◗561: 6 十二の問答 第二十

◗561: 7 問曰、八宗・九宗のほかに浄土宗をたつる事、自由の条かなと、余宗の人の申候をば、いかんが申し候べき。

◗561: 8 答。宗の名をたつる事は仏の説にあらず、みづから心ざすところの経教につきて、おしふる義をさとりきわめて、宗の名をば判ずる事也。諸宗の習みなもてかくのごとし。いま浄土宗の名をたつる事は、浄土の正依経につきて、往生極楽の義をさとりきわめておはします先達の、宗の名をばたて給へる也。宗のおこりをしらざるものゝ、左様の事をば申候也。

◗561:13 問曰、法華・真言等をば雑行にはいるべからずと人人の申候をば、いかゞこたへ候べき。

◗561:14 答。恵心先徳、一代聖教の要文をあつめて往生要集をつくり給へる中に十門をたつ。その第九の往生諸業門に、法華・真言等の諸大乗経をいれ給へり。諸行と雑行と、言異にして心おなじ。いまの難者は、恵心の先徳にまさるべからざるもの也。

◗562: 3 問曰、余仏・余経につきて善根を修せん人に、結縁助成し候はん事は雑行と申候べきか。

◗562: 4 答。わが心、弥陀ほとけの本願に乗じ、決定往生の信をとるうゑには、他の善根に結縁助成せん事は、またく雑行になるべからず、わが往生の助業となるべき也。他の善根を随喜讃嘆せよと釈し給へるをもて、心うべき事也。

◗562: 7 問曰、極楽に九品の差別の候事は、阿弥陀ほとけのかまへさせ給へる事にて候やらん。

◗562: 8 答。極楽の九品は弥陀の本願にあらず、四十八願の中にもなし。これは釈尊の巧言也。善人・悪人一所にむまるといはゞ、悪業のものども慢心をおこすべきがゆへに、九品の差別をあらせて、善人は上品にすゝみ、悪人は下品にくだると、とき給へる也。いそぎまいりてみるべし。

◗562:12 問曰、持戒の行者の念仏の数遍のすくなく候はんと、破戒の行人の念仏の数遍のおほく候はんと、往生のゝちの位の浅深いづれかすゝみ候べきや。

◗562:13 答。居てまします畳をおさへての給はく、この畳のあるにとりてこそ、やぶれたるかやぶれざるかといふ事はあれ。つやつやなからんたゝみをば、なにとか論ずべき。

◗562:15 末法の中には持戒もなく、破戒もなし、たゞ名字の比丘ばかりありと、伝教大師の末法灯明記にかき給へるうゑには、なにと持戒・破戒の沙汰をばすべきぞ。かゝるひら凡夫のためにおこし給へる本願なればとて、いそぎいそぎ名号を称すべし。

◗563: 5 問曰、念仏の行者等、日別の所作において、こゑをたてゝ申す人も候、又心に念じてかずをとる人も候、いづれかよく候べき。

◗563: 6 答。それは口にてとなふるも名号、心にて念ずるも名号なれば、いづれも往生の業とはなるべし。たゞし仏の本願は称名の願なるがゆへに、声をたてゝとなふべき也。

◗563: 8 このゆへに経には令声不絶具足十念とゝき、釈には称我名号下至十声との給へり。耳にきこゆる程は、高声念仏にとる也。さればとて、譏嫌をしらず、高声なるべきにはあらず、地体は声を出さんとおもふべき也。

◗563:12 問曰、日別の念仏の数遍、相続にいる程はいかんがはからひ候べき。

◗563:12 答。善導の御釈によるに、一万已上は相続にて候べし。たゞし一万遍をもいそぎ申して、さてその日をくらさん事はあるべからず。一万遍なりとも、一日一夜の所作とすべき也。総じては一食のあひだに三度ばかり思ひいださんは、よき相続にてあるべし。それは衆生の根性不同なれば、一準なるべからず。心ざしだにふかければ、自然に相続はせらるゝ也。

◗564: 3 問曰、礼讃の深心の中には十声一声、必得往生、乃至一念、无有疑心と釈し給へり、又疏の深心の中には念念不捨者、是名正定之業と釈し給へり。いづれかわが分にはおもひさだめ候べき。

◗564: 5 答。十声一声の釈は念仏を信ずる様、念念不捨者の釈は念仏を行ずる様也。かるがゆへに、信をば一念にむまるとゝりて、行をば一形にはげむべしとすゝめ給へる也。又大意は、一発心已後、誓畢此生无有退転。唯以浄土為期の釈を本とすべき也。

◗564: 9 問曰、本願の一念は、尋常の機にも臨終の機にもともに通寺候べきか。

◗564: 9 答。一念の願は、いのちつゞまりて二念におよばざる機のため也。尋常の機に通ずべくは、上尽一形の釈あるべからず。この釈をもて心うるに、かならずしも一念を本願といふべからず。

◗564:12 念念不捨者、是名正定之業、順比仏願故と釈し給へり。この釈は、数遍つもらんも本願とはきこへたるは、たゞ本願にあふ機の遅速不同なれば、上尽一形下至一念とおこし給へる本願也と心うべき也。かるがゆへに念仏往生の願とこそ、善導は釈し給へ。

◗565: 1 問曰、自力・他力の事は、いかんが心え候べき。

◗565: 1 答。源空は殿上へまいるべき器量にてはなけれども、上よりめせば二度までまいりたりき。これはわがまいるべきしなにてはなけれども、上の御ちから也。まして阿弥陀ほとけの御ちからにて、称名の願にこたへて来迎せさせ給はん事は、なんの不審かあるべき。

◗565: 4 わが身つみおもくて无智なれば、仏もいかにしてかすくひ給はんなんどおもはん物は、つやつや仏の願をもしらざる物也。かゝる罪人どもを、やすやすとたすけすくはん料に、おこし給へる本願の名号をとなへながら、ちりばかりもうたがふ心かあるまじき也。十方衆生のことばの中に、有智・无智、有罪・无罪、善人・悪人、持戒・破戒、男子・女人、三宝滅尽のゝちの百歳までの衆生、みなこもる也。

◗565: 9 かの三宝滅尽の時の念仏者と、当時の御房達とくらぶれば、当時の御房達は仏のごとし。かの時の人のいのちはたゞ十歳也。戒定慧の三学、たゞ名をだにもきかず、総じていふばかりなき物どもの来迎にあづかるべき道理をしりながら、わが身のすてられまいらすべき様をば、いかにしてか案じ出すべき。

◗565:13 たゞ極楽のねがはしくもなく、念仏の申されざらん事のみこそ、往生のさわりにてはあるべけれ。かるがゆへに他力本願ともいひ、超世の悲願ともいふ也。

◗566: 1 問曰、至誠等の三心を具し候べき様をば、いかんがおもひさだめ候べき。

◗566: 1 答。三心を具する事は、たゞ別の様なし。阿弥陀ほとけの本願に、わが名号を称念せば、かならず来迎せんとおほせられたれば、決定して引接せられまいらせんずるぞとふかく信じて、心に念じ口に称するに物うからず、すでに往生したる心ちして最後一念にいたるまでたゆまざるものは、自然に三心は具足する也。

◗566: 5 又在家の物どもはこれ程までおもはざれども、たゞ念仏申す物は極楽にむまるなればとて、つねに念仏をだにも申せば、そらに三心は具足する也。さればこそ、いふにかひなきものどもの中にも、神妙なる往生をばする事にてあれ。

◗566: 9 問曰、臨終の一念は百年の業にすぐれたりと申すは、平生の念仏の中に、臨終の一念ほどの念仏をば申しいたし候まじく候やらん。

◗566:10 答。三心具足の念仏は、をなじ事也。そのゆへは、観経にいはく、具三心者必生彼国といへり。必文字のあるゆへに、臨終の一念とおなじ事也。

◗566:13  この問答の問をば、進行集には禅勝房の問といへり。ある文には隆寛律師の問といへり。たづぬべし。