◗495:10 鎌倉の二位の禅尼へ進ずる御返事 第十

◗495:11 御文くはしくうけ給はり候ぬ。さては、念仏の功徳は仏もときつくしがたしとの給へり。又智恵第一の舎利弗、多聞第一の阿難も、念仏の功徳はしりがたしとの給ひし広大善根にて候へば、まして源空なんどは申つくすべくも候はず。

◗495:13 源空、この朝にわたりて候聖教を随分にひらき見候へども、浄土の教文は、この朝にわたらずとかんがへ候て、わづかに震旦よりとりわたして候聖教の心をだにも、一年二年なんどには申つくすべくもおぼへ候はず。さりながらも、おほせかぶりて候へば、申のべ候べし。

◗496: 2 まづ念仏を信ぜざる人々候ひて申候なる事は、くまがやの入道・つのとの三郎は无智のものなればこそ余行をばせさせずして、念仏ばかりをば法然房はすゝめたれと申候なる事、きわまりなきひが事にて候。

◗496: 4 そのゆへは、念仏の行は、もとより有智・无智をえらばず。弥陀のむかしちかひ給ひし本願は、あまねく一切のためなり。无智のためには念仏を願とし、有智のためには余行を願とし給ふ事なし。

◗496: 7 十方世界の衆生のため也、有智・无智、善人・悪人、持戒・破壊、貴も賎も、男も女もへだてず。もしは仏在世の衆生、もしは仏の滅後の衆生、もしは釈迦の末法万年のゝち三宝みなうせてのちの衆生まで、たゞ念仏ばかりこそ現当の祈祷とはなり候はめ。

◗496:10 善導和尚は弥陀の化身にて、ことに一切衆生をあはれみ給ひて、一切の聖教をかんがへて専修念仏をすゝめ給へるも、ひろく一切衆生のため也。方便の時節末法にあたりて、いまの教これ也。

◗496:12 されば无智の人のみにかぎらず、ひろく弥陀の本願をたのみて、あまねく善導の御心にしたがひて、念仏の一門をすゝめ候はんに、いかでか无智の人のみにかぎりて、有智の人をへだてゝ往生させじとはし候はんや。

◗496:15 もししからば、弥陀の本願にもそむき、善導の御心にもかなふべからず。しかれば、この辺にまうできて往生のみちをたづね候には、有智・无智を論ぜず、ひとへに専修念仏をすゝめ候なり。

◗497: 3 さやうに専修念仏を申しとゞめんとつかまつる人は、さきの世に念仏三昧得道の法門をきかずして、のちの世に又さだめて三悪道にかえるべきものゝ、しかるべくてさやうに申候也。そのゆへは、聖教にひろく見えて候也。

◗497: 5 これはすなはち、修行する事あるをみては毒心をおこして、方便してきおひてあだをなす。かくのごときの生盲闡提のともがらは、頓教を毀滅してながく沈淪す。大地微塵劫を超過すとも、いまだ三塗の身をはなれん事得べからずとゝき給へり。

◗497: 9 この文の心は、浄土をねがひ念仏を行ずる人を見ては、毒心をおこし、ひが事をたくみめぐらして、様々の方便をなして専修念仏の行をやぶり、あだをなして申とゞむるに候也。かくのごとくの人は、むまれてより仏法のまなこしゐて、善根のたねをうしなへる闡提人のともがらなり。この弥陀の名号をとなへて、ながき生死をはなれて常住の極楽に往生すべけれども、この教法をそしりほろぼして、このつみによりてながく三悪道にしづむ。かくのごとくの人は、大地微塵劫をすぐれども、ながく三塗の身をはなれん事あるべからずという也。

◗497:15 しかればすなはち、さやうにひが事を申さん人をば、かへりてあはれみ給ふべき也。さ程の罪人の申さんによりて、専修念仏に懈怠をなし、念仏往生にうたがひをなし不審をいたさん人は、いふにかひなき事にこそ候はめ。

◗498: 3 およそ弥陀に縁あさく往生時いたらぬ物は、きけども信ぜず、念仏のものを見てははらだち、こゑをきゝてはいかりをなして、あしき事也なんど申すは、経論にも見へざる事を申す也。御心をえさせ給ひて、いかに申すとも御心ばかりは御変改候べからず。

◗498: 6 あながちに信ぜざらん人をば御すゝめ候べからず。ほとけ、なをちからおよび給はず。いかにいはんや、凡夫のちからはおよぶまじく候。

◗498: 8 かゝる不信の衆生をおもへば、過去の父母・兄弟・親類なりとおぼしめし候て、慈悲をおこして、念仏申て極楽の上品上生にまいりてさとりをひらきて、生死に返りいりて誹謗不信の人をもむかえんと、おぼしめすべき事にて候也。このよしを御心え候べきなり。

◗498:12 一 雑行の人々、余の功徳を修せんには、財宝をあひ助成しておぼしめすべきやうは、これはこれ一向専修にて決定して往生すべき身也、他人のとをきみちをわが近き道ちに結縁せさせんとおぼしめすべき也。そのうゑに専修をさまたげ候はざらんは、結縁せんにとがなし。

◗499: 1 一 人々の堂をつくり、仏をつくり、経をかき、僧を供養せんをば、よくよく心をこたらずして信をおこして、かくのごとくの雑善根をも修せしめ給へと御すゝめ候べし。

◗499: 4 一 この世のいのりに、念仏の心をしらずして仏神にも申し、経をも誦し書き、堂をもつくらば、それもさきのごとく候べし。せめては又後世のためにせばこそ候はめ。その要なしとおほせ候べからず。専修をさふる行にもあらざりけりと、おぼしめし候べし。

◗499: 8 一 念仏を申す事、様々の義候へども、たゞ六字をとなふるばかりに一切はおさまりて候也。心には願をたのみ、口には名号をとなへて、手にはかずをとり、つねに心にかくるが、きわめたる決定の業にて候也。念仏の行は、もとより行住坐臥・時処諸縁をえらばず、身口の不浄をもきらはぬ行にて候へば、楽行往生とは申つたへて候也。

◗499:12 たゞしその中にも心をきよくして申すをば、第一の行と申候也。たゞ浄土を心にかくれば、心浄の行法にて候也。かやうに御すゝめ候べし。さやうにつねに申させ給はんをば、とかく申すべき様候はず。わが身もしかるべくて、往生このたびすべしとおぼしめし候べし。ゆめゆめこの心よくよくつよくならせ給べし。

◗500: 2 一 念仏の行を信ぜぬ人にあひて論じ、又あらぬ行の人々にむかひて執論候べか〔ら〕ず。あながちに別解・異学の人々を見ては、あなづりそしる事候まじ。いよいよ重罪の人にもなさん事、不便に候。

◗500: 4 おなじ心に極楽をねがひ念仏を申さん人をば、たとひ卑賤の人なりとも父母・師匠にもおとらずおぼしめすべし。今生の財宝のともしからんにも、ちからをくわへ給ふべし。

◗500: 6 さりながらも、すこしも念仏に心をかけ候はんをば、よくよくすゝめ給ふべく候。これも弥陀如来の御みやづかへとおぼしめし候べし。

◗500: 8 釈迦如来滅後よりこのかた、次第に小智小行にまかりなりて候。われもわれもと智恵ありがほに申す人々は、過にて候べし。せめては録内の経教をだにもきかず見ず、いかにいはんや、録のほかの経教を見ざる人の知恵ありがほに申すは、井のうちのかへるにゝたり。

◗500:11 随分に震旦・日本の聖教をとりあつめて、ひらきかんがへて候に、念仏を信ぜぬ人は、さきの世に重罪をつくりて地獄にひさしくありて、又地獄へはやく返るべき人也。たとひ千仏世にいでゝ、念仏はまたく往生の業にあらずとおしへ給ふとも信ずべからず。

◗500:14 これは釈迦如来よりはじめて、恒河沙の仏の証誠し給へる事なればとおぼしめして、御心ざし金剛よりもかたくして、一向専修は御変改候べからず。

◗501: 1 もし論じ申さん人をば、これへつかはして、たて申さんやうをきけとおほせ候べし。様々の要文をかきしるしてまいらすべく候へども、たゞこれにすぎ候まじ。

◗501: 3 又娑婆世界の人は、余の浄土をねがはん事は、弓なくして天の鳥をとり、足なくしてたかき木ずゑのはなをゝらんとせんがごとし。

◗501: 5 かならず専修念仏は現当のいのりとなり候也。これも経の説にて候也。又御うちの人々には九品の業を、人にしたがひて、はじめおわりたへ候ひぬべきやうに御すゝめ候べし。あなかしこ、あなかしこ。