さんごうわくらん 三業惑乱 本願寺派において学林 (新義派) と在野の学匠 (古義派) との間で三業安心をめぐって生じた教学論争。 功存が無帰命安心の異義を破すために願生帰命と三業安心を主張し、 宝暦12年 (1762) に ¬願生帰命弁¼ を著し、 宝暦14年 (1764) に同書が刊行されたことを端緒とする。 その後、 功存は明和6年 (1769) に学林の能化に就いたが、 その学説に対する批判が次第に大きくなる。 功存の没後、 寛政9年 (1797) に能化に就いた智洞もまた、 願生帰命・三業安心を強調したため、 同年、 安芸国の大瀛が ¬横超直道金剛錍¼ を著して新義派を詳細に批判するなど、 新義派と古義派との間で議論の応酬が相次いで、 事態は急速に深刻化していった。 そしてこの問題は ¬領解文¼ の 「たのむ」 の理解に関わるものであったため、 学匠間の論争にとどまらず、 地方の門徒をも巻き込む暴動にまで発展し、 本願寺だけでは事態を収拾することができず、 ついに幕府の介入を受けることとなる。 享和3年 (1803) に京都の二条奉行所より双方の関係者が取り調べを受け、 翌文化元年 (1804) には新義派から智洞らが、 古義派から大瀛や道陰らが幕府に招喚され、 それぞれの意見が聴取された。 文化2年 (1805)、 本願寺第19代本如は新義派が不正義であると裁定し、 翌3年 (1806)、 幕府は新義派を中心に双方の関係者を処罰し、 本願寺もまた100日間の閉門となった。 同年11月、 本如は ¬御裁断御書¼ ¬御裁断申明書¼ を示して前後10年に及ぶ騒動が教義的に決着した。 この後、 能化職が廃止され、 複数の勧学識を置くようになり、 また宗意安心について緻密な研究が進んだ。