りょうげん 了源 (1284-1335、 一説に1295-1336) 仏光寺派興正派の第7代。 六波羅の南方探題、 越後守北条維貞の家人比留左衛門太郎維広の中間で、 弥三郎と称する武士であったという。 関東で門徒の明光めいこうに教えを受け、 のち元応2年 (1320) 大谷に来て、 覚如法門の指導を願い出、 その長男、 存覚より指導を得た。 「名帳絵系図」 などによりきょう活動を展開して仏光寺教団を築いた。