釈もその義違すべからざるなり。

◗988:15 たゞし玄義の釈をまうくること諸師にひでたりといふは、諸師は観経を釈するにとりて、玄義の釈なきことをいふなり。和尚はこの経にをきて玄義・依文の二門の釈をつくり給へること、よく仏意を決了し給へりといふなり。

◗989: 4 一 三具磑輪道辺独転といふは、転法輪の相を標するなり。

◗989: 5 一 忽有一人、乗白駱駝来前、見勧といふは、駱駝は馬なり、白馬に乗ずることは表示あり。

◗989: 6 釈尊、王宮をいでゝ檀徳山に入たまひしときは、白馬に服御し、梵僧摩騰・法蘭、仏教を漢土にわたしゝときは、経巻を白馬におほせたりき。しからば、仏法修行・経教伝来の先兆なり。

◗989: 9 一 上来諸有霊相者、本心、為物不為己身といふは、夢中の霊相は衆生に信をとらしめて、みづからの釈義をもて西方の指南とせしめんがためなりといふ。和尚は弥陀の化現なれば、所釈仏意に相応すべきことはうたがひなし。しかれども、ことに祈請を出して霊瑞を感ずるは、衆生のためなりといふなり。是則権化の義を顕也。

◗989:14 一 静以といふ已下は、この書の後序なり。

989:14 はじめより本迹雖異化導是一也といふにいたるまでは、まづ高祖の解釈を嘆じ、かねて本迹の行徳を讃ず。

990: 1 西方指南といふは、指南は先導の義なり。いまだしらざるところにいたることは、先導のちからなり。もしこれをえざれば中途にまよひ、これをえつれば先途に達するなり。いまの解釈をえてその義を決了しなば、かならず西方にいたるべしとなり。

990: 4 行者目足也といふは、所求のところにたることは目足の功なり。されば今の釈は往生浄土の目足なりとたとふ。これすなはち、菩提の宝所にいたることは、智目行足を具せずしてはかなはざるに、念仏は行者の目足として浄土に生ず。いまの解釈の所詮は、念仏なるがゆへにかくのごとくいふなり。

990: 8 於是貧道といふより云帰念仏といふにいたるまでは、この疏を披覧せられし往時をあかして、浄土宗にいりたまひし元起をのぶるなり。

990: 9 自其已来といふより得昇降也といふにいたるまでは、自行化他の行要をしめして、時機相応の教益をあらはすなり。

990:11 浄土之教、叩時機而当行運也といふは、この教は末法のときに益をほどこすべき教なり。末法の機は、この教によりて利をうべき機なり。時と機とあひかなひて巨益あるべしといふなり。

990:13 念仏之行、感水月而得昇降也といふは、水のぼらずして月をうかべ、月くだらずして水にうかぶ。のぼらずくだらずしてしかも昇降をえたる、これ感応道交のゆへなり。念仏往生のみち、また如来の本願と行者の信心と、機感純熟して往生の益をうべきこと、またかくのごとしといふなり。

991: 2 而今といふより已下、巻のをはりにいたるまでは、この書選集の元由をのべ、かねて破法のつみをましめらるゝなり。

991: 4 不図蒙仰といふは、月輪の禅定殿下の教命によりて造進せられしことなり。

991: 5 憖集念仏要文といふは、経釈の文をひくをいふなり。剰述念仏要義といふは、私の料簡をくはへらるゝ義なり。

991: 6 唯顧命旨不顧不敏といふは、命旨は禅閤の仰なり、不敏は卑下の言ばなり。

991: 7 恐為不令破法之人堕於悪道也といふは、かみの所引の文に、念仏誹謗の輩はそのつみ深重にして、大地微塵劫を超過すとも、三塗の身をはなるゝことをうべからざることをあかすがゆへに、破法のつみをいましめらるゝなり。

991:10 いはゆるこの書は、経釈の肝要をぬきて、念仏の深義をのべたり。これを謗ぜば、謗法の重罪をまねきて、地獄の苦報をうくべきがゆへに、後見をはゞかりたまふなり。

991:12 これすなはち、上には不顧不敏といひて卑嫌のことばをのせらるといへども、いまは破法のつみのをもきことをあらはして、のぶるところの義趣の仏意に順ぜることを標するなり。この書には念仏の正義をあかすがゆへに、これを謗ぜば、念仏を謗ずるにあたるべきがゆへなり。

992: 1 されば実に後見ををさふるにはあらず。誹謗正法のつみをつゝしめんがためなり。ふかく信順の心をぬきんでゝ、修習のつとめをいたさば、ことに弘通の根本としてかの素意にかなふべきなり。

992: 5  此一部五帖、当寺開山存覚上人御述作也。雖為一流之秘本、懇望之間書与釈賢意処也。

992: 7  寛正四歳 癸未 八月晦日記之
   釈明覚(花押)