しょうにょ 勝如 (1911-2002) 本願寺23代。 明如の三男である浄如 (大谷光明) の長男。 童名は照、 法諱は光照。 昭和2年 (1927)、 継職し、 若年の間は補助機関である保摂会の補佐をうけて寺務を執った。 昭和6年 (1931)、 成年奉告法要を機に保摂会は解散、 同8年 (1933) には伝灯奉告会法要を勤修ごんしゅした。 昭和12年 (1937)、 徳大寺嬉子と結婚した。 その後、 昭和22年 (1947) に組巡教を開始して以来、 自ら全国各地へ赴くとともに、 さらには海外巡教として、 北米・カナダ・ハワイ・南米の開教区や欧州・台湾などへもたびたび出向している。 また、 昭和33年 (1958) に 「浄土真宗の生活信条」 を発布、 昭和36年 (1961) に親鸞聖人700回だいおん法要を勤修、 昭和42年 (1967) に 「浄土真宗の教章」 を制定したことなどが主な事績として挙げられる。 昭和52年 (1977)、 寺務を長男の即如に譲り門主を引退するが、 その後も前門として日本国内はもとより海外にも精力的に出向し、 伝道きょうの活動に尽力した。 平成14年、 示寂した。 院号は信誓院。