とうざいぶんぱ 東西分派 大谷派12代教如が東本願寺を別立し、 本願寺教団が分裂したこと。 天正20年 (1592) に顕如が示寂し、 一度は長男教如が本願寺を継職したが、 文禄2年 (1593) に豊臣秀吉の命により退職し、 三男准如が本願寺12代となった。 慶長7年 (1602)、 教如は徳川家康から寺地の寄進をうけて東本願寺を別立し、 本願寺教団が東西の本願寺に二分されることになった。 分立の原因について種々に論じられるが、 背景として当時の政治情勢とともに、 本願寺内部での勢力争いが指摘されている。 これは石山合戦の際に、 和睦を進める顕如を支持する勢力と、 抗戦を主張する教如らの勢力との間で生じた対立に端を発するものとされる。