れんにょ 蓮如 (1415-1499) 本願寺8代。 存如の長男。 童名は初め布袋と呼ばれ、 後に幸亭と改められた。 諱は兼寿、 号して信証院ともいう。 永享3年 (1431)、 青蓮院で得度し、 父存如に真宗教義を学び、 近江国・北陸の教化を助け、 関東の親鸞の旧跡を巡拝した。 長禄元年 (1457)、 43歳で本願寺を継いで近江の教化を進めたが、 寛正6年 (1465)、 延暦寺衆徒による大谷破却 (寛正の法難) によって、 河内国・近江国等に移った。 文明3年 (1471)、 越前国吉崎に坊舎を建て、 その地を中心に教化活動を行った。 その頃より従来の聖教の授与に代えて御文章等による革新的な伝道を展開し、 教線は北陸のみならず東海・東北地方にまで拡大した。 文明5年 (1473)、 ¬正信偈和讃¼ 4帖を開版し、 以来本願寺では朝夕の勤行に 「正信偈」 と和讃6首を用いるようになった。 同6年 (1474) 頃から加賀国において領主、 在地武士などの擾乱が絶えず、 本願寺門徒の一部もその渦中に陥るようなこともあって、 翌7年 (1475)、 吉崎を退去した。 その後摂津国・河内国・和泉国に布教し、 同12年 (1480)、 京都山科に本願寺を再興 (山科本願寺) した。 延徳元年 (1489) に隠居し、 その後も精力的に伝道を続けたが、 明応8年 (1499)、 85歳で示寂した。 親鸞、 覚如、 存覚の教説を受けて直截で明解な文体の ¬御文章¼ や法語をもって伝道につとめ、 今日の本願寺教団の基盤をつくり、 本願寺教団中興の祖と仰がれている。 ¬御文章¼ は二百数十通余りが伝わり、 その他の著作に ¬正信偈大意¼ などがある。 なお、 明治15年 (1882) に慧灯大師と諡されている。