©863: 5 法然聖人御説法事

©863: 6 経証の中に、仏の功徳をとけるに无量の身あり。あるいは総じて一身をとき、あるいは二身をとき、あるいは半三身をとき、乃至華厳経には十身功徳とけり。いま且真身・化身の二身をもて、弥陀如来の功徳を讃嘆したてまつらむ。

©863: 9 この真化二身をわかつこと、双巻経の三輩の文の中にみえたり。

©863: 9 まづ真身といふは、真実の身なり。弥陀如来の因位のとき、世自在王仏のみもとにして四十八願をおこしてのち、兆載永劫のあひだ、布施・持戒・忍辱・精進等の六度万行を修して、あらはしえたまへるところは、修因感果の身なり。

©863:12 観経にときていはく、その身量、六十万億那由他恒河沙由旬なり。眉間の自毫、右にめぐりて五須弥山のごとしと。その一須弥山のたかさ、出海・入海おのおの八万四千那由他なり。また青蓮慈悲の御まなこは、四大海水のごとくして清白分明なり。身のもろもろの毛孔より光明をはなちたまふこと、須弥山のごとし。うなじにめぐれる円光は、百億の三千大千世界のごとし。

©864: 2 かくのごとくして八万四千の相まします。一一の相におのおの八万四千の好あり、一一の好にまた八万四千の光明まします。その一一の光明、あまねく十方世界の念仏の衆生を摂取してすてたまはず。御身のいろは、夜摩天の閻浮檀金のいろのごとしといへり。

©864: 6 これ弥陀一仏にかぎらず、一切諸仏はみな黄金のいろなり。もろもろのいろの中には白色をもて本とすとまふせば、仏の御いろも白色なるべしといゑども、そのいろなほ損ずるいろなり。たゞ黄金のみあて不変のいろなり。このゆへに、十方三世の一切の諸仏、みな常住不変の相をあらわさむがために、黄金のいろを現じたまへるなり。これ観仏三昧経のこゝろなり。

©864:10 たゞし真言宗の中に五種の法あり。その本尊の身色、法にしたがふて各別なり。しかれども暫時方便の化身なり、仏の本色にはあらず。

©864:12 このゆへに、仏像をつくるにも、白檀の採色なれども功徳をえざるにあらずといへども、金色につくりつれば、すなわち決定往生の業因なり。

©864:14 即生の功徳、略を存ずるにかくのごとし。即生乃至三生に必得往生といへり。これ弥陀如来の真身の功徳、略を存ずるにかくのごとし。

©865: 2 次に化身といふは、无而欻有を化といふ。すなわち機にしたがふときに応じて身量を現ずること、大小不同なり。経に、あるいは大身を現じて虚空にみつ、あるいは小身を現じて丈六、八尺といへり。化身につきて多種あり。

©865: 4 まづ円光の化仏。経にいはく、円光のなかにおいて、百万億那由他恒河沙の化仏まします。一一の化仏に衆多无数の化菩薩をもて、侍者とせりといへり。

©865: 7 つぎに摂取不捨の化仏。光明遍照、十方世界、念仏衆生、摂取不捨といふは、この真仏の摂取なり。このほかに化仏の摂取あり。卅六万億の化仏、おのおの真仏とともに十方世界の念仏衆生を摂取したまふといへり。

©865: 9 次に来迎引接の化仏。九品の来迎におのおの化仏まします。品にしたがふて多少あり。上品上生の来迎には、真仏のほかに无数の化仏まします。上品中生には、千の化仏まします。上品下生には、五百の化仏まします。乃至かくのごとく次第におとりて、下品上生には、真仏は来迎したまはず、たゞ化仏と化観音・勢至とをつかはす。その化仏の身量、あるいは丈六、あるいは八尺なり。化菩薩の身量もそれにしたがふて、下品中生は、天華の上に化仏・菩薩ましまして、来迎したまふといへり。下品下生は、命終してのち、金蓮華をみる。猶如日輪住其人前といへり。

©866: 2 文のごとくは、化仏の来迎もなきやうにみえたれども、善導の御心は、観経の疏の十一門の義によらば、第九門に命終のとき、聖衆の迎接したまふ不同、去時の遅疾をあかすといへり。またいまこの十一門の義は、九品の文に約対せり。一一の品のなかに、みなこの十一ありといへり。しかれば、下品下生にも来迎あるべきなり。しかるを五逆の罪人、そのつみおもきによりて、まさしく化仏・菩薩をみることあたはず、たゞわが座すべきところの金蓮華ばかりをみるなり。あるいはまた文に隠顕あるなり。

©866: 8 次にまた十方の行者の本尊のために、小身を現じたまへる化仏あり。

©866: 9 天竺の鶏頭摩寺の五通の菩薩、神足通をして極楽世界にまうでて、仏にまふしてまうさく、娑婆世界の衆生、往生の行を修せむとするに、その本尊なし。仏、ねがわくは、ために身相を現じたまへと。仏、すなわち菩薩の請におもむきて、樹の上に化仏五十体を現じたまへり。菩薩、すなわちこれをうつして、よにひろめたり。鶏頭摩寺の五通の菩薩の曼陀羅といへる、すなわちこれなり。

©866:14 また智光の曼陀羅とて、世間に流布したる本尊あり。その因縁は人つねにしりたることなり、つぶさにまふすべからず。日本往生伝をみるべし。

©867: 1 また新生の菩薩を教化し、説法せむがために、化して小身を現じたまへることまします。これはこれ、弥陀如来の化身の功徳、また略してかくのごとし。

©867: 4 いまこの造立せられたまへる仏は、祇薗精舎の風をつたへて三尺の立像をうつし、最後終焉のゆふべを期して来迎引接につくれり。おほよそ仏像を造画するに種種の相あり。あるいは説法講堂の像あり、あるいは池水沐浴の像あり、あるいは菩提樹下成等正覚の像あり、あるいは光明遍照摂取不捨の像あり。かくのごときの形像を、もしはつくり、もしは画したてまつる。みな往生の業なれども、来迎引接の形像は、なほその便宜をえたるなり。

©867: 9 かの尽虚空界の荘厳をみ、転妙法輪の音声をきゝ、七宝講堂のみぎりにのぞみ、八功徳池のはまにあそび、おほよそかくのごとく種種微妙の依正二報をまのあたり視聴せむことは、まづ終焉のゆふべに聖衆の来迎にあづかりて、決定してかのくにに往生してのうえのことに候。しかれば、ふかく往生極楽のこゝろざしあらむ人は、来迎引接の形像をつくりたてまつりて、すなわち来迎引接の誓願をあおぐべきものなり。

©867:14 その来迎引接の願といふは、すなわちこの四十八願の中の第十九の願なり。人師これを釈するに、おほくの義あり。

©868: 1 まづ臨終正念のために来迎したまへり。おもはく、病苦みをせめて、まさしく死せむとするときには、かならず境界・自体・当生の三種の愛心をおこすなり。しかるに阿弥陀如来、大光明をはなちて行者のまへに現じたまふとき、未曽有の事なるがゆへに、帰敬の心のほかに他念なくして、三種の愛心をほろぼして、さらにおこることなし。かつはまた仏、行者にちかづきたまひて、加持護念したまふがゆへなり。

©868: 6 称讃浄土経に慈悲加祐して、こゝろをしてみだらざらしむ。すでに命をすておはりてすなわち往生をえ、不退転に住すといへり。阿弥陀経に阿弥陀仏、もろもろの聖衆とそのまへに現ぜむ。この人おわらむとき、心顛倒せずして、すなわち阿弥陀仏国土に往生をえむととけり。令心不乱と心不顛倒とは、すなわち正念に住せしむる義なり。

©868:11 しかれば、臨終正念なるがゆへに来迎したまふにはあらず、来迎したまふがゆへに臨終正念なりといふ義、あきらかなり。在生のあひだ往生の行成就せむひとは、臨終にかならず聖衆来迎をうべし。来迎をうるとき、たちまちに正念に住すべしといふこゝろなり。

©868:14 しかるにいまのときの行者、おほくこのむねをわきまえずして、ひとへに尋常の行においては怯弱生じて、はるかに臨終のときを期して正念をいのる、もとも僻韻なり。

©869: 1 しかれば、よくよくこのむねをこゝろえて、尋常の行業において怯弱のこゝろをおこさずして、臨終正念において決定のおもひをなすべきなり。これはこれ、至要の義なり。きかむ人、こゝろをとゞむべし。この臨終正念のために来迎すといふ義は、静慮院の静照法橋の釈なり。

©869: 6 次に道の先達のために来迎したまふといへり。あるいは往生伝に、沙門志法が遺書にいはく、

©869: 8  我在生死海 幸値聖船筏 我所顕真聖 来迎卑穢質

©869: 9  若忻求浄土 必造画形像 臨終現其前 示道路摂心

©869:10  念念罪漸尽 随業生九品 其所顕聖衆 先讃新生輩
 仏道楽増進 云云

©869:12 これすなわち、この界にして造画するところの形像、先達となりて浄土におくりたまふ証拠なり。また薬師経をみるに、浄土をねがふともがら、行業いまださだまらずして、往生のみちにまどふことあり。

©869:14 すなわち文にいはく、よく受持八分斉戒あらむ。あるいは一年をへ、あるいはまた三月受持せむ。まなぶところ、この善根をもて西方極楽世界无量寿仏のみもとにむまれむと願じて、正法を聴聞すれども、いまださだまらざるもの、もし世尊薬師瑠璃光如来の名号をきかむ。命終のときにのぞみて、八菩薩あて神通に乗じてきたりて、その道路をしめさむ。すなわちかの界にして、種種の雑色衆宝華の中に自然に化生すといへり。もしかの八菩薩その道路をしめさずは、ひとり往生することえがたきにや。

©870: 6 これをもておもふにも、弥陀如来もろもろの聖衆とともに行者のまへに現じてきたりて迎接したまふも、みちびきて道路をしめしたまはむがためなりといふ義、まことにいはれたることなり。娑婆世界のならひも、みちをゆくにはかならず先達といふものを具する事なり。これによて御廟の僧正は、この来迎の願おば現前導生の願となづけたまへり。

©870:11 次に対治魔事のために来迎すといふ義あり。道さかりなれば、魔さかりなりとまふして、仏道修行するには、かならず魔の障難のあひそふなり。

©870:12 真言宗の中には、誓心決定すれば、魔宮振動すといへり。

©870:13 天台止観の中には、四種三昧を修行するに、十種の境界おこる中に魔事境来といへり。

©870:14 また菩薩、三祇百劫の行すでになりて正覚をとなふるときも、第六天の魔王きたりて種種に障せり。

©871: 1 いかにいはむや、凡夫具縛の行者、たとひ往生の行業を修すといふとも、魔の障難を対治せずは、往生の素懐をとげむことかたし。

©871: 2 しかるに阿弥陀如来、无数の化仏・菩薩聖衆に囲繞せられて、光明赫奕として行者のまへに現じたまふときには、魔王もこゝにちかづき、これを障することあたはず。しかればすなわち、来迎引接は魔障を対治せむがためなり。

©871: 5 来迎の義、略を存ずるにかくのごとし。これらの義につきておもひ候にも、おなじく仏像をつくらむには、来迎の像をつくるべきとおぼえ候なり。

©871: 7 仏の功徳、大概かくのごとし。

©871: 9 次に三部経は、いま三部経となづくることは、はじめてまふすにあらず、その証これおほし。

©871:10 いはく大日三部経は、大日の経・金剛頂経・蘇悉地経等これなり。弥勒の三部経、上生経・下生経・成仏経等これなり。鎮護国家の三部経は、法華経・仁王経・金光明経等これなり。法華の三部経、无量義経・法華経・普賢経等これなり。これすなわち、三部経となづくる証拠なり。

©871:14 いまこの弥陀の三部経は、ある人師のいはく、浄土の教に三部あり。いはく双巻无量寿経・観无量寿経・阿弥陀経等これなり。これによて、いま浄土の三部経となづくるなり。あるいはまた弥陀の三部経ともなづく。

©872: 2 またある師のいはく、かの三部経に鼓音声経をくわえて四部となづくといへり。

©872: 3 おほよそ諸経の中に、あるいは往生浄土の法をとくあり、あるいはとかぬ経あり。華厳経にはこれをとけり、すなわち四十華厳の中の普賢の十願これなり。大般若経の中にすべてこれをとかず。法華経の中にこれをとけり、すなわち薬王品の即往安楽世界の文これなり。涅槃経にはこれをとかず。また真言宗の中には、大日経・金剛頂経に蓮華部にこれとくといゑども、大日の分身なり。別てとけるにはあらず。もろもろの小乗経にはすべて浄土をとかず。

©872: 9 しかるに往生浄土をとくことは、この三部経にはしかず。かるがゆへに浄土の一宗には、この三部経をもてその所縁とせり。

©872:11 またこの浄土の法門において宗の名をたつること、はじめてまふすにあらず、その証拠これおほし。

©872:12 少々これをいださば、元暁の遊心安楽道に、浄土宗意、本為凡夫、兼為聖人也といへる、その証なり。かの元暁は華厳宗の祖師なり。慈恩の西方要決に、依此一宗といえるなり、またその証なり。かの慈恩は法相宗の祖師なり。迦才の浄土論には、此一宗窃要路たりといへる、またその証なり。善導観経の疏に、真宗叵遇といへる、またその証なり。かの迦才・善導は、ともにこの浄土一宗をもはらに信ずる人なり。自宗・他宗の釈すでにかくのごとし。

©873: 3 しかのみならず、宗の名をたつることは、天台・法相等の諸宗、みな師資相承による。しかるに浄土宗に師資相承血脈次第あり。いはく菩提流支三蔵・恵寵法師・道場法師・曇鸞法師・法上法師・道綽禅師・善導禅師・懐感禅師・小康法師等なり。菩提流支より法上にいたるまでは、道綽の安楽集にいだせり。

©873: 7 自他宗の人師、すでに浄土一宗となづけたり。浄土宗の祖師、また次第に相承せり。これによて、いま相伝して浄土宗となづくるものなり。

©873: 9 しかるを、このむねをしらざるともがらは、むかしよりいまだ八宗のほかに浄土宗といふことをきかずと難破することも候へば、いさゝかまふしひらき候なり。

©873:11 おほよそ諸宗の法門、浅深あり、広狭あり。すなわち真言・天台等の諸大乗宗は、ひろくしてふかし。倶舎・成実等の小乗宗は、ひろくしてあさし。この浄土宗は、せばくしてあさし。しかれば、かの諸宗は、いまのときにおいて機と教と相応せず。教はふかし機はあさし。教はひろくして機はせばきがゆへなり。たとへば韻たかくしては、和することすくなきがごとし。またちゐさき器に大なるものをいるゝがごとし。

©874: 1 たゞこの浄土の一宗のみ、機と教と相応せる法門なり。かるがゆへにこれを修せばかならず成就すべきなり。しかればすなわち、かの不相応の教においては、いたはしく身心をついやすことなかれ。たゞこの相応の法に帰して、すみやかに生死をいづべきなり。

©874: 5 今日講讃せられたまへるところは、この三部の中の双巻无量寿経と阿弥陀経となり。

©874: 6 まづ无量寿経には、はじめに弥陀如来の因位の本願をとく、次にはかの仏の果位の二報荘厳をとけり。しかれば、この経には阿弥陀仏の修因感果の功徳をとくなり。乃至 一一の本誓悲願、一一の願成就の文にあきらかなり。つぶさに釈するにいとまあらず。

©874: 9 その中に衆生往生の因果をとくといふは、すなわち念仏往生の願成就の諸有衆生聞其名号の文、および三輩の文これなり。もし善導の御こゝろによらば、この三輩の業因について正雑の二行をたてたまへり。正行についてまた二あり、正定・助業なり。三輩ともに一向専念といへる、すなわち正定業なり、かの仏の本願に順ずるがゆへに。またそのほかに助業あり、雑行あり。乃至

©874:14 おほよそこの三輩の中におのおの菩提心等の余善をとくといゑども、上の本願をのぞむには、もはら弥陀の名号を称念せしむるにあり。かるがゆへに一向専念といへり。上の本願といふは、四十八願の中の第十八の念仏往生の願をさすなり。一向のことば、二、三向に対する義なり。もし念仏のほかにならべて余善を修せば、一向の義にそむくべきなり。

©875: 4 往生をもとめむ人は、もはらこの経によて、かならずこのむねをこゝろうべきなり。

©875: 6 次に阿弥陀経は、はじめには極楽世界の依正二報をとく、次には一日七日の念仏を修して往生することをとけり、のちには六方の諸仏念仏の一行において証誠護念したまふむねをとけり。すなわちこの経には余行をとかずして、えらびて念仏の一行をとけり。乃至

©875: 9 おほよそ念仏往生は、これ弥陀如来の本願の行なり、教主釈尊選要の法なり、六方諸仏証誠の説なり。余行はしからず。そのむね、経の文および諸師の釈つぶさなり。乃至

©875:12 また経を釈するに、仏の功徳もあらはれ、仏を讃ずれば経の功徳もあらわるゝなり。また疏は経のこゝろを釈したるものなれば、疏を釈せむに、経のこゝろあらはるべし。みなこれおなじものなり、まちまちに釈するにあたはず。乃至

©875:15 いまこの観无量寿経に二のこゝろあり。はじめには定散二善を修して往生することをあかし、つぎには名号を称して往生することをあかす。乃至

©876: 1 清浄覚経の信不信の因縁の文をひけり。

©876: 2 この文のこゝろは、浄土の法門をとくをきゝて、信向してみのけいよだつものは、過去にもこの法門をきゝて、いまかさねてきく人なり。いま信ずるがゆへに、決定して浄土に往生すべし。またきけどもきかざるがごとくにて、すべて信ぜぬものは、はじめて三悪道よりきたりて、罪障いまだつきずして、こゝろに信向なきなり。いま信ぜぬがゆへに、また生死をいづることあるべからずといへるなり。

©876: 7 詮ずるところは、往生人のこの法おば信じ候なり。乃至

©876: 9 天台等のこゝろは、十三観の上に九品の三輩観をくわへて、十六想観となづく。この定散二善をわかちて、十三観を定善となづけ、三福九品を散善となづくることは、善導一師の御こゝろなり。乃至

©876:12 抑近来の僧尼を、破戒の僧、破戒尼といふべからず。持戒の人、破戒を制することは正法・像法のときなり。末法には無戒名字の比丘なり。

©876:13 伝教大師末法灯明記云、末法の中に持戒の者ありといはば、これ怪異なり、市に虎あらむがごとし。たれかこれを信ずべきといへり。

©876:15 またいはく、末法の中には、たゞ言教のみあて行証なし。もし戒法あらば破戒あるべし。すでに戒法なし、いづれの戒おか破せむによて破戒あらむ。破戒なほなし、いかにいはむや持戒おやといへり。

©877: 3 まことに受戒の作法は、中国には持戒の僧十人を請じて戒師とす。辺地には五人を請じて戒師として、戒おばうくるなり。しかるにこのごろは、持戒の僧一人もとめいださむに、えがたきなり。しかれば、うけての上にこそ破戒とことばもあれば、末代の近来は破戒なほなし、たゞ无戒の比丘なりとまふすなり。

©877: 7 この経に破戒をとくことは、正像に約してときたまへるなり。乃至

©877: 8 次に名号を称して往生することをあかすといふは、仏、阿難につげたまはく、なんぢよくこの語をたもて。この語たもてといふは、すなわちこれ无量寿仏のみなをたもてとなりとのたまへり。

©877:10 善導これを釈していはく、仏告阿難汝好持是語といふより已下は、まさしく弥陀の名号を付属して、遐代に流通することをあかす。かみよりこのかた、定散両門の益をとくといゑども、仏の本願をのぞむには、こゝろ、衆生をして一向にもはら弥陀仏のみなを称するにありとのたまへり。

©877:14 おほよそこの経の中には、定散の諸行をとくといゑども、その定散をもては付属したまはず、たゞ念仏の一行をもて阿難に付属して、未来に流通するなり。

©878: 1 遐代に流通すといふは、はるかに法滅の百歳までをさす。すなわち末法万年ののち、仏法みな滅して三宝の名字もきかざらむとき、たゞこの念仏の一行のみとゞまりて百歳ましますべしとなり。しかれば、聖道門の法文もみな滅し、十方浄土の往生もまた滅し、上生都率もまたうせ、諸行往生もみなうせたらむとき、たゞこの念仏往生の一門のみとゞまりて、そのときも一念にかならず往生すべしといへり。かるがゆへにこれをさして、とおき世とはいふなり。これすなわち遠をあげて、近を摂するなり。

©878: 7 仏の本願をのぞむといふは、弥陀如来の四十八願の中の第十八の願をおしふるなり。いま教主釈尊、定散二善の諸行をすてゝ念仏の一行を付属したまふことも、弥陀の本願の行なるがゆへなり。

©878:10 一向専念といふは、双巻経にとくところの三輩のもんの中の一向専念をおしふるなり。一向のことは、余をすつることばなり。

©878:11 この経には、はじめにひろく定散をとくといゑども、のちには一向に念仏をゑらびて付属し流通したまへるなり。しかれば、とおくは弥陀の本願にしたがひ、ちかくは釈尊の付属をうけむとおもはゞ、一向に念仏の一行を修して往生をもとむべきなり。

©879: 1 おほよそ念仏往生は諸行往生にすぐれたること、おほくの義あり。

©879: 1 一には、因位の本願なり。いはく弥陀如来の因位、法蔵菩薩のとき、四十八の誓願をおこして、浄土をまふけて仏にならむと願じたまひしとき、衆生往生の行をたてゝえらびさだめたまひしに、余行おばえらびすてゝ、たゞ念仏の一行を選定して往生の行にたてたまへり。これを選択の願といふことは、大阿弥陀経の説なり。

©879: 6 二には、光明摂取なり。これは阿弥陀仏因位の本願を称念して、相好の光明をもて念仏の衆生を摂取してすてたまはずして、往生せさせたまふなり。余の行者おば摂取したまはず。

©879: 8 三には、弥陀みづからのたまはく、これはこれ跋陀和菩薩極楽世界にまうでゝ、いづれの行を修してかこのくにゝ往生し候べきと、阿弥陀仏にとひたてまつりしかば、仏こたえてのたまはく、わがくにに生ぜむとおもはゞ、わが名を念じて休息することなかれ、すなわち往生することをえてむとのたまへり。余行おばすゝめたまはず。

©879:12 四には、釈迦の付属にいはく、いまこの経に念仏を付属流通したまへり。余行おば付属せず。

©879:13 五には、諸仏証誠。これは阿弥陀経にときたまへるところなり。釈迦仏えらびて念仏往生のむねをときたまへば、六方の諸仏おのおのおなじくほめ、おなじくすゝめて、広長のみしたをのべて、あまねく三千大千世界におほふて証誠したまへり。これすなわち一切衆生をして、念仏して往生することは決定してうたがふべからずと信ぜしめむ料なり。余行おばかくのごとく証誠したまはず。

©880: 3 六には、法滅の往生。いはく、万年三宝滅、斯経住百年。爾時聞一念、皆当得生彼といふて、末法万年ののち、たゞ念仏の一行のみとゞまりて、往生すべしといへることなり。余行はしからず。

©880: 6 しかのみならず、下品下生の十悪の罪人、臨終のとき聞経と称仏と、二善をならべたりといゑども、化仏来迎してほめたまふに、汝称仏名故諸罪消滅。我来迎汝とほめて、いまだ聞経の事おばほめたまはず。

©880: 9 また双巻経に三輩往生の業をとく中に、菩提心および起立塔像等の余の行おもとくといゑども、流通のところにいたりて、其有得聞彼仏名号、歓喜踊躍乃至一念。当知此人為得大利。則是具足无上功徳とほめて、余行をさして无上功徳とはほめたまはず。念仏往生の旨要をとるに、これにありと。

©880:14 又云、仏の功徳は百千万劫のあひだ、昼夜にとくともきわめつくすべからず。これによて、教主釈尊、かの阿弥陀仏の功徳を称揚したまふにも、要の中の要をとりて、略してこの三部妙典をときたまへり。

©881: 1 仏すでに略したまへり、当座の愚僧いかゞくはしくするにたえむ。たゞ善根成就のために、かたのごとく讃嘆したてまつるべし。阿弥陀如来の内証外用の功徳无量なりといゑども、要をとるに名号の功徳にはしかず。

©881: 4 このゆへにかの阿弥陀仏も、ことにわが名号をして衆生を済度し、また釈迦大師も、おほくかのほとけの名号をほめて未来に流通したまへり。

©881: 7 しかれば、いまその名号について讃嘆したてまつらば、阿弥陀といふは、これ天竺の梵語なり。こゝには翻訳して无量寿仏といふ。また无量光といへり。または无辺光仏・无光仏・无対光仏・炎王光仏・清浄光仏・歓喜光仏・智慧光仏・不断光仏・難思光仏・无称光仏・超日月光仏といへり。

©881:10 こゝにしりぬ、名号の中に光明と寿命との二の義をそなえたりといふことを。かの仏の功徳の中には、寿命を本とし、光明をすぐれたりとするゆへなり。

©881:12 しかれば、また光明・寿命の二の功徳をほめたてまつるべし。

©881:14 まづ光明の功徳をあかさば、はじめに无量光は、経にのたまはく、无量寿仏に八万四千の相あり。一一の相におのおの八万四千の随形好あり。一一の好にまた八万四千の光明あり。一一の光明あまねく十方世界をてらす。念仏の衆生を摂取して、すてたまはずといへり。

©882: 2 恵心、これをかむがへていはく、一一の相の中におのおの七百五倶胝六百万の光明を具せり。熾然赫奕たりといへり。一相よりいづるところの光明かくのごとし、いはむや八万四千の相おや。まことに算数のおよぶところにあらず。かるがゆへに无量光といふ。

©882: 6 つぎに无辺光といふは、かの仏の光明、そのかずかくのごとし。无量のみにあらず、てらすところもまた辺際あることなきがゆへに无辺光といふ。

©882: 7 つぎに无光は、この界の日月灯燭等のごときは、ひとへなりといゑども、ものをへだつれば、そのひかりとほることなし。もしかの仏の光明、ものにさえらるれば、この界の衆生、たとひ念仏すといふとも、その光摂をかぶることをうべからず。

©882:11 そのゆへは、かの極楽世界とこの娑婆世界とのあひだ、十万億の三千大千世界をへだてたり。その一一の三千大千世界におのおの四重の鉄囲山あり。いはゆるまづ一四天下をめぐれる鉄囲山あり、たかさ須弥山とひとし。つぎに少千界をめぐれる鉄囲山あり、たかさ第六天にいたる。つぎに中千界をめぐれる鉄囲山あり、たかさ色界の初禅にいたる。次に大千界をめぐれる鉄囲山あり、たかさ第二禅にいたれり。

©883: 1 しかればすなわち、もし无光にあたらずは一世界をすらなほとほるべからず。いかにいはむや、十万億の世界おや。

©883: 2 しかるにかの仏の光明、かれこれそこばくの大小諸山をとほりてらして、この界の念仏衆生を摂取したまふに障あることなし。余の十方世界を照摂したまふことも、またかくのごとし。かるがゆへに无光といふ。

©883: 5 次に清浄光は、人師釈していはく、无貪の善根より生ずるところのひかりなり。

©883: 6 貪に二あり、淫貪・財貪なり。清浄といふは、たゞ汚穢不浄を除却するにはあらず、その二の貪を断除するなり。貪を不浄となづくるゆへなり。もし戒に約せば、不淫戒と不慳貪戒とにあたれり。しかれば法蔵比丘、むかし不淫・不慳貪所生の光といふ。

©883: 9 この光にふるゝものは、かならず貪欲のつみを滅す。もし人あて、貪欲さかりにして不淫・不慳貪の戒をたもつことえざれども、こゝろをいたしてもはらこの阿弥陀仏の名号を称念すれば、すなわちかの仏、无貪清浄の光をはなちて照触摂取したまふゆへに、淫貪・財貪の不浄のぞこる。无戒・破戒の罪愆滅して、无貪善根の身となりて、持戒清浄の人とひとしきなり。

©883:14 次に歓喜光は、これはこれ无瞋善根所生の光。ひさしく不瞋恚戒をたもちて、この光をえたまへり。かるがゆへに无瞋所生の光といふ。

©884: 1 この光にふるゝものは、瞋恚のつみを滅す。しかれば憎盛の人なりといふとも、もはら念仏を修すれば、かの歓喜光をもて摂取したまふゆへに、瞋恚のつみ滅して、忍辱のひととおなじ。これまたさきの清浄光の貪欲のつみ滅するがごとし。

©884: 4 次に智慧光は、これはこれ无痴の善根所生の光なり。ひさしく一切智慧をまなうで、愚痴の煩悩をたちつくして、この光をえたまへるがゆへに、无痴所生の光といふ。

©884: 6 この光はまた愚痴のつみを滅す。しかれば、无智の念仏者なりといふとも、かの智慧の光をしててらし摂たまふがゆへに、すなわち愚痴の愆を滅して、智慧は勝劣あることなし。またこの光のごとくしりぬべし。

©884: 9 かくのごとくして十二光の名ましますといふとも、要をとるにこれにあり。

©884:11 凡かの仏の光明功徳の中には、かくのごときの義をそなえたり。くはしくあかさば多種あるべし。おほきにわかちて二あり。一には常光、二には神通光なり。

©884:13 はじめに常光といふは、諸仏の常光、おのおの意楽にしたがふて、遠近・長短あり。あるいは常光おもて、おのおの一尋相といへり。釈迦仏の常光のごとき、これなり。

©884:15 あるいは七尺をてらし、あるいは一里をてらし、あるいは一由旬をてらし、あるいは二・三・四・五、乃至百千由旬をてらし、あるいは一四天下をてらし、あるいは一仏世界をてらし、あるいは二仏・三仏、乃至百千仏の世界をてらせり。

©885: 3 この阿弥陀仏の常光は、八方上下无央数の諸仏の国土において、てらさずといふところなし。八方上下は、極楽について方角をおしふるなり。

©885: 5 この常光について異説あり。すなわち平等覚経には、別して頭光をおしえたり。観経にはすべて身光といへり。かくのごとき異説あり、往生要集に堪がへたり、みるべし。常光といふは、長時不断にてらす光なり。

©885: 7 次に神通光といふは、ことに別時にてらす光なり。釈迦如来の法華経をとかむとしたまひしとき、東方万八千の土をてらしたまふしがごときは、すなわち神通光なり。

©885:10 阿弥陀仏の神通光は、摂取不捨の光明なり。念仏衆生あるときはてらし、念仏の衆生なきときはてらすことなきがゆへなり。

©885:11 善導和尚観経の疏にこの摂取の光明を釈したまへるしたに、光照の遠近をあかすといへり。この念仏衆生の居所の遠近について、摂取の光明も遠近あるべしといふ義なり。

©885:14 たとひ一ついゑのうちに住したりとも、東によりてゐたらむ人の念仏まふさむには、摂取の光明とおくてらし、西によりてゐたらむ人の念仏まふさむには、光明ちかくてらすべし。これをもてこゝろうれば、一つ城のうち、一国のうち、一閻浮提のうち、三千世界の内、乃至他方各別の世界まで、かくのごとしとしるべし。

©886: 3 しかれば、念仏衆生について光照の遠近ありと釈したまへる、まことにいわれたることとこそおぼえ候へ。これすなわち阿弥陀仏の神通光なり。

©886: 4 諸仏の功徳はいづれの功徳もみな法界に遍すといゑども、余の功徳はその相あらわるゝことなし。たゞ光明のみ、まさしく法界に遍する相をあらわせる功徳なり。かるがゆへに、もろもろの功徳の中には光明をもて最勝なりと釈したるなり。

©886: 7 また諸仏の光明の中には弥陀如来の光明なほまたすぐれたまへり。このゆへに教主釈尊ほめてのたまはく、无量寿仏威神光明、最尊第一、諸仏光明所不能及とのたまへり。

©886:10 またいはく、我説无量寿仏光明威神巍巍殊妙、昼夜一劫、尚未能尽とのたまへり。

©886:11 これはこれ、かの仏の光明と余の仏の光明とを相対してその勝劣を校量せむに、弥陀仏におよばざる仏をかずえむに、よる・ひる一劫すとも、そのかずをしりつくすべからずとのたまへるなり。

©886:14 かくのごとく殊勝の光をえたまふことは、すなわち願行にこたへたり。いはく、かの仏、法蔵比丘のむかし、世自在王仏のみもとにして、二百一十億の諸仏の光明をみたてまつりて、選択思惟して願じていはく、設我得仏、光明有能限量、下至不照百千億那由他諸仏国者、不取正覚とのたまへり。

©887: 3 この願をおこしてのち、兆載永劫のあひだ積功累徳して、願行ともにあらわして、この光をえたまへり。

©887: 4 仏の在世に灯指比丘といふ人ありき。生しとき、指より光をはなちて十里をてらすことありき。のちに仏の御弟子となりて、出家して羅漢果をえたり。指より光をはなつ因縁によりて、なづけて灯指比丘といへり。過去九十一劫のむかし、毘婆尸仏のときに、ふるき仏像の指の損じたまひたるを修理したてまつりたりし功徳によりて、すなわち指より光をはなつ報をうけたるなり。

©887: 9 また梵摩比丘といふ人ありき。身より光をはなちて一由旬をてらせり。これ過去に仏に灯明をたてまつりたりしがゆへなり。

©887:10 また仏の御弟子阿那律は、仏の説法の座に睡眠したることありき。仏、これを種種に弾呵したまふ。阿那律、すなわち懺悔のこゝろをおこして睡眠断ず。七日をへてのち、その目開ながらそのまなこみずなりぬ。

©887:13 これを医師にとふに、医師こたえていはく、人は食をもて命とす、眼はねぶりをもて食とす。もし人七日食せざらむに、命あにつきざらむや。しかればすなわち、医療のおよぶところにあらず。命つきぬる人に医療よしなきがごとしといへり。

©888: 1 そのとき仏、これをあわれみて天眼の法をおしえたまふ。すなわちこれを修して、かへりて天眼通をえたり。すなわち天眼第一阿那律といへるこれなり。

©888: 3 過去に仏のものをぬすまむとおもふて塔の中にいたるに、灯明すでにきえなむとするをみて、弓のはずをもてこれをかきあぐ。そのときに、忽然として改悔のこゝろをおこして、あまさへ无上道心をおこしたりき。それよりこのかた、生生世世に无量の福をえたり。いま釈迦出世のとき、ついに得脱して、またかくのごとく天眼通をえたり。これすなわち、かの灯明をかゝげたりし功徳によてなり。乃至

©888: 9 次に寿命の功徳といふは、諸仏寿命、意楽にしたがふて長短あり。これによて恵心僧都、四句をつくれり。あるいは能化の仏は命ながく、所化の衆生は命みじかきあり。華光如来のごとし。仏の命は十二小劫、衆生の命は八小劫なり。あるいは能化の仏は命みじかく、所化の衆生は命ながきあり。月面如来のごとし。仏の命一日一夜、衆生の命は五十歳なり。あるいは能化・所化ともに命みじかきあり。釈迦如来のごとし。仏も衆生もともに八十歳なり。あるいは能化・所化ともに命ながきあり。阿弥陀如来のごとし。仏も衆生もともに无量歳なり。

©889: 1 かるがゆへに経にのたまはく、仏告阿難、无量寿仏寿命長久不可勝計。汝寧知乎、仮使十方世界无量衆生皆得人身、悉令成就声聞・縁覚、都共推算計禅思一心竭其智力於百千万劫、悉共推算計其寿命長遠之数、不能窮尽知其限極。声聞・菩薩・天人之衆寿命長短亦復如是。非算数譬喩所能知也とのたまへり。

©889: 5 たゞもし神通の大菩薩等のかずへたまはむには、一大恒沙劫なりと、大論のこゝろをもて、恵心勘たり。この数、二乗凡夫のかずへてしるべきかずにあらず。かるがゆへに无量とはいへるなり。

©889: 8 すべて仏の功徳を論ずるに、能持・所持の二の義あり。寿命をもて能持といひ、自余のもろもろの功徳をばことごとく所持といふなり。寿命はよくもろもろの功徳をたもつ。一切の万徳、みなことごとく寿命にたもたるゝがゆへなり。

©889:11 これは当座の道師がわたくしの義なり。すなわちかの仏の相好・光明・説法・利生等の一切功徳、および国土の一切荘厳等のもろもろの快楽のことら、たゞかの仏の命のながくましますがゆへの事なり。もし命なくは、かれらの功徳・荘厳等なにゝよりてかとゞまるべき。

©889:14 しかれば、四十八願の中にも、寿命无量の願に自余の諸願をばおさめたるなり。たとひ第十八の念仏往生の願、ひろく諸機を摂して済度するににたりといゑども、仏の御命もしみじかくは、その願なほひろまらじ。そのゆへは、もし百歳千歳、もしは一劫二劫にてもましまさましかば、いまのときの衆生はことごとくその願にもれなまし。かの仏成仏してのち、十劫をすぎたるがゆへなり。

©890: 4 これをもてこれをおもへば、済度利生の方便は寿命の長遠なるにすぎたるはなく、大慈大悲の誓願も寿命の无量なるにあらはるゝものなり。

©890: 6 これ娑婆世界の人も、命をもて第一のたからとす。七珍万宝をくらの内にみてたれども、綾羅綿繍をはこのそこにたくわへたるも、命のいきたるほどこそわが宝にてもある、まなこ閉ぬるのちはみな人のものなり。

©890: 9 しかれば、乃至 弥陀如来の寿命无量の願をおこしたまひけむも、御身のため長寿の果報をもとめたまふにはあらず。済度利生のひさしかるべきために、また衆生をして忻求のこゝろをおこさしめんがためなり。一切衆生はみな命ながゝらむことをねがふがゆへなり。凡かの仏の功徳の中には、寿命无量の徳をそなへたまふにすぎたることは候はぬなり。

©890:13 このゆへに双巻経の題にも无量寿経といへども、无量光経とはいはず。隋朝よりさきの旧訳には、みな経の中に宗とあることをえらびて、詮をぬき略を存じてその題目とするなり。すなわちこの経の詮には、阿弥陀如来の功徳をとけるなり。その功徳の中には、光明无量・寿命无量の二の義をそなへたり。その中にはまた寿命なを最勝なるゆへに、无量寿経となづくるなり。

©891: 3 また釈迦如来の功徳の中にも、久遠実成の宗をあらわせるをもて殊勝甚深のこととせり。すなわち法華経に寿量品とてとかれたり。廿八品の中には、この品をもてすぐれたりとす。まさにしるべし、諸仏の功徳にも寿命をもて第一の功徳とし、衆生のたからにも命をもて第一のたからとすといふことを。

©891: 7 その命ながき果報をうることは、衆生に飲食をあたへ、またものゝ命をころさゞるを業因とするなり。因と果と相応することなれば、食はすなわち命をつぐがゆへに、食をあたふるはすなわち命をあたふるなり。不殺生戒をたもつもまた衆生の命をたすくるなり。かるがゆへに、飲食をもて衆生に施与し、慈悲に住して不殺生戒をたもてば、かならず長命の果報をえたり。

©891:12 しかるにかの阿弥陀如来は、すなわち願行あひたすけて、この寿命无量の徳おば成就したまへるなり。

©891:13 願といふは、四十八願の中の第十三の願にいはく、設我得仏、寿命有能限量、下至百千億那由他劫者、不取正覚とのたまへり。

©891:15 行といふは、かの願をたてたまふてのち无央数劫のあひだ、また不殺生戒をたもてり。また一切の凡聖におひて、飲食・医薬を供養し施与したまへるなり。これは阿弥陀如来の寿命の功徳なり。乃至

©892: 3 かの仏、かくのごとく寿命无量なりといえども、また涅槃隠没の期まします。これについて、あわれなることこそ候へ。

©892: 4 道綽禅師、念仏の衆生におひて始終両益ありと釈したまへる。その終益をあかすに、すなわち観音授記経をひきていはく、阿弥陀仏、住世の命、兆載永劫のゝち滅度したまひて、たゞ観音・勢至、衆生を接引したまふことあるべし。そのときに、一向にもはら念仏して往生したる衆生のみ、つねに仏をみたてまつる、滅したまはぬがごとし。余行往生の衆生は、みたてまつることあらずといへり。

©892: 9 往生をえてむ上に、そのときまでのことはあまりごとぞ、とてもかくてもありなむとおぼえぬべく候へども、そのときにのぞみては、かなしかるべきことにてこそ候へ。

©892:11 かの釈迦入滅のありさまにても、おしはかられ候なり。証果の羅漢、深位の大士も、非滅・現滅のことはりをしりながら、当時別離のかなしみにたえず、天にあおぎ地にふし、哀哭し悲泣しき。いはんや未証の衆生をや、浅識の凡愚をや、乃至竜神八部も五十二類も、凡涅槃の一会悲歎のなみだをながさずといふことなし。

©892:15 しかのみならず、娑羅林のこずゑ、抜提河の水、すべて山川・渓谷・草木・樹林も、みな哀傷のいろをあらはしき。

©893: 2 しかれば、過去をきゝて未来をおもひ、穢土になずらへて浄土をしるに、かの阿弥陀仏の衆宝荘厳の国土をかくし、涅槃寂滅の道場にいりたまひてのち、八万四千の相好ふたゝび現ずることなく、无量无辺の光明はながくてらすことなくは、かの会の聖衆人天等、悲哀のおもひ、恋慕のこゝろざし、いかばかりかは候べき。

©893: 6 七宝自然のはやしなりとも、八功如意の水なりとも、名華・軟草のいろも、鳧雁・鴛鴦のこえも、いかゞそのときをしらざらむや。

©893: 8 浄穢は土ことなりといへども、世尊の滅度すでにことなることなし。迷悟はこゝろかわるといゑども、所化の悲恋なんぞかはることあらむや。

©893:10 この娑婆世界の凡夫、具縛の人の心事、相応せず。意楽各別にて、つねに違背し、たがひに厭悪をするだにも、あるいは夫妻のちぎりをもむすび、あるいは朋友のことばをもなして、しばらくもなづさひ、また馴ぬれば、遠近のさかひをへだて、前後の生をあらため、かくのごとく生おも死おもわかれをつぐるときには、なごりをおしむこゝろたちまちにもよおし、かなしみにたえず、なみだおさへがたきことにてこそは候へ。

©893:15 いかにいはむや、かの仏、内には慈悲哀愍のこゝろをのみたくはへてましませば、なれたてまつるにしたがふて、いよいよむつまじく、外には見者无厭の徳をそなへてましませば、みまいらするごとに、いやめづらなるおや。

©894: 3 まことに无量永劫があひだ、あさゆふに万徳円満のみかほをおがみたてまつり、昼夜に四辨无窮の御音になれたてまつりて、恭敬瞻仰し、随遂給仕して、すぎたらむここちに、ながくみたてまつらざらむことになりたらむばかり、かなしかるべきことや候べき。无有衆苦のさかひ、離諸妄想のところなりといふとも、このこと一事は、さこそおぼへ候らめとぞおぼえ候。

©894: 7 それにもとのごとくみたてまつりて、あらたまることなからむことは、まことにあはれにありがたきこととこそおぼへ候へ。これすなわち、念仏一行、かの仏の本願なるがゆへなり。おなじく往生をねがはむ人は、専修念仏の一門よりいるべきなり。

©895: 4 次双巻无量寿経。浄土三部経の中には、この経を根本とするなり。

©895: 4 其故は、一切の諸善は願を根本とす。而に此経には弥陀如来の因位の願をときていはく、

©895: 6 乃往過去久遠无量无央数劫に仏ましましき、世自在王仏とまふしき。そのとき一人の国王ありき。仏の説法をきゝて、无上道心をおこして、国をすて王をすてゝ、家をいでゝ沙門となれり。なづけて法蔵比丘といふ。すなわち世自在王仏の所詣て、右にめぐること三帀して、頂跪合掌して仏をほめたてまつりてまうしてまうさく、われ浄土をまうけて衆生を度せむとおもふ。ねがわくは、わがために経法をときたまへと。

©895:11 そのとき世自在王仏、法蔵比丘のために二百一十億の諸仏の浄土の人天の善悪、国土の麁妙をとき、また現じてこれをあたへたまふ。法蔵比丘、仏の所説をきゝ、また厳浄の国土をことごとくみおはりてのち、五劫のあひだ思惟し取捨して、二百一十億の浄土の中よりえらびとりて、四十八の誓願をまうけたり。

©895:15 この二百一十億の諸仏のくにの中より、善悪の中には悪をすてゝ善をとり、麁妙の中には麁をすてゝ妙をとる。

©896: 1 かくのごとく取捨し選択して、この四十八願をおこせるがゆへに、この経の同本異訳の大阿弥陀経には、この願を選択の願ととかれたり。

©896: 3 その選択のやう、おろおろまふしひらき候はむ。

©896: 5 まづはじめの无三悪趣の願は、かの諸仏の国土の中に、三悪道あるおばえらびすてゝ、三悪道なきおばえらびとりてわが願とせり。

©896: 6 次に不更悪趣の願は、かの諸仏のくにの中に、たとひ三悪道なしといゑども、かのくにの衆生、また他方の三悪道におつることあるくにおばえらびすてゝ、すべて三悪道にかへらざるくにをえらびとりてわが願とせるなり。

©896: 9 次に悉皆金色の願、次に无有好醜の願、一一の願みなかくのごとしとしるべし。

©896:10 第十八の念仏往生の願は、かの二百一十億の諸仏の国土の中に、あるいは布施をもて往生の行とするくにあり、あるいは持戒および禅定・智慧等、乃至発菩提心、持経・持呪等、孝養父母・奉事師長等、かくのごときの種種の行をもて、おのおの往生の行とするくにあり、あるいはまた、もはらそのくにの教主の名号を称念するをもて、往生の行とするくにもあり。

©896:15 しかるにかの法蔵比丘、余行をもて往生の行とする国おばえらびすてゝ、たゞ名号を称念して往生の行とする国をえらびとりて、わが国土の往生の行も、かくのごとくならむとたてたまへるなり。

©897: 2 次に来迎引接の願、次に係念定生の願、みなかくのごとくえらびとりて願じたまへり。

©897: 3 凡はじめ无三悪趣の願より、おはり得三法忍の願にいたるまで思惟し選択するあひだ、五劫おばおくりたるなり。かくのごとく選択し摂取してのちに、仏のみもとに詣して、一一にこれをとく。

©897: 6 その四十八願ときおはりてのち、また偈をもてまふさく、我建超世願、必至无上道。斯願不満足、誓不成正覚。乃至斯願若剋果、大千応感動。虚空諸天人、当雨珍妙華と。

©897: 8 かの比丘、この偈をときおはるに、ときに応じてあまねく地、六種に震動し、天より妙華そのうえに散じて、自然の音楽、空の中にきこへ、また空の中にほめていはく、決定してかならず无上正覚なるべしと。

©897:11 しかれば、かの法蔵比丘の四十八願は、一一に成就して決定して仏になるべしといふことは、そのはじめ発願のとき、世自在王仏の御まへにして、諸魔・竜神八部、一切大衆の中にして、かねてあらわれたることなり。しかれば、かの世自在王仏の法の中には、法蔵菩薩の四十八願経とて受持・読誦しき。

©897:15 いま釈迦の法の中なりといふとも、かの仏の願力をあおぎて、かのくにゝむまれむとねがふは、この法蔵菩薩四十八願の法門にいるなり。すなわち道綽禅師・善導和尚等も、この法蔵菩薩の四十八願法門にいりたまへるなり。

©898: 3 かの華厳宗の人は華厳経をたもち、あるいは三論宗の人は般若経等をたもち、あるひは法相宗の人は瑜伽・唯識をたもち、あるひは天台宗の人は法華をたもち、あるひは善无畏は大日経をたもち、金剛智は金剛頂経をたもつ。かくのごとく、おのおの宗にしたがふて、依経・依論をたもつなり。

©898: 7 いま浄土宗を宗とせむ人は、この経によて四十八願法門をたもつべきなり。この経をたもつといふは、すなわち弥陀の本願をたもつなり。弥陀の本願といふは、法蔵菩薩の四十八願法門なり。

©898: 9 その四十八願の中に、第十八の念仏往生の願を本体とするなり。かるがゆへに善導のたまはく、弘誓多門四十八。偏標念仏最為親といへり。念仏往生といふことは、みなもとこの本願よりおこれり。

©898:12 しかれば、観経・弥陀経にとくところの念仏往生のむねも、乃至余の経の中にとくところも、みなこの経にとけるところの本願を根本とするなり。

©898:14 なにをもてかこれをしるとならば、観経にとけるところの光明摂取を、善導釈したまふに、唯有念仏蒙光摂、当知本願最為強といへり。この釈のこゝろ、本願なるがゆへに光明も摂取すときこえたり。

©899: 1 またおなじ経に、下品上生に聞経と称仏とをならべてとくといゑども、化仏きたりてほめたまふには、たゞ称仏の功をのみほめて、聞経おばほめたまはずといへり。

©899: 4 善導釈していはく、望仏本願意者、唯勧正念称名。往生義疾不同雑散之業といへり。これまた本願なるがゆへに、称仏おばほめたまふときこへたり。

©899: 6 またおなじ経の付属の文を釈したまふにも、望仏本願意、在衆生一向専称弥陀仏名といへり。これまた弥陀の本願なるがゆへに、釈尊も付属し流通せしめたまふときこへたり。

©899: 8 また阿弥陀経にとけるところの一日七日の念仏を善導ほめたまふに、直為弥陀弘誓重、致使凡夫念即生といへり。これまた一日七日の念仏も、弥陀の本願なるがゆへに往生すときこえたり。

©899:11 乃至双巻経の中にも、三輩已下の諸文はみなかみの本願によるなり。凡この三部経にかぎらず、一切諸経の中にあかすところの念仏往生は、みなこの経の本願をのぞまむとてとけるなりと、しるべし。

©899:15 抑法蔵菩薩、いかなれば余行をすてゝ、たゞ称名念仏の一行をもて本願にたてたまへるぞといふに、これに二の義あり。一には念仏は殊勝の功徳なるがゆへに、二は念仏は行じやすきによて諸機にあまねきがゆへに。

©900: 2 はじめに殊勝の功徳なるがゆへにといふは、かの仏の因果、総別の一切の万徳、みなことごとく名号にあらわるゝがゆへに、一たびも南无阿弥陀仏ととなふるに、大善根をうるなり。

©900: 5 こゝをもて西方要決にいはく、諸仏願行成此果名、但能念号具包衆徳、故成大善不廃往生といへり。またこの経に、すなわち一念をさして无上功徳とほめたり。しかれば、殊勝の大善根なるがゆへに、えらびて本願としたまへるなり。

©900: 8 二には修しやすきがゆへにといふは、南无阿弥陀仏とまふすことは、いかなる愚痴のものも、おさなきも、老たるも、やすくまふさるゝがゆへに、平等の慈悲の御こゝろをもて、その行をたてたまへり。

©900:11 もし布施をもて本願とせば,貧窮困乏のともがら、さだめて往生ののぞみをたゝむ。もし持戒をもて本願とせば、破戒・無戒のたぐひ、また往生ののぞみをたつべし。もし禅定をもて本願とせば、散乱麁動のともがら、往生すべからず。もし智慧をもて本願とせば、愚鈍下智のもの、往生すべからず。自余の諸行もこれになずらへてしるべし。

©900:15 しかるに布施・持戒等の諸行にたえたるものはきわめてすくなく、貧窮・破戒・散乱・愚痴のともがらははなはだおほし。しかれば、かみの諸行をもて本願としたまひたらましかば、往生をうるものはすくなく、往生せぬものはおほからまし。

©901: 3 これによて法蔵菩薩、平等の慈悲にもよおされて、あまねく一切を摂せむがために、かの諸行をもては往生の本願とせず、たゞ称名念仏の一行をもてその本願としたまへるなり。

©901: 5 かるがゆへに法照禅師のいはく、
於未来世悪衆生 称念西方弥陀号
依仏本願出生死 以直心故生極楽と

©901: 9 又云、
彼仏因中立弘誓 聞名念我総迎来
不簡貧窮将富貴 不簡下智与高才
不簡多聞持浄戒 不簡破戒罪根深
但使廻心多念仏 能令瓦礫変成金と。

©901:15 かくのごとく誓願をたてたりとも、その願成就せずは、まさにたのむべきにあらす。しかるにかの法蔵菩薩の願は、一一に成就してすでに仏になりたまへり。

©902: 2 その中に、この念仏往生の願成就の文にいはく、諸有衆生、聞其名号、信心歓喜、乃至一念。至心廻向。願生彼国、即得往生、住不退転と云。

©902: 4 次三輩の往生はみな、一向専念无量寿仏といへり。この中に菩提心等の諸善ありといゑども、かみの本願をのぞむには、一向にもはらかの仏の名号を念ずるなり。

©902: 6 例せばかの観経の疏に釈せるがごとし。かみよりこのかた、定散両門の益をとくといゑども、仏の本願をのぞむには、こゝろ衆生をして一向にもはら弥陀仏のみなを称するにありといへり。望仏本願といふは、この三輩の中の一向専念をさすなり。

©902: 9 次に流通にいたて、其有得聞彼仏名号、歓喜踊躍乃至一念。当知此人為得大利。即是具足无上功徳といへり。善導の御こゝろは、上尽一形下至一念、无上功徳なりと。余師のこゝろによらば、たゞ少をあげて多をあらはすなりといへり。

©902:12 次に当来之世経道滅尽、我以慈悲哀愍、特留此経止住百歳。其有衆生値此経者、随意所願皆可得度といへり。この末法万年ののち、三宝滅尽のときの往生をおもふに、一向専念の往生の義をあかすなり。

©902:15 そのゆへは、菩提心をときたる諸経みな滅しなば、なにゝよてか菩提心の行相おもしらむ。大小の戒経みなうせなば、なにゝよてか二百五十戒おも、五十八戒おもたもたむ。仏像あるまじければ、造像起塔の善根もあるべからず。乃至、持経・持呪等もまたかくのごとし。そのときに、なほ一念するに往生すといへり。

©903: 4 すなわち善導いはく、爾時聞一念、皆当得生彼といへり。かれをもていまをおもふに、念仏の行者はさらに余の善根におひて一塵も具せずとも、決定して往生すべきなり。

©903: 7 しかれば、菩提心をおこさずはいかでか往生すべき、戒をたもたずしてはいかゞ往生すべき、智慧なくてはいかゞ往生すべき、妄念をしづめずしてはいかゞ往生すべきなむど、かくのごとくまふす人々候は、この経をこゝろえぬにて候なり。

©903:10 懐感禅師この文を釈せるに、説戒・受戒もみな成ずべからず、甚深の大乗もしるべからず。さきだちて隠没しぬれば、たゞ念仏のみさとりやすくして、浅識の凡愚なほよく修習して利益をうべしといへり。

©903:12 まことに戒法滅しなば、持戒あるべからず。大乗みな滅しなば、発菩提心・読誦大乗もあるべからずといふことあきらかなり。浅識の凡愚といへり。しるべし、智慧にあらずといふことを。

©903:15 かくのごときのともがらの、たゞ称名念仏の一行を修して、一声まで往生すべしといへるなり。これすなわち弥陀の本願なるがゆへなり。すなわち、かの大悲本願のとおく一切を摂する義なり。

©904: 3 次に阿弥陀経は、不可以少善根福徳因縁得生彼国。舎利弗、若有善男子・善女人、聞説阿弥陀仏、執持名号、若一日、乃至七日といへり。

©904: 4 善導和尚釈にいはく、随縁雑善恐難生。故使如来選要法といへり。

©904: 6 こゝにしりぬ、雑善をもては少善根となづけ、念仏をもて多善根といふことを。

©904: 7 この経はすなわち、少善根なる雑善をすてゝ、もはら多善根の念仏をとけるなり。

©904: 8 ちかごろ唐よりわたりたる竜舒浄土文とまふす文候。それに阿弥陀経の脱文とまふして、廿一字ある文をいだせり。一心不乱の下に、専持名号、以称名故諸罪消滅、即是多善根福徳因縁といへり。すなわちかの文にこの文をいだしていはく、いまのよにつたわるところの本に、この廿一字を脱せりといへり。

©904:12 この脱文なしといふとも、たゞ義をもておもふに、多少の義ありといゑども、まさしく念仏をさして多善根といへる文、まことに大切なり。次六方如来の証誠をとけり。かの六方諸仏の証誠、たゞこの経をのみかぎりて証誠したまふににたれども、実をもて論ずれば、この経のみにかぎらず。すべて念仏往生を証誠するなり。

©905: 1 しかれども、もし双巻経について証誠せば、かの経に念仏往生の本願をとくといゑども、三輩の中に菩提心等の行あるがゆへに、念仏の一行証誠するむねあらわるべからず。もし観経を証誠せば、かの経にえらむで念仏を付属すといゑども、まづは定散の諸行をとくがゆへに、また念仏の一行にかぎるとみゆべからず。こゝをもて、たゞ一向にもはら念仏をときたるこの経を証誠したまふなり。

©905: 6 たゞ証誠のみことば、この経にありといへども、証誠の義はかの双巻・観経にも通ずべし。双巻・観経のみにあらず、もし念仏往生のむねをとかむ経おば、ことごとく六方如来の証誠あるべしとこゝろうべきなり。

©905: 9 かるがゆへに天台の十疑論にいはく、阿弥陀経・大无量寿経・鼓音声陀羅尼経等にいはく、釈迦仏、経をときたまふときに、有十方世界各恒河沙諸仏、舒其舌相、遍覆三千世界、証誠一切衆生、念阿弥陀仏本願大悲願力故、決定得生極楽世界といへり。乃至

©905:14 次に往生浄土の祖師の五の影像を図絵したまふに、おほくこゝろあり。まづ恩徳を報ぜむがため、次には賢をみてはひとしからむことをおもふゆへなり。

©905:15 天台宗を学せむ人は、南岳・天台を見たてまつりて、ひとしからばやとおもひ、真言をならはむ人は、不空・善无畏をみては、ひとしからむとおもひ、華厳宗の人は、香象・恵遠のごとくならむとおもひ、法相宗の人は、玄奘・慈恩のごとくならむとおもひ、三論の学者は、浄影大師をもうらやみ、持律の行者は、道宣律師おもとおからずおもふべきなり。

©906: 5 しかれば、いま浄土をねがはむ人、その宗の祖師をまなぶべきなり。しかるに浄土宗の師資相承に二の説あり。安楽集のごときは、菩提流支・恵寵法師・道場法師・曇鸞法師・斉朝法上法師等の六祖をいだせり。今また五祖といふは、曇鸞法師・道綽禅師・善導禅師・懐感禅師・小康法師等なり。

©906:10 曇鸞法師は、梁・魏両国の无双の学生也。

©906:10 はじめは寿長して仏道を行ぜむがために、陶隠居にあふて仙経をならふて、その仙方によて修行せんとしき。

©906:11 のちに菩提流支三蔵にあひたてまつりて、仏法の中に長生不死の法の、この土の仙経にすぐれたるや候ととひたてまつりたまひければ、三蔵唾を吐てこたえたまふやう、とえることばをもていひならふべきにあらず。この土いづれのところにか長生の方あらむ。命ながくしてしばらくしなぬやうなれども、ついにかへて三有に輪廻す。たゞこの経によて修行すべし。すなわち長生不死の所にいたるべしといふて、観経を授たまへり。

©907: 2 そのときたちまちに改悔のこゝろをおこして、仙経を焼て、自行化他、一向に往生浄土の法をもはらにしき。

©907: 3 往生論の註、また略論安楽土義等の文造也。并州の玄忠寺に三百余人門徒あり。

©907: 5 臨終のとき、その門徒三百余人あつまりて、自は香呂をとりて西に向て、弟子ともに声を等して、高声念仏して命終しぬ。そのとき道俗、おほく空中に音楽を聞といへり。

©907: 8 道綽禅師は、本は涅槃の学生なり。

©907: 8 并州の玄忠寺にして曇鸞の碑文をみて、発心して云、かの曇鸞法師、智徳高遠なり。なほ講説をすてて浄土の業を修して、すでに往生せり。いはむやわが所解、所知おほしとするにたらむやと云て、すなわち涅槃の講説をすてゝ、一向にもはら念仏を修して相続してひまなし。つねに観経を講じて、人を勧たり。

©907:12 并州の晋陽・大原・汶水の三県の道俗、七歳已上は悉念仏をさとり往生をとげたり。又人を勧て、㖒唾便利西方に向はず、行住坐臥西方を背ず。

©907:14 又安楽集二巻これを造。凡往生浄土の教弘通、道綽の御力也。往生伝等を見るにも、多道綽の勧を受て往生をとげたり。善導もこの道綽の弟子也。しかれば、終南山の道宣の伝に云、西方道教の弘ことは、これより起と云り。

©908: 2 又曇鸞法師、七宝の船に乗て空中に来をみる。又化仏・菩薩空に住する事七日、そのとき天華雨て、来集人々袖にこれをうく。かくのごとく不可思議の霊瑞多し。終のとき、白雲西方より来て、三道の白光と成て房中を照す。五色の光、空中に現ず。又墓の上に紫雲三度現ずる事あり。

©908: 7 善導和尚、いまだ観経をえざるさきに、三昧をえたまひたりけると覚候。そのゆへは、道綽禅師にあふて観経をゑてのち、この経の所説、わが所見におなじとのたまへり。

©908: 9 導和尚の念仏したまふには、口より仏出たまふ。曇省讃に云、善導念仏仏従口出といへり。同念仏をまふすとも、かまえて善導のごとく口より仏出たまふばかりまふすべきなり。欲如善導妙在純熟とまふして、誰なりとも念仏をだにもまことに申て、その功熟しなば、口より仏は出たまふべき也。

©908:13 道綽禅師は師なれども、いまだ三昧を発得せず。善導は弟子なれども、三昧をえたまひたりしかば、道綽、わが往生は一定か不定かと仏にとひたてまつりたまへとのたまひければ、善導禅師命をうけてすなわち定に入て阿弥陀仏にとひたてまつりしに、仏言、道綽に三の罪あり、すみやかに懺悔すべし。その罪懺悔して、定て往生すべし。

©909: 2 一には、仏像・経巻おばひさしに安て、わが身は房中に居す。二には、出家の人をつかふ。三には、造作のあひだ虫の命を殺す。十方の仏前にして、第一の罪を懺悔すべし。諸僧の前にして、第二の罪を懺悔すべし。一切衆生の前にして、第三の罪を懺悔すべしと。

©909: 5 善導すなわち定より出て、このむねを道綽につげたまふに、道綽云、しづかにむかしのとがをおもふに、これみな空からずと云て、こゝろを至て懺悔すと云。しかれば、師に勝たるなり。

©909: 8 善導は、ことに火急の小声念仏を勧て、数をさだめたまへり。一万・二万・三万・五万、乃至十万と云り。

©909:10 懐感禅師は、法相宗の学生也。

©909:10 広経典をさとりて、念仏おば信ぜず、善導に問云、念仏して仏を見たてまつりてむやと。導和尚答て云、仏の誠言なむぞうたがはむや。懐感この事について忽に解をひらき、信を起て道場に入て、高声に念仏して見たてまつらむと願ずるに、三七日までにその霊瑞をみず。そのとき感禅師、自罪障の深して仏をみたてまつらざることを恨て、食を断じて死せんとす。善導、制してゆるさず。のちに群疑論七巻を造と 云々

©909:15 感師はことに高声念仏を勧たまへり。

©910: 2 小康法師は、本は持経者也。

©910: 2 年十五歳にして法華・華厳等の経五部を読覚たり。これによて、高僧伝には読誦篇に入れたれども、たゞ持経者のみにあらず、瑜伽唯識の学生也。

©910: 4 のちに白馬寺に詣て堂内をみれば、光はなちたる物あり。これを探取て見ば、善導の西方化導の文也。小康これをみて、こゝろ忽に歓喜して、願を発て云、われもし浄土に縁あらば、この文再光を放と。かくのごとく誓了て見ば、重て光を放。

©910: 7 その光の中に、化仏・菩薩まします。歓喜やめがたくして、ついに又長安の善導和尚の影堂に詣して善導の真像を見ば、化して仏身となりて小康にのたまはく、汝わが教によて衆生を利益し、同浄土に生ずべしと。これを聞て、小康、所証あるがごとし。

©910:10 後に人を勧とするに、人その教化にしたがはず。しかるあひだ、銭をまうけて、まづ小童等を勧て、念仏一返に銭一文をあたふ。のちに十遍に一文、かくのごとくするあひだ、小康の行に小童等ついておのおの念仏す。又小童のみにあらず、老少男女をきらはず、みなことごとく念仏す。

©910:14 かくのごとくしてのち、浄土堂を造て、昼夜に行道して念仏す。所化にしたがふて道場に来集輩、三千余人也。

©910:15 又小康、高声に念仏するを見ば、口より仏出たまふこと、善導のごとし。このゆへに、時の人、後善導となづけたり。

©911: 2 浄土堂とは唐のならひ、阿弥陀仏をすえたてまつりたる堂おば、みな浄土堂となづけたる也。

©911: 4 五祖の御徳、要をとるにかくのごとしと。

©911: 5 又无量寿経は、如来の教をまうけたまふこと、みな済度衆生のためなり。かるがゆへに、衆生の機根まちまちなるがゆへに、仏の経教も又无量なり。

©911: 6 しかるに今の経は、往生浄土のために衆生往生の法を説たまふ也。阿弥陀仏、修因感果の次第、極楽浄土の二報荘厳のありやうをくはしく説たまへるも、衆生の信心を勧て欣求のこゝろをおこさせむがため也。しかるにこの経の詮にては、われら衆生の往生すべきむねを説たまへる也。

©911:10 たゞしこの経を釈するに、諸師のこゝろ不同也。今しばらく善導和尚の御こゝろをもてこゝろえ候に、この経はひとへに専修念仏のむねを説を衆生往生の業としたまへるなり。

©911:12 なにをもてこれをしるといふに、まづかの仏の因位の本願を説中に、設我得仏、十方衆生、至心信楽、欲生我国、乃至十念。若不生者、不取正覚と云。

©911:14 かの仏の因位、法蔵比丘のむかし、世自在王仏のみもとにして、二百一十億の諸仏妙土の中よりえらびて四十八の誓願を起て、浄土をまふけて仏になりて、衆生をしてわがくにに生さすべき行業をえらびて願じたまひしに、またく行おばたてずして、たゞ念仏の一行をたてたまへる也。

©912: 3 かるがゆへに大阿弥陀経には、すべてかの仏の願おば、選択してたてたまふゆへなり。大阿弥陀経、この経は同本異訳の経也。

©912: 5 しかるに往生の行は、われらがさかしくいまはじめてはからふべきことにあらず、みなさだめおけることなり。法蔵比丘、もし悪をえらびてたてたまはゞ、世自在王仏、なほさでおはしますべきかは。かの願どもとかせてのち、決定无上正覚なるべしと授記したまはむ。

©912: 8 法蔵菩薩、かの願たてたまひて、兆載永劫のあひだ難行・苦行積功累徳して、すでに仏になりたまひたれば、むかしの誓願一一にうたがふべからず。

©912:10 しかるに善導和尚、この本願の文を引てのたまはく、若我成仏、十方衆生、称我名号下至十声、若不生者、不取正覚。彼仏今現在成仏。当知本誓重願不虚、衆生称念必得往生と云。

©912:13 まことにわれら衆生、自力ばかりにて往生をもとむるにとりてこそ、この行業は仏の御こゝろにかなひやすらむ。またなにとも不審にもおぼへ、往生も不定には候べき。

©912:15 念仏を申して往生を願はむ人は、自力にて往生すべきにはあらず、たゞ他力の往生也。本より仏のさだめおきて、わが名号をとなふるものは、乃至十声・一声までもむまれしめたまひたれば、十声・一声念仏にて一定往生すべければこそ、その願成就して成仏したまふと云道理の候へば、唯一向に仏の願力をあおぎて往生おば決定すべきなり。

©913: 4 わが自力の強弱をさだめて不定におもふべからず。

©913: 5 かの願成就の文、この経の下巻にあり。その文云、諸有衆生、聞其名号、信心歓喜、乃至一念、至心廻向、願生彼国、即得往生、住不退転と云。

©913: 7 凡四十八願、浄土を荘厳せり。華・池・宝閣、願力にあらずと云ことなし。その中にひとり、念仏往生の願のみうたがふべからず。極楽浄土もし浄土ならば、念仏往生も決定往生也。

©913:10 次に往生の業因は念仏の一行定と云とも、行者の根性にしたがふて上・中・下あり。かるがゆへに三輩の往生を説。

©913:11 すなわち上輩の文云く、其上輩者、捨家棄欲而作沙門、発菩提心、一向専念无量寿仏と云り。

©913:12 中輩の文云く、雖不能行作沙門大修功徳、当発无上菩提心、一向専意、乃至十念念无量寿仏と云へり。

©913:14 当座の道師、私に一の釈をつくり候。この三輩の文の中に、菩提心等の余行あぐといゑども、上の仏の本願を望には、こゝろ衆生をして、もはら无量寿仏を念ぜしむるにあり。かるがゆへに一向と云。

©914: 2 又観念法門に善導釈して云、又此経下巻初云、仏説一切衆生根性不同、有上・中・下。随其根性、皆勧専念无量寿仏名。其人命欲終時、仏与聖衆自来迎接、尽得往生と云り。

©914: 4 この釈のこゝろ、三輩ともに念仏往生也。まことに一向の言は余をすつる言なり。

©914: 5 例せば、かの五天竺の三の寺のごとし。一には一向大乗寺、二には一向小乗寺、三には大小兼行寺。かの一向大乗寺の中には、小乗を学することなし。一向小乗寺には、大乗を学するものなし。大小兼行寺の中には、大乗・小乗ともに兼学する也。大小の両寺はともに一向の言をおく、二を兼たる寺には一向の言をおかず。

©914: 9 これをもてこゝろえ候に、今の経の中に一向の言もまたしかなり。もし念仏の外余行をならぶれば、すなわち一向にあらず。かの寺になずらへば、兼行と云べし。すでに一向と云り。しるべし、余行をすつといふ事を。

©914:12 たゞこの三輩の文の中に余行を説について、三の意あり。一には、諸行をすてゝ念仏に帰せしめむがためにならべて余行を説て、念仏におひて一向の言をおく。二には、念仏の人をたすけむがために諸善を説。三には、念仏と諸行とをならべて、ともに三品の差別をしめさむがために諸行を説。

©915: 1 この三の義の中には、たゞはじめの義を正とす。のちの二は傍義也。

©915: 3 次にこの経の流通分の中に説て云く、仏語弥勒、其有得聞彼仏名号、歓喜誦躍乃至一念。当知此人為得大利。則是具足无上功徳と云り。

©915: 4 上の三輩の文の中に、念仏のほかにもろもろの功徳を説といゑども、余善おばほめず。たゞ念仏の一善をあげて、无上の功徳と讃嘆して未来に流通せり。念仏の功徳は、余の功徳に勝たることあきらかなり。

©915: 7 大利と云は、小利に対する言なり。无上と云は、この功徳の上する功徳なしと云義也。すでに一念を指て大利と云、又无上と云。いはむや、二念・三念、乃至十念おや。いかにいはむや、百念・千念、乃至万念おや。これ則、少を上て多を決する也。

©915:10 この文をもて余行と念仏と相対してこゝろうるに、念仏すなわち大利也、余善はすなわち小利也。念仏は无上也、余行は又有上也。すべては往生を願ぜむ人、なんぞ无上大利の念仏をすてて、有上小利の余善を執せむや。

©915:14 次にこの経の下巻の奥に云、当来之世経道滅尽、我以慈悲哀愍、特留此経止住百歳。其有衆生値此経者、随意所願皆可得度と云。

©915:15 善導此文を釈して云く、万年三宝滅、此経住百年、爾時聞一念、皆当得生彼といへり。

©916: 2 釈尊の遺法に三時の差別あり、正法・像法・末法也。その正法一千年のあひだ、教行証の三ともに具足せり、教のごとく行ずるにしたがふて証えたり。像法一千年のあひだは、教行はあれども証なし。教にしたがふて行ずといゑども、悉地をうることなし。末法万年のあひだは、教のみあて行証なし。わづかに教門はのこりたれども、教のごとく行ずるものなし、行ずれどもまた証をうるものなし。

©916: 7 その末法万年のみちなむのちは、如来の遺教みなうせて、住持の三宝ことごとく滅して、おほよそ仏像・経典もなく、頭を剃、衣を染僧もなし。仏法と云こと、名字をだにもきくべからず。しかるに、そのときまでたゞこの双巻无量寿経一部二巻ばかりのこりとゞまりて、百年まで住して衆生を済度したまふこと、まことにあはれにおぼえ候。

©916:11 華厳経も般若経も法華経も涅槃経も、おほよそ大小権実の一切諸経、乃至大日・金剛頂等真言秘密の諸経も、みなことごとく滅したらむとき、たゞこの経ばかりとゞまりたまふことは、なに事にかとおぼえ候。釈尊の慈悲をもて、とゞめたまふことさだめてふかきこゝろ候らむ。仏智まことにはかりがたし。

©916:15 たゞし阿弥陀仏の機縁、この界の衆生にふかくましますゆへに、釈迦大師もかの仏の本願をとゞめたまふなるべし。

©917: 3 この文について按じ候に、四のこゝろあり。

©917: 3 一には、聖道門の得脱は機縁あさく、浄土門の往生のみ機縁ふかし。かるがゆへに三乗・一乗の得脱をとける諸経はさきだちて滅して、たゞ一念・十念の往生をとけるこの経ばかりひとりとゞまるべし。

©917: 6 二には、往生につきて十方浄土は機縁あさく、西方浄土は機縁ふかし。かるがゆへに、十方浄土を勧たる諸経はことごとく滅して、たゞ西方の往生勧たるこの経ひとりとゞまるべし。

©917: 8 三には、兜率の上生は機縁あさく、極楽の往生は機縁ふかきゆへに、上生・心地等の兜率を勧たる諸経はみな滅して、極楽を勧たるこの経ひとりとゞまるべし。

©917:10 四には、諸行の往生は機縁あさく、念仏の往生は機縁ふかきゆへに、諸行を説諸経はみな滅して、念仏を説るこの経のみひとりとゞまりたまふべし。

©917:12 この四の義の中に、真実には第四の念仏往生のみとゞまるべしと云義の正義にて候也。

©917:13 特留此経止住百歳ととかれたれば、この二軸の経典、ひとりのこるべきかときこえ候へども、まことには経巻はうせたまひたれども、たゞ念仏の一門ばかりとゞまりて、百年あるべきにやとおぼえ候。

©918: 1 かの秦始皇が、書を焼、儒を埋しとき、毛詩と申す文ばかりはのこりたりと申すこと候。それも文はやかれたれども、詩はとゞまりて口にありと申して、詩おば人々そらにおぼへたりけるゆへに、毛詩ばかりはのこりたりと申すこと候をもてこゝろえ候に、この経とゞまりて百年あるべしと云も、経巻はみな隠滅したりとも、南无阿弥陀仏とまふすことは、人の口にとゞまりて百年までもきゝつたへむずる事とおぼへ候。

©918: 6 経といふは、また説ところの法を申すことなれば、この経はひとへに念仏の一法を説り。されば、爾時聞一念、皆当得生彼とは善導も釈したまへる也。これ秘蔵の義也、たやすく申べからず。

©918:10 すべてこの双巻无量寿経に、念仏往生の文七所あり。一には本願の文、二には願成就の文、三には上輩の中に一向専念の文、四には中輩の中の一向専念の文、五には下輩の中の一向専意の文、六には无上功徳の文、七には特留此経の文也。

©918:13 この七所の文をまた合して三とす。一には本願、これに二つを摂す。はじめの発願、成就也。二には三輩、これに三を摂す。上輩・中輩・下輩なり。この下輩について二類あり。三には流通、これに二を摂す。无上功徳、特留此経なり。

©919: 1 本願は弥陀にあり。三輩已下は釈迦の自説也、それも弥陀の本願にしたがふて説たまへる也。三輩の文の中に、おのおの一向専念と勧たまへるも、流通の中に无上功徳と讃嘆したまへるも、特留此経ととゞめたまへるも、みなもと弥陀の本願に随順したまへるゆへなり。

©919: 4 しかれば、念仏往生とまふすことは、本願を根本とする也。詮ずるところ、この経ははじめよりおはりまで、弥陀の本願を説とこゝろうべき也。双巻経の大意、略してかくのごとし。

©919: 7 次に観无量寿経は、この大意をこゝろえむとおもはば、かならず教相を知べき事也。教相を沙汰せねば、法門の浅深差別あきらかならざる也。

©919: 8 しかるに諸宗にみな立教開示あり。法相宗には三時教をたてゝ一代の諸教を摂す。三論宗には二蔵教をたてゝ大小の諸教を摂。華厳宗には五教をたて、天台宗には四教をたつ。

©919:11 いまわが浄土宗には、道綽禅師安楽集に聖道・浄土の二教をたてたり。一代聖教五千余軸、この二門おばいでず。

©919:12 はじめに聖道門は、三乗・一乗の得道也。すなわちこの娑婆世界にして、断惑開悟する道なり。すべて分ば二あり。謂、大乗の聖道、小乗の聖道也。別して論ずれば、四乗の聖道あり。謂、声聞乗・縁覚乗・菩薩乗・仏乗也。

©919:15 浄土者、まづこの娑婆穢悪のさかひをいでゝ、かの安楽不退のくににむまれて、自然に増進して仏道を証得せむともとむる道也。

©920: 2 この二門をたつる事は、道綽一師のみにあらず。曇鸞法師も龍樹菩薩の十住毘婆沙論を引て、難行・易行の二道をたてたまへり。難行道は陸路より歩行するがごとし、易行道は水路を船に乗ずるがごとしとたとへたり。

©920: 4 この二道を立事、曇鸞一師にかぎらず。天台の十疑論にもおなじく引て釈したまへり。また迦才の浄土論にもおなじく引。かの難行道者すなわち聖道門也、易行道者すなわち浄土門也。

©920: 7 しかのみならず、また慈恩大師云、親逢聖化、道悟三乗。福薄因疎、勧帰浄土と云り。この中に三乗者すなわち聖道門也、浄土者すなわち浄土門也。

©920: 9 難行・易行、三乗・浄土、聖道・浄土、その言ことなりといゑども、そのこゝろみなおなじ。凡一代の諸教この二門をいでず。

©920:11 経論のみこの二門に摂するにあらず。乃至諸宗の章疏みなこの二門おばいでざる也。

©920:12 天台宗には、正は仏乗の聖道をあかす、傍には往生浄土をあかす。即往安楽といへり。

©920:13 華厳宗にもまた天台宗のごとし。聖道を修してえがたくは、浄土に生ずべしと云へり。願我臨欲命終時尽除一切諸障、面見彼仏阿弥陀即得往生安楽国と云り。

©921: 1 しかるに今、この経は往生浄土の教也。即身頓悟のむねをもあかさず、歴劫迂廻の行おもとかず。娑婆のほかに極楽あり、わが身のほかに阿弥陀仏ましますと説て、この界をいとひてかのくにに生て、无生忍おもえむと願ずべきむねを明也。善導釈に云く、定散等廻向、速証无生身といへり。

©921: 6 凡この経には、あまねく往生の行業を説り。すなわちはじめには定散の二善を説て、総じて一切の諸機にあたへ、次には念仏の一行を選、別して未来の群生に流通せり。

©921: 8 かるがゆへに経云く、仏告阿難、汝好持是語と等云。善導これを釈云く、従仏告阿難汝好持是語已下、正明付属弥陀名号、流通於遐代等云り。しかれば、この経のこゝろによりて、今聖道をすてゝ浄土の一門に入也。

©921:11 その往生浄土につきて、又その行これおほし。これによて、善導和尚専雑二修を立、諸行の勝劣得失を判じたまへり。すなわちこの経の疏に云く、行につきて立信者、就行有二種。一正行、二雑行と云り。もはらかの正行を修するを専修の行者と云、正行おば修せずして雑行を修するを雑修の者と申也。

©921:15 その専雑二種の得失について、今私に料簡するに、五の義あり。一には親疎対、二には近遠対、三には有間无間対、四には廻向不廻向対、五には純雑対也。

©922: 2 はじめに親疎対者、正行を修するは阿弥陀仏に親、雑行を修すればかの仏に疎なり。すなわち疏に云く、衆生起行、口常称仏、仏即聞之。身常礼敬仏、仏即見之。心常念仏、仏即知之。衆生憶念仏者、仏亦憶念衆生。彼此三業不相捨離。故名親縁と云。

©922: 6 その雑行者は、口に仏を称せざれば、仏すなわち聞たまはず。身に仏を礼せざれば、仏すなわち見たまはず。心に仏を念ぜざれば、仏しろしめさず。仏を憶念せざれば、仏又憶念したまはず。彼此三業常捨離す、かるがゆへに疎となづくる也。

©922: 9 次に近遠対者、正行はかの仏に近、雑行はかの仏に遠なり。疏又云く、衆生欲見仏、仏即応念現在目前。故名近縁と云り。

©922:11 雑行者、仏を見たてまつらむとねがはざれば、仏すなわち念に応じたまはず、目の前にも現じたまはず。かるがゆへに遠となづくる也。たゞ常の義には親近と申つれば、一事のやうにこそは聞れども、善導和尚は、親と近とのごとしと、別しては釈したまへり。これによて、今又親近を分て二とするなり。

©922:15 次に有間无間対者、无間者、正行を修するには、かの仏おいて憶念无間なるがゆへに、文憶念不断名為无間と云る、これ也。

©923: 1 有間者、雑行のものは、阿弥陀仏にこゝろをかくる事間おほし。かるがゆへに文に心常間断と云、これ也。

©923: 3 次に廻向不廻向対者、正行は廻向をもちゐざれども、自然に往生の業となる。すなわち疏第一に云く、今観経中十声称仏、即有十願・十行具足。云何具足。言南无者即是帰命、亦是発願廻向之義也。言阿弥陀仏者即是其行。以斯義故必得往生。不廻向といふ。

©923: 7 雑行は、かならず廻向をもちゐるとき、往生の業となる。もし廻向せざれは、往生の業とならず。かるがゆへに文に雖可廻向得生と云、これ也。

©923: 9 次に純雑対者、正行は純に極楽の行也。余の人天および三乗等の業に通ぜず、又十方浄土の業因ともならず。かるがゆへに純となづく。

©923:10 雑行は純に極楽の行にはあらず。人天の業因にも通じ、三乗の得果にも通じ、又十方浄土の往生の業因ともなるがゆへに雑と云也。

©923:12 しかれば、この五の相対をもて二行を判ずるに、西方の往生をねがはむ人は、雑行をすてゝ正行を修すべき也。

©923:13 又善導和尚往生礼讃の序に、この専雑の得失を判じたまへり。専修の者は十即十生、百即百生。雑修の者は百に一二、千に五三と云へり。

©923:15 なにをもてのゆへに。専修の者は雑縁なし、正念をえたるがゆへに、又弥陀の本願に相応するがゆへに、又釈迦の教にたがはざるがゆへに、仏語に随順せるがゆへにと云へり。

©924: 3 雑修の者は雑縁乱動す。正念を失するがゆへに、又仏の本願と相応せざるがゆへに、また仏語にしたがはざるがゆへに、釈迦の教に違するがゆへに、又係念相続せざるがゆへに、廻願慇重真実ならざるがゆへに、乃至、名利と相応するがゆへに、又自の往生を障のみにあらず、他の往生の正行を障がゆへにと云へり。

©924: 7 しかのみならず、やがてその文のつゞきに、餘、このごろ諸方の道俗を見聞するに、解行不同にして専雑異あり。しかるに専修の者は十は十ながら生じ、雑修の者は千が中に一もなしとのたまへり。

©924: 9 さきの義をもて判じ候に、千が中に五三とゆるしたまへりといゑども、今正見には一もなしとのたまへる也。そのときの行者だにも、雑行にて往生する者なかりけるにこそ候なれ。まして、いよいよ時も機もくだりたる当世の行者、雑行往生と云事はおもひすつべき事也。

©924:13 たとひまた往生すべきにても、百が中に一二、千が中に五三の内にてこそ候はむずれ。きわめて不定の事也。百人に九十九人は往生して、今一人すまじときかむだにも、もしその一人にあたる身にてもやあるらむと、不審に不定におぼえぬべし。いかにいはむや、百が一二の内に一定入べしとおもはむ事、かたくぞ候はむずる。

©925: 2 しかれば、百即百生の専修をすてゝ、千中无一の雑行を執すべからず。唯一向に念仏を修して、雑行をすつべきなり。これすなわち、この経の大意也。望仏本願、意在衆生、一向専称、弥陀仏名と云り。返も本願をあおぎて、念仏をすべき也と。