◗473:10 浄土宗略抄 第八

◗473:11 このたび生死をはなるゝみち、浄土にむまるるにすぎたるはなし。浄土にむまるゝおこなひ、念仏にすぎたるはなし。おほかたうき世をいでゝ仏道にいるにおほくの門ありといへども、おほき〔にわか〕ちて二門を出す。すなはち聖道門と浄土〔門と也。〕

◗473:14 はじめに聖道門といは、この娑婆世〔界にありな〕がら〔まどいを〕たち、さとりをひ〔ら〕く道也。これにつきて大乗の聖道あり小乗の聖道あり。大乗に又二あり、すなはち仏乗と菩薩乗と也。これらを総じて四乗となづく。

◗474: 1 たゞしこれらはみな、このごろわれらが身にたえたる事にあらず。このゆへに道綽禅師は、聖道の一種は、今時に証しがたしとの給へり。されば、おのおのゝおこなふやうを申して詮なし。たゞ聖道門は、聞とをくしてさとりがたく、まどひやすくしてわが分におもひよらぬみち也とおもひはなつべき也。

◗474: 6 つぎに浄土門といは、この娑婆世界をいとひすてゝ、いそぎて極楽にむまるゝ也。かのくにゝむまるゝ事は、阿〔弥〕陀仏〔の〕ちかひにて、人の善悪をえらばず、たゞほとけのちかひをた〔の〕みたのまざるによる也。〔こ〕のゆへに道綽は、浄土の一門のみありて、通入すべきみちなりとの給へり。

◗474: 9 さればこのごろ生死をはなれんと思はん人は、証しがたき聖道をすてゝ、ゆきやすき浄土をねがふべき也。

◗474:11 この聖道・浄土をば、難行道・易行道となづけたり。たとへをとりてこれをいふに、難行道はけわしきみちをかちにてゆくがごとし、易行道は海路をふねにのりてゆくがごとしといへり。あしなえ、目しゐたらん人は、かゝるみちにはむかふべからず。たゞふねにのりてのみ、むかひのきしにはつく也。

◗474:15 しかるにこのごろのわれらは、智恵のまなこしゐて、行法のあしおれたるとも〔が〕ら也。〔聖〕道難行のけ〔は〕しきみちには、総じてのぞみをたつべし。たゞ弥陀の本願のふねにのりて、生死のうみをわたり、極楽のきしにつくべき也。いまこのふねはすなはち弥陀の本願にたとふる也。

◗475: 3 その本願といは、弥陀のむかしはじめて道心をおこして、国王のくらひをすてゝ出家して、ほとけになりて衆生をすくはんとおぼしめしゝ時、浄土をまうけむために、四十八願をおこし給ひしなかに、第十八の願にいはく、もしわれほとけにならんに、十方の衆生、わがくにゝむまれんとねがひて、わが名号をとなふる事、しも十声にいたるまで、わが願力に乗じて、もしむまれずは、われ〔ほと〕けにならじと〔ち〕かひ給ひて、その願を〔おこなひあら〕はして、〔い〕ますでにほとけにな〔り〕て十劫をへ給へり。

◗475:10 されば善導の釈には、かのほとけ、いま現に世にましまして成仏し給へり。まさにしるべし、本誓重願むなしからず、衆生称念せばかならず往生する事を得との給へり。このことはりをおもふに、弥陀の本願を信じて念仏申さん人は、往生うたがふべからず。

◗475:13 よくよくこのことはりを思ひときて、いかさまにも、まづ阿弥陀仏のちかひをたのみて、ひとすじに念仏を申して、ことさとりの人の、とかくいひさまたげむにつきて、ほとけのちかひをうたがふ心ゆめゆめあるべからず。

◗476: 1 かやうに心えて、さきの聖道門はわが分にあらずと思ひすてゝ、この浄土門にいりて〔ひ〕とすぢにほとけのちかひをあふぎて、名号をとなふるを、浄土門の行者とは申す也。これを聖道・浄土の二門と申すなり。

◗476: 4 つぎに浄土門にいりておこなふべき行につきて申さば、心と行と相応すべき也。すなはち安心・起行となづく。

◗476: 5 その安心といは、心づかひのありさま也。すなはち観无量寿経に説ていはく、もし衆生ありて、かのくにゝむまれんと願ずるものは、三種の心をおこしてすなはち往生すべし。何等をか三とする。一には至誠心、二には深心、三には廻向発願心也。三心を具するものは、かならずかのくにゝむまるといへり。

◗476: 9 善導和尚〔この三心〕を〔釈〕しての給はく、はじめの至誠心〔といは、〕至といは真也、誠とい〔は〕実也。一切衆生の身口意業に修せんところの解行、かならず真実心のなかになすべき事をあかさんとおもふ。ほかには賢善精進の相を現じて、うちには虚仮をいだく事を得ざれ。

◗476:12 又内外明闇をきらはず、かならず真実をもちゐるがゆへに至誠心とゝかれたるは、すなはち真実心の心なり。真実といふは、身にふるまひ、口にいひ、心に思はん事も、うちむなしくしてほかをかざる心なきをいふなり。

◗476:15 詮じては、まことに穢土をいとひ浄土をねがひて、外相と内心と相応すべき也。ほかにはかしこき相を現じて、うちには悪をつくり、ほかには精進〔の〕相を現じて、うちには懈怠なる事なか〔れと〕いふ心〔也。か〕る〔がゆへ〕にほかには賢善精進の相を現じて、う〔ち〕に虚仮をいだく事なかれといへり。

◗477: 4 念仏を申さんについて、人目には六万・七万申すと披露して、ま事にはさ程も申さずや。又人の見るおりは、たうとげにして念仏申すよしを見へ、人も見ぬところには、念仏申さずなんどするやうなる心ばへ也。

◗477: 7 さればとて、わろからん事をもほかにあらはさんがよかるべき事にてはなし。たゞ詮ずるところは、まめやかにほとけの御心にかなはん事をおもひて、うちにま事をおこして、外相をば譏嫌にしたが〔ふべ〕き也。

◗477: 9 譏嫌にし〔た〕がふがよき事なれ〔ばとて、やが〕て内心のま事もやぶるゝまで〔ふる〕まはゞ、又至誠心かけたる心になりぬべし。たゞうちの心のま事にて、ほかをばとてもかくてもあるべき也。かるがゆへに至誠心となづく。

◗477:13 二に深心といは、すなはち善導釈しての給はく、深心とはふかく信ずる心也。これに二つあり。一には決定して、わが身はこれ煩悩を具足せる罪悪生死の凡夫也。善根薄少にして、広劫よりこのかたつねに三界に流転して、出離の縁なしと、ふかく信ずべし。

◗478: 1 二にはふかく、かの阿弥陀仏、四十八願をもて衆生を摂受し給ふ。すなはち名号をとなふる事、下十声にいたるまで、かのほとけの願力に乗じて、さだ〔め〕て往〔生〕を得と信じて、乃至一念もうた〔がふ心なきがゆ〕へに深〔心と〕なづく。

◗478: 4 又深心といは、決定〔し〕て心をた〔て〕ゝ、仏の教に順じて修行して、ながくうたがひをのぞきて、一切の別解・別行・異学・異見・異執のために、退失傾動せられざれといへり。

◗478: 6 この釈の心は、はじめにわが身の程を信じて、のちにはほとけのちかひを信ずる也。のちの信心のために、はじめの信をばあぐる也。そのゆへは、往生をねがはんもろもろの人、弥陀の本願の念仏を申しながら、わが身貪欲・瞋恚の煩悩をもおこし、十悪・破戒の罪悪をもつくるにおそれて、みだりにわが身をかろしめて、かえりてほとけの本願をうた〔が〕ふ。

◗478:11 善導は、かねてこの〔う〕たがひをかゞみて、二つの信心のやうをあ〔げ〕て、〔わ〕れらがごときの煩悩をもおこし、罪をもつくる凡夫〔な〕りとも、ふかく弥陀の本願をあふぎて念仏すれば、十声・一声にいたるまで、決定して往生するむねを釈し給へり。

◗478:14 ま事にはじめのわが身を信ずる様を釈し給はざりせば、われらが心ばへのありさまにては、いかに念仏申すとも、かのほとけの本願にかなひがたく、いま一念・十念に往生するといふは、煩悩をもおこさず、つみをもつくらぬめでたき人にてこそらるらめ。われらごときのともがらにてはよもあらじなんど、身の程思ひしられて、往生もたのみが〔た〕きまであ〔や〕うくおぼ〔へ〕まし候に、この〔二〕つ〔の〕信心を釈し給〔ひ〕たる事、いみじく身にしみておもふべき也。

◗479: 5 この釈を心えわけぬ人は、みなわが心のわろければ、往生はかなはじなんどこそは申あひたれ。そのうたがひをなすは、やがて往生せぬ心ばへ也。このむねを心えて、ながくうたがふ心のあるまじき也。心の善悪をもかへりみず、つみの軽重をも沙汰せず、たゞ口ちに南無阿弥陀仏と申せば、仏のちかひによりて、かならず往生するぞと決定の心をおこすべき也。

◗479: 9 その決定の心によりて、往生の業はさだまる也。往生は不定におもへば不定也、一定とおもへば一定する事也。詮じては、ふかく仏のちかひをたのみて、いかなるところをもきらはず、一〔定〕むかへ給ぞと信じて、うた〔が〕ふ心のなきを深心とは申候也。

◗479:12 いかなるとがをもきらはねばとて、法にまかせてふるまふべきにはあらず。されば善導も、不善の三業をば、真実心の中にすつべし。善の三業をば、真実心の中になすべしとこそは釈し給ひたれ。又善業にあらざるをば、うやまてこれをとをざかれ、又随喜せざれなんど釈し給ひたれば、心のおよばん程はつみをもおそれ、善にもすゝむべき事とこそは心えられたれ。

◗480: 2 たゞ弥陀の本誓の善悪をもきらはず、名号をとなふればかならずむかへ給ぞと信じ、名号の功徳のいかなるとがをも除滅して、一念・十念もかならず往生をうる事の、めで〔た〕き事をふかく信じて、うた〔がふ心〕一念〔も〕なかれ〔といふ心也。〕

◗480: 5 又一〔念に〕往生〔す〕ればとて、かならず〔しも〕一念にか〔ぎる〕べからず、弥陀の本願の心は、名号をとなえん事、もしは百年にても、十・二十年にても、もしは四、〔五年にて〕も、もしは一、二年にても、もし〔は〕七日・一日、十声までも、信心をおこして南無阿弥陀仏と申せば、かならずむかへ給なり。

◗480: 9 総じてこれをいへば、上は念仏申さんと思ひはじめたらんより、いのちおはるまでも申也。中は七日・一日も申し、下は十声・一声までも弥陀の願力なれば、かならず往生すべしと信じて、いくら程こそ本願なれとさだめず、〔一〕念までも定めて往生すと思ひて、退〔転な〕くいのちおはらんまで〔申〕すべき也。

◗480:13 又まめやかに往生の心ざしありて、弥陀の本願をたのみて念仏申さん人、臨終のわろき事は何事にかあるべき。そのゆへは、仏の来迎し給ふゆへは、行者の臨終正念のため也。それを心えぬ人は、みなわが臨終正念にて念仏申したらんおりぞ、ほとけはむかへ給ふべきとのみ心えたるは、仏の本願を信ぜず、経の文を心えぬ也。

◗481: 2 称讃浄土経には、慈悲をもてくわへたすけて、心をしてみだらしめ給はずととかれたる也。たゞの時よくよく申しおきたる念仏によりて、〔か〕ならずほとけは来迎し給ふ也。仏の〔き〕たりて現じ給へ〔る〕を見〔て、〕称念に〔は住〕すと〔申〕すべき〔也。そ〕れに〔さき〕の念仏をばむなしく思〔ひ〕な〔し〕て、よしなき臨終正念をのみいのる人のおほくある、ゆゝしき僻胤の事也。されば、仏の本願を信ぜん人は、かねて臨終をうたがふ心あるべからず。当時申さん念仏をぞ、いよいよ心をいたして申すべき。

◗481: 8 いつかは仏の本願にも、臨終の時念仏申たらん人をのみ、むかへんとはたて給ひたる。臨終の念仏にて往生すと申事は、もとは往生をもねがはずして、ひとへにつみをつくりたる悪人の、すでに死なんとする時、はじめて善知識のすゝめにあひて、念仏し〔て〕往生すとこそ、観経にもとかれたれ。

◗481:12 〔もと〕より念仏を信ぜん人は、臨終の沙汰をば〔あ〕ながちにすべき様もなき事也。仏の来迎一定ならば、臨終の称念は、又一定とこそはおもふべきことはりなれ。この心をよくよく心をとゞめて、心うべき事也。

◗481:15 又別解・別行の人にやぶられざれといは、さとりことに、おこなひことならん人のいはん事につきて、念仏をもすて、往生をもうたがふ心なかれといふ事也。

◗482: 2 さとりことなる人と申すは、天臺・法相等の八宗の学匠なり。行ことなる人と申すは、真言・止観の一切の行者也。これらは聖道門をならひおこなふ也。浄土門の解行にはことなるがゆへに、別解・別行となづくる也。

◗482: 4 又総じておなじく念仏を申す人なれども、弥陀の本願をばたのま〔ずし〕て、自力をは〔げ〕みて〔念〕仏ばかりにてはいかゞ往生すべき。〔異功〕徳をつくり、こと仏に〔も〕つかへて、ちからをあはせてこそ往生程の大事をばとぐべけれ。たゞ阿弥陀仏ばかりにては、かなはじものをなんどうたがひをなし、いひさまたげん人のあらんにも、げにもと思ひて、一念もうたがふ心なくて、いかなることはりをきくとも、往生決定の心をうしなふ事なかれと申す也。

◗482:10 人にいひやぶらるまじきことはりを、善導こまかに釈し給へり。心をとりて申さば、たとひ仏ましまして、十方世界にあまねくみちみちて、光をかゞやかし舌をのべて、煩悩罪悪の凡夫、念仏して一定往生すといふ事、ひが事也。信ずべからずとの給ふとも、それによりて、一念もうたがふべからず。

◗482:14 そ〔のゆへは、仏はみな同心〕に衆生を引導し給に、すなは〔ち〕まづ阿弥陀仏、浄土をまうけて、願をおこしての給はく、十方衆生、わが国にむまれんとねがひて、わが名号をとなへんもの、もしむまれずは正覚をとらじとちかひ給へるを、釈迦仏この世界にいでゝ、衆生のためにかの仏の願をとき給へり。

◗483: 2 六方恒沙の諸仏は、舌相を三千世界におほふて、虚言せぬ相を現じて、釈迦仏の弥陀の本願をほめて、一切衆生をすゝめて、かのほとけの名号をとなふれば、さだめて往生すとの給〔へる〕は、決定にしてうたがひなき事也。一切〔衆生み〕なこの事を信ず〔べしと〕証誠し〔給へり。〕

◗483: 6 かく〔のごとく〕一切諸仏、一仏ものこらず、同心に一切凡夫念仏して、決定して往生すべきむねをすゝめ給へるうゑには、いづれの仏の又往生せずとはの給ふべきぞといふことはりをもて、仏きたりての給ふともおどろくべからずとは申す也。

◗483: 9 仏なをしかり、いはんや声聞・縁覚をや、いかにいはんや、凡夫をやと心えつれば、一度この念仏往生を信じてんのちは、いかなる人、とかくいひさまたぐとも、うたがふ心あるべからずと申す事也。これを深心とは申すなり。

◗483:13 三に廻向発願心といは、善導これを釈しての給はく、過去およ〔び〕今生の身口意業に修〔す〕るところの世出世の善根、および他の身口意業に修するところの世出世の善根を随喜して、この自他所修の善根をもて、ことごとく真実深心のなかに廻向して、かのくににむまれんとねがふ也。かるがゆへに廻向発願心となづくる也。又廻向発願してむまるといは、かならず決定して、真実心の中に廻向して、むまるゝ事をうる思ひをなづくる也。この心ふかくして、なをし金剛のごとくして、一切の異見・異学・別解・別行の人のために動乱破壊せられざれといへり。

◗484: 5 この釈の心は、まづわが身につきて、前世にもつくりとつくりたらん功徳を、みなことごとく極楽に廻向して、往生をねがふ也。わが身の功徳〔の〕みならず、一切凡聖の功徳なり。凡といは、凡夫のつくりたらん功徳をも、聖といは、仏・菩薩のつくり給はん功徳をも、随喜すればわが功徳となるをも、みな極楽に廻向して、往生をねがふ也。

◗484: 9 詮ずるところ、往生をねがふよりほかに、異事をばねがふまじき也。わが身にも人の身にも、この界の果報をいのり、又おなじく後世の事なれども、極楽ならぬ浄土にむまれんともねがひ、もしは人中・天上にむまれんともねがひ、かくのごとくかれこれに廻向する事なかれと也。

◗484:12 もしこのことはりを思ひさだめざらんさきに、この土の事をもいのり、あらぬかたへ廻向したらん功徳をもみなとり返して、いまは一すぢに極楽に廻向して往生せんとねがふべき也。

◗484:15 一切の功徳をみな極楽に廻向せよといへばとて、又念仏のほかにわざと功徳をつくりあつめて廻向せよといふにはあらず。たゞすぎぬるかたの功徳をも、今は一向に極楽に廻向し、このゝちなりとも、おのづからたよりにしたがひて僧をも供養し、人に物をもほどこそあたへたらんをも、つくらんにしたがひて、みな往生のために廻向すべしといふ心也。

◗485: 4 この心金剛のごとくして、あらぬさとりの人におしへられて、かれこれに廻向する事なかれといふ也。金剛はいかにもやぶれぬものなれば、たとへにとりて、この心を廻向発願してむまると申也。

◗485: 7 三心のありさま、あらあらかくのごとし。この三心を具してかな〔ら〕ず往生す。もし一心もかけぬれば、むまるゝ事をえずと、善導は釈し給ひたれば、もともこの心を具足すべき也。

◗485: 9 しかるにかやうに申たつる時は、別々〔に〕して事々しきやうなれども、心えとげばやすく具〔し〕ぬべき心也。詮じては、まことの心ありて、ふかく仏のちかひをたのみて、往生をねがはんずる心也。深く浅き事こそかはりめありとも、たれも往生をもとむる程の人は、さ程の心なき事やはあるべき。

◗485:13 かやうの事は疎く思へば大事におぼえ、とりよりて沙汰すればさすがにやすき事也。かやうにこまかに沙汰し、しらぬ人も具しぬべく、又よくよくしりたる人もかくる事ありぬべし。さればこそ、いやしくおろかなるものゝ中にも往生する事もあり、いみじくたとげなるひじりの中にも臨終わろく往生せぬもあれ。

◗486: 2 されども、これを具足すべき様をもとくとく心えわけて、わが心に具したりともしり、又かけたりとも思はんをば、かまへてかまへて具足せんとはげむべきことなり。これを安心となづくる也。これぞ往生する心のありさまなる。これをよくよく心えわくべきなり。

◗486: 6 次に起行といは、善導の御心によらば、往生の行おほしといへども、おほきにわかちて二とす。一には正行、二には雑行也。

◗486: 7 正行といはこれに又あまたの行あり。読誦正行・観察正行・礼拝正行・称名正行・讃歎供養正行、これらを五種の正行となづく。讃嘆と供養とを二行とわかつ時には、六種の正行とも申也。

◗486: 9 この正行につきて、ふさねて二とす。一には一心にもはら弥陀の名号をとなへて、行住坐臥によ〔る・〕ひるわするゝ事なく念々にすてざるを、正定の業となづく、かのほとけの願に順ずるがゆへにといひて、念仏をもてまさしくさだめたる往生の業にたてゝ、もし礼誦等によるをばなづけて助業とすといひて、念仏のほかに阿弥陀仏を礼し、もしは三部経をよみ、もしは極楽のありさまを観ずるも、讃嘆供養したてまつる事も、みな称名念仏をたすけんがためなり。まさしくさだめたる往生の業は、たゞ念仏ばかりといふ也。

◗487: 1 この正と助とをのぞきて、ほかの諸行をば、布施をせんも、戒をたもたんも、精進ならんも、禅定ならんも、かくのごとくの六度万行、法花経をよみ、真言をおこなひ、もろもろのおこなひをば、ことごとくみな雑行となづく。

◗487: 4 たゞ極楽に往生せんとおもはゞ、一向に称名の正定業を修すべき也。これすなはち弥陀本願の行なるがゆへに、われらが自力にて生死をはなれぬべくは、かならずしも本願の行にかぎるべからずといへども、他力によらずは往生をとげがたきがゆへに、弥陀の本願のちからをかりて、一向に名号をとなへよと、善導はすゝめ給へる也。

◗487: 8 自力といは、わがちからをはげみて往生〔を〕もとむる也。他力といは、たゞ仏のちからをたのみたてまつる也。このゆへに正行を行ずるものをば、専修の行者といひ、雑行を行ずるをば、雑修の行者と申也。

◗487:11 正行を修するは、心つねにかの国に親近して憶念ひまなし。雑行を行ずるものは、心つねに間断す、廻向してむまるゝ事をうべしといへども、疎雑の行となづくといひて、極楽にうとき行といへり。

◗487:13 又専修のものは十人は十人ながらむまれ、百人は百人ながらむまる。なにをもてのゆへに。ほかに雑縁なくして称念をうるがゆへに、弥陀の本願と相応するがゆへに、釈迦の教に順ずるがゆへ也。雑修のものは、百人には一、二人むまれ、千人には四、五人むまる。なにをもてのゆへに。弥陀の本願と相応せざるがゆへに、釈迦の教に順ぜざるがゆへに、憶想間断するがゆへに、名利と相応するがゆへに、みづからもさへ人の往生をもさふるがゆへにと釈し給ひたれば、

◗488: 4 善導を信じて浄土宗にいらん人は、一向に正行を修して、日々の所作に、一万・二万乃至五万・六万・十万をも、器量のたへむにしたがひて、いくらなりともはげみて申すべきなりとこそ心えられたれ。

◗488: 7 それにこれをきゝながら、念仏のほかに余行をくわふる人のおほくあるは、心えられぬ事也。そのゆへは、善導のすゝめ給はぬ事をばすこしなりともくわふべき道理、ゆめゆめなき也。すゝめ給へる正行をだにもなをものうき身にて、いまだすゝめ給はぬ雑行をくわふべき事は、まことしからぬかたもありぬべし。

◗488:11 又つみつくりたる人だにも往生すれば、まして功徳なれば法花経なんどをよまんは、なにかはくるしかるべきなんど申す人もあり。それらはむげにきたなき事也。往生をたすけばこそいみじからめ、さまたげにならぬばかりを、いみじき事とてくわへおこなはん事は、なにかは詮あるべき。

◗488:14 悪をば、されば仏の御心にこのみてつくれとやすゝめ給へる、かまえてとゞめよとこそいましめ給へども、凡夫のならひ、当時のまどひにひかれて悪をつくる事はちからおよばぬ事なれば、慈悲をおこしてすて給はぬにこそあれ。まことに悪をつくる人のやうに、余行どものくわへたがらんは、ちからおよばず。

◗489: 3 たゞし経なんどをよまん事を、悪つくるにいひならべて、それもくるしからねば、ましてこれもなんどゝいはんは不便の事也。ふかき御のりもあしく心うるものにあひぬれば、返りて物ならずあさましくかなしき事也。たゞあらぬさとりの人の、ともかくも申さん事をばきゝいれずして、すゝみぬべからん人をばこしらへすゝむべし。

◗489: 7 さとりたがひてあらぬさまならん人なんどに、論じあふ事なんどは、ゆめゆめあるまじき事也。たゞわが身一人、まづよくよく往生をねがひて、念仏をはげみて、位たかく往生して、いそぎ返りきたりて、人々を引導せんとおもふべき也。

◗489:11 又善導の往生礼讃に、問ていはく、阿弥陀仏を称念礼観するに、現世にいかなる功徳利益かある。こたへてい〔は〕く、阿弥陀仏をとなふる事一声すれば、すなはち八十億劫の重罪を除滅す。

◗489:13 又十往生経にいはく、もし衆生ありて、阿弥陀仏を念じて往生をねがふものは、かのほとけすなはち二十五の菩薩をつかはして、行者を護念し給ふ。もしは行、もしは坐、もしは住、もしは臥、もしはよる、もしはひる、一切の時、一切のところに、悪鬼・悪神をしてそのたよりをえしめ給はずと。

◗490: 2 又観経にいふごときは、阿弥陀仏を称念して、かのくにゝ往生せんとおもへば、かの仏すなはち无数の化仏、无数の化観音・勢至菩薩をつかはして、行者を護念し給ふ。さきの二十五の菩薩の、百重千重に行者を囲繞して、行住坐臥をとはず、一切の時処に、もしはひるもしはよる、つねに行者をはなれ給はずと。

◗490: 6 又いはく、弥陀を念じて往生せんとおもふものは、つねに六方恒沙等の諸仏のために護念せらる。かるがゆへに護念経となづく。いますでにこの増上縁の誓願のたのむべきあり。もろもろの仏子等、いかでか心をはげまざらんやといへり。

◗490: 9 かの文の心は、弥陀の本願をふかく信じて、念仏して往生をねがふ人をば、弥陀仏よりはじめたてまつりて、十方の諸仏・菩薩、観音・勢至・无数の菩薩、この人を囲繞して、行住坐臥、よる・ひるをもきらはず、かげのごとくにそいて、もろもろの横悩をなす悪鬼・悪神のたよりをはらひのぞき給ひて、現世にはよこさまなるわづらひなく安穏にして、命終の時は極楽世界へむかへ給ふ也。

◗490:14 されば、念仏を信じて往生をねがふ人、ことさらに悪魔をはらはんために、よろづのほとけ・かみにいのりをもし、つゝしみをもする事は、なじかはあるべき。いはんや、仏に帰し、法に帰し、僧に帰する人には、一切の神王、恒沙の鬼神を眷属として、つねにこの人をまぼり給ふといへり。しかれば、かくのごときの諸仏・諸神、囲繞してまぼり給はんうゑは、又いづれの仏・神ありてなやまし、さまたぐる事あらん。

◗491: 4 又宿業かぎりありて、うくべからんやまひは、いかなるもろもろのほとけ・かみにいのるとも、それによるまじき事也。いのるによりてやまひもやみ、いのちものぶる事あらば、たれかは一人としてやみしぬる人あらん。いはんや、又仏の御ちからは、念仏を信ずるものをば、転重軽受といひて、宿業かぎりありて、おもくうくべきやまひを、かろくうけさせ給ふ。いはんや、非業をはらひ給はん事ましまさゞらんや。

◗491: 9 されば念仏を信ずる人は、たとひいかなるやまひをうくれども、みなこれ宿業也。これよりもおもくこそうくべきに、ほとけの御ちからにて、これほどもうくるなりとこそは申す事なれ。われらが悪業深重なるを滅して極楽に往生する程の大事をすらとげさせ給ふ。ましてこのよにいか程ならぬいのちをのべ、やまひをたすくるちからましまさゞらんやと申す事也。

◗491:14 されば後生をいのり、本願をたのむ心もうすき人は、かくのごとく囲繞にも護念にもあづかる事なしとこそ、善導はの給ひたれ。おなじく念仏すとも、ふかく信をおこして、穢土をいとひ極楽をねがふべき事也。かまへて心をとゞめて、このことはりをおもひほどきて、一向に信心をいたして、つとめさせ給ふべき也。

◗492: 2 これらはかやうにこまかに申のべたるは、わたくしのことばおほくして、あやまりやあらんと、あなづりおぼしめす事ゆめゆめあるべからず。ひとへに善導の御ことばをまなび、ふるき文釈の心をぬきいだして申す事也。うたがひをなす心なくて、かまへて心をとゞめて御らんじときて、心えさせ給ふべき也。あなかしこ、あなかしこ。この定に心えて、念仏申さんにすぎたる往生の義はあるまじき事にて候なり。

◗492: 9 本にいはく、この書はかまくらの二位の禅尼の請によて、しるし進ぜらるゝ書也 云云。